5:協会のロストチルドレン-3
×××
「なかなか、うまくいかないものですね」
独り言を言って男は通信を切った。喚いていた部下の声がぱちりと途絶えた。後に残るのはしんと不気味な静寂。人をさがらせ、一人で控えた部屋の中には、簡素な机と椅子が一揃いしかない。
彼は椅子を押して立ち上がると、その背に掛けていたジャケットを取り上げて羽織った。痩身に淡い色の衣服、白髪に近い髪が相まって、どこか病的な印象を与える立ち姿。
部屋を出て、彼しか立ち入らない裏口から軽い足取りで外に出た。暗い空を蔽うように雲が出ていた。
高瀬式秘術の総本家は一子相伝式だ。
それはあくまで秘奥の秘奥、最も重要な知識と技術に限った話であり、各代の当主が取った弟子、さらにその弟子らがまとめて秘術師の連帯を為している。ゆるやかな繋がりで、各個人は互いの背景も、時には使う秘術も知らず別々に生活する。だがしかし、その全員が当主、ひいては総本家の決定に従うこともまた、大前提として共有された意志だった。
では、その本家が総崩れした際に誰が指揮を執るか?
湿った空気のわだかまる路地裏を、男はひょいひょいと歩いていた。仮の拠点にしてきた地下はすでに遠く背後だ。離れることに未練はなかった。どのみち彼はそこにいるべき人間ではない。
混乱、分裂、内部対立。夏の一件ですっかり指揮系統を失った秘術師連で、彼は若者たちを扇動して頂点に立った。うまくいけばこの形で、自分が秘術師の中枢を乗っ取れるはずだった。元よりそれは失敗が前提の、実験に近い試みにすぎなかったのだが。
携帯電話を操作して耳に当てていた。無機質な呼び出し音が耳元で響いている。
秘術師の家元に外部の研究協力者という形で潜り込んでからはや数年。彼の本業は別勢力に囲い込まれた異能の研究家だ。この手の研究家は社会の表裏問わず無数にいて、その中で名を挙げるにはある程度の冒険が必要になる。彼の場合は高瀬家がそうだった。ここで集めた知識を持ち帰って、そろそろ本業の方に戻る頃合いだ。
ぷつっ、と呼び出し音が淡いノイズに取って代わられた。
「お久しぶりですね」
彼は笑って語りかける。かつていた組織の誰かが電話の向こうで聞いている。
「どこまで追っていただいていたのか存じかねますが、ええまあ、一言でいえば失敗しました。当初の相談通り、合流をお願いしましょう」
ザザ、と電話の向こうで吐息が鳴った。「何です? 聞き取れませんでしたが」彼は電話をより強く耳に押し当てる。不自然な無反応があった後、電話の相手は突然クリアになった声質でこう告げた。
曰く、合流する必要はないと。
それきり細い電子音に切り替わった電話機を彼は耳から離し、画面を眺めた。数秒で液晶が消え、物言わぬ金属塊となって重みだけを主張し始める。
彼は微笑んだまま呟いた。
「……やられた」
そのとき、背後でアスファルトを擦るような足音が聞こえた。通行人かと思ったが、足音はそこで止まった。一人ではなく、いくつか続いて物音が増殖し、気づけば退路を塞ぐように生暖かい人の気配がずらりと並ぶ。
彼は振り返らないまま、ゆっくりと両手を挙げた。背後から凶暴な鋭い風が掠め、彼の手から真っ二つになった携帯電話が滑り落ちた。
「よぉ、おっさん」
ついさっきまで部下だった男の声が聞こえた。それで彼は悟った。逃げるのが少々遅かったことを。
総本家に代わって指揮系統を乗っ取ることはできても、伝統によって培われた信用までは奪い取れず。
それを初めから読んでいたはずの元の所属先だって、わざわざ守る労力を割くとは限らない。
いくつかの秘術の気配が殺気を持って膨れ上がった。彼はアスファルトに崩れ落ちる直前まで、微笑みを絶やさなかった。
春の雨が降り出していた。
先ほどと似た、アスファルトを擦る足音に、水たまりを踏む音が混じっていた。ぴちゃりと鳴った足元を見下ろして、立ち止まった人影がややつま先を引いた。
「哀れなものよの」
涼やかに情のこもった、細い雨そのもののような声がそう言った。彼はアスファルトに寝転んだまま口の端を持ち上げた。
「ご足労、身に余りますね。再び、拝謁の栄に浴するとは」
「なぁに、挨拶せぬわけにもいくまい」
彼の視界には、せいぜい相手の膝から下しか映らなかった。野暮ったいスニーカーを履いた細い脚。
その上から、声は続けて降ってくる。
「のう。お主に足りなんだものは、なんじゃと思う?」
「…………」
「話を請うのも酷じゃな。よい、黙って聞いておれ」
彼女の方が、膝を折って身を落としてきた。滲むような雨の中で、声が聞こえやすくなる。顔はまだ見えない。
「単純に家柄や血筋の問題に逃げるでないぞ。戦場に身を置くこと。戦う者どもの傍におること。高みの見物を、旗下の者が信じると思うな。……すべてを愛さぬ者に、長たる資格はない」
諭すような語りを聞きながら、彼は力を絞り出して顔を動かした。視界がスライドして、レインコートをすっぽり被った、フードの奥の瞳を捉える。
「愛せよ、愛ゆえに戦え。……これは協会の流儀じゃて、お主らには分からぬかもしれぬな」
彼女はふうっと微笑んで、金色の瞳を三日月のように細めた。コートの奥に入れた手が、白く粒子を散らす花を取り出した。春の雪のようなその花弁が優しく彼の視界を塞ぎ、彼の見たものはそれで最後になった。
5:協会のロストチルドレン Fin.




