2:For Whom is Your Egoism(3/3)
週明け月曜日、気持ちは釈然としないがいち学生は変わらぬ登校日である。
座っていても気持ちが散漫になりがちで、二限が体育だったのがそれなりの気晴らしになった。種目はハンドボール、当クラス女子はグラウンド授業だ。
「ええ、階段とこで会って話しかけられただけだよ。瑠真の友達かって聞かれたんだよ」
「なんでそれで私より仲良くなってんだよ……」
任意で二人組を作るよう指示されたので一択で小町。ここまではいつも通りだったが、ゆるい雑談のうちに話が後輩に及んだ。恩返し系後輩こと日沖翔成である。
不意を打たれたのだが、小町はなぜかとっくに翔成と面識があった。何でも向こうから見つけて話しに来たのだと言う。
瑠真より頭一つ分背の高い小町は黙っていれば柳のような流麗な身体つきだが球技全般へなちょこである。彼女は妙なフォームでへろへろボールを投げつつ、
「翔成くんすっごい真面目だよね。お礼がしたいからどんな人なのか教えてくれって言われてしまった」
「どうせ好き勝手……」
「ふふーん、ちょっと警戒心が強いとこあるけど慣らすとカワイイ猫ちゃんだよって教えてあげた」
「ぶん殴るわよ!」
全力で返球すると受け取れなかった小町がよりにもよって顔で受けてぼふっと言った。
「あ」いちおう言い訳すると狙ってはいない。「ごめん」
横に逸れたボールがてんてんとグラウンドを転がっていく。文化系美少女が鼻を押さえて「いてー」と文句を言うので、怪我がないことだけ確認して瑠真が追いかけに行った。
グラウンドの反対側を占有している男子集団がどうやら一年生らしいのが走りながらわかった。歩調を緩めてボールを拾い上げながら目で探す。やはりというか、チビすけだらけの頭の中に見覚えのあるさらさら髪が混じっていた。翔成だ。
「ん……」
日沖翔成が何やら囲まれている。注目を受けているというか、群がられているというか、どうやら心配されている。目を凝らして数歩近づいて、血の色に気が付いた。
「何……?」
どきりと嫌な感じがして、グラウンドを横切った。自分たちの授業に戻らなければならないはずだが、ちょっとくらい目零してもらう。
一年生たちがざわざわ言っていた。
「保健室行きなよ」
「せんせぇ」
「付き添う?」
対して真ん中にいる翔成が首を振って輪を離れる。
「いや、だいじょぶ。ちょっと休んでくる」
「日沖翔成」
瑠真が十歩遠くから声をかけた。
振り向いた翔成が小町と同じく顔の真ん中を押さえていたので最初に外傷を疑った。急な鼻血を本人も予期していなかったらしく、夏物の白い体操服の前面と手のひらをじっとり粘っこい血に汚している。どうやら一年生たちは短距離走のタイムか何かを取っていたらしかった。顔面だけを怪我する競技ではない。
翔成が焦って取り繕うような仕草を見せた。気持ちは分かるが誤魔化せる状態でもない。
「ええと、せんぱい……」
「私付き添うけど。保健室? の前に洗面台?」
「あーっ、あー、あのですね、この期に及んで恩を作らせないで貰えます、こないだで清算したつもりだったんですけど……」
「うるさいな、理屈ばっかっ」
逃げようとするので思わずむっとして、腕を掴んで向き直らせた。怯んだみたいな表情がどうにも消耗していた。疲労による出血だったかもしれない。
腹が立った。意地でも休ませてやる。
「行くよ」
「うげえ」後輩が普通に嫌そうな反応をした。「完全に立つ瀬がない」
「あ、あのう」
背後から翔成のクラスメイトらしい大人しそうな少年がこそっと話しかけてきた。声をひそめているが周り全員聞いている。
「日沖くん、今朝からずっと体調悪そうだったんで、見てあげてください」
「いや私医者じゃないから言われても困るけど。まぁ聞いとくわ。そうなの?」
後輩に話を振ると少年は綺麗な髪の頂をがっくりと項垂れた。「言われたくなかったんですけど」
とりあえず一年生集団を離れて翔成の手を引くと、諦めたのか後輩は素直に引っ張られてついてきた。途中でこっちに気づいたらしい小町が駆け寄ってきた。
「あれえ、翔成くんじゃん、どうしたの?」
「保健室連れてく。ちょうどいいや、言い訳しといて、私サボるから」
小脇に抱えていたハンドボールを下手に投げると、案の定受け取れない小町がその場でわたわたした。何度か弾いた空中のボールを掴み取って、「瑠真あのねえ」
翔成が顔を逸らした。
「うう、小町さんにまで醜態を見られてしまった、お嫁に行けない」
「元気じゃないアンタ」
「元気なんですよ、離してください」
「断る」
とりあえずその血は流すべきだし、余裕があるなら着替えたほうがいい。そもそも顔色が全く元気には見えなかった。色白の肌に隈が浮いている。
小町を追っ払ってしばらく無言になったが、とりあえず校庭の端の水道に辿り着いたので手を放して蛇口を捻ってやった。翔成はしばらくばしゃばしゃと顔を洗って、少しして落ち着いたようでほうっと息を吐きながら顔をあげた。子犬のように細かく頭を振って水気を払う。
「すみません、瑠真さん」
「いい」
また清算云々言い出すんじゃないかという気がしたので強めに遮っておく。
「休みに行くでしょ?」
「この際早退しようかな」
水道の端にもたれかかって眺めていると、後輩は汚れていない半袖の端を引っ張り上げて雑に顔をぬぐった。ハンカチを貸せばいいのかと思ったが瑠真も体操服に仕込み忘れていた。保健室までは見送るつもりで再度手を出して、ふと気が付く。
「やっぱ怪我したの」
「え。……あー、いいえ、怪我じゃないです」
あやふやな答えをして後輩は腕を擦った。それで消えるわけでもないのに。少年の左の前腕部に斑状に打ち身のような内出血の跡があった。出した手がためらった。無理に掴むことができない。
「あなたは徹底的に僕の面目を潰しますね」
からかいなのか笑い交じりにそんなことを言われたので瑠真はちょっと憤然とした。
「恩返しマニア。面目の問題じゃないでしょ」
「そうですね、はい」
あまり響いた気がしなかった。とにもかくにも真面目な後輩を保健室に連行しなければならない。突っ立っているだけでは瑠真もサボり扱いだ。
今度は自力で後ろからついてきながら、後輩はぼそぼそと言った。
「まあなんというか、この調子だとたとえ僕が海に落ちても救助に来そうな」
「その程度で人をお節介みたいに言うんじゃない。海に落ちたら誰でも助けるでしょ」
「そうですか? じゃあ旅に出てもついてきそう」
「そこまではやらないわよ」
やり取りが可笑しかったらしく後輩が笑った。
「その線引き、何が違うんですか?」
「何よ、事故じゃないなら何か自分の考えがあるんでしょ」
答えた瞬間、かすかな違和感が脳裏にまたたいた。これって私が断言していいことだっけ。
最近、つい昨日や一昨日くらい近い最近に、ここにいない誰かの話をした。くるくるとフィルムのように無意識に場面が回って、協会本局付設のカフェに行き当たる。
(「自分からいなくなったんだもの、案外楽しくやってるかもね。知らないよ」)
(「真相を知ることで瑠真ちゃん自身が傷つくことになるとは思わない?」)
なんとなく足を止めて、後輩の顔を振り向いていた。
少年が気が付いて顔を上げた。「なんです? まだ汚れてますか?」
「いや」
否定して前を向き直った。たまたま物のたとえが重なっただけで、別に後輩の面倒を見るのは山代美葉乃とは関係がない。
後輩が旅に出たら止めようとは思わないのに、美葉乃を連れ戻したいと思うのは何故だろう。疑問が頭をかすめて過ぎていったが、意識的に振り払った。
「そうだ」
連鎖的に記憶が掘り起こされて、翔成に訊きたいことを思いついた。
「このあいだくれたやくざマスコットってさ、なんかコンセプトのあるキャラクターなんだっけ?」
翔成はジンクスが云々と言っていたくらいだし、たぶんキャラクターが好きなはずだ。そう見込んでの岳下の質問の繰り返しだったが、少年は「え」とうろたえた声を出した。
「なんのコンセプトです?」
「いや、なんか企業とか仕事とかに関係あるのかなって。別にそんなこともない? じゃあいいや」
「えー、それはあげたやつを調べての質問ですかね?」
よく分からない切り返しが来た。瑠真は眉根を寄せて後輩を見た。後輩はうかがうようにこっちの視線を受け止めている。
「何を調べて?」
「あー、そうか。いいんです、気にしなくて」
視線を外された。全く会話が噛み合わない。調べろということか? 残念ながらスマホもマスコットもまとめて更衣室に置いている。休憩中に検索くらいできると思うが。
「あのね……」
説明を要求しかけたが、そこで保健室に着いた。後輩が入口の扉を引き開けて、首を突っ込む。
「すみませーん、早退前提なんですけど」
「あら、どうした? 一年生?」
中から女性養護教諭の返事が聞こえてくる。瑠真は会話の続きを飲み込んで扉を離れた。面倒だが付き添い任務が終わった以上校庭に戻ったほうがいい。授業時間はまだ半分ほどある。
翔成の頭がくるりと振り向いた。
「ありがとうございます、瑠真さん」
「あー、ちゃんと休んでよ」
改まって礼を言われたのでちょっとかしこまって突き放すような言い方になった。翔成はふっと微笑んで敷居をまたいだ。
「清算は自分で決めてやるものなので、口出さないでくださいね」
「また恩返し? エンドレスだな」
口をとがらせて言い返したところで、引き戸が閉まった。瑠真は肩をすくめて保健室に背を向けた。養護教諭に預けた以上瑠真が引っ張っているよりよっぽど心配ないだろう。回復してまたまとわりついてくるならそれはそれだ。
(「何よ、事故じゃないなら何か自分の考えがあるんでしょ」)
自分で言った言葉が歩きながらフラッシュバックした。あの答え方は正解だったのだろうかという、人と別れた後特有の思い返しの感覚だ。清算は自分で決めてやるものって……その論理だと他にも他人に関わる色んなことが手出し無用になってしまう気がするけど。
「あぁもう」
望夢に新野に今度は後輩にまで、ああしろこうしろと言われすぎて頭がこんがらがってきた。もともとこんなに考えて動くタイプではない。行きたいと思ったら行くし、嫌だと思ったら拒否する、そういう風にふるまってきた。今さら命題を突き付けられても困る。
首を振ってまた蘇ってきかけた八月の雨音を鼓膜から振り払った。分かってないって言うな。何を分かれって言うんだ、何も言わないくせに。
何のために人を助けるんだろう、と思った。望まない誰かに手を差し伸べる意味って、誰のため。
×××
「杏佳、頼んでおった依頼元と連絡は取れたかの?」
「はい。公的な質問の範囲で特に問題はありませんでした。会社として存在することは間違いありませんし、経営規模と取引額にも齟齬はない。ごく普通の子会社です」
杏佳はいつも通りコーヒーメーカーを沸かしながら淡々と答えた。陽気だけは穏やかな五月の午後。どれだけ五月晴れが綺麗でも、裏の会長がどれだけ温和な顔をしていようとも、こういう日は表裏社会のそれぞれの管轄について情報交換の時間でもある。
「ふぅむ、そうなると、山代の妹の居場所としては怪しいのう。妾のほうで尻尾が掴めると良いのじゃが……ん」
隣で湯沸かし器も点灯した。杏佳が自分のコーヒーだけを淹れて立ったまま嗜んでいると、不満げに小さな手がたしたしと机を叩く。ココアの粉末が注がれたカップがその隣で自己主張している。
杏佳は無感動な目で資料を繰りつつ、
「自分で淹れてください」
「むぅ、ほんの愛嬌じゃろうて?」
少女は完全に横着していた。ちょいちょいと指を曲げると、机から吹きこぼれるように術製の蔓草が生えた。その蔓葉がむくむく育って広がり、机からカップを絡めとって回収してことんと湯沸かし器の前に置く。
冷めた目で眺めつつ、さすがに蔓草では押せないらしい給湯ボタンのみ杏佳が押してやる。
「逆に面倒でしょうに」
「おぉ気が利くな、分かっておろうに。たまにこうして、手の込んだ真似をせぬと使わぬ花言葉が訛ってしま―んんんっ⁉」
春姫が素っ頓狂な声を上げた。
突然急成長した蔓草がカップを跳ね上げて、アツアツのココアを盛大に着物の前身頃にぶちまけたのだった。らしくない失敗と動揺ぶりに杏佳はぽかんとして己の会長を眺める。
「か、会長……?」
少女はあわててばたばたと手を振り回した。動きに釣られて何の用途だかもよく分からない花びらが虚空にひらひらと巻き上がり、片っ端から空気にほどけて消えていく。無意味に美麗な動揺の後、見た目だけは幼い名誉会長は金色の涙目で動きを止めた。
「あ、あやつら……何をしておるのじゃ?」
ぷるぷる震えながら少女は言った。
「はい?」
杏佳は眉根を寄せて問い返した。
×××
放課後、小町づてに担任教師から質問された。どうやら体育を半分サボったのが体育教師からか耳に入ったらしく、保健室にいたのなら問診票を持ってこいとお達しがあったそうだ。
「はぁ? めんどくさ……」
「ごめんよ瑠真ぁ、わたしが本人の体調不良だって言っちゃったからさ」
「セクハラ教師め。生理痛でトイレに籠ってましたって言っても証明書を書かせるのか?」
憮然としたが、後輩の付き添いになぜか学年違いでサボりに行ったのは説明が難しい。小町の言い訳自体には非がない。担任を丸め込みに行くか、養護教諭を強請って適当な問診を書いてもらうか、迷った末に普通に保健室にその後の翔成の様子を聞きに行こうと思いついた。何も嘘の方向で押し通さなくても、知り合いの後輩の体調がそこそこ切羽詰まっていたのだという説明をすればいいし、よしんばそれで説教を受けても瑠真自身が不愉快なだけだ。
小町と別れて教室を離れ、階段を降りる。一年生の教室を横目に見つつ保健室に向かったが、少なくとも目に映る範囲で翔成の姿はなかった。途中すれ違ったさっきのおとなしそうな一年生男子が怖い先輩を前にしたように首をちぢこめてお辞儀をした。別に瑠真はボスではない。
保健室の戸をノックすると、養護教諭がさっきのように「はぁい」と扉越しの声を響かせた。
「怪我? 休憩? 体調不良?」
「えーと、二限に送ってきた一年生の体調を聞きたいんですけど」
扉の向こうで机につき、引き出しを整理していたらしい養護教諭は、瑠真の返事を聞いて目をぱちくりした。四十代ほどの女性だ。
「日沖くんの先輩?」
「あ、はい」
「うわぁ、引率ありがとうね、あの子だいぶ酷い調子だったみたいだから」
今度は瑠真が目をしばたく番だった。
「そんなに?」
「一人で帰すの心配だったんだけど、迎えは呼びたくないって言うしね」
彼女は手元のバインダーをめくって、翔成の問診票らしい一枚をじっと見た。
「聞いてない? 仲がいいんだったら、お見舞いして様子を見てあげた方がいいと思うんだけど」
瑠真は不穏な空気を感じ取りながら机に歩み寄った。
「暑さにやられて鼻血とかだと思ってましたけど」
「いいえ、……」
なぜか養護教諭は問診票をぱたんと閉じてしまった。さりげなく視界から隠すように引き出しに入れてしまい、座ったままで瑠真を改めて見上げる。
「担任の先生、国語科の谷中さんよ。知ってる?」
「……名前だけだけど、行ってみます」
もやもやとした気持ちになっていた。情報を伏せられるのは無条件にほぼ嫌いだ。よほど個人の事情かなにかに関わる状態だったのだろうか、見舞いに行ったほうがいいと言うのなら本人を揺すって聞き出してやる。
谷中とかいう教師は確か隣のクラスの現代文を持っていた。ぼんやりと後輩の揺さぶり方を想像しながら、挨拶をして保健室を後にした。
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翔成の担任教師はだるだるのスラックスにぼろいサボサンダル履きの、なんというか一部保護者からは眉をひそめられそうな四〇絡みの男だった。プライベートではタバコを咥えていそうな不良教師感がある。
「えーと、日沖くんの知り合いなんですけど」
「うん? 二年生?」
「二年三組の七崎です」
二年のネクタイを引っ張って身元を明らかにすると、教師が大袈裟に両手を挙げて歓迎の意を表明した。
「七崎さん、七崎瑠真」
「え、知ってるの」
「日沖からかねがね」
「はー?」
身を引いたが目の前に椅子を出されてしまった。椅子と言っても職員室の常、最初から空いていた机の前から引っ張ってきたキャスター付きだが。
座らないわけにも行かないので浅く腰かけたが、この貴賓扱いは逆に居心地がよくない。国語教師は変な愛想のよさで、
「えー、体調を聞きに来てくれた?」
「保健室行ったんですけど。お見舞いしないかって」
「ああ、可能ならお願いしたいな。配布物を届けて貰っても?」
「いいけど……」
翔成向けらしい配布物クリアファイルを手に取り、節ばった指先で紙封筒を探す教師に、瑠真は半眼になって追及した。ずっと気になっていたことだ。
「翔成くん、クラスに友達いないわけ?」
教師が手を止めた。
「……浮いてるわけでもないんだけどなぁ」
低い声だ。これまでの愛想のある喋り方から一転、不良な見た目にむしろ見合った物憂い声だった。
元から先輩にばかりくっついてくるのは暇なのかと思っていたが、保健室に連れて行ったあたりでだいぶ疑わしくなっていた。体操着の同級生たちに心配こそされていたが、積極的に飛び出して面倒を見ようとする一年生が誰もいなかったのが気になったのだ。強いて言えば声をかけてきたおとなしそうな少年が一人いたものの、距離感はだいぶあった。男子ならそんなものかもしれないと見流していたが。
男性教師が封筒を引っ張り出していた。
「真面目だし愛嬌もあるし、無害なやつなんだが。なんというか、誰とでも仲良くできるけど、下手にいいやつだから特定の仲良しができないのかなと思って見てる」
「……小町みたいな」
「何か言った?」
「いいえ」
誰とでも仲がいいが、特定のコミュニティはない。ほとんど自動的に相棒の少女と重なっていたが、厳密には根本的なところで少し違う。小町はそれを意識して自らのポジションに定めている。無害ないいやつどころか目立ちまくりの変人ではあるが。翔成は……分からない、学生生活の定番イベントを先輩つかまえてやりたがる奴だった。
何を考えていたんだ。本当はどうしたいのだろう。
「まあ、仲のいい先輩がいるみたいだから心配はしてないよ」
仲のいい先輩、と一括りにされた。恩返し云々のしがらみがある瑠真より後ろで結託していたらしい小町を信頼してほしい。
黙ったままの瑠真に対して教師は勝手に話を進めて、
「というわけで、後輩に免じて届け物に行ってくれるかな。ついでに明日にでもこっそり様子を教えてくれると嬉しい」
それ自体には異論がなかった。ただ、ついさっき保健室で伏せられた問診票がまだ意識に引っかかっている。
「翔成くん、どういう体調で早退したの?」
こちらも低い声で探るように尋ねると、教師は机の上で指をとんとんと鳴らした。最初から言うつもりで準備していたらしい。
「鼻血、顔色、筋肉痛」
「筋肉痛?」
それは初耳だ。腕の内出血も同じ原因だったのだろうか。
「全身の痛み、って養護さんには説明してもらったけどな。とりあえず俺が心配なのは、日沖が明らかに精神的に参ってることのほうだ。たぶん普通の状態じゃない」
筋肉痛以上に寝耳に水だった。精神的に参っている? さっきの体育の時間もか?
「この数日で……」
反応に困った。たとえ今日がそうだったとして、先週は元気そうだったはず。
(元気そうだった……?)
ふと思い出した。瑠真を待っている間下駄箱で眠っていた日沖翔成は、「連日の疲労で」と欠伸をした。
自ら疲労を表明していた? 空元気? あの時点で気にしておけばよかった。
教師は続いて別のファイルをブックスタンドの間から取り出すと、ぱらぱらと捲った。クラスで回収する住所や家族構成の記入表らしい。日沖翔成のページを見つけると、机の上に開いて、適当な裏紙に住所を書き写し始める。
「徒歩で一五分、二十分ってところだ。任せて悪いね」
「じゃあ、うちの担任に説明しといてよ。二限怒られたんで」
「なんじゃそりゃ。まぁ意味わからんがね、授業中に先輩が連れてくるのはね」
意外に綺麗な字で書き写された住所を受け取る。スマホに道案内を打ち込む。国語教師はファイルを両手で持って傾けながら深い溜息を吐いた。
「クラスでは目立たないけど先輩とは仲良くて、成績も標準、家族関係良好、持病なし。……こういう何の問題もないいい子に、突然持ち崩されたら何にも分からんね」
地図アプリをいじる手が一瞬とまる。何の問題もないいい子。瑠真には想像ができない。ずっと正反対の評価を受け続けてきたからだ。それなら多少なりとも翔成とタイプが似ていて理解がありそうな、小町などのほうを見舞いに送り込むべきじゃないだろうか。教室にまだいるだろうから連れて行ってもいいけど。
迷いながら国語教師のほうへ目を向けたとき、彼が広げているファイルの一部分が目にとまった。見ようとしたというよりも、ここ最近ずっと意識の中にあったキーワードが自然に視界に飛び込んできたのだ。
医薬。
「待って」
用済みのファイルを閉じようとする教師に制止をかけた。
考える前にその手元からファイルを奪い取っていた。「おいおい」間延びした声で慌てられたがその前に必要なことの確認は済んでいる。続柄・母、日沖叶恵/ヒオキカナエ。職業・パートタイム。続柄・父、日沖成実/ヒオキナルミ。……職業・医薬販売(経営)。
「翔成くんの家って、会社持ってるの?」
ファイルの端を握りしめて尋ねた。答える前にもう一度ファイルを奪い返されて、きっちりと仕舞われた。勝手に見るなということらしい。
「あんまり許可取らずに話すものじゃないんだけどな、今から行くんだもんな。日沖医薬って、そのままだよ」
「ヒオキイヤク……」
「そんなに有名な会社ではないと思うぞ。CMは打ってない。どこかのグループの傘下だし」
ぞくりと背中が震えた。昨日の依頼、翔成の様子、ホムラグループ。意味ありげな点と点が頭の中で繋がりそうに回りだす。
「成実さんて、お父さんがなかなかいい人だから聞いてみるといいよ。会社が気になるなら」
これ以上国語教師からは聞くことができなさそうだった。瑠真はじりじりと繋がらないイメージを思い浮かべながら、礼を言って国語科準備室を辞した。
額に手をやって知恵熱を覚ましつつ、インターネットブラウザで日沖医薬を検索した。校内の弱い電波でしばらくもどかしい白画面が続いた後、ぱっと画像が表示された。
明らかに別件で見たことがある白い建物。丸くデフォルメされたヨットのマーク。
「ホムラグループだ……!」
何が何だかわからなかったが、とにかくまずいという気持ちになっていた。連絡アプリを立ちあげると、個人で使うことはないと思っていた名前をほとんど思案なしに選んだ。元より一番詳しいだろう、ほかに訊く相手が思い当たらない。
『後輩がホムラグループの関係者かもしれない。身体を壊すようなことって何がある?』
スマホカバーのストラップホールから、かわいいようでかわいくないやくざな眼帯ネコがぶらんと揺れた。
×××
「後輩……?」
学校帰り、ペアから珍しい連絡がきた。
画像が送られてきた。ホムラグループ傘下の小さな会社の公式ページだ。ここの息子、とかそういうことだろうか? 身体を壊した? 正直、これだけでは何も分からない。詳しく教えろ、と返事を送り返した。
ただ、確証がなくていいのであればやや引っかかっていたことがあった。先日の依頼で耳にした灯火病院プロジェクトとやらを望夢は暇つぶしに調べて、気になる文言を見つけていた。強制開花……
背後で突如膨れ上がった気配に、はっとスマホから顔を上げた。
ズバチィ‼と首筋に衝撃が走った。一瞬視界が白飛びし、手足の自由が奪われる。朦朧と連想が動いた。
(電気ショック……スタンガン?)
だったほうがまずかった。思考能力も持って行かれそうになったが、直前に感じた秘力……、いや異化力の感覚が意識を繋ぎ止めた。
これはペタルで形作られた“「行動を奪う」という意思そのもの”だ。異能なら……俺の知ってる解釈だったら、打ち消せる。
(協会式……と、ちょっと違う気がするけど!)
協会式のフレームを適用、現象解析、算出。「行動を奪う意思」の形を図式化する。逆算式の方向に自身の異化力を流し込む。初期状態にする。
平衡感覚が戻ってくる。やはり若干ラグがあって痛みが残ったが、視界は鮮明になった。協会式、あるいはその類似品だ。間違いない。
「誰だっ……」
振り向けない。背後から肩に手を回されている。振り払おうと相手の手首を掴んだのと同時、相手が反対の手で素早く何かを取り出し、望夢の肩口にすっと当てた。
「……ッ」
鋭い痛みが跳ね、身を動かしたのが逆に凶に出て、体内を掻きまわされるような不快な感触で熱が爆発した。
「い……っ」
痛い、というより、一秒後には、それは吐き気に近くなっていた。
先程の電気ショックが一時的な衝撃による自失を誘うものだとしたら、今度のそれは内側から突き上げるような熱さが暴れ狂うたぐいの生理的違和だった。何か決定的に過剰なエネルギーが意識を手放すよう襲いかかってくる。打ち消すためのフレームを探り当てようとして、ぞっとする。この身体的負荷は。
これも、ついさっき考えていなかったら、特定に辿り着かないところだった。
相手は仕事を終えたと思ったらしい。望夢の襟から手を放すが、望夢が逆に掴んでいた手首を離さなかった。
(普段はやらないんだけどな……っ)
派手にやらないと、ゼロにならない。
カッと眩い閃光と熱がその手を起点に発散された。「うあっ⁉」相手が握った手を振り解こうとするが、こっちは逆にその手を引き寄せてくるりと身体を返した。肩で息をしながら、さらに振り払うように周囲で小規模な爆発を具現させた。脅迫と察した相手が動きを止める。ようやくぐるぐる回っていた五感が正常に戻り、過剰なものを吐き出し切ったことを悟る。
位置関係が逆転した。相手の手を後ろに回して拘束した形になる。荒れ狂っていた感覚がようやく落ち着いて、相手を冷静に観察できるようになった。
「あれ……」
最初に思ったのは、小さい、だった。
てっきり大人の襲撃者を想定していた視界に、頭一つ、二つ分くらいの修正が入る。振り回された相手の頭部からぱたんと黒い野球帽が落ちた。さらさらした髪が顔を隠すように前に流れる。
「お前……」
どこかで会ったっけ?と言いかけたとき、少年ががりっと口の中で何かを噛み砕いた。
「……!」
さっきの望夢がやったことの逆、今度は少年の側から弾けるような閃光が目を焼いた。思わず視界を庇って手が緩んだ隙に、身体を捻るようにして少年が拘束を抜け出した。
苦いものでも食べたように顔をしかめながら、こちらに向き直ってポケットに手を入れる。取り出したのはアウトドア用の飛び出しナイフ……さっきまでより分かりやすい凶器だ。
「高瀬望夢……だな?」
女の子みたいな顔立ちに、せいぜい同年代かもっと下かもしれない体躯。
「お前を殺しにきた」
綺麗な顔を歪めて、少年は笑った。
後輩ってこいつか、とわりと自然に思った。




