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おしまい

*子供への暴力表現等有 ご注意ください

 ここには、嫌いなものしかない。


 お酒は嫌い。臭いし、苦いし、お父さんをおかしくする。

 煙草は嫌い。臭いし、汚いし、お父さんをどろどろにする。

 テーブルも、椅子も、天井も、床も、ぜんぶ嫌い。お酒と煙草のにおいが染み付いて、どれもこれもなんだかべたべたしていて気持ち悪い。

 ……お父さんは。

 お父さん、も。

 お酒でおかしくなった、お父さんも、嫌い。




 ごろごろと転がる酒瓶の隙間に倒れたまま、私はぼんやりと、嫌いなものでいっぱいの景色を眺めた。血走った目で私を見下ろすお父さんが、ぶるぶると震える拳を振り上げる。

 がつん。と、衝撃。

 目を瞑って、耐える。がつん、がつん、がつん。

 お酒で力の大部分が入らなくなっていても、大人の男の拳だ、当然痛い。ものすごく痛い。骨は折れてないな、と、どこか冷静に思いながら、顎に力を入れて、耐える。歯を噛み砕かないように、舌を噛みきらないように、それだけに注意して。

 

 「ディアナ」


 聞きなれた名前が聞こえた。

 殴る手を止めたお父さんの、ふーっ、ふーっ、という、獣のように荒い呼吸の隙間から、雨垂れのようにぽつぽつと、絶え間なく降り注ぐ。

 

 「ディアナ……お前は、ディアナ、ディアナだ」

 「……は、い」


 ちかちかする頭と、じんじんする頭に耐えて、辛うじて、それだけを応える。ここで返答できないと余計酷くされる。躾けられた体が乏しい声で答えるのを、理性がどこか遠くで嗤っている。

 いまさら、痛みを忌避してなんになる。


 「そうだ、お前はディアナ、ディアナだ……ディアナ……」

 「……はい」

 「ディアナは、俺を置いてなんかいかない。俺は捨てられてなんかいない。そうだよな?」

 「……はい」

 「そうだ、ディアナ、ディアナは此処にいるんだ……だから俺は悪くない……そうだろう、ディアナ」

 「……はい」

 「どうしてお前はディアナじゃないんだ?」

 

 ごっ、と、硬い音がして、視界がブレた。

 

 「ぐ、ぶえっ」


 喉をせりあがる熱いものを逆らわずにぶちまける。口の中に広がる酸っぱいようなえぐいような味と、炎を打ち込まれたような痛みに、腹を蹴られたことにようやく理解が追いついた。げふっ、げっ、と、どうにかえずく。薄く目を開くと、滲んだ視界の向こうで、呼吸もままならず倒れ付したまま丸まって咳き込む私を見下ろしたお父さんが、きょとんと首をかしげている。


 「どうしてお前はディアナじゃないんだ?ディアナなんだからディアナじゃなきゃだめだろう。ディアナだ。お前はディアナだ。どうして?だから、ディアナだから、そう、ディアナ。ディアナだよ!」

 

 がしゃん!ばりん!がしゃん!

 激しい破砕音が周囲に散らばった。酒瓶でも蹴飛ばしたのだろうか。ああ、また片付けが面倒だな、と、ぼんやりと考える。

 不意に、体が引き起こされる。

 向かい合ったお父さんは泣いていた。

 胃液やら吐瀉物やら鼻水やら、もっと取り返しのつかない何かやら。よくわからない体液や生理的な涙でぐしゃぐしゃの私の顔を覗き込み、自分の顔までくしゃくしゃにして、子供のように泣いていた。

 

 「なんでディアナじゃないんだよぉ……!」


 がっくがっくと揺するのはやめてほしい。はじめの殴打のせいでまだくらくらしているのに追い討ちをかけられて、視界がぐるぐる回りだしてきた。追加の吐き気が酷い。

 眠くもないのに瞼が重い。もしかしてこれ、死ぬのでは。

 ……それもいいかもしれない。正直、疲れた。 

 どうせこの生活が続けばいつかは死ぬ。それが今日この日だっただけだ。この結末なら、納得できる。

 ディアナ、ディアナ、と泣き叫ぶお父さんの声を聞きながら意識を手放そうとした、そのとき。


 「失礼。盛り上がってるとこ悪いけど、お邪魔するよ」


 知らない声がひとつ響いた。

 状況にまるでそぐわない、春の木漏れ日のように穏やかな声だった。道を歩きながら挨拶を交わすそれとなんら変わらない発音。違和感に思わず引き戻された意識の先で、お父さんも目を丸くしている。視線の先には、二人で暮らす小さな家の戸口。

 とっくに降りた夜の帳、その隙間に、黒い人影。

 

 「……誰だ?」


 お父さんの問いは当然のものだった。

 だってここはお父さんの家だ。お父さんがお父さんのお父さんから受け継いた、お父さんが棲んでいて当たり前の場所。確固たる居場所。なのに人影は、「それは俺が聞きたいんだよなぁ。誰だよアンタ」と、堂々とのたまった。


 「は?」

 「うん、それもこっちのセリフ」


 ……意味が、わからない。

 人影は気だるげにも見える足取りで室内に踏み入り、あと三歩もあればお互いに手が届く距離で断ち止まった。止める間もない。というか、私もお父さんも今頭が回らない。片や酒瓶空けて飲み漁り、片やしこたま殴られて意識朦朧。これでまともな受け答えが成立する方がおかしい。

 人影は、近くに来ると思ったより小さかった。肌という肌を見せない服装は、確か、極東にあるという(おう)の国のものだったような。一貫してどこもかしこも黒い、真っ黒な、たぶん、少年。

 すっぽりと全身を覆う黒い布の隙間からは、白い肌と若い輪郭、それから、なぜかへの字に曲がった薄い唇が見えた。

 

 「探して探して探して探して、探し回った挙句がこれとか、舐め腐ってるにも程がある。誰そいつ。何そのザコ。そんで何この状況。何死にかけてんの?何殺されかけてんの?ないわー、ほんっとないわー」

 「何、を、言ってるんだ、お前……」


 やっとまともに体を起こしたお父さんは、未知の訪問者を前に、明らかに困惑していた。どこからどうみても惨状としか呼べない私たちを前にして泰然としている様子から、何かを感じ取ったのかもしれない。

 床に転がり、様子を見ていることしかできない私には、感じ取れない何かを。


 「だーかーらーぁ」

 

 人影が、いっそ無邪気に首をかしげる。


 「アンタ誰?」



 

 ここには、嫌いなものしかない。


 でも、それは仕方のないことだった。納得できることだった。理由のある理不尽。原因が分かりきった挫折。逆らう気にもならない不運の着地点。

 

 お酒は嫌いだ。でも、お父さんは、お酒に頼るしかなかった。

 煙草は嫌いだ。でも、お父さんは、煙草にしか縋れなかった。

 

 臭くて汚くてどろどろしたこの家が、お父さんの、お父さんと私の結論だった。






 その結論に、赤い華が咲く。 






 一瞬だった。

 お父さんの顔が、頭が。首、が。体から落ちて、床に転がったのは。

 

 何が起きたのか分からなかった。

 お父さんもそうだったんだろう。ころりと転がった首からは、苦痛も、恐怖も、驚きもない。困惑がにじむ目元、何かを問おうとして半開きになった唇。自分の身に何が起こったのか、まるで理解していない表情。それが、お父さんの最後の顔になった。

 椅子を巻き込み酒瓶を蹴散らし、鈍く重い振動を響かせて倒れこんだ体が、堰を切ったように吹き出す赤に染まる。

 あらゆる要因で動きたがらない体をのろのろと動かし、床に座り込んだ。

 くらくらする。吐き気がする。視界が滲む。強烈な錆臭さに息が詰まる。

 ……現実感が、ない。悪い夢でも、見ているような。


 「アニス」


 それが自分の名前だと、思い出すまでに数秒。首を動かして其方を見る為に、さらに数秒が必要だった。

 いつの間にか人影が隣に膝をついていた。音も気配もまるでなかった。布越しに目線を合わせたその少年は、みるみるうちに赤く汚れていくお父さんの茶髪を指差して、

 

 「結局誰だったんだ?あれ」

 

 と、首をかしげた。

 ああ、それなら答えられる。

 息がうまくできなくても、状況が理解できなくても、その答えだけは明確だ。


 「おとう、さん」

 「へー。似てないな」

 

 反論はない。する気もないし、実際そうだった。お父さんと私は似ていない。お母さん……「ディアナ」にも、似てあげられなかった(・・・・・・・・・・)

 元からぐちゃぐちゃだった部屋のなかを致命的に汚していくお父さん、だったもの、をぼんやりと眺める。

 お父さんは、死んでいる。

 死んでしまった。

 

 「んじゃ行くか」

 「!?っぎ、あ……!」

 

 体を持ち上げようとしたらしい黒い手に前触れもなく腹を圧迫され、私は激痛に悲鳴をあげた。

 再び床に崩れかけた体をすばやく支えられる。手袋越しに伝わる体温はひんやりと低く、痛みで熱っぽくなった体にはずいぶん冷たかった。たぶん鳥肌が立ってる。

 ひ、ひ、と腹を庇って必死で息をする私を無言で見下ろしていた人影は、深い、それはもうふかーーーーーーーーーーーーいため息をひとつつき、全身を隠していた黒布でしゅるしゅると手際よく私をくるんだ。膝裏に手が差し込まれ、幾分そっと持ち上げられる。今年で十歳になる子供の重さなんて気にも留めない、猫の子でも抱えるような動き。

 ゆらゆらと揺れはじめる。お父さんが遠ざかる。


 どこへ連れて行かれるんだろう。

 殺されるんだろうか。私も。

 だったらここがいい。何もできなかったから、せめて、一緒に死ぬくらいはしてあげたい。


 途切れ途切れに主張する私を抱えて立ち上がった少年、その顔を、私はようやく目にした。

 思ったより若い、幼げな顔立ち。さらりと流れる、夜に溶けこむ黒い髪。暗い穴倉のような緑の瞳。右耳にひとつきりの、金の耳飾り。

 少年は何故かじとりとした半目で私を見下ろし、ただ一言、

 

 「浮気者」

 

 と、言った。

 控え目に言って、意味不明だった。

 





 私たち親子はこうして終わった。

 なのに終われない私を、残酷なほどまぁるい月が見下ろしている。


 何も救わない光。それを最後に、私の意識は途切れた。

 作者はおにロリが書きたいだけです。本当です。

 ただちょっと設定を闇深くする癖があるだけです。

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