現代の忍者・金策——北朝鮮副首相にまで出世した『金策(キム・チェク)』とは何者なのか?
忍者とはなんぞや?
まあ一般的にはスパイですよね。
派手な忍術で敵を倒すでもなく、妖怪を召喚して使役するでもない。
ただ敵地に潜入して情報を集め、場合によっては要人を暗殺する。決して目立たず、周囲からは馬鹿者だと侮られる。無害な一般人だという仮面をかぶり、己の存在感を完全に消す。任務にあたって徒党は組まず、単独で敵地に乗り込む。そしてどんなに長い年月をかけようと、必ず任務を達成する——。
江戸時代前期の忍術書に描かれる姿こそが、正しい意味での忍者。
忍者は幕末を最後にその役目を終え、この世から消え去ったとされます。
しかしそれは間違いです。
20世紀になっても忍者は存在し、軍事活動をしていたのです。
有名どころでいえば、戦後30年近くもフィリピンに潜み、現地の軍や警察に数々の攻撃を仕掛けていた小野田少尉でしょうか。彼は軍の命令によってそのような破壊活動を続けていました。なのでいわゆる現代の『日本政府』からの帰国命令には従いませんでした。
そんな彼が帰国を決意したのは、かつての上官からの軍務命令を受け取ったからです(当時日本軍は存在しませんでしたが)。
このように、直属の上司以外からの命令は絶対に受けない、己の命が尽きるまで任務を遂行するのみ——という小野田少尉の生き様は、まさに現代の忍者といえるでしょう。
当時の軍事用語では、このような任務を帯びた人物を『残置諜者』と呼びます。
現地に残されたスパイという意味ですね。
では、残置諜者・小野田少尉こそが本当に最後の忍者なのでしょうか?
それは違います。
1998年、ニューヨークのマウント・サイナイ病院に入院していた人物、さらには2009年に韓国大統領と握手を交わした人物——このふたりこそが、現在確認されている最後の忍者といえるでしょう。
その名は金国泰と金己男。
父親である金策からの教えを忠実に守り抜いた、まさに最後の忍者といえる人物です。
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忍者とは、どんな長い時間がかかろうと必ず任務達成をするよう教育を受けています。それこそ、潜入した敵地で結婚して、その子供が成人するほどの時間をかけようとも。一般的な法律や倫理観などには縛られず、ただ忍びとしての掟に従うのみ。
金策は、とある日本の政治結社から密命を受けて朝鮮半島に渡りました。そして日本人としての名を捨て、朝鮮民族として活動しました(本名はあえて書きません)。
その目的は、反共産主義の防波堤を朝鮮半島に作り上げること。
接近目標は、当時の有力な抗日パルチザンだった金日成です。
北朝鮮初代総書記キムイルソンの右腕として、キムチェクは北朝鮮の国家建設に関わりました。
実際キムイルソンは、回顧録の中でキムチェクのことを随一の盟友であると描写し、また10歳年上の彼を師匠や兄のように慕っていました。
第二次大戦後、朝鮮半島が南北に分かれたとき、キムチェクは北朝鮮の副首相に就任します。しかしその後に勃発した朝鮮戦争のさなか、彼は激務が元で過労死してしまうのです。
時は経ってキムイルソンの死後、その部屋には開かずの秘密金庫が残されていました。
最高権力者の最高機密が収められているのではないか——と部下たちが恐る恐るそれを開けてみると、中には個人的なメモが少しと、あとは1枚の写真が入っていました。
辛く貧しかった抗日パルチザン時代、キムチェクと一緒に写る若きキムイルソンの写真でした。孤独な独裁者という立場の人間が、最後の最後まで何よりも大切に保管していたのがそのキムチェクとの写真です。
このように、北朝鮮の国家主席にとって、否、北朝鮮という国家そのものにとっての重要人物がキムチェクです。
それまで城津市という名前だった自治体は、金策市に改名されています。その他学校や軍の組織名にも採用されたことから、その重要度がうかがえるでしょう。
このキムチェクという名は、長らく日本では知られていませんでした。
それが知られるようになったのは、とある事件がきっかけです。
そう、北朝鮮の不審船です。
2002年9月、能登半島沖に不可解な不審船が現れました。
不審船ならどれも不可解じゃないのか——とは思われましょうが、その不審船は明らかに今までのものとは趣を異にしていたのです。
その不審船は煙突部分に北朝鮮国旗を描き、そして船体部分には『金策』と文字を書いていたのです。これは今までの不審船には無い特徴でした。それは果たしてどのような意味を持つのか、当時はこれに関する考察が一部で盛り上がっていました。
しかしその答えは出ないまま、日本社会は大ニュースに湧き立ちます。
北朝鮮の不審船『金策』号の出現から10日ほど経ったある日のこと——。
すなわち2002年9月17日、当時の小泉総理による北朝鮮の電撃訪問。当時の国家主席である金正日との初の日朝首脳会談。そして拉致被害者を取り戻しての颯爽たる帰国……あまりにもセンセーショナルな出来事でした。
世間の話題は拉致被害者一色になり、不可解な不審船のことなど誰も口にしなくなりました。
不審船『金策』号の出現は、日本の残置諜者『キムチェク』の関係者が何らかのサインを送ってきたのではないか。そのサインを元に日朝首脳会談、拉致被害者解放と話が進んだのではないか——その真偽を探る手段はなく、全ては闇の中。
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さて、朝鮮戦争当時に亡くなったキムチェクにはふたりの息子が居ました。
金国泰と金己男です。
このふたりは、キムジョンイル体制の北朝鮮において特別待遇を受けていました。
党の序列は20位前後。
しかしその序列にかかわらず、キムクッテとキムキナムのふたりは、キムジョンイルが外出する先々で、常に寄り添っていたといわれています。
最高権力者の側近という立場なら、機密情報の入手もたやすいでしょう。
もちろん、忍者の息子としての彼らが具体的に何をしたのかは不明です。
しかし確かなことは、1998年、キムクッテがニューヨークのマウント・サイナイ病院に入院していたということです。この病院はアメリカで最高峰の高級病院であり、その医療費も天井知らず。そんな超高級病院に、外貨の乏しい北朝鮮の人間が入院していたことからも、北朝鮮という国家がキムチェクの子供たちをどれだけ尊重しているかがうかがえます。
このキムクッテの入院から程なくして、当時のオルブライト国務長官の北朝鮮訪問が実現しています。果たしてアメリカ屈指の超高級病院室内でどのような話し合いが行われた結果そうなったのかは、知る手段がありません。
弟のキムキナムは、2009年、故金大中元大統領の葬儀に出席するため訪問団を率いました。そして当時の李明博韓国大統領と握手を交わしています。もちろんこの時に北朝鮮の訪問団と韓国政府がどのような言葉を交わしたのかは、全くの不明です。
しかし、日本の残置諜者キムチェクの息子たちは、北朝鮮という国において一定の立場を占め、外交的な役割を担っていることがうかがえます。
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受けた任務は絶対秘密。
何年かかろうとも任務遂行。
自分が死しても子が任務を果たす。
そんな忍者としての生き様を貫いた——まさに現代の忍者といえるのがキムチェクとそのふたりの息子たちではないでしょうか。
現代日本からは消え去ってしまった忍者という存在。それを受け継いだのがふたりの北朝鮮人というのは、これもまた歴史のロマン。
以上、2月22日——忍者の日にふと思ったことを。
※なお、本作がどの程度の真実性を含んでいるのかは、その特性上、保証できかねます。人物名を検索すればある程度の情報は出てきますが)。
本作の参考文献
藤一水子正武:著 中島篤巳:解読・解説『忍術伝書 正忍記』新人物往来社
佐藤守『金正日は日本人だった』講談社