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異能協会×ワールドプレット  作者: 来栖 稚
無彩色ユニティッドフロント
36/42

4:Joint War of Lost-Side Children(前半)


 浅い眠りから目を開けた。


 軋む小さなベッドの上で着の身着のまま身を起こす。薄いモスリンのカーテンだけが下がっている窓辺からはもう光は入ってこなかった。ここへ来る前に買ってきた絆創膏を切れた頬に貼っていて、夜の空気がほのかにすうすうした。


 日沖翔成はしばらくぼんやりと窓の外を見つめていた。


 夢を見ていたわけではなくて、ほとんど覚醒に向かう意識の中で、記憶をたゆたっていたのだと思う。父親は最初に、ホムラグループの話をして、それから、それを少し敷衍した、世界の話をした。そういうことをどこで知ったかという話もした。


 翔成が今やっていることを、記憶のある父親が聞いたら怒るだろう。今となっては詮ない想定だけれど。


 ヴ、ヴ、とスマートホンが震えた。我に返って手探りで電灯を点けた。ターコイズブルーのカバーをかけた筐体を掴むと、電話着信がまさに今入っていた。ずきんと心臓が跳ねた。


 やっと来た。


『こんばんは、翔成くん』


 状態を受話にした瞬間、電波の向こうでくぐもった声が言った。女の子の声だ。


 こんばんは、と翔成は思った。待ってたよ、ヒイラギ会。


『あなたのこと責めたくはなかったけど……ちょっと理由聞いてもいいよね。わたしたち、高瀬くんに手を出せなんて言わなかったでしょう?』


 電話の声はきんと張り詰めて笑っている。翔成は見えやしない口角をこちらも無理に上げて、意図的に子供じみた声音を作った。


「電話くれたってことは、何か動いてる? 嬉しいな。仲間に入れてもらいたかったんだ」

『……嬉しい?』

「きみたちが最初に連絡をくれてから、もう一月くらい経つよね。だけど、おれ、先輩を探る以外の仕事なんにも貰わなくって……父さんたちは誘拐計画とか立ててたのにね。父さんたちは大人で、おれは子供だから、できることは違うけど……だけど、何かできるってとこ見せたかったんだ」


 あらかじめ考えていた口上は、無邪気に淀みなく翔成の喉を滑り出ていった。蓄電式の枕元灯以外光るものがない裏路地の廃病院の闇が、心地よく己の心情まで包み隠していた。


 電話の声は、たぶん静かに笑っていた。


『つまりあなた……これがおおごとだって、分かってやったってことね?』

「なかなか勇気があったでしょう? ……どう?」

『ありがとう。迎えに行くわ』


 ぶつり、と通話が切れた。こちらの場所は訊かれなかった。つまり恐らく、とっくにばれているのだろう。


 去年閉じたばかりのこの診療所は、本来すぐに他のテナントに取って代わられるところをホムラグループの仮押さえで膠着状態にされている。本社協力者の一人がもしものときの合流地点として指定していた場所だと、父親に聞いていた。それこそ場所の指定だってヒイラギ会を介していたのかもしれない。翔成は何も知らない。


 最初にヒイラギ会の少女から接触があったのは、父親が記憶を失ってから間もなくだった。彼女は電話越しに『あなたのことは知っている』と言った。『お父さんから色々聞いているでしょう。お父さんたちが安心するためには、ホムラグループの構造を変えなきゃいけない。それを手伝ってほしい』と。


 翔成は最初から彼女たちを信用していなかったし、こうして決定的に裏切ってしまった。


(おれだって信用はされてなかったんだろうな、きっと)


 彼女が―実際に現れるのが誰かは翔成には予想できないが―翔成の真意の確認なり、後始末なりのためにここにやってくるのなら、ここがホムラグループの所有地である以上、グループにとっても無視できない展開になるだろうと翔成は期待していた。少年のやるべきことは、ここで何かがあったと確実に示すこと。そのために準備が必要なのは―


 鞄を開けて、ベッドの上にひっくり返した。


「頼むよ」


 ファンシーカラーに包装された片手サイズの携行注射。いわゆる注射器みたいに静脈を探して打つ必要はなくて、主に大腿に九十度で刺す筋肉注射だ。


 Artificial-Light。人工の灯。バイタライザーに与えられた正式名称だ。本来専門家が扱うために開発されたものではあるけれど、翔成たち一種のテロリストにとっては、自分で戦うために恰好の武器になる。


「今晩がヤマだ」


 呟いたとき、ふと部屋の入口のあたりで、ごほんと咳払いが響いた。


 翔成は暗がりに目を転じた。


「あれ」


 ゆっくりとまばたきをする間に、相手が部屋の中に一歩踏み入ってきて枕元の非常灯の輪に入る。


 待っていた少女、ではない。


「お兄さん、ホムラグループの新人さんじゃなかったっけ」


 声をかけると、黒髪を後ろに撫でつけた青いジャケットの青年はポケットに手を突っ込んでじっと翔成を見つめた。ワンショルダーの白いリュックを左肩にかけている。


 翔成はそっとバイタライザーを一本拾い上げた。


「ニコさんだっけ。今思うと、うちに来たのって、たぶん父さんの記憶のことの関係だったんだよね?」

「今ここにいることが答えだよ、翔成くん」


 溜息を吐くように静かな低い声で青年は言った。


「日沖翔成くん。つまりきみは、ホムラグループではなく、ヒイラギ会を刺激するつもりで高瀬くんに手を出した、ってことでいいのかな?」


 ヒイラギ会、という言葉が彼から出たことの意味に、一瞬遅れて気が付いた。


 ゆっくりと、ほんとうにゆっくりと、諦念なのか、絶望なのか、己に対する失望なのか、なんともいえぬ溜息が胸の底から溢れ出た。だけど、まだ判断しちゃいけない、投げ出しちゃいけないと囁く心の声が力の抜ける肩を糸になって引き留めた。


「そっか」


 簡単な相槌だけが零れ落ちた。


「ニコさん、調べたんだ」


「嬉しそうじゃないね」


 児子という名の青年は淡々としていた。


「共通の敵を見つけたんだと思ったけど。今しがた、君の電話を盗み聞きして」


 悪びれた様子はなかった。監視されていたのだろう。翔成の処遇を決めるために。


 翔成は笑ったまま答えを探した。こうなったら、目的を擦り合わせるしかない。


「ねえニコさん、おれは聞いての通り、ヒイラギ会の手先になりたかったんだよ」


 児子の目が少し細くなった。


「だから、翔成くんはそういうフリをして彼らをあぶり出したかったんだろう?」

「どうして? それだったら最初からあなたたちに頼んでいたよ」

「……そうしなかった理由を、俺が聞きたいよ」


 宵闇の中で、青年の声が少し苛立った。翔成は握った注射のキャップを親指で撫でた。


「父さんたちにはそうしろって言われたよ。あの人たち、ヒイラギ会から……真実を知っておきながら、結局ホムラグループを離れる気は一切なかったんだもの。ホムラグループに対抗するつもりで彼らから情報を集めていたんだと見せかけて、結局は彼らから集めた情報でホムラグループに味方するほうを選んでたんだ。つまんないよねえ? 反勢力なんて大層を言っておきながら、つまり箱から出られなかったんだ、レールを降りられなかったんだ」

「翔成くん。何が言いたいの?」

「父さんたちはホムラグループの味方だったよ」


 話すうちにスイッチが入ったように心地よくなっていて、指の中でペン回しみたいに注射器を弄んでいた。


「おれが違っても」


 そう言葉を結ぶと、向かい合っている児子の目が暗がりでぎらりと光った。何かを理解した表情変化だった。


 そういうことにしてくれ、という―これが懇願だと察したのだろう。翔成は微笑んで、指の上で踊る注射器をキャッチした。


 眼光鋭く、ホムラグループの青年は翔成の行動を総括する。


「つまりきみは、たとえ自分が何かしら処罰されるとしても、お父さんは責めないでくれって言ってるわけだ」


 肯定していいものかどうか翔成には分からなかった。翔成は普通の少年だから。真っ向きっての口舌も、搦手の交渉術も使えないから。


 児子が頷いた。


「なるほど、ヒイラギ会を信用していたわけではないけど、俺たちの仲間というわけでもないんだね。だからお父さんたちが最初に企図していた通り、俺たちにヒイラギ会の案件を丸投げするのも嫌だったと。それで協会と高瀬式を強制的に巻き込んだわけ?」


 そうだった。そうだったのだろう。男子中学生の頭でそんなふうに言語化していたわけではない。けれど、追っ手を増やせば誰かがヒイラギ会もホムラグループも、翔成よりきちんと裁いてくれると思った。


 たくさん悩んで、似合わない重荷に血を吐くほど考えた。あの四月、入学式の日の日暮れ前、父親が一つのことを翔成に頼んだ。翔成に頼るかどうかそれはそれは悩んだけれど、近々ホムラグループに所属する全員が一斉に調査される機会があって、外部に信じられる仲間を残しておかなければならない、と。翔成は嬉しかった、それが嬉しかったのだ。何をやっても目立たないごく普通の少年だけれど、父親は一人前と認めてくれるのだ。与えてくれるのだ、「いい子」じゃない役割を。


 けれど、どこか不安げにしていた父親の様子を映したように、事態は少々違う方向に進んだ。


「当然、ヒイラギ会に対してもいい挑発だろうね。彼ら、子飼いの翔成くんがそこまで目立つことをするとは思ってなかっただろう。ホムラグループに入り込んでいた以上こっちへのアンテナは張ってただろうけど、三すくみの真ん中に放り込まれたらさすがに普通の組織は身動き取れない」


 そんなもの翔成には分からない。だけど、確かに電話の相手はこちらに接触してきた。


 もう一つ理由がある、と心臓が言った。日沖翔成、お前は悔しかったんだろう。悔しかったんだろう……


「浅はかだね」


 児子青年はばっさりと言い切った。心臓の声は今は黙っておこうとばかりに翔成の芯を突くのをやめた。


「己が標的になることで、敵の尻尾を掴もうなんてさ。素敵なヒロイックだよ。映画の観すぎ。あんまりにもたくさんの失敗分岐を無視しすぎている」


 児子が一歩こちらに踏み出した。あくまで翔成の反応は待たない。


「実行以前にヒイラギ会に露見するリスクくらいは考えてただろうから割愛しよう。けどじゃあ、俺たちや高瀬式が、きみの思うほど早くに動き出さなかったらどうしてたの? きみはたぶん、真っ先にヒイラギ会に口封じされて、単独犯行の身代わりとして差し出されてたよ」 


 つまり、追っ手が増えるより先に、ヒイラギ会に気づかれて後ろから刺されたら、ということか? 翔成は疲れた表情筋を動かしてにやりと笑った。絆創膏を貼った頬が引きつれた。


「……考えたよ、それくらい。児子さんはおれを監視していたじゃない」

「分かっててやったんだ」


 青年は翔成の座るベッドの前で足を止めた。距離に対して目線があまりに違って、まるで高い峰の上から見下されているように翔成は感じた。


「だったら、怒られるのも覚悟してるよね」


 未成年非行だ。異能が関わっている以上、引取先には国と協会が協賛する特殊な少年院がまず候補に挙がる。けれど、この話し方だと児子ひいてはホムラグループは、そちらに引き渡す気はないのだろう。ホムラグループはもっと穏便にことを収める手段を持っている。


「そっか」


 そうか、おれ、消されるのか、と思った。


 思念操作。封印。それは父親に与えられた十字架と同じだ。


 児子は腰をかがめると、翔成のひっくり返したバッグの口から、白いマスコットを拾い上げた。眼帯のネコ、ただしどこにも秘密の縫い目なんかない新品だ。先輩のために獲ったもの。確実に処罰の手が及ばない外部に疑われないように情報を託して、翔成が勝手をやるための隠れ蓑。


「俺の妖術は共感性だからね。きみと接触のあった物品を介して君にアクセスする」


 児子から事務的な解説があった。翔成の処理はこの場で終わらせるよう彼に一任されているのだろう。最小限の労力でインフォームドコンセントを実行するような、乾いた声音だった。


 ちくりと、仄かな抵抗が芽生える。父親が記憶を失って帰ってきたときのことを、翔成は覚えているので。


 その景色が鮮明に頭の中にひらめいて回り始めたのは、もしかして翔成の意志ではなかったのかもしれなかった。児子操也(そうや)が翔成の頭にアクセスしようとしていて、たぶん消すべき思念のつながりを探っている。翔成の行動理由を白紙にするために。


 抵抗感がうごめく。


 その晩、帰宅して食卓に着いた父親はいつもと変わらなかった。けれど、父に予告されていたのはまさにその日付だった。


 父さん。食後の廊下で呼び止めると、一杯引っ掛けてほろ酔い加減の父親は上機嫌で立ち止まった。


「なんだい、翔成?」


「秘密の話をしよう」


 いつか父親が散歩がてらに、翔成に話しかけたように。


「秘密?」


「世界の秘密の話だよ。SEEPって言ったらわかるよね? 超常師協会。あれと同じようなことを、ホムラグループが裏でやってるって話」


「グループが?」


「ホムラグループの裏の顔。父さんたちはそこから身を守るために手を打っていたけど、今は覚えてないでしょう……」


「待って、翔成」


 けれどそのとき、無邪気に話す翔成の言葉を、父親が歯が痛むような顔をして遮った。


「それがほんとうだとして、翔成は誰からそんなことを聞いた?」


 予想外の口調だった。どこか怒るような、翔成が不用意をやったことを叱るような。


 正直、焦った。父親はめったに声を荒げない人だった。いつぶりだろうか、もしかするとほんとうに分別のなかった幼少期以来のできごとだったかもしれない。一瞬、翔成は自分が、ずっと小さかったころに戻るような気がしたのだ。


 家族を守る、守るべきは父親である。そんな口調。翔成はもう守られる側じゃなくて、守る側に仲間入りしたと勝手に思っていた。


 使命感に燃えて、先走っていた翔成はそこで初めて、自分の幼さと後先のない有頂天を自覚した。焦ったから、翔成の手はもう少し丁寧に辿り着くはずだったヒントに伸びたのだ。


「これ、父さんがくれたんだよ。知ってるだろ」


 中身は口で言うなと釘を刺されている。だけど、そのものは今重要じゃない。まずは父親に気づいてもらいたかったのだ。日沖翔成は一人前の相談相手なのだと。


 けれど、父親は眉をひそめて、ぽつりと言ったのだ。


「大丈夫か、翔成」


 翔成を心配する口調で。同志としてではなく、まだものごとの分からない子供を気遣う、親の口調で。


 そのとき、ぽすんと納得した音がした。


 あ、これは単なる記憶の消去じゃない。『思念』の封印なんだ。


 必要な情報が消えるだけでなく、その情報に思い至るような思考の経路が閉ざされる。こだわりや信念、人への感情そのものが変わってしまう。理解していたわけじゃない。けれど、そう思わないと、腑に落ちなかったのである。


 父親が、翔成に対して信じてくれていたものが、消えた?


 その瞬間、沸騰するように胃が熱くなった。


 それは怒りといってもよかった。こんなことを横行させているホムラグループに対する、これを平然と命じてきたヒイラギ会に対する。


 そうだ。それが悔しくて翔成は自棄になって、それが悔しくて翔成は我武者羅になって、やっとヒイラギ会とホムラグループを具体的に動かすところまで来て。そして今、行動理由を消されようとしている。


 思考が現在に戻ってきた。仄暗い廃病院の一室。人形を拾い上げた青年と向かい合う長い長い引き延ばされた一瞬。


(いやだ)


 おかしい、と思う、許せない、と思う。この感情そのものを、日沖翔成は失うのだ。


 それは、笑顔で安全に暮らすあったかい人生への回帰ではあろうけど。


(何にもない「いい子」に、戻りたくないっ……)


 とっさに注射器のバイタライザーを握りしめていた。ばちん、と勢いよく蓋が開いた。児子が驚いた顔で視線を落とした。


 考える前に、自分の脚に突き刺す。刺傷というより、殴られたような鈍い痛みが熱さとともに大腿部を駆け巡った。眩暈がした。くらりと白、そのあと虹色に光った視界が、一瞬だけの確信を翔成に与える。


「やめろッ!」


 それが協会で言う〈増強〉に当たることまで、翔成はいちいち考えられない。


 叫んで体当たりして、児子を突き飛ばした。常の倍近い膂力。軽く体格差と体勢を凌駕して、青年の体躯を床へ薙ぎ払った。


「なんだよ、翔成くんっ?」


 尻餅をついた青年が不服げに叫んだ。


「分かるだろ、協力がいちばんの近道だよ? 今や何も知らないお父さんを改めて探ることもない。ホムラグループの体面はきみ一人お仕置きすればじゅうぶんだし、ヒイラギ会はこっちで調べるし」


「お前は知らないから! お前は奪う側だからっ……」


 不安定なベッドの上で立ち上がっていた。後ろ手に背後の窓のロックを開けていた。


「『何もない』ってことがどれだけ怖いか、わかってない。どんなものだって、無かったことにしていいわけがないっ……!」


 父親の消される前の記憶だって、もう覚えているのは翔成しかいない。忘れたくない。忘れちゃいけない。


 さっと夜風が背中を撫でた。医院の三階の窓から翔成は身を乗り出した。強いてテレビや路上で見たことがある、協会の超常師たちをイメージした。たぶん彼らだったら、こういうところから飛び降りられるから。


 見様見真似でいいんだかわかんないけど、あんなふうに。おれだって空を飛びたい。想像できることは実現するって、さんざん宣伝が打たれているのだ。


 全身の主要筋肉や骨をなぞるような線を描いて、全身が鈍色に輝いた。一種それに信を預けたような気持ちで、翔成は窓枠によじ上った。


「浅はかだよ、きみは」


 児子の溜息が背後で聞こえたような、聞こえなかったような。考えている暇はなかった。


 窓を蹴った。植え込みが低い位置に見えていた。映画とかで知ってる、ああいうので衝撃を殺す……!


「だっ」


 現実は甘くなかった。


 一番高い木のてっぺんにまず突っ込んだ。小枝をばきばきと折った身体の表面を無数の擦過の痛みが焼いた。声が出た拍子に、口の中に尖った枝が突き刺さって口蓋を引っ掻いた。目だけは必死に閉じていたが、恐怖で固まった身体はほとんど団子になったまま地面に叩きつけられる。


 衝撃で呼吸が止まった。なんだって訓練なしでできるもんじゃないんだ、とひりひりした心で思った。増強が効いていたとしても、適切なタイミングで適切な部位を守るのは想像だけで何とかなる技術じゃない。


 しばらく、感覚がなかった。けれど動けたから何か効果はあったのだろう。痛みが引け、とがむしゃらに念じたら痛覚がじんわりと意識から追い出された。治癒系はなんとかなるかもしれない。


 きしむような痛みに悲鳴を上げる全身で立ち上がった。あ、これは打撲か、悪ければどこか筋や骨を痛めたな、というのがぼんやりと分かった。走って敷地を出たが、離れる間もなく、ゆっくりとした歩調で児子操也の足取りが近づいてきた。


 距離を測ろうと振り返ったとき、児子が立ち止まって手のひらの人形を見せる。


「そこで止まれよ」


 がくん、と全身の動きが止まった。児子が人形を握りしめる動作にそれは連関していた。


 たぶんさっき頭の中を探られそうになった段階で、翔成とあのマスコットはある程度紐づけられて対応していた。児子が人形を持っている限り、翔成に抵抗するすべはない。身体がうまく動かないのは、もしかすると不慣れや怪我のせいじゃなくて共感性とかなんとかいう妖術のせいだったのかもしれない。


(やだな……)


 感じ取れない。歯向かうことも、逃げることもできない。それは恐怖ではなかった。悲しみでも、もどかしさでもない。


 ヒイラギ会の敵を気取って、だからってホムラグループの誘いも蹴って、一人でやれるって気負い立った結果がこれだ。ヒイラギ会はまだ野放し、ホムラグループには制裁を受け、しかも自分が何をされようとしているのかだって分からない。


 カッコ悪いな、おれ……そんな感想が脳裡をかすめた。


 眩しいものばかり見て、真似しようとして、できもしないことをしている。いつもそうなのだ、普通のいい子でしかない日沖翔成を追い抜いて、たいてい強くて苛烈な光が目の前を通っていくから。疲れた視界の端にちかちかと光が瞬き、雑音が混じる。


 それは爆音で近づいてくるヘッドライトの光だった。


「えっ?」


 目を上げた。大型バイクだった。


 人気のない路上をこっちに全力で推進している。あっという間に路面を塗り替える光が数メートルに迫り、振り向いて目を見開いたままだった翔成の視界を焼いた。


 ドン、とそれは、人間というよりほとんど棒立ちの荷物を抱え上げる動作に近かった。


 翔成の胴体がすれ違いざまにさらわれて、くるりと踊るように本来座席ではない運転席前部に載せられていた。児子の反応も確認できなかった。もと立っていた場所が見る間に遠ざかる。全身を引っ張られるような抵抗を感じたが、伸びてきた手に肩を掴まれたあとぱっと身体が楽になった。


「よっ。ガキ捕獲、一丁上がり!」


 軽薄な声でライダーが言った。若い女性の声だった。


 翔成は目を白黒させた。なんだ、どういう状況だ? 攫われた?


「あぁありがとうセン、このへんで止めて」


 後部座席からさらに別の声がした。少年らしい。完全に状況に飲み込まれていたが、その声音ではっとした。肩を掴んでいたのはたぶん後ろの同乗者だ。掛かっていた術を解除された──


 路肩でブレーキがかかった。このあたりで翔成の視界も正常に戻っている。完全に動きが止まる前に、後部座席の人影が飛び降りた。翔成も上体を捻って振り向くと、夜の真ん中を元の道へ走っていく少年の後ろ姿が見える。


 翔成も思わずライダーの腕を振り切ってバイクを滑り降りたとき、怪我の痛みを瞬間的に忘れていた。たぶん。


「高瀬望夢?」


 大声で確認を取った。間抜けな聞き方だとは思うけれど。


 少年はその声に、忘れていたとばかりに立ち止まった。同乗者用のヘルメットを外しながら振り向く。


「よう。一日ぶり」

「なん……おまえ……」


 何を言えばいいのか分からなくて口ごもった。何をしにきた、だろうか? 彼が動くこと自体は不思議な事項ではないが、このど真ん中真正面に、自分自身で何をしに?


 けれどそれが訊けなかったのは、昨日まさに翔成が仮想敵とみなしていた―その相手に対する、落ち着かなさ、原因不明の羞恥に似た気持ちのせいである。


「バイタライザー、打ってるよな?」


 指示するように少年はてきぱきと言った。


「まだ体が動かなかったら、循環とか神経系を意識して。治癒は結局、自力がいちばん効く」


 言うだけ言ってバイク乗りの女性に向かってヘルメットを放り投げる。彼女は腕を伸ばして危なげなく受け取る。確認すると、望夢は用が済んだとばかりにまたきびすを返した。


「まっ、待てよ!」


 思わず引き留めていた。追いかけて、フードパーカーの襟を掴むような形で。ぎゅっと子供っぽく指先が白くなった。


 首が締まったらしい少年が一瞬息を詰めてよろめいた。襟元に指を突っ込んで不満げな顔で振り向くので、はすに睨まれる形になる。


「握る場所考えろ」

「ごめ……じゃなくて、何おまえ⁉」


 最初気遅れて謝りかけて訂正して、


「なんで親切な面してんの? おれ、処罰に来たんじゃないの……っ」

「怒るのはペアの領分だから……」


 少年がぼそぼそとよく分からないことを言った。


「ここで待ってろよ。お前の先輩連れてくるから」


 ぽかんとしてその言葉を聞いて、頭の中で反復した。


 つまり、


「秘匿派警察じゃない……協会から?」

「どっちも外れだ」


 少年の喋り方は明快だった。


「個人としてお前に興味があった。話を聞きにきた」


 目をぱちくりしたあと、胃の腑がどくん、と音を立てた。


 かっと全身が熱くなった。


「おまえッ……」


 頬が赤くなっているのだろうことを、もしかすると目が潤んでいるかもしれないことを自覚した。怨念に近いような声が出た。相手の襟首を握ったままだった手に力がこもった、たぶんそれは迷惑なことだっただろうけど。


「バカにしてんじゃねえよっ!」


 それは自分だとは信じられない大声で、引き絞ったバネから放たれたように閉じた空に向かって飛んで、一瞬で弧を描いて汚れたアスファルトの路面に墜落した。結局いくらも先へ届かず墜落するのだ。報われなかった。きつく擦れた喉がひりひりした。奥歯を食いしばった。


 何がこんなに、何がこんなに悔しいのか分からなかった。


翔成かなる、お前」


 高瀬望夢が翔成の腕を振り払って体ごとこっちを向いた。


「びっくりするくらい負けず嫌いだな」


 負けず嫌い。


 知ったように言うなとか、言い返したいことはたくさんあった。なのに翔成のもう疲れてしまった身体はそれ以上の見栄っ張りを絞り出せなくて、こんなふうに幕を引きたくなかったのにふいにぼろぼろと涙が零れてきた。あぁ、負けず嫌いか、と思った。確かに今翔成は、自分の感情に負けている。


 悔しかったのだ。ずっと、似たような歳の誰かなら背負えるはずの重荷を、翔成には背負えないことが。父親やヒイラギ会の少女から高瀬望夢や、あるいはあの先輩の情報提供を受けたとき、信じられないと思った。特別な少年少女は一人でも戦ってこられたのか? 何もない普通に生きてきた少年は、どうやって家族を手助けしたらいいのか分かっていないのに。


 望夢は静かな語調だった。


「瑠真が言ってたけど……お前は味方するって言っても跳ねのけるかもしれないって。なんの事情も知らないのに助けるとは思えないって、だから文句を言いに行くって言ってたけど」


 瑠真に接触したのは協会を巻き込むためで、いざ翔成が失敗したときの信頼できるヒントの保存場所、でもあった。けれど彼女に手伝うと言われていたら、やっぱり翔成は断っていただろう。


「ちょっと分かった気がする。そういうことか」


 分かった気がする、か。さすが、秘匿派警察のお坊ちゃんは聡いね。望夢のしたり顔に噛みつきたかったけれど、体力がなかった。


 そういう態度だよ。おれが悔しいのは、おれが負けたくないって思うのは。人生の先輩ぶってなんでも分かるような振りをして、それでもいいよ、と言う。ほんとうにそれがただの振りで中身は自分と同じ冴えない中学生だったらいいのに。


 負けたくない。ようやく素直に認められた。これをずっと直視できなかった。自分の味方に来てくれた、この当の先輩たちに一方的に抗っていたのだった。


 発端は翔成がヒイラギ会の接触を受けて、なんだか現実感がなくふわふわしていた頃だ。たぶんぼうっとしていたから町中で誰かにぶつかって、それを常になくへらへらした態度で謝ったから、怒鳴られた。急に心臓が小さくなった。今の自分は人に叱られるような状態なのだと突然悟った。


 そういうときに、彼らに出会ったのである。


(「なにしてんの?」)


 強い声。きつすぎる視線。ほとんど彼女が悪役であろうという剣幕で、乗り込んできた少女。人の話を全く聞く気なく手のひらに派手な炎を突然現出させて、あっという間に無関係の通行人も含め人を追い払ってしまった。


 翔成は見た瞬間にはっとした。すでにヒイラギ会から七崎瑠真という人物をいくらか観察するよう電話で伝えられていて、その少女は聞いていた特徴にほとんど適っていたのである。


「よくわかんないけど」


 回想じゃなくて、目の前で声がした。袖で乱暴に目元を拭って顔をあげると、高瀬望夢が無表情にじっとこちらを見ている。角度によっては気づかわしげくらいには見えたかもしれない。


「俺にはそういう感覚ないから知らないけど、……でも逆に、そうやって悔しがれるとこがすごいんじゃねえの」


 ひねくれた口調だった。翔成は口の端だけで笑った。


「そういうとこだよ」


 先輩ぶるっていうのはさ。無条件にこっちを負けにするんだ、自分を飲み込めていないっていう一点で。


 後ろから呑気な声がかかった。


「悪いけどボーイズ、ほっといていいのかね」


 ずっとやり取りをバイクの女に聞かれていたことをそこで意識した。言葉の端に面白がっていたらしい響きすらあったが、不思議と翔成はここには恥ずかしさを感じなかった。


 振り返って尋ねる。


「ほっとくって……何を?」

「まさかほっとかないよ。俺が行くか……いや」


 了解しているらしい望夢が翔成を挟んでバイクの女に応答し、思い直したようにこちらを見つめた。翔成は目をぱちくりして少年の視線を受け止めた。


「何?」

「瑠真が足止めしてくれてるんだけど、お前も来る?」

「あし……」


 一瞬口をぱくぱくした。そんなに平和に生きていて常用する語でもないので状況との擦り合わせに困ったというところもある。


「……早く言えよ」


 勝ち負け云々じゃない、これはそう答えないと翔成が一緒に非道になる選択肢である。


「オーケー、一緒に行こう。セン、Uターンだ」

「全員で行くの? 分かれた意味って何」


 文句を言いつつふたたびエンジンをふかした女が視線で誘導した。望夢はなんの疑いを抱いた様子もなく再びヘルメットを取って後部座席に座るが、翔成はさっきの配置で行くならどう考えても道交法違反っぽい相乗りである。


「……あぁくそ」


 慣れない悪態をついて、足をかけた。なるほど、「いい子」でいる場合ではない。


「連れてってよ」


 同乗のあいさつ代わりに低い声で呟くと、返事をするように軽快なエンジン音が唸った。



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