2:交錯の昼、糸口の夜-1
「以上が会長提案です。ご意見、ご質問は?」
事務的な口調で尋ねる女性の声に、並み居る幹部たちが身じろぎした。しかし誰も手を挙げて発言する気配はない。女性は手元のタブレット端末を指先で操作して、続けた。
「では、異議がないようですので、このまま通させていただきます。ありがとうございました」
席に着くと、代わりに立ち上がった進行役が会議の終わりを告げた。雰囲気の固さがほぐれ、仕事のねぎらいの挨拶が飛び交う。
「杏佳さんも、お疲れ様。現会長はお歳だし、去年から隠居されて代行となれば、秘書もずいぶん大変だろう」
年嵩の幹部が一人、話しかけてくる。綾織杏佳は微笑んで一礼すると、礼を失さないように場を辞した。
本局ビル、五階の会議室から、階段を上がっていく。タイトスカートをまとった足はまだ若い歩調で、すぐに最上階に辿り着く。天辺の七階には、会長の居室や内部資料室が並んでいる。
杏佳は迷わず会長室に歩を向けた。無機質な廊下にパンプスのヒールが高く鳴る。
「失礼します」
重厚な樫扉をきちんとノックしたが、返事はない。しかし彼女がためらうことはなかった。ポケットから鍵を取り出すと、会長のための居室をあっさり開けてしまう。
広々とした空間だった。木製の仕事机と金属棚の他に、来客用の優美なテーブルとソファも据え付けてある。電気は点いておらず、窓にはブラインドが下ろされていたが、彼女は気にする風を見せず部屋の奥に向かった。
部屋の中には、SEEPの会長として顔の知られた老人や、その前の初代会長が映った写真が何枚か飾ってある。そのうちの一枚、SEEPの創設メンバーが集合した白黒写真の前で杏佳は足をとめた。
縁に手を当てて押すと、額がすーっと横に動いた。壁に彫られた溝の中間に、押し込み式のボタンが姿を現す。
杏佳がそれを押すと、どこかでカチャリと音がした。
杏佳は写真を戻し、棚のひとつを押した。棚がゆっくりと扉のように動いて、杏佳を迎え入れる。忍者屋敷のようなからくり壁だった。
その先にあったのは、細長く狭い部屋だった。電灯はなく、古めかしいランタンが一つ、ぼうっと灯って辺りを照らしている。
両脇を埋め尽くし、余計に部屋を細長く見せているのは無数の棚。ガラス玉、濁った瓶、何のものだか分からない骨、釘から下がった枯れた草などなど、一目見ていかがわしい物品が大量に並んで見る者を威圧してくる。
しかし、杏佳はそれらを一瞥もせず、床に敷かれた布団に視線を落としていた。
それだけがうす暗い部屋の中で、変に現代的なポップな和柄に彩られている。
「会長」
杏佳がそう呼びかけた相手はしかし、会長室に飾られた老人の写真とは似ても似つかなかった。
布団の膨らみが動き、乱れた黒髪の頭がおもむろに上半分だけ抜け出てくる。眠そうな金色の瞳がぱちぱちと瞬き、芋虫みたいにもぞもぞと体勢を変えて杏佳を見る。
「もう朝か……?」
「昼です会長。午後一時になります」
「昼餉はなんじゃ……?」
「知りません。自分で探してください」
「この香はコーヒーか?」
くんくんと鼻を動かす少女の顔は傍目に見ても可憐で幼い。
「妾のココアはどこじゃ」
「淹れませんよ」
断固と告げつつ、杏佳は布団を剥ぎ取った。少女がぎゃっと短い叫びを上げて手を伸ばすが、取り返されないよう両腕を基点にくるくると巻き取る。寝間着代わりの少女の和装があらわになっている。
「昼過ぎに起こせと言ったのはあなたです。お忘れですか?」
「覚えておる、覚えておるわ」
けだるげに言いつつ少女は大きく欠伸を一つした。杏佳は咳払いをして報告する。
「会議は滞りなく。提案についても受諾されました」
「大儀であったな。例の仕込みは?」
「回収は完了しているようです」
「杏佳が受け取れるか? 本部職員の権限で事足りるじゃろう?」
「不可能ではありませんが」
「書類上の問題は案ずるな。元より公式には依頼から存在せぬでな」
少女の小さな体が、布団から立ち上がって伸びをした。
「目を覚ましたらまた出るでの」
「私がやることはありますか?」
「いつも通り、取次の案件をまとめておけ」
寝癖のついた豊かな黒髪を片手で梳きつつ、杏佳の横を通って小部屋を出ていく。
「わかりました」
杏佳も元の会長室に戻った。棚の位置をそっと直すと、同じ棚から一冊のファイルを取り出す。
彼女が開いたページには、とあるペアの会員情報と彼らに課された依頼について、簡単な指示が載っている。
×××
分厚い強化ガラスの窓越しに、瑠真は眼下の光景を見下ろしていた。
地下の二階ぶんぶち抜きで設けられた広い演習上場に、数組の子供たちが熱心に動き回っている。
そのうち一組に目が行った。高校生くらいの少女と少年。少女のほうが腕に大きなガーゼを貼っているのが不似合で目を引く。
「怪我したのか、アイツ……」
ひとりごちたが知り合いではない。向こうが本局では有名人なだけだ。瑠真とは真逆の意味、成績優秀ペアの代名詞として。
白い床の上で少女が走り、待ち構える少年に近づいていく。感覚と筋力に増強をかけているのだ。少年の手元から濃縮された光の弾がいくつか撃ち出されるが、軽いステップですべてを躱して懐に飛び込む。
腕をとって身を返し、少年の身体を拘束して、数秒経つとぱっと手を放す。
笑顔を浮かべて片手を打ち合わせる二人に、周囲で見ていた超常師たちがまばらな拍手を送る。隅で見ていた彼らの指導官が歩み寄っていった。身振りを交えながらアドバイスを始めるが、当然ここまでは聞こえない。
「もしもし。使うなら受付は下だよ」
荷台を押した従業員が通って声をかけてきた。「すみません、見てるだけです」振り返って言うと、瑠真はその場を離れた。
骨董屋の依頼を受けた翌日の日曜日。なんとなく落ち着かず、仕事もないのに本局に出てきたはいいが、やることもないのでぶらついているうちに昼を回ってしまった。
ペアの顔がちらつくのが我ながら腹立たしくて、乱暴な足取りになる。
本局付設の食堂をいくつか見て回ったが、今ひとつ食指が動かなかった。かといってわざわざ宿舎まで戻って昼食を頼むのも気が乗らない。近隣を歩いてファストフードでも、と建物を出る。チェーン店の多い一帯なら裏門が近い。
敷地の境でばったりペアに出くわした。
「あ」
「あ」
お互い間抜けな一音を発したのみで白けた沈黙が降りる。
望夢がさりげなく首を振って瑠真の横を通り過ぎた。何も見ていないと言わんばかりの歩調に瑠真の中に煮え切らないものが生じる。振り向いて口を開いてからためらったが、結局背中に向かって呼び止めていた。
「待ちなさいよ」
少年は無視して行ってしまうかと思われたが、数歩遅れてゆっくりと歩をとめた。
「何」
昨日よりだいぶ不愛想な低い声だ。
「今日は仕事休みでしょ」
「……」
「何しに来たの」
「お前もそうだろ」
ようやくその頭がこっちを向いた。角度の問題か寝不足なのか、目つきが剣呑で一瞬気圧される。
負けじと睨みを聞かせて腕を組んだ。
「聞きたいことがあるんだけど」
「まだ何か」
まだも何も、質問はいくつもあった。少し考えたが、いちばん気になっていたことは一つに搾れていた。
「アンタ、なんで昨日の仕事にあんな執着してたわけ」
言い方が分からず妙な言葉づかいになった。少年がやや意外そうに反応した。
「執着? 俺が? 何に?」
「何にって、帰るとき……」
「直接帰るからだって言っただろ」
「明らかに態度変だったし」
口ごもりつつ言い返すと、少年が動きをとめて瑠真をじっと見た。
「お前なんか隠してるだろ」
「は? アンタに言われる筋合いは」
「なんで俺が何か隠してると思うの?」
畳みかけられて返事に窮した。
例のお守りに対する彼の態度がおかしいと確信したのは帰り際、依頼主に頼み事をしている姿を見てからだ。だが盗み聞きしていたとは言いたくない。たまたま聞こえたことにするか? ――いや、ここまで誤魔化してそれも不自然だろう。
とにかく唇を開けたが、先に予期せぬ音が耳に入った。
くきゅるぅう、と細い腹の虫。
「……、」
喋るべき言葉を見失って固まる瑠真の顔がかっと熱くなる。自分だった。恥以外の何ものでもないし、それ以上にこの局面で呑気すぎる!
少年は怪訝そうな顔で瑠真を眺めていたが、むしろそのわたわたとした反応を見て気が付いたらしかった。ちらりと時間を気にする仕草を見せた後、大きなため息をつく。
「行けば?」
「待っ、ちょっと、それで逃げる気かっ」
「めんどくさ……」
ついに直球で言われた。言い返す言葉を探している間に少年が肩を竦める。
「わかったよ、俺もいけばいいんだろ」
諦めたように言うので、瑠真はまだ頬を熱くしたまま、それでいい、と頷いた。これでゆっくり話が聞ける。
あれ?
なんで私が誘ったみたいになってるんだ?
「なるほどね。それで尾けてきてたのか」
「尾けたって言うなっ」
「ストーキングだろそんなの……」
「帰り道ほとんど一緒でしょうが!」
結局盗み聞きのことを喋らされた。というか、少年はほとんど黙っていたのだが、冷ややかな視線と絶妙な合いの手に耐え切れなくなった瑠真が勝手に喋った形になった。
宿舎前の話になってやや身構えた。あの時の失言に触れられるなら、相応の覚悟で応じたい。だが、少年は特に言及する気なくトレイの上に手を伸ばしていた。
ほっと肩の力を抜いて瑠真も食事に戻った。
昼どきをやや外したハンバーガーチェーンは、食後に溜まって駄弁る若者や休日の外出途中の家族連れで気だるい雰囲気を醸している。そんなに好きじゃない味のポテトフライを口に運びつつ瑠真は切り出す。
「で、私は話したんだから、アンタも教えなさいよ」
少年はずずずと音を立ててジュースを吸いながら、
「何を?」
「何……って……あのお守りのこと」
この期に及んでとぼける気かと思ったが、少年は本当にその返しでようやく本筋に思い当ったようだった。彼は観念したように天井を仰いだ。
「あれは興味があっただけだよ」
「興味?」
待ち構えていた瑠真は、ぼんやり想定していたのと異なる答えに目をぱちくりした。少年は自分のトレイから冷めたポテトをつまみあげて口の端に咥える。
「だってあんなのいかにも曰くありげだろ。発散が凄かったし、お前が下手打ったときにもバカみたいに反応したし」
さりげなく失敗を蒸し返された瑠真はテーブルをどんと叩く。近くの客が驚くが、向かいの少年は意に介した風を見せずに続ける。
「ああいうの気になるタチなんだ。もうちょっと確かめたかった。どうせ閉店するなら一個くらいお礼に譲ってくれないかと思ったんだけど、さすがに貴重そうだからって断られたな」
流れるようにそこまで言い終え、少年はこちらを見る。
「さて、じゃあこっちからも質問していい?」
瑠真はしばらくそのままの姿勢で固まっていた。
「それだけ?」
「俺の話? これだけ」
「……」
「何」
「なんで隠そうとしたのよ」
「別に隠してないじゃん。お前の訊き方が迂遠だっただけだろ」
そう言われると反論できなかった。絶対に何かあると勘ぐって絡め手に回っていたのは確かだった。
ドリンクを手に取りながら負けを認める。
「何が聞きたいの」
言いながら例の失言を取り上げられる覚悟を決めたが、
「今の話。なんで俺のこと気になったの」
少年が尋ねたのはこれだけだった。
勢いよく一口吸ってコップを置くと、刺し殺さんばかりの目つきで相手を睨む。
「怪しいと思ったのよ。アンタ自分のこと全然喋らないし」
「喋るとこあったか?」
「じゃあ訊かれれば喋るのね? 超常使えないってほんと? 今ここでできる?」
矢継ぎ早に食らいつくと少年は椅子の上で身を引いた。あからさまに迷惑そうな顔をしている。
「今ここはさすがに空気読めなさすぎだろ……」
「光出すくらいいいじゃない。それかそのゴミ数センチ浮かせるとかさ。それも出来ないとは言わないわよね?」
中身のなくなったバーガーの包み紙を指さして牽制する。少年は渋い顔をして明後日の方を向いた。
「俺今許可バッジつけてないんだけど」
「多少バレないわよ」
「そういう問題じゃねえ」
目に見えてイライラしている少年に瑠真はようやく優位を感じて調子づいてきた。この調子で気に入らない鬱憤の発散をしてしまおう。
「じゃあ、バッジがなくてもいい場所に行こう」
ソファを振り返って荷物をまとめ始めると、少年は怪訝な顔をした。
「どこだって?」
瑠真はショルダーバッグを右肩にかけると、にんまり笑って席を立った。