昭和35年、アセチレンランプの下に傷痍軍人のいる祭りの風景 小夜物語第96話
それは、、昭和35年ころだったと遠い記憶にあります。
母と一緒に、とある神社のお祭り(例大祭)に行った時のことです。
時間はたしかもう夕方で、神社の参道にはぎっしりと露天商が露店を出していて
アセチレンランプの、あの独特の生臭いにおいが立ち込めていました。
母に手をつながれて参道を人ごみに紛れて進んでゆくと、
イカ焼きや、もんじゃ焼きのいい匂いが鼻を突きましたね。
、
やがて参道も尽き、神社の石段のところでした。
真っ白い衣装、、つまり白衣に身を包んだ二人の中年の男性がそこでアコーディオンを鳴らしていたのです。
よく見ると、一方の男性は片足が義足でしたし片腕も義手でしたね
もう一方の人はハーモニカを哀調込めて吹いていました。
その人は両足が義足で。松葉づえにすがって立っていました。
その曲は多分軍歌だったと記憶していますがもう50年以上の昔なので定かではありません。
私はすごい異様な雰囲気にぎょっとしてまじまじと見つめていました。
凍り付いたように、その場に立ちすくんでしたのです。
彼らの前には募金箱?のようなものが置かれていました
というか、、20センチくらいの空き缶?だったかもしれません。
通り行く人はそれに小銭をチャリンと投げ入れてゆくのです。
すると二人の傷痍軍人は深々と頭を下げるのです。
そう、彼らは傷痍軍人だったのです。
もちろん当時10歳だった私が知るわけもありませんでしたが。
私は知らなかったにしてもその異様な雰囲気に圧倒されてこの人たちはなぜ障碍者になったんだろう?
そしてなぜここで物ごいしてるんだろうと
悲しくつらい気持ちを抑えることができませんでした。
すると通りかかった一人のお爺さんが彼らにこういいました
「帝国軍人として恥ずかしくないのか、見苦しい真似はするな」
と、吐き捨てるように言って立ち去ったのです。
その時、母は私の手を強く引いて
「さあもういいでしょ、行きましょう」といったのです。
母の顔をうかがうととてもいやそうな顔をしていたことが鮮明に記憶に残っています。
その後も毎年お祭りに行くと必ず傷痍軍人がいました。
次第に私も彼らがどういう人なのかわかってきて、
大人たちの話などでおおよそは、理解していったのです。
中には「ああいう人はインチキだよ」という大人もいましたね。
「だって本当に軍人だったなら「恩給」が出てるはずだろ。あんなみじめに物ごいする必要ないはずだろ」
その人はそう言っていました。
何か他の事故で障碍者になり、当時は障害年金制度も不備だったのでこうして
みんなの同情を買いやすい傷痍軍人に成りすまして物ごいしてるというのだ。
私は子供心にも確かにそれは詐欺かもしれないが
でも同情する余地は十分あるな、、と、、思ったものでした。
もちろん中には本当の傷痍軍人もいたそうだ。
そういう人は軍人恩給からも漏れてしまって無恩給で仕方なく
街角で、縁日でお祭りで、物ごいしたようだ。
今ではほとんど
というか全く見かけなくなった傷痍軍人の風景
私の遠い記憶の中では
あのアセチレンランプの生臭いにおいとともに
祭りの夜のあの石段で初めて見たショックと悲しさで
いまも時折ふとよみがえってくるのです。