翌日の明け方、アッリーゴ中尉の中隊は——
翌日の明け方、アッリーゴ中尉の中隊は別荘地区から西に続く古い街道を歩いて、数か月前に掘った粗末な塹壕に入った。カラヴァッジョ大尉の憲兵隊は十五名で、そのうち三名が竹でつくった担架に載る機関銃の面倒を見ることになっていた。十五人は沙国人の兵士で、楊はカラヴァッジョ大尉の通訳兼副官としてついてきた。鄧将軍を逮捕したことにはまだ納得ができなかったようだが、塹壕に入って、草原に生える敵陣の旗を見て、覚悟を決めたようだった。
野戦憲兵隊はアッリーゴ中隊の最左翼にあった。三百メートル先には国王軍の飾り紐付きの旗が数十ほどたっていて、そのはためきが地平線から静寂を奪っていた。無人地帯には膝丈のヌカボが生える、起伏の穏やかな草原が広がっていて、小さなモロコシ畑と藁ぶきの小屋、灌木の木立、それに青い平屋造りの靴工場があり、それぞれの陣営を南北に縦断するように電柱が走っていた。アッリーゴ中尉の部下たちのほとんどは草履を履いていた。あの工場を落とせば、靴を配れると楊がこぼしていた。
徽章のない軍服を着たピエトロが大きな包みを抱えてやってきた。
「あなたのそばにいるのが、一番、死に近いと教わったので」
「そうでしょうね。昨晩の郭将軍の顔を思い出すと、味方に後ろから撃たれるかもしれません。その大きな包みはなんです?」
ピエトロは十字でくくられた包みから生えた短く赤い紐を差した。
「これを引くと十秒後に大爆発します。戦車が来たら、これを引いて、飛び込むつもりです」
「司祭さまのいない世界はそれほど価値がないものですか」
ピエトロは切なく笑った。
「残念ながら」
ピエトロの願いはかなえられるかもしれない。この塹壕はただ、穴を掘っただけで板を張って補強したり、横穴を掘ったりもしておらず、本格的な砲撃が来たら、逃げるしかなかった。
午前八時ごろ、銅鑼の音が西風に紛れてやってきた。攻めてきますよ、と楊がいい。大きな自動拳銃のスライドを少し引き、薬室に弾が装填されていることを確かめた。
「照尺は五十メートル。おれが合図するまで撃つな」
大尉の命令を楊が通訳する。沙人憲兵たちは不安げな顔でネジをまわしてライフルの照尺を五十メートルに合わせた。
はためく旗の陰から馬にまたがった敵兵があらわれた。騎兵は横一列に並んで、ゆっくりと進み始めた。地形によって、その線は曲がり、また戻り、残り百メートルくらいから馬の脚が速くなった。騎兵たちは銅ヤカンのようなヘルメットをかぶり、鞍の後ろには時計や銀食器などの略奪品をくくりつけていた。もし、自分が死ねば、自分の持ち物があそこに加えられると思うと、生死の境がひどく滑稽なものに思えてきた。騎兵たちはカービン銃を背負っていたが、それを使うつもりはないようだった。指揮官が叫ぶと、竹槍の穂先がゆっくり下がり始め、馬は襲歩へ移ろうとしていた。
「撃て!」
大尉が叫ぶと、少し遅れて、ライフルと機関銃が一斉に撃ち始めた。騎兵たちは略奪品の輝きをまき散らしながら、馬ごと草むらに転がり込んだ。一斉射撃をまともに食らった馬たちが、自分のハラワタを蹄に絡ませてもがくなか、騎兵たちは頭を蹴り割られ、馬から何とか這い出た騎兵たちは機関銃の掃射で十発以上の弾を撃ち込まれ、ほとんどの肉が削げた体を力なく草むらのなかに倒した。草むらから騎兵が起き上がるたびに必殺の弾丸が首を撃ち抜き、騎兵たちのうち生きて帰れたものはほんの数人だった。
砲声が別の前線からきこえ、靴の下の土が心なしか揺れていた。真っ赤に燃えた味方の砲弾が大尉たちを飛び越えて、敵の旗へと落ちていくのが見えた。向こうからも飛んでくるが、大尉たちの塹壕に落ちる代わりにもっと後ろの、おそらく重砲陣地を狙っていた。重砲は非常に高価なので、敵の野砲の射程外にある。潰すには自分の重砲を使うしかないが、すると、こちらの重砲が撃ってくる。こうして、戦闘の帰趨を決める兵器は使われないまま、戦争そのものが終わるのだ。
また銅鑼が鳴った。歩兵が土手をよじ登ってあらわれた。竹の皮でつくった大きな日除け帽子をかぶっていて、その枯れた黄色は百メートル以上離れた塹壕からでも容易に見分けることができた。百数十メートルまで近づくと、膝撃ちの姿勢で塹壕に弾を浴びせてきた。パチパチと豆を炒るような音がして、ヒュウンと空気を穿つ高い音が耳のすぐそばで鳴った。
大尉も撃ち返すよう命じると、火薬で焼けた辛い空気が吸い込まれ、せき込んだ。ときどき、膝を立てた敵兵が縮むように倒れ、雑草のなかに消えた。双眼鏡を使えば、大きな竹の帽子に血が飛び散るのが見えた。味方の銃声でかき消され分からなかったが、靴工場のつくる死角を利用して、軽戦車が一台、塹壕へ近づいているのに気づいた。彼我の距離は三十メートルまで詰められた。ピエトロが梱包爆薬を抱えて、塹壕を飛び出すと、大尉も後を追った。
ピエトロは赤い紐を引き抜くと、抱きかかえて飛び込もうとしたので、襟をつかんで引き戻し、爆弾を取り上げ、あとどのくらいで爆発するか分からないまま走り、戦車の下に放り込んだ。轟音と赤い光に張り倒され、転がった。起き上がると、戦車は履帯を全て切られ、炎に包まれていた。
よろめき起き上がりながら、ピエトロが起き上がるのに手を貸した。
「司祭さまは待ってくださるよ」
「そうでしょうか?」
「そうは思いませんか?」
「……そうですね。司祭さまは待ってくださる方です。どうして、もっとはやく気づかなかったんだろう?」
ピエトロが朗らかに笑った。
「本当にありがとうございます。あなたは僕にとって、司祭さまの次に大事なひとです」
「大袈裟だな。でも、光栄だよ」
ピエトロは大尉のベルトから銃を引き抜き、左に転がって、四発撃った。
大尉の後ろ、砲塔からカービン銃を手にした戦車長が転がり落ちた。
胸に二発。ゴーグルをかけた左右の目に一発ずつ命中していた。