プロローグ
「ハァッ……ハァッ……」
暗い夜、一人の中年男性が長い廊下を走る。
ここはとある城、男は先の見えぬ廊下を走り続けていた。
走る息には咳が絡み、頬にはだらだらと汗を滴らせる。
「ヒッ、ヒィッ、こんなはずでは……」
男は小太りな身体を必死に動かして走る。
普段から走り慣れていない身体は呆れるほどすぐにスタミナを切らし、走る姿は溺れた虫の様に見苦しかった。
なぜ男は走るのだろうか。
人が走る理由にはいくつかある。
痩せるためだとか、陸上競技の練習だとか、あるいは人に会いに行くためだとか。
しかしこの男が走る理由を誰かに尋ねれば十中八九こう答えるだろう。
逃げるためだと。
「ヒィッ!?」
しかし男の逃走は悲鳴と共に終わりを告げた。
男の目の前に現れた人影によって。
「探しましたよ」
「く、来るな! 俺のせいじゃないんだ、俺のせいじゃ……」
人影は男にゆっくりと近づく。
人影からは穏やかな青年の声が聞こえる。
男は引き返そうとするが、足がもつれて転び、腰を抜かしてしまった。
走るスタミナも残ってないこの男に、もう抵抗する術はない。
人影は一歩、また一歩と近づく。
「頼むっ! どうか命だけは……」
ブルブルと震え怯える男に人影はゆっくりと近づく。
そんな男に対し、青年は慎重に足取りを進めながら穏やかな声で語りかける。
「僕は犯人探しや責任の追及をしたいわけじゃありません。まだ間に合うから、それを伝えに来たんです」
「う、嘘だ……おしまいだ! こんなのもう逃げるしかない……」
中年男性はもはやその場から動くことはできない。
許しを乞うような情けない声で弁解を試みる。
「まだ間に合います」
しかし人影は穏やかな口調で語り続ける。
一歩近づくたび、人影は窓越しの月光に照らされ、その姿を露わにする。
人影は、その声色から想像に難くない──穏やかな雰囲気の青年だった。
月明かりに照らされながら青年は穏やかに告げる。
「ですから現場に戻りましょう、監督? まだプロジェクトは立て直せます」
「嫌だ! どうせ俺は打ち首なんだろ!? こんな案件受けるんじゃなかった!」
「大丈夫です、打ち首にさせないために僕が来たんですから」
怯える男に青年は粘り強く語り続ける。
その様子は駄々をこねる子供に説得を続ける親のようにも見えなくもない。
「最初からおかしかったんだ、雰囲気で進む会議、とりあえず試作品を見せてよの一点張り、作ったら作ったで後出しの注文が次々と襲いかかる、挙句最初に行ったことと逆のことを言い出す! 次々とエンジニアギルドが逃げてくわけだよ!」
──エンジニア
現実世界ではシステムの構築を行う技術者を指す職業だが、この異世界では少々意味が異なる。
この世界でのエンジニアとは、魔法を組み込んだシステムを指す。
この世界で魔法が見つかって間もない頃、魔法の発動条件に一定の法則と規則を見出した古の技術者は魔法の発動に関わる体系を整えた。
その結果、正しい手順を踏めば誰でも魔法を使いこなすことができるようになった。
そして、魔法が広く普及すれば、より楽な方法を求めるのは人間の性である。
人々は魔法の発動の自動化を試み──やがてプログラムのように自在に魔法をコントロールすることができるようになった。
魔法陣、魔導人形、果ては魔法の杖まで、魔法が関わるものは全てプログラム化された魔法が組み込まれている。
そして魔法を組み込む技術者のことを、人は魔導機巧師と呼んだ。
今やこの異世界において、エンジニアは欠かせない存在である。
─────
だがしかし、魔法は自在にコントロールできても人間は人間のコントロールには成功しない。
この男は客の理不尽な要求に堪えかねて逃亡を図った。
しかし青年に捕まり、今に至る。
「領主との会議には僕も同席します。なんとか説得して、リスケしましょう」
「む、無理だ! 何度も納期を延ばして、その上もう一度なんて……」
尚も弱腰な物言いを続ける男。
「……いいから、リスケするんだよ」
「ヒッ!?」
中年男性の顔色はより一層青ざめた。
青年の声が一気に底冷えしたからだ。
「どうせ今のスケジュールじゃ間に合わないんだろ? なら貴方がやれるのはゴネて納期を延ばすことだけなんだよ。できるかじゃない、やるしかないんだよ」
「で、ですが……」
「いいから、リ、ス、ケ?」
「ヒィィィィイッ!!!」
ようやく青年の顔を見た男は、その日一番の情けない悲鳴をあげた。
彼の目は笑っていなかった。
青年の目は──ずっと死んでいた。
──エンジニア、それは貴方の夢を叶えるお仕事。
──エンジニア、それは貴方の夢に振り回されるお仕事。
異世界でもエンジニアは燃え続ける。
これは異世界でも変わらない、人が人である限り存在する、人の業である。
※リスケ…リスケジュールの略。計画を見直して一から組み直すこと。納期に間に合わない時の最終手段。