柴犬の願い
――貴方は死んでしまいました。分かりますか?
どこかから声が聞こえてくる。
全方位空色の美しい空間――のはずだが、柴犬の小石丸にはそれどころではない。
自分を拾って育ててくれた主人が、血だらけで倒れたのだ。
彼は空に向かって強く吠える。
――貴方にはこれから異世界に転生してもらいます。
「わんわん」
――転生にあたり、一つ願いを叶えてあげられますが……
「わんわん」
――って、いつも通りの対応じゃ無理だよね。だって犬だし。
周囲に向けて警戒心むき出しに吠え続ける柴犬、小石丸に向けられた声は何かを諦めたように小さくため息をついた。
そして、空色一面だった空間に声の主が少年の形を取って姿を現した。
「うーん、本当に異例だけど話が進まないからいったん君に言語能力と、それを扱えるだけの頭脳を与えるけどいいよね?」
「わんわん」
「おっけー、了解と取るよ」
突然現れた少年は、小石丸の頭に手を置いて「えいっ」と気合を入れる。
「うん、もうボクが何を言ってるか分かると思うんだけど――どうかな小石丸くん」
「お前はダレだ!? 陽くんをカエせ!!」
柴犬の口から流暢な人語が流れ出たことに満足してか、少年はゆっくり頷く。
「とりあえず言語能力は機能したみたいだね」
ただ小石丸は興奮しているためか、自分が人語を話していることに気付いていなかった。
きょろきょろと周囲を見回しながら「陽くん陽くん」と叫んでいる。
「えっと、まず現状説明なんだけど、陽君は君より少し前に死んじゃったから先に異世界に行ってもらってる」
「陽くんがシんだ!?」
「うん、それで願い事を聞いたら『小石丸だけは助けて』って言うから了承して急いで探したんだけど、君も死んじゃってたんだよねー」
「おれもシんだ!?」
「そうそう。でもさボク神だから約束を破るわけにいかないじゃん? でも生き返らせるわけにもいかないからひとまず同じ世界に転生させようかなって」
「いってることがワカらん!」
言語能力を得てもまだ二歳の犬。
難しい話になると理解はできない。
神と名乗った少年は、頭を抱え唸りだす。
「うーん。言葉が通じても内容が理解できるとは限らないよね……僕の世界の魔王を倒してほしくて陽くん呼んだのに、彼の願いは『小石丸を助けて』だから転生はしても彼は強くないし、もう一人送らなきゃいけないから小石丸くんならちょうどいいかと思ったんだけど――やっぱり犬に魔王倒して、なんて言っても無理かあ」
この理解不能な状況に、言語能力絵を得たとはいえ吠え続けることしかできない小石丸。
ただ、陽が倒れていた光景だけが脳裏に焼き付いて、彼の焦燥感を掻き立てる。
生まれてすぐ虐待を受けて捨てられた彼を拾って、必死に両親に掛け合い育ててくれたのが陽だった。
陽がいなければ、小石丸は名前すらも無いまま死んでいただろう。
だから恩返しをしたい――なんて明確な意志は小石丸には認識できてない。
だが、家族だと思っていた大好きな陽が倒れた。
しかも悪意の臭いをぷんぷんとさせている人間に何か(・・)をされて、だ。
犬は匂いで感情が分かるというが、喜怒哀楽は朧げに理解できていたものの、あれほど強烈な悪意は初めてだった。
「ねえ小石丸くん。君が魔王を倒してくれないかなあ?」
ダメ元、といった風に少年神は小石丸を覗き込む。
ただ、彼の最優先はやはり陽でしかなかった。
「イヤだ! おれは陽くんをタスける!」
その言葉を聞いた神の目が、突然冷たく細められた。
「うん。君はね――彼を助けられなかったんだよ」
「…………」
なんとなく、分かっていた。
動物的勘なのか、匂いなのか、または別の何かなのかは分からない。
ただ、陽の命が失われゆくのだけは分かっていた。
でも認めたくなくて、自分より遥かに巨大な人間の男に立ち向かった。
それでも、やはり敵わなかった。
「そう、君は人間に敵わなかった。大好きな陽くんを守れなかった。でも――」
少年の姿をした神は、細めた目を開き、優しく微笑む。
「でも。異世界なら守れるかもしれない」
「…………まもれる」
「そう。地球の陽くんは死んだ。でも、ボクの世界で今生きてる」
「――――」
神によって得た言語能力と、それに付随した知能を総動員して小石丸は考える。
「さて、もう魔王を倒せなんて言わない。それは別の人間に任せることにする」
ここで少年神はただ優しく、小石丸の理解を待つように、ゆっくりと口を開いた。
「さあ、君の願いはなんだい?」
人間に勝てなかった。知恵も肉体もすべてが及ばない。
このままではきっと、また助けられない。
ならば――。
小石丸はまっずぐに神の目を見ながら、決然と言った。
「ニンゲンになりたい。陽くんをマモれるニンゲンに」
ひときわ柔らかい笑みを作った神が、小さく頷いた。