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敵の砲撃の目標になるという再三の——

 敵の砲撃の目標になるという再三の布告にもかかわらず、沙人街の窓には紙でつくったランプが点されていた。沙人たちは大砲の弾がそんなに正確に命中するとは思ってもいなかったのだ。そして、少しものの分かった人びとは二階建ての粗末な家を吹き飛ばすために貴重な砲弾を使うほど、敵も馬鹿ではあるまいと通いの居酒屋で賢いところを見せていた。

 アッリーゴ中尉が時計を質に入れて買った、古い自動車は沙人街の郊外を走っていた。線香の煙が漂う祠、縫い取り師の家、饅頭が盛られた皿と湯気を立てるスープ鍋、竹をぶつけて奏でる音楽、両替商の箱のなかで刻一刻と価値を失っていく旧紙幣の束たち。

 屋根付きの橋を渡った先で、粗末な家々のなかにネオンサインが輝く鉄筋コンクリートの場違いなビルが見えてきた。運転役を務める楊が、縁起のよいあらゆる言葉がその壁の招牌に描かれているといい、車止めに軍用自動車を止めた。まわりの車は高級な大型自動車ばかりで軍閥の旗がバンパーに立ててあった。なかには古王国共和主義派の旗もある。

 螺旋階段がある洋風の玄関ホールのクロークでは外套や帽子と一緒に銃を預かっていた。

「将校も預けるのか?」

 アッリーゴ中尉は肩をすくめて、ホルスターから取り出した銃を預けた。

 カラヴァッジョも仕方なく預けると、ドアが開かれ、ビックバンドの伴奏で白いアヒルみたいな衣装を着た踊り子たちが舞台で踊っている大きな部屋に出た。漆喰塗りの梁が交差する下で、タキシードとドレスのダンスを踊る地主たち、高級将校、ヤミ市の成金がホールに詰まっていて、空いたテーブルはないように見えた。

「何ですか? ここは?」

「見ての通り、ナイトクラブです。ふざけた悪習ですよね」

「帰りましょう。胸が悪くなりそうです」

「見てください。あそこなら相席できますよ。――先生!」

 先生と呼ばれた老人は沙国風のローブをつけた古王国人だった。削げた頬をして顎鬚を長く伸ばした老人でくぼんだ眼窩の奥にある小さな眼がふたりをとらえると、老人は沙国流の——灰汁でこすったような清潔さのある微笑みでこたえた。

「中尉さん。ごきげんよう」

「相席しても?」

「ええ。構いませんよ。そちらの方は初めてお会いしますな」

「彼は新しい野戦憲兵隊長のカラヴァッジョ大尉です。大尉、こちらは清書人のコッティネッリ博士です」

「清書人?」

 老人は笑った。

「もし、あなたが学のある沙国人に手紙を書かなければならないとき、わたしを思い出してください。もちろん、その逆も然りです。つまり、沙国人が古王国人の文官に陳情の手紙を出さないときもわたしは思い出されます」

 アッリーゴ中尉は挨拶しなければいけないところがあると、大尉を清書人のテーブルに置いていった。清書人は酒ではなく、お茶を飲んでいたが、そのお茶は翡翠色だった。

「そのお茶は——」

「便利なものでしょう? ここでは麻薬を摂取するのに、注射器がいらないんですよ。ええ、悪習です。しかし、これがないと手が震えて、文字が書けないのです」

「なぜ、そのようなものを?」

「なぜと言われたら、夢を見せてくれるからです。これを飲むと、わたしは沙国の朝廷にいて、国王陛下から清書の依頼を受ける。それを書き終えると、文字が紙から起き上がって、龍になるんですよ。ええ、体に悪いでしょうな。ですが、わたしは七十六です。ここには二十歳のころからいます。最初は大使館の経済アタッシェでしたが、気づくと、わたしは広場に机を置いて、沙国人のために手紙を書いていました。もう、西洋には戻れませんが、共和制となった沙国ではわたしの居場所はないでしょう。なら、必要のない寿命を犠牲に、夢を見るだけです。将校たちからきいたのですが、古王国島で〈叔父〉を追い続ける変わりものの憲兵将校がいるときいていましたが、あなたのことですね」

「ええ」

「〈叔父〉を逮捕はできましたかな?」

「残念ながらひとりも」

「〈叔父〉もわたしに似ています。君主制に寄生する不必要なものですよ。わたしはカステラマーレ・ディ・ステファノの生まれですが、ポッローネという〈叔父〉がいましたよ。小作と貴族のあいだに入って上前をはねる、典型的なガヴェロットでした。学のない男で自分の名前を書くこともできませんでしたが、教育は〈叔父〉の成立条件ではありません」

「〈叔父〉について、ずいぶんいろいろご存じなのですね」

「知っているけど知っていない。〈叔父〉というのは本来単純なものなんですよ。大尉さん。あなたは都会の方でしょう? 都会では縄張りは非常に細かく分けられているから〈叔父〉の在り方が複雑になり、正体をできるだけ隠さないといけなくなるのです。ですが、田舎なら、町にひとり、村にひとりで、それが支配者として君臨しています。田舎の〈叔父〉は村長だったり、聖職者だったりすることもあります。ただ、警察と貴族だけは絶対に〈叔父〉になれません。警察は永遠の敵であり、貴族は永遠のカモというわけです。いずれ分かりますけど、ここにも〈叔父〉に似たものがあります」

 シャンパンが栓を飛ばす音がして、将軍たちが妾の胸の谷間に泡立つ琥珀を流し込んだ。

「ここでは〈トン〉と呼びます。沙国では〈堂〉と書くのですが、これは人が集まる建物のことを意味する言葉です。〈叔父〉はひとりの人間を差す言葉ですが、〈堂〉は人のつながりを示す言葉です。〈叔父〉は汚職政治家と自分たちを厳しく分けますが、〈堂〉はなかに入れます。秘密の儀式をすれば、誰でも〈堂〉になれるのです。警察だってなれます。わたしはもちろんなれません。わたしは外国人ですから。ただ、〈叔父〉のような犯罪の執行に共同で責任を持つほどの厳正さはありません。つまり、コネを大切にし、それぞれの生業を使って〈堂〉を盛り上げるというもので、犯罪組織的な側面と商工会議所的な側面が共存しているんですよ」

「このあたりには〈堂〉の首領はいるんですか?」

「あなたは昼間ご覧になったはずです。辛子色のオープン・カーに乗った老人ですよ。血で濡らしたハンカチを象牙の箱にしまった、あの人物が〈堂〉の主人です。ああ、ここにはいません。ここは彼の所有物ですが、彼はここには来ません。嫌いなんですよ。ビッグバンドが。あなたは古王国を共和国にするためにここに来たらしいですが、それで〈叔父〉はひっくり返るかもしれませんが、新しい〈叔父〉ができるかもしれませんよ」

「わたしはそうは思いません」

「村で一番の王党派を自称する人物が共和国に変わった途端、国王の肖像を焼いて、村で一番最初に大統領の肖像画をかけるでしょう。〈叔父〉はそこまで節操のないことはできません。ひと波乱あるでしょう。何人かは警官隊と撃ち合って死ぬという屈辱的な最期を迎えるでしょう。でも、〈叔父〉はなくなりませんよ」

「潰しきってみせます」

「その願いが叶うよう、縁起のいいお札を何枚か書いて焚き上げますよ。〈叔父〉にされそうになった人間として。ええ、わたしの父は〈叔父〉でした。先ほどのポッローネというのは粗暴な男でカステラマーレ・ディ・ステファノの住人はやつの支配に耐えかねて、別の人物を〈叔父〉にしようとし、今度は自分の名前を書ける学のある人間にしようとして、隣村の〈叔父〉の息子だったわたしに白羽の矢が立ちそうになったのです。その前に逃げましたがね。わたしには誰それを殺せなんて命令することは恐ろしくてできませんよ。そういえば、アッリーゴ中尉の父親が〈叔父〉であることはご存じなんですよね」

「中尉自身から教えていただきました」

「中尉もわたしも似ていますね。ただ、中尉は権力の在り方というものに独自の考え方があります。表に出て人を操る力。それは〈叔父〉とも違うし、聖職者や政治家とも違う。もしかしたら、あんな感じの権力かもしれませんな」

 老人の震える細い指が差したのは賑やかな店内でも、賑やかすぎるテーブルを指した。軍閥の長らしい太った将軍が宴の中心にいるらしく、まわりは娼婦とおべっか使いの将校たちだった。

「あれは、まさか王党派の軍服ですか?」

「中身も王党派ですよ。鄧将軍の丸々肥えたあの体は国王からのお給金で買った肉まんで作ったものです」

「どうして、敵の支配地に?」

「それはこの〈大世界〉が国で最大規模のナイトクラブだからです。軍閥の長ともなると、派手に遊びたい。自分の支配地域にないなら、相手の支配地域のクラブへ行けばよいというわけです」

「やつらはふざけているんですか?」

「見た感じではふざけて笑っていますね。で、どうしますね?」

 カラヴァッジョ大尉は立ち上がり、クロークへ走ると、店員が止めるのもきかずに自分の銃と手錠を取り返し、ダンスホールに飛んで帰った。カクテルを運ぶボーイたちを突き飛ばしながら、鄧将軍の、照り焼きにしたチキンを手にした腕を後ろにねじり、手錠をかけた。沙国語でわめく将軍の頭を銃の台尻で殴りつけて大人しくさせると、椅子から飛び上がる将校たちに銃を向けながら、足元の危ない将軍を手で押しながら、出口へと追い立てた。もう、音楽もダンスもなく、ただ、顔を蒼くして、口を金魚みたいにパクパクしている人だけがいた。マリオという名の雇われ支配人が慌てて飛び出し、自分の後ろには郭将軍と〈堂〉がついていると言い、将軍を取り返そうとしたが、大尉に足首を蹴られて、酒蒸ししたワタリガニの籠に頭から突っ込んだ。

 ホールを出ると、後に残してきた人びとの怒号が沸いたが、構わず、鄧将軍を蹴飛ばしながら、追い立て、外に出たとき、アッリーゴ中尉が手配よく車をまわしていた。楊は助手席から飛び出して、将軍を受け取って、自分と一緒に後部座席に押し込み、大尉が助手席に乗ると、銃弾が飛んでくる前に、アッリーゴ中尉の家へと飛んで帰った。

「やつらもまさか中隊指揮官の家まで押しかけるほど馬鹿じゃないでしょう」アッリーゴ中尉がハンドルを右に切りながら言った。「もし来たら、撃ち殺すよう、部下には言っておきます」

「どうにもまずいことをしましたね」楊が困り果てた様子で言った。鄧将軍はぐったりとしていて、大尉に殴られた額から血が出ていたので、楊はそれをハンカチで拭いてやっていた。「本当にまずいですよ」

「楊の言うことは気にしないでください、大尉」アッリーゴ中尉が笑った。「あなたは正しいことをしたんです。間違ったことは何もない」

「ですが、戦争になります!」楊が叫んだ。「連中は鄧将軍を取り戻しに攻めてきますよ!」

「そうだろうな。でも、楊少尉。忘れてはいけないんだが、僕らはやつらと戦争をしているんだぜ?」

「ここは、うまく交渉でおさめられるかもしれない戦線です。戦闘はもっと別の、破滅的な戦線で行うべきです」

「楊少尉、楊少尉。いいかい、破滅的ではない戦争なんてものは存在しないんだ。戦争なんてものはやってる人間の考えとか贅沢嗜好とかとは関係なく、いつだって破滅的なんだ。〈大世界〉はその際たる例だろう? 敵さんがさ、鄧将軍ひとりを犠牲にして、二〇二ミリの榴弾砲をぶっ放せば、このあたりの将軍と古王国人の高級将校がみんな吹き飛んで、戦場の指揮系統はめちゃくちゃだ。もし、僕が向こうにいたら、迷わずそうする。将軍をひとり犠牲にしたのと、奪還して自分たちのものにする予定だった〈大世界〉を吹き飛ばした罪で銃殺刑なり打ち首なりにされるとしてもやる。なぜなら、それが戦争だからだ。そして、僕は戦争に、端的に言えば、敵とみなした人間のどてっ腹ににありとあらゆる方法を駆使して、金属片をぶち込むためにここにいるんだ」

 楊は「あなたが王党派から脱走してくださったことがいいことだったのか悪いことだったのか分かりません」という意味の沙国語をつぶやいた。

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