その7
山崎正義は正義感の強い人物だった。父親は警察官の中でもキャリア組のエリート。母親は京都で四代続く老舗の着物問屋のご令嬢だ。生まれて物心ついた時から父親には法律に背かないことを徹底的に教えられ、母親からは礼儀作法をしっかりと教わった。彼が県内一の高校に進学したことは家族にとっては当たり前のことであり、合格した時でさえ誰一人「おめでとう」と言ってくれる人は家族にはいなかった。けれど、正義の心がそこでひねくれることは無かった。彼には期待に応えられるだけの能力があったし、そのことに不安や心配など持って無かったからだ。
だから、自分がいずれ父親と同じ道を歩むことに迷いは無かった。同級生の中でも、成績優秀で品行方正、加えて眉目秀麗で裕福とくれば一目も二目も置かれるのは当然だ。小学生の高学年で初めての彼女も出来たし、中学校を卒業するときには同級生から下級生、果ては去年卒業したはずの先輩まで駆けつけてくれたりした。
自分は恵まれている。そう自覚するのは当然の結果だろう。しかし、高校に入学してこれまで一番だと自負していた学力で負けてしまったことは相当にショックだった。地域の塾でもトップであり、入学までは負け知らずだったのだ。
「新入生総代 牧島聖歌。前へ」
正義はその言葉を聞いて鳥肌が立った。初めは外国人が入学したのだと思った。だってそうだろう、そんな名前はあるはずがないだろう。あったとしても、ここでは無いだろう。この学校ではあり得ないだろう、と。
一瞬の間の後、入学式会場はざわついた。その時はあまりのことで、全員が戸惑いという中でのざわつきだった。何かの間違いに違いない、その場にいるほとんど全員がそう思った。
「?…………ん? 新入生総代 牧島聖歌いないのか!」
進行役の先生がちょっと困っている。伝統あるこの学校での総代はとても名誉なことなのだ。まさか出席していないなどあり得ない。普通は。
「…………え? いない? バカな、そんなこと、あるはずないだろう! 入学式の総代だぞ!」
だから、普通しか想定していない彼らに、彼女の行動を予測できるはずはなかった。
実際のところ、当時の彼女はそのとき自分の母親と一緒に中庭の木を見ていた。一度は普通に体育館まで入ったものの、どうやら珍しい鳥がとまっていたようで、どういうわけかゆっくりと眺めていたらしい。その後、体育館に戻ってきたものの、かなり遅れて受付に行ったため受付の担当者が余計な気をきかせてしまった。
「今から体育館に入るにはちょっとタイミングが悪いので、先に教室をご案内しますね」
牧島親子は特に入学式に興味が無いことで一致していたので、すんなりその通りに従った。
かくして、歴史ある高校の新入生総代がぶっちするという前代未聞の事件が起こり、聖歌の代打として正義が急遽挨拶をする形となった。正義は無難にその挨拶を終え、教員の全員が彼は素晴らしい生徒だと言い合った。ただ、当の本人は屈辱に塗れていたのでそれどころではない。
無論、新入生総代が自分では無かったことは最初から知っている。何故なら、事前告知が無かったからだ。もっと言えば、入学成績が次点だったことは父親経由の情報で確認していた。
そんな思いの詰まった入学生総代を、そこらに転がってる石ころの様に扱いって、さらにそれを拾わされた。もはやそれは、屈辱以外の何物でも無かった。
はらわたが煮えくり返る思いで、正義は教室に向かう。誰かの声で例の総代が先に教室に入っているという情報がひそひそと回ってきていたのだ。会って一言文句を言ってやらなければならない。そうでないと自分がおかしくなりそうで仕方がなかった。
ガラリ
努めて冷静に教室の扉を開ける。誰が気をきかせたのか、最初に扉を開けたのは正義だった。
「あれ、こんにちは。新入生?」
「…………っ!」
窓から入る光と風が、聖歌を凪ぐ。十人が見れば十人が見惚れる風景だろう。長く黒く艶やかな髪が舞う。一瞬だが、確実に時が止まったことを感じる。
正義はそこで一生の不覚をとった。
人生で初めての一目惚れというやつをしてしまったのだ。
そんな正義は現在、必死で逃げまわっていた。相手は二人で武器を所持している。正義の計画では、少しビビらせればそこで退散するような連中だと高を括っていたのだ。身長も体格も自分の方が優れている。誰がどう見ても、すごすごと引き下がっていくはずだった。
「おい、まてやテメエ!」
「ぬっ殺してやんぜ! ヒャッハー!」
通行人の視線もお構い無しで、若者二人が正義を追いかける。手にはラケットとバットを持っている。ラケットとはいってもグラスホッケーで使うようなあれだ。どう見ても殴ることに特化しているとしか思えない形状をしている。金属バットは言うまでも無い。
「くそっ! くそっ! くそっ!」
しくじったのは確実だった。どうも最近上手くいかない、高校に入学してからずっとその気持ちが消えない。空回りをし続けているような感覚がいつも纏わりついて離れない。
「くそっ! くそっ! くそっ!」
高校に入ってから、部活はきっぱりと辞めた。中学生時代はサッカー部のキャプテンであり、体力にはもちろん自信があった。けれど、ここ二年近くの影響で体力が目に見えて落ちていた。もはや見る影もない。
「もうすぐ追いつくぜぇ!」
「まずは全裸土下座でキャンプファイヤーな!」
キャンプファイヤーが何を指した隠語なのか想像もしたくない。正義の顔が歪む。
その時、神からの啓示が降りてきた。
「おい、正義! こっち!」
聞き覚えのある声だ、上を見る。あの子の親友が見下ろしていた。
「ここまで上がって来な!」
藁にも縋る思い。そんなことすら考える余裕もなく、正義は建物の階段を駆け上がる。足はもうがくがくと震えている。それが恐怖なのか安堵なのか、ただの疲労による生理現象なのかもわからない。
無我夢中でドアを強引に開ける。そのままなだれ込むようにして身体を中にねじ込んだ。
一瞬にして、喧騒が過ぎ去った。正義の呼吸は依然として荒いままだが、床にへたり込む正義に声を掛ける人物がいた。決まっている、あの子の親友であるあの女だ。
「おい、大丈夫か正義? 水飲む? 有料だけど」
「……頼む」
何故かそのあしらいの冷たさが心地よかった。
正義は先ほどの二人が飛び込んで来たらどうしようと身構えていたが、一向にその気配が無い。十分か十五分か、いやもっと経っただろうか。正義はようやく、安堵の溜息を吐いた。
「相変わらずバカなことしてんのね」
「……流石に反論のしようがないな」
ずっと玄関に座っているのもあれなので、まーはさっさと中に入るように促す。
「ちょっと片づけておくから、奥の部屋いって。ここ玄関だから、邪魔だわ」
正義は疲れ切った足を奮い立たせ、玄関から中に入る。
「……えっと、ここってあれだよな。あの時は閉まっていたお店?」
正義はまーを背中に感じながら、恐る恐るといった調子で奥へと進んでいく。
「そうだよ、NBCってお店。言っとくけど、健全なゲームバーだからね。会員制の」
「……ゲームバー?」
正義は辺りをキョロキョロと見回す。挙動不審に拍車がかかっていた。
「おい、まー。誰か連れて来たのか?」
部屋の奥の厨房から大入道こと元木が現れた。元木と正義の目が合う。
「……っ! は、始めまして、山崎正義と申します。急にお邪魔してしまうことになり申し訳ございませんが、何卒よろしくお願い申し上げます!」
その調子に面食らい、元木は変な表情をしたまま、すごすごと厨房へ戻っていった。正義はホッとして胸を撫で下ろした。
「おい、正義、水の代金建て替えしといたから。後で一万円な」
「ちょっとまて、それのどこが健全なゲームバーの代金なんだよ」
「あんた会員じゃないもん」
「いや、お前は会員だろうが!」
「…………はい、ダウト三つめ」
「え…………?」
「みんな、入ってきていいよ~」
その声で、玄関が開く。入っていたのは先ほどの男二人とその男に絡まれていたはずの女の子だ。正義は目を見開く。三人がわいきゃい言いながら楽しそうに入ってくるのだ。
「俺の演技すごくね?」と、慈樹琉。右肩にラケットをしょっている。
「いや、俺のヒャッハーのくだり迫真だったろ?」と、覇威弩。左肩に金属バット。
「もうすっごく恥ずかしかった。二度としないから」と、玖麗羅。うつむき加減で顔が真っ赤だ。
まーがにやにやしながら種明かしをする。
「日給三千円で雇った劇団員のみなさんです。とりあえずの劇団名は『劇団寸劇』ってことかな」
「どうもっす、サイコさん。俺、寸劇太郎」と、慈樹琉。
「同じく、寸劇次郎」と、覇威弩。
「…………いや、いうわけないでしょ」と、玖麗羅こと寸劇花子。
「ちなみに原資はあんたの財布の一万円」
「……じゃ、じゃあ、あの強引なナンパは?」
「初回公演。寸劇『もしも正義が街中で絡まれている女子を見かけたらどうするのか?』」
結果、目論み通り正義感丸出しで仲裁に入り、反対に追い立てられる羽目になったというわけだ。
「…………一体、どうしてそんな?」
「あんたの嘘を暴くため」
「…………嘘って、何がだよ」
まーが指折り数えていく。
「まず一つ目、あんたはあたしより先にNBCの存在を知っている。二つ目、あんたはあの子がNBCの会員だったことを知っている。三つ目、あんたはあの子の最期を知っている」
正義の身体が震え出す。先ほどの震えとは全く種類の異なるものだ。
「あの子が飛び降りた時、あんたが傍に居たんでしょ」
淡々と説明をするまーの瞳に映る正義はいままで誰にも見せたことのない表情をしている。