Darkness cannot drive out darkness.
羽場土海禰は日課を終えると、白い息を深く吐き出す。
空を見上げるとかろうじて見える程度の細さの月が、頼りなさげに浮かんでいる。
昨日は新月だったから、今日は二日月だろうか。
犬に噛まれて痛む足の傷の深さを自覚しながら、懐を弄る。
彼の日課に欠かせない、相棒と言っても良いほどに手になじんだそれを取り出して、か細い月明かりに掲げる。
「今日で十人目。欲張らずにこれで終わりにしようか」
まだ血のついているそれは――肉厚なナイフであった。
彼はそれを自分の首に突き立て、吹き出す血を眺めながら、嗤った。
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動物は自由でいい、などと宣う人間が嫌いだった。
野生動物たちは、生きることそのもので精一杯である。
“生存”そのものに縛られていると言ってもいい。
毎日飯が食えて、天敵もおらず、死の恐怖を感じることなく生に飽き、自ら死を選べるほどに人間は生存に縛られない。
他の生物の追随を許さないほど自由すぎるではないか、人間は。
獣医である海禰は、日々持ち込まれる動物たちを治療しながら人間の業の深さを思う。
生きるために他を殺すのは、自然の摂理。
全ての生物は捕食と被食の連環を紡いで、バランスを保っている。
食物連鎖――などと言われるが本当にそうだろうか。
その輪の中に、人間がいないではないか。
たったいま子供が連れてきた柴犬の様子を見る。
生後二週間程度だろうか。
まともに食事を与えられていなかったようで、肉付きが非常に悪く、脇腹が浮き出ている。
そして、虐待の痕だろう内出血がそこかしこに見られる。
栄養が足りていないので点滴を打ち、様子を見る。
呼吸も弱い。リズムが一定で無く、何かに痞えるように時々嘔吐く。
異物を飲んでしまったのだろうか。
背中を軽く叩いてみるが、何も出ない。
海禰は催吐剤を取り出し注射した。
ようやく吐き出した物を見て彼は――激怒した。
「これは熱帯魚用の水槽に敷く小石じゃないか――」
恐らく、この柴犬を飼っている家庭はそれなりに裕福なのであろう。
生後八週を超えない犬猫の売買は禁止されているから、どこかの家からもらって来たか自分で交配したものに違いない。
犬以外に熱帯魚すら飼える程度に余裕のある家庭が、餌も碌にやらず、誤飲しそうな小石さえ放置して、挙句、病院に寄越すのすら子供一人に任せきり。
小石を吐いた柴犬は呼吸を取り戻し、点滴も効いたのかすぐに動けるようになった。
海禰は、職業がら鉄壁になりつつある作り笑いを顔に貼り付け、犬を連れてきた少年――今井陽に言った。
「小石を飲み込んでしまっていたようです。それで呼吸が困難になっていたのでしょう」
このとき、陽は――笑った。
「小石を食べちゃうほどお腹が空いてたのかな。じゃあお前の名前は小石丸だ」
小学五年生である陽に、生後二週間の柴犬を襲った悲劇など想像つくはずもない。
単純に元気になったことが嬉しく、生き残ってくれたことを喜んで笑った。
だが、海禰にはその笑みが許せなかった。
少し考えれば、陽が、陽の両親が飼い主ではないかもしれないと思い至ったかもしれない。
だが、獣医になったばかりの羽場土海禰は、このときの今井陽の笑顔が、
文字通り死ぬまで忘れられなかったのだった。
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最初に人の死を見たのは、八歳の頃だった。
教育に厳しい母親と、家庭に興味の無い父との三人家族。
顔を合わせればケンカばかりの両親にうんざりしつつ、学校の成績が落ちれば教育熱心な母に叩かれるので、その日も両親のいるリビングで勉強をしていた。
両親の言い争いは子供にとって何よりもストレスである。
海禰にとって、安らぎの場である自宅が最も彼を苦しめる場であった。
その日の言い争いも激しかった。
ただ、耳に入っていても脳が理解することを拒絶して、海禰の頭に内容が入ることはない。
目の前の算数ドリルに集中しつつ、そっと心を閉じた――その時だった。
何かが倒れる大きな音とともに、言い争いが止まった。
顔を上げると、母が頭から血を流して倒れている。
父が、取り乱した様子でどこかに電話をしていた。
救急車が来て、母の脈を測り、首を横に振る。
――不思議な感覚だった。
いつもあれほど煩い母が、自分を痛めつける人間が、ただの肉になった瞬間を見た。
いまにも動き出して勉強の手を止めた海禰を責めてもおかしくないのに、母は動かない。
今朝彼を叩いた手は、もう動かない。
他人への怨嗟を語る口も、二度と動き出すことは無い。
彼の体を包む感覚は、一言では言い表せない。
心の中で渦巻く感情を後の海禰はこう表現した、
――あれは感動だった、と。
八歳の少年、羽場土海禰の口元に、薄っすらと二日月が浮かんでいたのをこの場の誰も見ることはなかった。




