後編
就職してからは、今のところ太郎には関わっていない。
一応社員名簿で太郎を探してみたが、俺が絶対に行きそうにない技術職方面の管理職に、朝戸太郎という人物がいただけであった。取締役の中に、太郎はいない。
就職活動中には、太郎を調べて取り除く余裕など全くなかった。片端から応募して、次々と不合格になった。
もしかしたら、その中に何とか太郎の会社もあったかもしれない。最終面接にまで漕ぎ着けた会社には、幸い太郎と名のつく役員のいるところは見当たらなかった。
俺は同期入社の中で取り立てて優秀でもなく、落ちこぼれてもいなかった。年々増える仕事をこなすうちには、同期に頭一つ分抜かされたり、もの凄く優秀な後輩に抜かれたりもしたが、彼らが太郎でない限り、気にも留めなかった。
そういう部分が妙子には、飄々として好ましく映ったらしい。
「世渡り上手だよねえ」
社員の集まりだったか、それとも多分残業の息抜き中にか、彼女に話しかけられたのが俺たちの付き合うきっかけだった。妙子は入社年では先輩に当たるのだが、年下だった。
付き合うと言っても、俺も年を取った分、慎重になっていた。妙子がお局化する前の結婚を目論んでいるのが見えていたし、例の太郎の経験も頭にあった。
だから俺は、無闇と妙子の体を貪ったりせず、むしろ中高生のような交際をして、いつでも逃げられるよう気をつけていた。細かい問題を除けば、妙子自身については俺も満更でもなかった。
清い交際といえどもずるずると続けていれば、どうしても結婚の方向へ流れてしまうものであるが、そういう結果を迎えたのも、俺にもその気があったせいであろう。
妙子は一人娘で、父がなかった。死んだと聞かされて育ったが、どうも妻子ある男との間にできた子だったらしい。
彼女との結婚が視野に入ったのも、そうした生い立ちを聞いたせいだった。
身内に太郎がいたら、躊躇したと思う。俺の親父も鬼籍に入っていて、お袋は年金と兄貴の仕送りで、さっさと老人ホームに入って楽しく暮らしている。兄貴はとうに結婚していて、煩いことを言う人間はいなかった。
むしろ、ことあるごとに早く結婚しろとせっつかれていたのだ。
妙子の父については、死んだ事にしておいたので、俺の身内は双手を上げて結婚を祝ってくれた。だって、本当のことは妙子にもわからない訳だし。
で、俺たちは無事に結婚した。妙子は妊娠するまで働くと言っていたが、すぐに子どもができたので、一年も経たないうちに退職した。
「ああ。確か君は」
知らない人と二人きりで乗るエレベータというものは、どうも落ち着かない。
まして、その見知らぬ人物から知り合いであるかのように話しかけられた日には、逃げ出したくなる。
話しかけたのは、年配の人物であった。社員バッジをつけている。
俺は、バイトの女の子から退職した上司まで頭に思い浮かべたが、誰にも該当しなかった。幸か不幸か相手も俺の名前が出て来ないようだったので、俺は自分から名乗って、適当に挨拶した。
「ああ。そうそう。結婚おめでとう。うう、奥さんは元気かね」
相手は名乗ることなく話を続けた。
俺の方は、さては妙子の関係者かと思い、結婚式の招待客を懸命に思い出そうとしたが、あの時は緊張で記憶が飛んでいて、ヒントの欠片も浮かばなかった。
俺たちはその後も間延びした適当なやりとりを交わした。エレベータの扉が開いた時には、心底救われたような気持ちになった。相手は最後まで正体が知れなかった。
帰宅してからその話をすると、妙子とその母親が揃って顔色を変えたので、驚いた。
「おいおい。具合が悪いのか。無理しないで、寝ていていいんだぞ」
「そうよ。そのために、お母さんが来ているんだから」
「うん。寝る」
妙子は重くなった体を持て余すようにして、そのまま寝床に就いてしまった。一緒についていった義母が、暫くして戻ると冷蔵庫を開けた。
「あら。野菜ジュース切らしちゃったのね。妙子の調子が悪そうだから、今買ってきておいた方がいいわね。コンビニ行ってくるわ」
そそくさと出かけようとした。俺は立ち上がった。
「お義母さん、いいですよ。こんな夜更けに出なくても。俺が行ってきますから」
「そんな。お仕事で疲れているのに、また用事をいいつけたら悪いでしょう」
「大丈夫ですよ。遠慮しないでください」
二人とも財布を握り締めて、もみ合いながら玄関まで出た。
「じゃあ、散歩がてら、一緒に行きましょうか」
急に義母の態度が変わった。俺はつられて、頷いてしまった。妙子を一人残していいのだろうか、と疑問が湧いたのは、道路へ出てからである。
「平気よ。今、ずっと私が側にいるから、たまには一人にしてあげないと、息が詰まるのよ」
もしかしたら、彼女は俺を外へ引っ張り出すために、買い物に出るふりをしたのだろうか。俺の勘を裏付けるように、義母は辺りを見回した。もともと人気のない通りだった。こんな夜更けに人影のある筈もない。
「さっきの話、エレベータで会った人なんだけど」
義母は声を潜めて言った。だから、あんまりよく聞こえなかった。
「……太郎さんっていう方じゃなかったかしら。もう退職されて顧問か何かなさっている」
そこだけやけにはっきりと聞こえたように思えた。
実際のところ、彼女は朝戸という名字の方を強調した気がする。姓を聞いただけで、俺の心にしまっておいた時限スイッチがたちまち点火したのだ。
俺は多分、尋常でない表情をしてしまったのだろう。義母は、やっぱり、とため息をついた。
「知っていたのね。そうよ。あの人が妙子の父親よ」
俺はもう少しで、げっ、と声を上げるところだった。
よりによって、俺に数々の災いをもたらしてきた太郎を、義理の父親に選んでしまうなんて、偶然にもほどがある。
俺の脳裡を次々と過去の厄災がよぎった。呆然とする俺を横目に、義母は義母で自分の過去に思いを致しているらしく、奴との馴れ初めから語り出した。
俺はそんな思い出話など聞いていなかった。問題は、朝戸太郎が俺にどんな災いをもたらすかということだった。
「妙子は、知っているんですか」
「知らない筈よ。あなたたちが結婚すると決まった時、初めて妙子のことを話したけど、本人には言わないよう口止めしたもの。向こうにもいい年の息子さんがいるから、言いっこないわ。今更」
義母は即答した。俺はほっとした半面、先ほど妙子が見せた表情を思い起こして油断はできないと思った。子供は、親が思うよりも聡い。
ただ、妙子が父親を知っていたとしても、互いに親子の名乗りをするつもりがなければ、俺とも関係ないままでいられる、という仄かな期待はあった。
それから暫くして、義母の入浴を見計らい、俺は妙子に朝戸が父親だったということを知っていたか尋ねてみた。
「え」
妙子の反応は最悪だった。みるみる顔色が蒼くなり、気を失いかけたかと思うと、お腹を押さえて呻き始めた。
「どうしたの」
異様な声が浴室まで届いたらしく、義母がバスタオル一枚で飛び出してきた。
俺は救急車を呼んだ。妙子は相変わらず呻いている。額にねっとりとした汗が滲む。救急車はなかなか来ない。義母は着替えも忘れて、娘の体を擦っている。
俺は側でおろおろしながら、頭の中だけは冷静に直前のやりとりを思い返していた。
妙子は朝戸太郎が父親であることを知らなかった。知らないにも関わらず、その人の話を聞いて顔色を変えた。
名前を言う先から、その人が朝戸であることがわかるぐらいには、彼を知っていた。仕事上の接点がどのくらいあったのか、俺にはわからない。俺よりはあったかもしれないことと同時に、それほど親密に仕事をする筈がないことだけはわかっていた。
そして彼女は、朝戸が実の父親であると知り、体調を崩すほどのショックを受けている。
肝が冷えていく。もの凄く、もの凄く嫌な予感がした。俺にとって、太郎は鬼門なのだ。
妙子は呻き続けている。救急車は来ない。