その1
大路大橋は十年以上も前に大規模工事で建て替えることが決まった人工橋だ。地元で有名なその橋は、長い時間をかけて建設した直後、建設を主導していた大路建設の不正が発覚し橋そのものの存在意義が消滅してしまったいわく付きの橋梁だった。
大路建設の不正は、建築偽装・不正献金・脱税疑惑のトリプルコンボで、ついには会長と社長の乱痴気騒ぎの証拠VTRがトドメとなり受注の激減、社員の大量退職、役員全員の事情聴取の結果として会社自体を解体せざるを得なくなった。
橋が完成したのだから問題ないと言った市議会議員もいたが、その橋を主に使うはずだった大路建設本社とその関連会社が機能しなくなり、市街地と大路建設本社を繋ぐそれは無用の長物となってしまった。
そんな橋の真ん中でぼやっとしている人影がある。人影の隣には花束とジュースとお菓子が置いていた。花束はいわゆる献花だ。
ポリポリとお菓子を食べながら、人影は下を見つめる。遠くて高いが、吸い込まれそうなほどの魔力は感じない、ただの川だった。汚くて底が見えない、どこにでもある日本の川だ。
「……ん、そろそろか」
人影は市街地へと足を向けた。
もうすぐ、あの子の通夜が始まるからだ。
葬儀場では同じ制服に身を包んだ同年代の若者が集まり出す。強制ではなく任意での参加だが、高校生にもなってそんな上っ面な話を真に受ける人間がいるはずもなく、同じクラスの全員が集まっていた。悲壮感は無く、ぼそぼそと話す声が少し聞こえる。聞こえてくる内容はほとんど同じようなもので、全員の会話内容を一言でまとめて言えばこうなる。
《受験前に無駄な時間を取らせやがって》
今日弔われるのは同じクラスの女子生徒だった。言動に少々、いやかなりの問題があったことは事実だ。そのためクラス、というよりも学校で完全に浮いていた。また、その女子生徒の親も大概ぶっ飛んでいたので、教師を含め誰もまともに相手をしなかった。
ただ唯一、その女子生徒と交友する羽目になった同級生が一人だけいた。
「まーちゃん。来てくれたのね」
「どうも、聖子さん」
まーと呼ばれた女生徒が軽く会釈すると、声を掛けてきた女性がいきなり泣きだす。女性の正体は喪主である牧島聖子だった。名前の読み方は珍しく、聖子と書いてショウコと読む。何度かその呼び方を間違えてしまったらしく、葬式を取り仕切っている業者が聖子にえげつなく責められているところで、まーが会場に入ってきたのだ。すると聖子の興味はまーに移行したようで、先ほどのえらい剣幕はなりをひそめた。そして、まーに対して一方的に、今の自分の悲しみがどれほど深いかを懇々と説明し始める。
業者はその変わり様に呆れ、傍目でも分かるほど侮蔑の表情を見せている。これほどまでに誰にも歓迎されない葬式というのも、中々お目にかかれないだろう。まーと呼ばれた少女が慣れた様子で聖子に対応していると、そろそろセレモニーが始まるというアナウンスがあり、喪主である聖子を宥めて所定の場所へと誘導した。聖子にとって、他の人間の決めたルールに従って動くことは苦痛らしく、まーはそれを上手く逸らせながら聖子に気持ちを切り替えさせた。
そんなまーを奇異の眼で見る同級生はいても、感心する生徒は一人もいなかった。まーはいつもの既視感を感じながら、無難に仕事をこなす。
担任の作法に合わせ、同級生が名簿順に次々と焼香をしていく。思っていた通りだが、こういうところでふざけたりすることは無い。県下一の進学校であり、トップ層は東大に進学するレベルの高校だったので同級生の自意識も結構高い。まーの成績は真ん中より下だったが、それでも私学一流を狙える位置にはいた。焼香を終え、喪主の挨拶が始まる。そして、同級生に緊張が走った。
『今日は、皆さん、お集まりいただきまして、本当に、ありがとうございます』
聖子が途切れ途切れになりながら、言葉を絞り出す。過程がどうあれ、聖子の中でセレモニーとしては感動する内容だったらしい。その流れで、覚悟を決めた同級生が最後の悪あがきで下を向く。
『きっと、きっと…聖歌も天国で感謝しています』
牧島聖歌 享年 16才の秋
我慢比べの始まりだった。全員が猛烈に湧き上がる笑いを堪える事に必死だった。後の話など耳にも入らない。大体、チャペルは教会だろ、何でがっつり浄土宗の様式でやってんだよ、名前との振れ幅抑えろよ、と全員が心の中でツッコミまくる。
女子はほぼ全員が口元を抑えて、噴き出すのを我慢していた。嗚咽を漏らすのを抑える要領と同じなので実情はバレにくい。
男子は各々のやり方で我慢を続けていた。大体が俯いて身をよじっている。来ることがわかっていてもなお笑ってしまうあの子の名前は、相変わらず凄い破壊力だとまーは素直に感心した。
全員の我慢比べを横目に、まーは担任をちらりと見る。その手は口元を覆っており、微かに震えている。なるほど、生徒連中とは違い自然体で実に良い演技をしている。大人の演技力とはこういう形で養われるのだろうと、まーはじっくり観察していた。
『……皆さま、ありがとうございました。私は今日のこの日を忘れることは、決してないでしょう』
知らないうちに、聖子のスピーチが佳境を迎えていた。もっとも、聖子自身にとっての佳境であり業者はもちろん、生徒も参列者も興味は失せていた。まーも例外ではない。
ただ、そうすんなりと終わらせてくれないのも牧島聖子の才能だった。
『最後に、まーちゃん。聖歌に、声を掛けてあげてくれないかしら』
「……え?」
全員の視線がまーに集まる。
ちゃんと聞いていなかったスピーチの声が、時間差でまーの脳みそに届く。
『きっと聖歌も、最後にまーちゃんの声が聞きたいと思っているはずよ』
聖子の穢れのない眼差しが痛すぎて、まーは渋々聖子からマイクを受け取る。スイッチも弄っていないのに勝手にハウリングするマイクを宥めつつ、まーは吐きそうな苛立ちを抑えて壇上へと近づく。十中八九、今回の段取りには無い勝手な進行のようで、業者の顔が土気色に変色している気がした。要するに、めっちゃくちゃ怒っているのだが、まーも同じ境遇といえる。それは筋違いな怒りだろう。
『……えーっと』
全員の正面に立つ、まー。
特にこの場で話したいことは無かった。そんなものはとっくに自宅に置いてきたので、今は最適な言葉を選ぶのも面倒で億劫だった。今、この場に居るのはほとんど義務みたいなものだろう。
まーが全然回らない頭でこの場を乗り切る適当な言葉を脳の奥底から引き上げていると、突然会場の一角から大声が上がった。
「分かってるんだ、俺はっ!」
その声を聞いてまーは思い出した。このクラスにはあいつがいたのだ。
「あの子は殺されたんだよっ!」
「「「「……」」」
突然の暴言に唖然とする全員。
「俺は、絶対に犯人を捕まえて、必ず罪を償わせてやる!」
まーは声の主と目が合う。クラスメイトの山崎正義だ。成績優秀・品行方正・眉目秀麗の三拍子揃った男で実家も金持ちの役満モードを地で行く奴。
玉に瑕なのは、その暑苦しいまでの正義感。まーは心の中で彼のことを正義と呼んでいた。
「田中! お前だって疑っているんだろう? 牧島が自殺なんてするはず無いって!」
まーは正義を見返すと、溜め息混じりに言う。
『……どうでもいいけどさ、あたしの名前を許可なく呼ばないで。そして、今はちゃんと送ってやんなさいよ。じゃないと、ちーちゃん。眠れないでしょ。いい加減、もう寝かせてあげてよ』
その言葉が彼女の緊張の糸を切ったのだろう。聖子が膝を崩してその場に倒れ込んだ。場の混乱を抑えるため、クラスメイトは直ぐに会場を出され、解散帰宅となった。
その後、まーは帰路についたものの、後ろから追いかけて来たらしい正義に声を掛けられる。気づかないふりをしようにも距離と圧が近すぎるため断念する。正義ははあはあと息を切らせていた。
「……さっきは、悪かった」
「別にいいけどね。あんたがうざいの前からだし」
「相変わらずだな、お前……」
誰もいない住宅街でいきなり声を掛けるのは下手すれば事案発生ものだが、正義は全く気にも留めていなかった。たぶんイケメンの特権意識がそうさせるのだろう。
「そんだけ? じゃあねー」
軽い挨拶でサヨナラを告げるまーに、正義は食い下がる。
「いや、待ってくれ。そうじゃない。お願いがあって来たんだ。頼む。協力してくれ」
「……協力?」
まーが訝しむ。
「そうだ! 犯人を捕まえたい。その為の協力者が欲しいんだ」
真っ直ぐな黒い瞳がまーに向けられる。まるで、あの時の川底みたいに黒い視線は、ヘドロのようにまーに纏わりついて離れない。そのときある種の諦めに似た感情が心の中を支配した。
「……いくら?」
「え?」
「いくら払うって聞いてるのよ? まさか無給で雇うつもりだったの?」
「……ほんと、相変わらずだな。お前って……」
そう言って溜め息を吐く姿が、夜も更けた住宅街で上映されていた。様になるところが逆に腹立たしい。
「で、アテはあんの?」
「アテ?」
「自殺じゃないって思うってことは、大なり小なり証拠みたいな確証があるんでしょう?」
正義は目をしばたかせた。それを見てまーは昔に見た、知り合いの九官鳥を思い出した。いや、カナリアだったか?
「……驚いた、そんなこと言われたのは初めてだよ」
「いいから、あんの?」
「あ、あるよ、もちろん。これを見てくれ」
そう言って、自前のスマートフォンを取り出す。どうやら見せたいのは何かの動画らしい。映っているのは繁華街で、雑踏の音がザワザワと入っている。撮影者の声や手は全く映り込んでいない。十秒ほどしてから、見覚えのある姿が映る。間違いなく、聖歌だと思った。そのまま、雑居ビルに入って行く。
「なあ、これどう思う?」
「盗撮かぁ、マジサイテー」
「いや違うって! 違わないけど、そうじゃないんだ!」
まーの言葉を受け、正義は慌てて言い繕う。
「撮った奴もたまたまだって言ってたし。そういう意味じゃないんだって! それよりもさ、変だろ? あの牧島がこんな行動するなんて」
もう少しおちょくってもよかったが、確かにまーも気になった。あの子がプライベートでこんなところに出歩くなど考えにくい。
「ちなみに、ここってどういうとこなの?」
「一階と二階はゲームセンター? で、その上がソフト売ってて、たぶんカードゲームとかも売ってる感じの建物だったらしいけど」
まーはスマホをひったくるとしばらく動画を繰り返し再生した。そこで、何かを見つけたのかわからないが、唐突に正義を見上げる。
「じゃあ、今週の土曜日、9時に駅前集合でいい?」
「え? いや、どうしてだ?」
「いくのよ、ここに」
正義が目をしばたかせる。相手の理解を待って、まーがもう一度時間を確認する。
「で? 9時に駅前でいい?」
「えっと、その日は塾が……」
「ああっ?」
まーの剣幕に押され、ついつい約束をしてしまう。
「……いえ、その、休みます」
衣替えが終わったばかりの今、まだしばらく汗ばむ季節が続きそうだった。
まーと正義は各々の目的のため、渋々お互いの手をとることにした。