Let sleeping dogs lie.
「なあ小石丸。昔の偉い人が世界は“火”で出来てるって言ったらしいんだけど、どういう意味なんだろうな?」
中学一年生も今月で終わってしまう、三月の冬。
今井陽は、白い息を吐きだしながら、夜の公園を飼い犬の小石丸と歩く。
「古代ギリシャは寒くなかったのかな? こんなに寒かったら『万物の根源は火だ!』なんて考え自体が出ないと思うんだけど、小石丸はどう思う?」
今年で二歳になる柴犬の小石丸も、白い息を吐きながら同意するかのように小さく吠えた。
時刻はもう二十二時を回っている。
親が教育熱心なため通っている、厳しいことで有名な進学塾。
そこの課題が終わらず、居残りでこんなに遅くなってしまった。
氷点下の外気にさらされた頬は、刺すように痛い。
「今日は散歩遅くなってごめんな、小石丸――ん、小石丸?」
ふと、小石丸が何かを探るように立ち止まる。
そしてちょうど電灯の明かりの切れ目である暗闇に吠え始めた。
「最近じゃ吠えなくなってたのに……どうした?」
吠えながら全力でリードを引く小石丸に圧倒されながらも、陽は歩くのを再開する。
「――万物の根源は“火”だ、と言ったのは古代ギリシャのヘラクレイトスだね」
突然、知らない男の声が陽の耳元で響く。
と同時に、腹部に何かが当たったように感じた。
何が起きているかは分からない。
腹部を触ってみると、ぬるりと生暖かい感触がある。
その手を見ると真っ赤に染まっていた。
「…………血?」
急速に薄れゆく視界の中で、陽を守ろうと強く吠えながら男に嚙みつきに行った小石丸が強くけられて動かなくなったのを見た。
「万物の根源は火。闘争と生命の象徴の火」
陽に刺された、という認識はあっただろうか。
失血性のショックで急激に意識が失われて、痛みは感じなかった。
次第に、耳も聞こえなくなっていく。
ただ、陽を刺した男の声だけが妙に生々しく響いた。
「魂は火だ。だから生きているとき人は温かいが、死ぬと――火が消えて冷たい肉塊となる」
これが現世で陽が聴いた、最後の言葉になったのだった。