めぐりめぐって
概ねパチスロに人生を捧げたようなものだった。閉店間際に履歴をチェックし、その店の癖を考慮に入れ、翌日の台を予想する。パチスロには設定があり、高い程払い出し(儲け)は多い。朝は早くから並び、入店と共に駆け出す。店員に注意されようがお構いなし。他人の目が何だというのだ。問題はお目当ての台にいち早くつくことだ。
席についても開店まで数分は余裕がある。軍艦マーチが轟く中、サンドに札をつっこみ、コインを借りる。ジャラジャラと吐きだされるコインに、期待と興奮、それに不安も手伝って心臓は脈打つ。この瞬間はたまらない。まさに生きているのだ。店との真剣勝負、負ければ財布の中はスッカラカン。
「いい時代だったね」
シュウサクさんはいう。
「今と違って店も設定を入れてくれるからね。毎朝並ぶ価値があったよ。高設定をツモれば数千枚なんて軽いもんで万枚、下手すりゃその上も狙えた時代だからね。俺みたいなオジサンには今の若い子が不憫でならないよ」
そういって笑う。
五号機世代の人間からすると何回聞いたか分からない自慢だ。
「確かに今の機械割なんてたかが知れてますよ。だけど、演出は多様で打ってて飽きない。あれはあれで面白いですよ」
「申し訳ないが、あれは不要だよ。確かに初期のころはおっ! なんて思ったが、今じゃ過剰過ぎて五月蠅いだけだし、打っててなんの高揚感もない」
「でも四号機からは液晶が搭載されていて、今のような演出はあったじゃないですか」
「あったよ、でも向こうは洗練されていた」
「じゃあ……好みの問題ですかね。僕の周りでも液晶なんて無い方がいいなんていう奴もいましたよ」
「そうだなあ……あとは考え方の問題か。結局パチスロの楽しみはメダルが吐きだされる瞬間だと考えてるからね」
この調子でシュウサクさんは現行機を否定し続ける。意見の不一致だ。でも僕は腹を立てない。何故ならば、僕らが居るのはギャンブル依存症更生施設の裏庭だからだ。何だかんだ言いつつ、シュウサクさんもパチスロから足を洗えなかったのだ。
「そろそろ戻るか。何て言ったっけ、女の先生は。あんまり時間をかけるとまた何か言われちまうからな」
僕らはミーティングを抜け出して煙草を吸いに来ていた。何故喫煙所ではなくこんな裏庭で吸っているかというと、この手の話を施設の職員に聞かれるとあとあと五月蠅いからだ。
この施設の影響で僕らは携帯灰皿で煙草を消すと(ここに来る前なら僕は躊躇なく煙草は地面に捨てていた)、陰気臭いミーティングに戻っていく。さて、今日はどのように過去の自分をボロカスいってやろうか。パチスロの害悪性はこの前散々言ってしまった。同じことを繰り返してもいいのだが、それだと芸がない。
こんな調子な僕でもギャンブル依存症を克服したいと真剣に願っている。消費者金融に手を出して、にっちもさっちも行かなくなる日々になんて二度と戻りたくはない。僕はマゾではないのだ。
それは多分、隣を歩くシュウサクさんだって同じだと思う。パチスロのことになると生き生きとなるシュウサクさんだが、話していて時折ふっと目を曇らせることがある。そんな時は決まって、下唇をかみしめ、苦虫を噛みつぶした表情をする。シュウサクさんと比べると一回り以上も若い僕だけど、何となくシュウサクさんの気持ちは分かった。過去の辛い出来事が、ふとした時に襲ってくるのだ。
「俺がパチスロを覚えたのは十六の頃だったな」
今日も僕らは裏庭で煙草を吸っていた。こんな事では駄目だと分かっているのだが、ついついこのような流れになってしまう。
「パチスロ打つんで高校をしょっちゅうサボっててさ、今考えるとよく卒業できたなと不思議になるよ」
シュウサクさんは先輩の案内でパチンコ店の扉をくぐったのだという。はじめは千円が数分とかからず溶けて絶句したらしい。
「バイトで稼いだ一時間半分の金がそんな短時間で無くなるんだぜ。こんなもん二度と触るかとおもったよ」
しかし隣では先輩がもう少しだよと言ってくる。付き合いの手前、シュウサクさんは仕方なく追加投資をするとすぐに先輩の様子が変わったという。
「どうやらリーチ目だったらしくてね。なんと当ったんだ」
先輩が夢中で割り込み、呆気にとらわれるシュウサクさんをよそにリールを揃えていく。大喜びする先輩に、シュウサクさんも訳も分からず騒ぎだす。
先輩の指導のもと、あれよあれよと下皿はメダルで埋まっていく。そのうちドル箱に移し替え、結局その日は五万円ほど勝ったという。
「あれが駄目だったね。あそこで財布の中身がスッカラカンになってれば、こんなところに居なくてもよかったのかもな。長い目で見れば、随分と損をしたよ」
その日からシュウサクさんの生活は一転した。今ほどインターネットが普及していなかった時代だ、主に雑誌からの情報が頼りである。暇さえあればその手の雑誌を熟読した。台の情報をあたまに叩きこんだ。
「恥ずかしい話だけどさ、高校生になっても掛け算割り算が怪しかったんだ。パチスロにハマって一つだけ良かったことがあるとすれば、多少は計算が出来るようになったことくらいだな」
学校に居るよりもホールに居る方が長いんじゃないかという生活が始まった。学校へはつねに着替えを持っていき、昼休みには近くのホールの台を確認する。もし良い台があれば、そのまま午後は自主休業とあいなった。
「当時の俺は気づかなかったけど、今考えればパチスロやってた時間で真面目に勉強しておけばよかったね。大学何て俺の頭じゃ無理だろうけど、専門学校なら行けただろ。手に職付けておけばよかった」
覆水盆に返らずとはよく言ったもんだとシュウサクさんは笑う。
全くその通りだ。僕だって台の前に座っていた時間を目の前に提示されたらきっと眩暈がするだろう。その時間で何が出来たのだろう。僕だって勉強して大学行って、それなりの企業に勤められたかもしれない。もしくは女の子と知り合って、付き合って、喧仲直りに熱い夜を過ごして、幸せな家庭でも築けたかもしれない。あるいは千夜一夜の長き夜を使て、いっぱしの作家になれていたかもしれない。どれでもないかもしれないが、少なくともシュウサクさんの言う通りこんな所にはいなかった。
戻るか、というシュウサクさんの声に僕は煙草を消す。ええ、と答え、僕らと同じ悩みを抱えた人間の集いに戻っていく。
財布には必要最低限のお金しか入っていない。免許もカードも実家に置いてきている。自分でも小学生かと悲しくなるが、そんなものが入っていると何をしてしまうか分からないからだ。万が一キャッシングの審査に通ってしまったら、多分僕は借りてしまうだろう。そんなことは二度と繰り返したくない。
母親の車が行ってしまうと、僕は何はともあれ喫煙所に向かう。パチスロと共に覚えた悪癖は、相変わらず治りそうにない。煙草なんて吸わなければ、どれほど金が浮くか分かっているのだが。
しばらくするとシュウサクさんもやってきた。
「今日も早いね」
「やることがありませんからね」
「同感だ、俺らがやる事なんて」
周りに人がいないことを確認すると、シュウサクさんは中指を立てて空想のボタンをテンポよく押す振りをする。僕は笑って首を横にふる。
「そうですが、もう行きませんよ。だからここに居るんですから」
「同感だ」
「今日はなんでしたっけ」
「ゴミ拾いじゃなかったか」
「ボランティアですか」
「金を払ってゴミ拾い、面白いじゃない。メダルなんか借りるよりもよっぽどマシだ」
高校を卒業したシュウサクさんは進学も就職もせず、パチスロで食べていこうと考えていた。
「天井拾うだけでも金になったし、その頃には軍団にも入っていたからね」
軍手をして空き缶を熱心に拾うシュウサクさんはいった。
「固定給はあるし、個人で動けばそれなりの収入もある。人生楽勝じゃんなんて、その時は本気で思っていたよ」
成人式を迎えてもそんな生活は変わらなかった。相変わらずのパチンコ屋通いで大事な青春を消費していったとシュウサクさんはいった。
「信じられるかい? イベントと回転数に追われて青春は過ぎていった」
そのうちパチスロ仲間も一人辞め、二人辞め、中には就職して結婚までする奴も出はじめた。
「あせったね。俺はこんな生活で一向に変わりようがないってのに、周りはどんどん自分の人生を見つけ始めてやんの」
そんなシュウサクさんにも転機が訪れた。
「行きつけのパチンコ屋に行く途中でいつも見る人がいたんだよ。作業服姿で地味でさ、別に可愛くもないんだけど、なんだか無性に心惹かれるものがあったんだ。ついつい車の運転しながら彼女を追ってしまってさ、事故になりそうになったこともあったよ」
その子の入っていく工場もシュウサクさんは知っていた。
「もし合わなければ辞めればいいと思ってたんだ。パチスロ生活にまた戻ればいい。それに目的はその子であって、職場ではない。ま、今考えると完全にストーカーだな」
そんな不純な動機で就職したシュウサクさんだったが、意外と職場にあっていたらしく、単純作業も嫌ではなかった。人間関係もまずまずで、休み時間にはパチスロ話で盛り上がったりした。
「自分でも驚いたね。まさか俺がまともに働くなんて」
しかし問題もあった。一つは給料で、もう一つはどうしてもお目当ての女の子と近づけないことだ。
「給料は百も承知だったけど、彼女に関してはどうもね。そこは男女のグループに分かれていて、なかなか接点だ無いんだ。あまつさえ彼女はオバサンなんかのグループに入っていてね。まだ若い女のグループとだったら時折話したり、何だったら会社帰りに飲みに行ったりしてたんだけど、オバサングループじゃそんな訳にもいかないだろ」
シュウサクさんが観察していたところ、彼女は大人しい子で、自分から出ていくようなタイプではなかった。だからだろう、同年代の子とは馴染めず、オバサングループに入ったのだ。その中でも彼女は大人しくしていた。
「どうやったら近づけるか毎日悩んでいたね。あんなに大好きだったパチスロにも気がつけば一週間も二週間も行かなかったりしたよ」
とりあえず接点を増やそうと車通勤をやめ、自転車で通い始めた。自転車なんて学生以来のっていなかったので、たかだか三十分の距離がシュウサクさんには辛くて仕方がなかった。それこそ十分も漕げば息が上がった。
「その時はもう何年も運動らしい運動をしてなかったからな。煙草だって毎日二箱近く吸っていたし」
それでもシュウサクさんはやめなかった。毎朝信号待ちをしている彼女を見ると全てが帳消しになるほど心が騒いだのだ。
手始めに挨拶から始めることにした。シュウサクさんがおはようと声をかけても、最初はポカンとするだけで、彼女は何も言わなかった。それが小さく挨拶を返してくれるようになり、二言三言言葉を交わすようになり、最後は工場までの短い距離だが世間話をするようになった。
「順風満帆さ」
ある時、シュウサクさんが何気なく彼氏はいるのと聞くと、彼女は顔を真っ赤にして黙ってしまった。それからポツリと、「いないよ……」と答えた。
「いやあ、嬉しかったのなんのって。まだ彼氏になれるなんて決まったわけではないのに、もうその気になってたよ。もちろん態度には出さなかったけどね」
シュウサクさんは一杯になったゴミ袋を回収箱に投げ入れると、うん、と伸びをした。僕もならい伸びをした。
時間も丁度終わりだったので、代わりの袋を貰わずゴミばさみを返却すると、喫煙所に向かった。全員が返ってくるまで時間がある。僕らには煙草を吸うくらいしかやることがない。
「こんな話を聞いてて楽しいかい?」
誰もいない喫煙所で、シュウサクさんはプーと煙を吐きだすと言った。
「面白いですよ」
「本当か?」
「ええ」
嘘ではなかった。こうやってシュウサクさんの話を聞くことが、今の僕にはカウンセリングの一つになっているように感じられていた。僕には恋愛すらなかったのだ。他人のそれでも聞いているとなんだか微笑ましくなってくる。
「ならよかった」
そう言ってシュウサクさんは笑った。
当たり前の話だが、施設に入ったからといってギャンブル依存症を克服できるわけではない。今日も僕は、誘蛾灯に誘われる蛾のようにパチンコ屋に入っていた。店内に流れる激しい音楽やメダルや玉の吐きだされるジャラジャラという音、ぴかぴか光る台に僕の心は踊る。
履歴をチェックし台に座る。ポケットから母親の財布から抜いてきたクチャクチャになった一万円を伸ばすと、サンドに入れた。コインを借りると、さっそく打ち始める。テンポよくボタンを押して、当たりを待つ。
さっそく来た! 吐きだされるメダルに、僕の脳はとろける。
家に帰ると、居間で母親は泣いていた。今更怒っても仕方がないと諦めているのか、父親は黙ったままお茶を飲むだけで何も言わない。
僕のポケットはスッカラカンで、ただ母親の財布から一万円が亡くなっただけだ。おっと、無くなっただった。しかしこの場の空気から亡くなったでも間違いではなかろう。まさにお通夜状態だ。
「そういう時ってたまらないよな」
先日起こったことをシュウサクさんに話すと苦笑いされて言われた。
「はっきり罵ってくれればこちらにもやりようがあるんだがな。心の置き場所があるっていうかさ。俺も別れた妻に何度そういう泣かれ方をしたか分からないよ。こちらにはやりようが無くてな。ただただ宙ぶらりんで、心が痛むだけでさ。無理に大きな声を出してみても、空しいだけだし」
「ええ。僕も何をしたらいいのかわからなくて、すぐに部屋へ逃げ込みましたよ」
「嫌なもんだ」
「今日だってまだ機嫌を直してくれません。車の中の空気が重い事。こうなると分かってて、どうして行っちゃうんでしょうね」
「それが分かれば俺もこんなところに居ないよ」
「無性に打ちたくなっちゃうんですよ。タンタンタンて」
僕は架空のボタンを押す。架空のリールは止まって、汚い出目を残す。
「脳内物質がウンチャラカンチャラ」
「本当にそうなんでしょうか」
「名前は知らんがお偉いセンセイが言ってんだから本当なんだろう」
「何とかならないかな……」
「甘えるな、気を強く持て。……なんて人は言うけど、それが出来ないから困ってるだよな。しかしこれも甘えかな」
「……そうかもしれませんね」
「ま、元気出せ。俺だってしょっちゅう打ちたいと思ってんだからさ。次だ次!」
シュウサクさんはそう言って僕の肩に手を置いた。
雨が降っていた。午後から降り出したわか雨は、雨脚を緩めていまだに続いていた。何時もの裏庭は使えそうになかったので、今日は施設の端にある階段に並んで腰を下ろしていた。シュウサクさんは両手に顎をのせ、窓の外をみていた。
「しっかし、よく降るな」
シュウサクさんは言った。
「こんなに長時間煙草を吸わないのは久しぶりですよ」
「俺もだ。でも、こんな日はあいつとの初デートを思い出すよ」
「この前の続きですか。聞かせてくださいよ」
シュウサクさんと彼女の関係は少しずつだが確実に縮まっていった。示し合わせたわけではないが、いつの間にか二人で昼食を取るようになっていた。
いい頃合いだろうと見たシュウサクさんは、思い切ってデートに誘うことにした。お昼時にそれとなく誘うと、彼女は顔を真っ赤にして黙ってしまった。
まだ早かったかな、などと後悔していると「いいよ」と彼女は言った。その三文字がシュウサクさんには信じられなくて、思わず確認をしてしまった。縮こまって同じ言葉を繰り返す彼女。シュウサクさんは舞い上がってしまった。周りの奇異な目に気づくと、ハッとしてすぐに謝った。
「中学生に戻ったみたいだったね。たかだかデートにOKしてもらったくらいで嬉しくてたまらなかった」
人込みは苦手だろうと踏んだシュウサクさんはデート場所を公園にした。どうやら読みが当たったらしく、工場では見せたことのない表情を見せシュウサクさんの心をくすぐる彼女。
「普段の俺だったらそこまで気遣いはしなかいよ。適当にぶらぶらして、酒でも飲んで、ホテルにしけこんでお終い」
こんな健全なデートは何時ぶりだろう。柔らかい日差しの中、そよ風に吹かれて公園内をプラプラ。お昼には楽しみだった彼女お手製の弁当を食べ、膝枕をしてもらいたいなという欲望を抑え、おしゃべりに花を咲かせる。
「いやぁー楽しかったね。俺にもこんな感性が残っているのかと感動したよ。五月蠅いパチンコ屋以外でもリラックスできるんだから」
広い公園だった。昼食の後も二人は気ままに歩く。そのうち風が強くななってきたのに気が付いた。見上げると雲は速く、通り雨の予感だ。
「そう思った時にはぽつぽつ来やがってさ。慌てて近くの休憩所に逃げ込んだよ」
雨はすぐに本降りとなり、狭い休憩所に吹き込んできた。二人は出来るだけ雨粒の当たらない角に身を寄せた。これ以上彼女が濡れないようシュウサクさんはレジャーシートを羽織るように広げて持った。
雨はなかなかやまない。二人は黙ったまま雨音に耳を澄ませる。
こうしていると、シュウサクさんには彼女の息遣いや、鼓動や、香りなどが手に取るように分かって息をのむ。できればレジャーシートなんて放り出して、彼女を抱きしめたかったが、グッと我慢した。そういう彼女ではないのだ。それにこうして彼女の近くにいるだけでも幸せを感じられるものだ。
シュウサクさんがふと気づくと、彼女は両手を組んで何やら呟いていた。どうしたんだい、と聞くと、彼女はハッとして顔を上げた。何でもないのという彼女に、シュウサクさんは隠し事は無しだぜ、なんて気取っていってみる。
「そしたら慌てちゃってさ、いけない物に触れちゃったのかと焦た。それか俺とこうしているのが嫌なのかななんてね。変な汗をかいちゃったよ」
気まずい空気の中、変に思われるかもしれないけど、と彼女は言った。それは小さな頃から癖になっているおまじないだという。両手を握って、出すか出さないかの小さな声で願いを呟く。そうするとそれが叶うのだという。
「もちろん毎回当たるわけじゃないけど、当たってくれることもあるらしい。だからついつい何かがあるとやっちゃうんだと。彼女なりのジンクスだな。俺たちがハマってる最中に変わった仕方でレバーを叩くようなもんだな」
そこで変に勘繰りをするシュウサクさんではない。「だったら、願いが叶って早くやんでくれればいいな」と笑った。
しかし惜しくもお願いはハズレたようだった。雨は好きなだけ降って通り過ぎていった。今では西日が公園を照らし、影が長く伸びていた。そんな影にならってシュウサクさんもうん、と伸びをした。同じ格好でいたので、体が痛い。彼女は花の上にのった雫を指で弾いて遊んでいた。そんな彼女を横目に、シュウサクさんは煙草をふかした。
帰り道、シュウサクさんが願い事はハズレちゃったなとお道化て言うと、ううんと彼女は首を横に振った。
「ああして、少しでも一緒に居たかったから……なんて言われたたら止まるものも止まらないよ」
シュウサクさんは彼女を抱きしめた。最初こそは固くこわばっていた身体も、そのうち力が抜けていき、彼女はうるんだ瞳を上げた。好きだ、と言うと、彼女は私も、と呟いた。彼女の眼は閉じられ、シュウサクさんは迷わず彼女の唇に触れた。
「そんなこんながあいつとの初デートだ。どうだ、オッサンののろけ話は」
「面白いですよ、シュウサクさんにもそんな過去があったんだなと思って」
「どういう意味だよ」
「人に歴史ありっていうでしょ」
「何が何だか……まあいいや。たまにはお前の話でも聞かせろよ」
「聞かせられるものが無いんですよ。毎日職場とパチンコ屋の往復でしたから」
「学生時代に一つや二つあるだろ」
「無いですね。小中とモテなかったし、高校にいたっては男子校だったし、大学時代なんてそれこそ悲惨ですよ。みんながみんな酒飲んで騒いでいるわけじゃないんですよ」
「おぉう……聞いて悪かった」
「いいえ」
本当は一つだけあるのだが、それも情けないエピソードで、シュウサクさんのようなロマンスの一欠けらもない。そんなものはやっぱり聞きたくないものだろう。僕だって話したくない。人から聞くだけ聞いといて身勝手な話なのかもしれないが。
「雨はやまないし、そろそろ戻るか。ちょうどイシグロさんあたりが涙ながらに懺悔しているところだろう。俺らも彼に習おう」
シュウサクさんは腰を上げてうん、と伸びをした。
消費者金融から借りていた分は親が肩代わりしてくれた。首が回らなくなり僕は親に泣きついたのだ。母親には泣かれ、父親にはこれでもかと怒鳴られた。職場は色々あって首になっていたので、アパートは有無を言わさず解約され、貯金もなかった僕は実家に連れ戻された。勘当されなかっただけ有難い話だ。
それからこの施設に通うようになった。少しずつだがギャンブルから遠ざかっているのは事実だ。しかし気を抜くとこの前のようなことを起こしてしまう。急に当たった時の興奮が脳裏に甦り、いてもたってもいられなくなるのだ。
当初はスマホのアプリで我慢をしていたのだが、やはりお金が掛かっていないと満足できない。あのやり取りが堪らないのだ。
今日も今日とて僕はパチンコ屋の前に居る。しかしこの前のようなヘマは踏まない。毎日親の財布から少しずつ抜いていき、溜まった金額(たかが知れてるが)が出来たのでやってきた。
いざ出陣と自動ドアが開くと同時にシュウサクさんとぶつかった。シュウサクさんは僕を見るとバツが悪そうに「よう」といった。
示し合わせたわけではないが、僕らは近くの公園に移動した。平日の公園に人影はなく静かだった。
僕はシュウサクさんが買ってくれた缶コーヒーを啜った。暖かさとほろ苦さが口の中に広がった。
「勘違いされちゃ困るが、俺は打っていない」
「ええ」
「便所をかりるついでにブラっとしていただけだ」
「ええ」
僕が黙っていると、シュウサクさんは煙草に火をつけ一息吸うと、ため息とともに頭をかいた。
「……すまん、嘘をついた。本当は打っちまったよ、そんな大した額ではないが……変わらなくなくちゃいけないのにな。俺だって分かってるんだ。それなのに暇が出来るとパチンコ屋に居てさ。このままだと、また借金生活に逆戻りだ。まるで同じところにぐるぐる回っているようだよ」
「僕も……」僕はためらったが、やっぱりいう事にした。「同じです。また親の金を盗んで来ちゃいました……」
「お互い碌なもんじゃないな」
二人してひとしきり笑ったあと、どちらかともなくため息をついた。
僕は泣きたくて仕方がなかった。大声を上げて、泣き散らせば、どんなに心の重荷がとれるか。だけど何故だか分からないが涙は出そうになかった。
「あの、いいですか」
「なんだ」
「この前の続き、聞かせてください」
「この前って、あのデートあとか?」
「ええ」
「どうもこうのないよ。結婚して、俺のギャンブル熱がぶり返して、借金漬けになって、離婚。それだけだよ」
「それでも、お願いします」
「だってつまらな……いいよ。話してやるよ」
シュウサクさんとミユキさん(彼女の名前だ)は順調に交際を続け、晴れて夫婦となった。
「出発は狭いアパートからだよ。プライベートなんかなかった。だけど、新婚の俺達にはそれでよかったんだ。毎朝顔を合わせるだけで幸せになれたからね」
ミユキさんは仕事をやめず、依然同じ工場で働いた。二人は周りにひやかされながらしばらく日々を送ることになる。
シュウサクさんは頑張った。苦手な勉強にも手を出し、資格をとり、少しでも生活の足しになるよう努力した。
二年後には子供が生まれた。
「知ってるかい。子供が生まれる前ってさ、どうしようもなく怖いんだ。考えてもみろよ、人一人の人生が俺の肩に乗るんだぜ? すでに嫁がいるってのに、さらに追加だ。潰れちまうんじゃないかと思って不安なんだよ。でも、日々お腹の膨らんでくる嫁にそんな泣き言いえない。男は辛いね」
しかしそんな杞憂も、生まれてみればどこかにいった。決して無くなったわけではないのだが(現に嫁と子供は目の前に居る)、それ以上に子供が可愛くて仕方がない。シュウサクさんは暇さえあればあやし、あげる笑い声に頬もほころんだ。
「不思議なんだよ。おれのどこにそんな母性が眠っていたのか分からないが、子供に対する愛が溢れてくるんだ。きっとあれは野生の本能だな」
三十代をまわる頃、シュウサクさんはリーダーになった。
「誰かに認められるのは素直に嬉しい。嫁と一緒に喜んだよ。それに給料も上がるからね。子供もこれからお金がかかる時期になるし、蓄えは多いに越したことはない」
そんなシュウサクさんの喜びも長くは続かなかった。やらなければならない仕事が増え、いつでも責任がついてまわった。
「どんなに見張っても馬鹿なことを仕出かす奴は出てくるし、それで事故でもあれば俺の責任だ」
ギャンブル熱がぶり返したのはその頃からだったという。
それまでは空いた時間に一、二時間程度やるくらいだたっが、休日は朝から並びだし、使う額も日に日に増えていった。
「俺だってそんな打ち方してれば勝てないなんて分かってるんだ。伊達に四号機時代を過ごしたわけじゃない。だけど止まらないんだ。イライラしながら、それでも打っちゃうんだ」
何時からだろうか、貯金にも手を付け始めた。十年以上夫婦そろって蓄えてきた努力の結晶がみるみる減っていく。彼女も気づいていたのだろう。しかし何も言ってこなかった。いや、言えなかった、というのが正しいのだろう。今どき珍しく三歩後ろを歩くような女性だった。シュウサクさんはそれを良いことに散財した。
「それも限界がきたんだろうな。いつものようにパチンコ屋から家に帰ると誰もいない家でミユキが声もたてずに泣いていた。子供はどっかに遊びにいっていた。俺は気づかない振りをして、テレビを見ていたよ」
消費者金融にも手を出し始めた。当然返せるあてもなく、借金はみるみる膨らむ。
ある時、シュウサクさんが仕事から帰ると居間に彼女の両親と兄がいた。彼女と子供の姿は無かった。義兄はシュウサクさんを見るなり物凄い剣幕で怒鳴りつけた。
「いきなり来られたんでね。こちらも驚いたよ。お義父さんがとりなしてくれなければ横っ面くらい張られてたろうな」
単刀直入に彼女とは別れてくれと言われた。子供もこちらが引き取ると。その代わり借金はこちらが肩代わりする。
シュウサクさんは上の空でそれを聞いている。自分自身の出来事には思えなかった。まるで自分の背後からこの場を眺めているようで、ふとすると目の前にいる人たちが何を喋っているのか分からないほどだ。
義父の淡々とした物言いと、瞳に激怒を漂わせる義兄と、こちらを見ようともしない義母。そんな中で、ふと、俺は妻や子供を愛しているとシュウサクさんは思った。それには疑いが無かった。だけど、もう一緒にいられないのだ。自分がふがいないばかりに。
「飲むしかないじゃないか。俺のせいであいつらが苦しんでいる、それでこの人たちは俺の愛する人間を助けてにきてくれた救世主だ」
別れ際、彼女は初デートの時のように両手を組んで何やら呟いた。シュウサクさんは見て見ぬふりをし、何を願ったのか聞かなかった。
「話はこれでお終い。そのあと俺は施設に入ったり出たりして、今に至る。借金をすることはなくなったけど、相変わらずの生活だ」
シュウサクさんそう言い終わると、寂しそうに笑った。自分に向けられたものなのか、れとも僕に向けられたものなのか、僕には判断できなかった。
公園は相変わらずしんしている。散歩の人間ひとり通らない。時折、雀か鳩がやってきてかき回したが、それもすぐにいなくなった。
僕は礼をいい、うつむいた。両手に握った缶コーヒーはとっくに冷めている。泣ければいいのにな、とまた思った。その涙が誰に向けられた物なのか分からない。僕に分かるものなんて、この世にないのかもしれない。
シュウサクさんは僕の肩に手を回し抱き寄せた。煙草とオジサンの臭いが鼻についた。それでも嫌ではなかった。これほどシュウサクさんが身近に感じられたことはなかったのだ。
それは、慰めてもらったからなのかもしれない。それは、傷を舐め合ったからなのかもしれない。僕には分からない。ただ、こうしていると安心した。
僕はこのまま帰ろうと思った。両親に謝り、お金を返そう。そして、また同じことを売り返すだろう。それがどこに辿りつくのか僕には分からない。だけど、今の僕にはそうするしかないのだ。繰り返すたびに僕は進み、より良き場所にいる、今はそう信じるしかなさそうだ。
シュウサクさんに抱かれながら、僕はそう思った。
シュウサクさんとの別れは唐突にやってきた。仕事の都合で県外へ引っ越すことになったのだ。施設も近いところに変えるという。
最後のミーティングが終わり、僕とシュウサクさんは喫煙所にいた。言葉は少なかった。別れの挨拶はもう済み、僕にはそれ以上何を話していいのか分からなかった。言いたい事は沢山あるのに、言葉がでてこないのだ。
「お、きたな」
シュウサクさんが入口に向けて手を振る。見ると、シュウサクさんと同年配と思われる女性が小走りにやってくるところだった。
「紹介するよ、ミユキだ」
シュウサクさんの元嫁であるミユキさんは僕にちょこんと頭を下げた。
「主人がお世話になりました」
ミユキさんはおっとりとした声で言った。たれ目の大人しそうな人だった。
「おい、俺はお前の……まあいいや」
この日のシュウサクさんは息子さんとの面会日で、ここの職員と顔なじみであるミユキさんはついでに一言挨拶したいと息子と一緒にやってきたらしい。
二人の様子を見ていると、とても別れた夫婦には見えなかった。それほど仲がいいのだ。
「じゃあ、世話になったな」
シュウサクさんが手を差し出した。こちらこそと握手をすると、シュウサクさんは「頑張れよ」と言った。はい、と僕は言い見送る。二人の背中を見ていると、ふとシュウサクさんの言っていたミユキさんのおまじないを思い出した。
僕は呼び止め、ミユキさんに僕のことを祈ってくれるようお願いした。
きょとんとするミユキさんに、シュウサクさんはいった。
「わるい、俺が前にいったんだ。あまえのおまじないは当たるって」
「もう、恥ずかしいじゃないですか。子供じゃないんだから」
ミユキさんはシュウサクさんの肩を叩いて、本当に恥ずかしそうに笑う。
「そんな大それたものじゃないんですよ。当たらないことの方が多いし」
それでも何とかとお願いすると、ミユキさんは両手を組んで下を向き僕のために祈ってくれた。
「ありがとうございました。これできっと上手くいきます」
「私もそうなることを祈っています」
今度こそ本当にお別れだ。事務所の方へ廊下を曲がり、二人の姿が見えなくなると、僕は頭を下げた。そして声に出して感謝をした。