プロローグ1
——温かい温もりだった。
少女を覚醒させたのはゴウゴウと周囲全てが燃える音と、その炎が発する心地よい温かさだったのである。
目を開いた瞬間、視界を業炎のみが占領していた。
燃え上がる炎は、視界を遮り、聴覚を支配し、周囲の状況を一切認知させてくれない。
ただ目を覚ましたのだから、ここが自分の部屋の中でベッドの上であるであろうことはわかる。
たった今、灰に変わろうとしているシーツやマットレスも嗅ぎなれた自分の匂いのする布団だった。
不思議なのは、炎が熱くないことだ。オレンジと赤に燃え盛る焔は、もはやここの空間そのものと言っていいほどに部屋を埋め尽くしている。だから、自分そのものも燃えているに違いないのだ。
実際、自身を見下ろせば病的に青白く華奢な全身が露になっている。服が全て燃えつくされているのだ。ひどい傷痕だらけの全身をさらけ出していることに、今更ながら羞恥を覚えた。
(でも……そっか。全部燃えたんだ)
自分事。何もかもが。
少女は死んでしまったのだとしか思えなかった。自身はすでに幽霊になっているのだ、と。だから、炎が心地よいのだ、と。
そうでなければ、まるで説明がつかないからだ。
唐突すぎる、この状況まるごとに。
(やっと解放される……。……生きることから)
少女にとって、この家は生まれてから世界のすべてで、忌まわしき記憶でしかなかった。
憎き家族たちが住む、恐怖の館だった。
だから、燃えて構わない。いっそ、村ごと燃えて灰燼に帰してもらっても構わないのだ。少女を迫害し続けてきた醜い村人たちが住む村ごと。
それから、程なくしてのことだった。
唐突に世界が崩落した。家が焼けてモロくなり、床が抜けたのだ。少女の体は自由落下し、何の抵抗もせずに階下の床に叩きつけられる。
ロクな痛みはない。ただ、確かな衝撃が走る。
少女は動揺とともに、焼け落ちていく床から身を起こして立ち上がった。
矛盾していた。
炎が熱くない。なのに、ベッドに横たわることができる。
二階から一階へ叩きつけられても痛みがない。なのに、叩きつけらた衝撃がある。そもそも自由落下をする。
あるいは、幽霊とは案外そういうものなのだろうか、という考察が頭をよぎらなかったわけではない。
しかし、やけにリアルだった。五感すべてが炎で埋め尽くされているのに、その炎だけはやけに鮮明。頭の中が生まれた日から今日までで、最もクリアに周囲の状況を捉えている。
(まさか……私は今、本当にここにいるの……?)
ありえない結論が、候補として思考の中に浮上する。
だが、その天地がひっくり返るような荒唐無稽な考えが、結論として思考の中心から動かなくなった。理由が説明できるわけではないが、それが真実だと少女は確信してしまったのだ。
(炎が熱くない……?痛みを感じない……?)
少女は恐る恐る、記憶を頼りに炎の中を歩き始める。
視界が炎で埋め尽くされてしまっていたため、床の抜けている場所が分からずに何度もこけそうになる。が、それすらも鋭敏な反射神経——動物の本能とでもいうべき危機管理能力が働き、重心をズラしてバランスを取った。
異様だ。人間離れしている。
少女が目指していたのは、大浴場の前にある脱衣所である。脱衣所の入り口には、大きな姿見があるはずだった。
姿見があるはずの場所には何もない。
床が抜けているのだろうと気付いた少女は、抜け落ちた床下へと足を滑り込ませ、身を屈んで木製部分が焼け落ちてしまった鏡を、灰の中から引きずり出す。
自身の姿をのぞき込み、ゾッと血の気が失せた。
15歳である少女の一番のチャームポイントである長い赤髪は、色が抜け落ちて白髪に。
自身の顔があるべきはずの場所を——赤い目と口のある闇が覆っていた。
ショックで鏡を持つ手から力が抜け、取り落とす。衝撃で割れてしまった破片が足に降りかかるものの、鋭利なはずの破片は少女の肌を貫けず、かすかな一瞬の痛みのみを残して地面に散らばった。
理解できない。頭の中が沸騰しそうだった。
痛みを感じることができない。チクリ、チクリと胸に精神的な痛みが襲い掛かる。
炎の中で息苦しさすらないことに、やっと気付く。少女はその場にしゃがみ込んで、その顔をクシャクシャに歪ませた。
「私は……どうなってしまったの?」
苦しみを、不理解を、悲しみを、涙に変えて流して流して。
——それすらも許さないとばかりに、業炎の熱気が少女の瞳から流れる雫を乾かしていった。