第4話 ローサ
周囲が凍り付いているはずなのに、ドッと冷や汗をかいた。
瞳に飛び込んできた化け物たちの醜悪すぎる見た目に、胸の辺りがカッと熱くなってドクドクと心臓が脈打つ。
紫色の毒液が滴る牙。金色の吊り目と、氷の反射に照り返す緑鱗——シャアシャアと威嚇してくる蛇の頭だ。
乳白色の鋭利な鉤爪。かと思えば持ち上げて頭をさする裏には、黒くてフカフカの肉球——獰猛な猫の前足だ。
針のように尖がった爪先。線のように細長く、柔らかさとは無縁な皮膚の表面は無数の凹凸で覆われている——華奢な鶏の後ろ脚だ。
最後に残るはもちろん胴体——なのだが、これが混沌に満ちている。
胸部は鶏のフサフサな羽毛、全体は猫の胴体をしていながらも緑色の鱗にびっしりと覆われている。尾は長い蛇であり、その先っぽに眼球や胴体、耳などを失った頭部だけの猫が噛みついている。
ついでにいえば、めちゃくちゃ臭かった。合成魔獣からか、ローサの姿をした化け物からするのかは分からないが、一週間以上放置した生ゴミのような匂いがした。
こんな化け物を——悪鬼を、ローサの姿をしたそれは引き連れているのであった。
「どうしたんだい、リィ? さぁ……」
「……‼」
差し出される右手。優しく微笑む笑顔。懐かしい日々を思い出す。
——その右腕を取りたくなってしまう。全ての思考を捨てて、預けたくなってしまう。
——今すぐこの場から逃げ出したい。恐怖に駆られて、何もかもないどこか遠くへ去ってしまいたい。
長く緩慢な時間を過ごしたようでいて、動く時は急展開だった。
思考を置き去りにして何かが巻き起こり、理解ができる前に全てが崩壊してしまう。
今だってそうなろうとしていた。
突然地下室一帯が凍りついたかと思いきや、育母の姿をした何か(、、)が目の前にいる。その醜悪な姿と悪鬼を引き連れる姿は——まさしくリィの意識を瓦解させるには充分だった。
ドクドクと脈動を続け、徐々にその熱さを増していた心臓が唐突にカッと温度を増した。
絶望を前に感情が荒れ狂って、思考が恐慌状態から更なる混沌に陥る。
思考放棄——自暴自棄だ。
そして、そうなった瞬間、彼女の胸と地下室の床一帯から無数の炎柱が立ち上り、辺り一帯を炎に包み込んでいた。
悪鬼たちを呑み込む。ローサの姿をしたそれ(、、)が頬を吊り上げる。そして、その彼女だけが炎に弱い体でできていたのか、炎柱に飲み込まれた瞬間あっさりと溶けていってしまい、蒸発して空気中に消えてしまった。
リィはショックを受ける。それがいくら悪鬼のような姿をしていようと、やはりローサの姿をしていたのだ。もしかしたら、ローサの魂を宿していたのかもしれないのだ。
疼痛が走り抜けて——しかし、敏感になっている察知能力が、横っ飛びでの回避行動を行っている。
風切り音。リィが先ほどまでいた場所を、伸びる蛇の頭が貫いていた。炎柱から飛び出し、空を切った蛇の頭はグルリと旋回し、リィを目指して迫ってくる。
リィは温度を上昇させる石壁に背を当て、恐怖とともに両腕をつきだし、きつく目を瞑った。
(死んじゃう、死んじゃう——死にたくない!)
こんな極限状態のショック後であっても、リィは生きたいと思っていた。
だからこそ危険を前に目を瞑ってしまったのだが。
暗闇。一秒、二秒、三秒——。
何も起きず、おかしいと思って目を開けてみれば、うずたかく積もる灰がそこにあるのみ。
本人は自覚していないが、リィが燃やした恐怖の感情に呼応し、超高温の炎が手のひらから射出されたのだ。
周囲の炎ですら燃やせなかった悪鬼を、一瞬で灰に変えてしまう青い炎。
取り残されたリィはキョトンと尻餅をついたままで、けれどすぐに次の脅威がボゥっとしていることをリィに許さなかった。突如、すぐ横の石壁が隆起し、刀を形どって襲いかかってきたのだ。
言うなれば、石壁から生える石の腕が持つ、石刀。
リィは「キャア!」と甲高く叫んで、両手で顔を守るように構えを取る。
すると炎の壁が床から生えて石刀を阻み、まるで鋼鉄とぶつかり合ったかのような金属音が響いた。逆に、弾かれた石刀は触れた部分から燃え上がり、壁から生えた石腕ごと燃やしていく。
すると、どこかで甲高い悲鳴が上がった。
まだいるのだ。もう一体、悪鬼がこちらを狙っている。
(——っ‼)
リィの取った選択は逃亡だった。
当然だ。悪鬼を前にして、凡人は逃げることしか許されない。否、本来であれば逃げることすら許されない。彼女は無我夢中で、炎の中をかけ走る。地下室の出口に続く、石階段を目指す。
炎の中であっても、出口のある方向が分かったことに対し、リィは疑問を覚えない。そんな余裕もない。
炎を突き破って、無数の石刀が飛び掛かってきた。リィはそれらを認識すると同時に、無意識下で炎を発現。炎の盾が石刀をはじき、炎弾が石刀の刃を溶かす。足元から噴き出した炎柱で石刀を灰燼に帰し、炎の拳が石刀と衝突して互いに砕け散る。
そして、石階段の目の前でリィは巨大な石壁にぶつかっていた。
最初、道を間違えたと思った。そこでやっと、何を頼りに自分は出口を目指していたのだろうということに気付く。
——が、なぜかリィは感じる。ここに石階段があるはずだと。
(まさか——この石壁自体が、あの悪鬼の能力……⁉)
悪鬼が魔の力を使うのは、当然広く知れ渡っていること。リィは咄嗟に石壁から距離を取った。
肯定するかのように、石壁から無数の石刀を持った石腕が生えてくる。ザッと数えるだけでも十はくだらない。
リィは、反射的に両手を前につきだして炎を放つ。が、一斉に振るわれた十以上の石刀が放たれた炎弾をかき消した。
(そんな——炎が効かない⁉)
無意識下で使っていたとはいえ、さすがのリィにも炎が自分の力であるということ、それを用いれば悪鬼と渡り合うことができるということは分かっていた。
しかし、今その一撃が無力化されてしまった。
今思えば、おかしくなかっただろうか。最初、蛇の頭の攻撃を避けた時。避けた先にすぐ石壁があった。リィの感覚ではもう少し遠い場所に石壁があるイメージだったのだ。自身が目測をズラしたのだと勘違いしていたのだが、もうあの石壁自体が悪鬼の力だったのかもしれない。悪鬼が生やした壁だからこそ、そこから石刀が襲い掛かってきたのだ。
ゆっくりと後ずさりをするリィの耳に、絶望の音が聞こえる。
悪鬼の足音だ。リィの背後へ回り、挟み撃ちしようとしている。
絶対絶命。そもそも出口を封じられているのだから、逃げるという選択肢がない。
逃げれないのであれば倒せばいい、と思うかもしれない。けれど、リィは本能的に感じていた。リィはあの悪鬼——否、悪鬼たちに敵わない。
渡り合えているのは、ビギナーズラックのようなものだ。どうしてかはわからないけれど、そう分かる。
リィは冷静になりつつあった思考を、再び恐慌状態へ起こす。そして、より深く精神が恐慌してもなお、現状を打開する「奇跡(、、)」が起こらないことにより精神を暗闇に落としていく。
(どうして……さっきまで、さっきまでは、全部何もかもを解決してくれてたじゃないっ!)
鈍かろうとさすがに気づく。意識が飛びそうなほど狂いつつあるからこそ、自身を救ってくれる奇跡に目を奪われていた。
だというのに、そう感情を爆発させた瞬間でさえ、強烈な熱を持った青い炎弾が発射されたのみで、あっさりと石刀の斬撃に霧散させられていた。
否——つまり、これこそがリィが感じていた「敵わない(、、、、)」ということなのだ。
(逃げられない、敵わない——ううん、違う、『逃がさない』)
背筋がゾッと凍り付いた。
死の足音がすぐそこまで近づいてきている。しかも、いつのまにかその足音は二つに増えていた。灰となったはずのもう一体さえ復活したというのか? それともローサの姿をした、人型の悪鬼か……?
さらにいえば、感情の爆発に伴って青い炎弾が射出された瞬間、リィはドッと体に疲れを覚えていた。リィの中の何かを消費して放っている? 当然だ。無限の力などこの世にない。ましてや人の身に、底なしの力など宿るわけもないだろう。
リィは頭をフル回転させる。生き残るために。生にしがりつくために。
(感情を爆発させれば、爆発力は得られる。でも、それだと考えなしに力を浪費するだけ。考えて、考えて、リィ——。突破できない壁を、どうしたら乗り越えられるか? 『乗り越える』?)
リィは気づいて、上を見上げる。煙の向こう。壁と天井の間に隙間があることに気付く。
壁を破る方法ばかり考えていて気付かなかったが、この石壁は天井まで届いておらず、3Mほどまでの高さしかなかった。
普通であれば、決して乗り越りこえられない高さ。しかし、今のリィにとって容易いことのように思えた。
炎から、二体の悪鬼が飛び出し、リィ向かって飛び掛かった瞬間。
リィは足裏から強烈な炎を噴出し、ロケットジャンプよろしく跳躍していた。悪鬼の蛇首が伸びて追従してくる。リィの背中に噛みつくが囚人服を食い破ったのみで、リィはそのまま石壁を乗り越えていた。
顔から着地しそうになって、空中で身を翻し、足からの着地に成功する。
めちゃくちゃ運動神経がいい。本来のリィは、運動神経など欠片もないのだから、恐らく今彼女の身に起こっている変化の一端だろう。
ともかく、リィは走った。石剣が投擲される中、自身で炎を操って迎撃しつつ、階段をひたすらに登った。
(私の勝ちっ‼)
リィは出口の前で、思いっきり両足でジャンプして部屋の外へと転がり出る。
街にある牢獄棟の一階だ。木製椅子でうたた寝をしていた見張り兵がキョトンとした顔でこちらを見ている。すぐさま、その瞳に驚愕を宿し、同じく眠っていた兵士を叩き起こしつつ槍を構えた。
「貴様、どうやって脱走した!魔女の娘!」
「襲ってきたのよ!悪鬼が、地下牢を!」
育ち上、人見知り気味なリィだったが、その時は大きな声で言い返すことができた。
訝しげに目を細める兵士たちだったが、リィが大真面目に言っていることを確認すると、「ついてこい」とリィの首に短剣を突き当てて、連行するように地下室へ戻っていく。
そして、すぐに失敗してしまったことに気が付いた。
地下室に広がっていた光景は、いわゆる炎上跡だ。囚人や見張り兵たちがいたであろう場所に、灰が積もっている。
氷を使うローサの姿をした悪鬼や、鶏蛇猫の特徴を持った悪鬼が何かをした痕跡など一つとして残っていない。
「ま、魔女め……」
「な、なんてことを……」
結果、兵士たちは当然犯人をリィだと思った。
そして、その脅威を恐れたのか、武器を投げ捨てて一目散に逃げだしてしまったのである。
一人残された地下牢。愕然。沈黙。
リィはどこからともなく、確かに耳にした。
『私の仲間になれ、リィ……』
ハッ、と振り返ると。そこにはボヤボヤと揺らめく霊体の、ローサの姿があったのだった。