7、試験一週間前
何か月か前からずっと、思っていたことがある。
自分はもうほぼほぼ出来上がってしまっている、ということに。正直、伸びしろがまるで感じられなかった。ヒステリシス曲線の右上の先端みたいな感じになっていて、面倒くさいいい方は止めよう。ようするに頭打ちになっている感覚があった。
それでも勉強を続けてきたのは、少しでも学ぼうという向上心というよりは、正直これ以上勉強してもあんまり変わらない気がするけれど、後から振り返ってああ、あの時もっと勉強しておけばよかったなと自分に言い訳をさせないためにやっていた。
時々、過去問や間違えた問題を繰り返し続けることが嫌になって、もういっそのこと早く試験日になってしまえばいいとさえ思っていた。大して伸びないのに苦しいだけなら、結果が変わらないなら、早く楽になりたいと思うこともあった。
ただでさえ今年はオリンピックの所為か試験日が例年より1週間遅い気がしていて、それもどうも嫌だった。
お盆休みが開けて、9月に入った最初の日曜日が試験日。そういう風に慣れてしまっていた。(2回しか受けていないのだが)
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時間はあった。ありすぎる気がした。妙に時間があるというのは逆に落ち着かないもので、やっぱり精神的に不安定になっていった。
ふと思いついて動画投稿サイトに問題を解いている所をアップしてみようと思って、ビデオカメラと三脚を買ってみたのだが、自分のクオリティの低さに愕然として辞めた。
唐突に大して伸びてもいない髪を切りたくなる。少しでも頭部に熱を持たせないようにすべきではないかと思ったのだ。ミニ四駆を穴だらけにする感覚で切りに行った。案外こういう順番待ちの時間に参考書を読んでいると頭に入る気がするし。
たまにこんな空想もした。全裸で外を走り回ったら受けるんじゃないだろうか。安直すぎるだろうか。全裸で笑いが取れるなんて、あまりにも。だがシンプルであるが故の強さもあるだろう。そんな空想だ。2つ断っておきたいことがある。まず自分はこの化け物を空想から一歩も外には出すつもりはないということ。そしてもう一つは欲望の解放として全裸を選んでいるのではないということだ。シンプルに人を笑顔にできたら嬉しいと思ったのだ。だが、相手によってはトラウマを与えかねない危険性も判っている。だから自分は決して実行に移さない、絶対にだ。(何の話だ)
それで、やるだけやったらまた過去問をやるしかなくなった。
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また派遣会社から連絡が入って、今度は4月まで働いたところに戻らないかと言われた。
なんだそりゃ、と思った。いらなくなったら切り捨てて、また人が足りなくなったら呼び戻すって、そんなの酷くないか。人間に対する扱いじゃない、まるで物じゃないか。そんなことを言いたくなったが、このまま無職を続ければ精神が病むのは目に見えていた。舌を噛もうかとも思ったが、結局のところ自分は前いたところに戻るしかなかった。
また新しいところに行って上手くいかないということがとてつもなく怖かった。また役立たずの烙印を押されるのが嫌だった。それくらいなら惨めさを受け入れて、「またよろしくお願いします(お前らが俺を首にしたくせにと思いながら)」と頭を下げて、手になじんだ仕事をする方がいい。
人間に対する扱いなのか、という疑問に目をつむれば決して悪い話ではない。意地を張って辛い道を選ぶのは、今の自分には悪手だ。金と安定のためにまた働かせてもらおう。この際自尊心は放っておこう。仕方ない。
俺は人間じゃなくて派遣社員でただの労働力でしかない。取り換え可能な、便利な。
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自分が金の奴隷のように思える。
金のためなら。
金があれば。
宝くじが当たったらなあ。
条件のいい会社っていうのは結局給料のいい会社だ。
金のことばっかり気にしている。
金があればこんな生活から抜け出せるだろうか。
皆を見返すことができるだろうか。
自分の家が欲しい。もう嫌だ。
考えるのを止めよう。
試験に集中しよう。
他はどうでもいいじゃないか。
今は試験が大事だから。
でも、なんで大事なんだったか?
結局全部、金のためなのかもしれなかった。
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食欲がなくなってきた。余計に眠れなくなってきた。ちょっとしたことで吐きそうになる。去年もこんな兆候があった。自分の弱い精神では耐えきれないのだろう。受かっても落ちても今年で終わりにしよう。いや、受かったらそれでそもそも終わるんだけど。
睡眠導入剤(と同じ成分の入った薬)を飲んでも眠れない。走ってみても妙に目がさえるだけだ。結局毎日4時や5時になるまで寝付けなかった。
歯を磨いているといつも以上に、吐き出しそうになる。それでなくてもふとした時、思い出したように吐きそうになる。
外に出かけようとすると、腹痛が起こる。
早く解放されたいと思っていた。けれど本当にその時が来てしまったら、自分はどんな感想を抱くのか。