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高瀬望夢が協会から戻った先の話。
日が暮れていた。
夜間はバーに変わる喫茶店に三人ほどが交代で張っていた。その当番から連絡があった。それからの時間は、追手がないことの確認と、複雑な道を辿ってここまで来ることに費やされたと言っていい。
その間に続々と人間が集まってくるのを、周東は面白がって眺めていた。
都会の地下ってのは本当にダンジョンだ、と彼は思う。地下鉄が入り乱れているはずの地区に、どうやってこんなに広大な空間を確保したのだろう。あるいはそこにも何らかの異能が働いているのかもしれないが。
そこが彼らの、暫定の隠れ家だった。コンクリ打ちっぱなしの大広間と、そこから続くいくつかの小部屋。とある事情から本拠地が使えなくなった彼らが確保した、見劣りはするが十分に広い拠点だ。
「用意はどうですか」
いつの間にか隣にいた白髪の男が訊いてきた。
「体勢としては、オッケーです。気分としては、ノーですね」
周東は適当に答える。白髪の司令塔は、諭すような笑顔をこちらに向けた。
「祝うべきですよ。我々の再生の時です」
彼は答えなかった。
直後、広間の正面扉が開いて、四つの人影が姿を現した。うち三つは店に張っていた当番員。もう一つが、鳶色の髪をした小柄な少年だった。
少年の無表情な眼が広間の有象無象をぐるりと見渡す。
「これはこれは」
芝居がかった仕草で白髪の男が手を広げた。
「よくぞお帰りに。我々は貴方を歓迎します」
男が深々と頭を下げると、背後の人々も追随して礼をとった。しかし全員ではない。一部は棒立ちの姿勢のまま、冷え冷えとした眼を少年に向けている。周東も含め。
少年の瞳が一瞬周東の視線とかち合ったが、特に反応なくすぐに通り過ぎた。
「やめろ」
少年がそう告げたのは敬礼の仕草に対してだった。感慨なくばらばらと広間に頭が上がる。司令塔が命じたような前向きな面持ちなんて、この場にいくつもない。
当然だ、と周東は思う。むしろ多数派なのは憎しみの情だろう。
「俺は『協力』をする。それが具体的な利益になるからだ」
少年の淡々とした声が続く。決して大きい声ではないが人の多い広間によく通る。
「無条件に返り咲いたつもりはない。そのつもりで扱え」
「分かっていますよ」
答えたのは白髪の男だった。いちばんゆっくりと頭を上げた彼とて、笑顔の裏に敬服の意がないことは不思議でもなんでもない。
「詳しいお話をしましょうか」
「それでいい」
少年が踏み出す。男とはまだ数歩分の距離がある。
その一歩目が地面に着く前に、周東は密かに視線を鋭くした。
次の一瞬で状況が急転した。
周東が飛び出して少年を突き飛ばした。少年は後ろにいた人間にぶつかった。彼が元いた場所でじわりとコンクリートが変色し、陣のような文様が浮かび上がる。しかしほとんどの人間がそれを視認する前に何事もなかったかのように立ち消えた。
周東はその一歩前に立ち塞がり、広間に目を走らせた。その手の中にカチリと馴染の暗器を用意する。
しかし振るう必要はなかった。正面で手を挙げていた一人の男が逃走を試み、周りにいた別の人間たちが既に押さえかかっていたからである。気の短そうな染め髪の男が、複数名の拘束の中で苦悶の呻きを上げる。
「ちくしょう、何がおかしい?」
その腹に黙れと容赦のない蹴りが入ったが、彼は咽せかえりながらも怨嗟の声を吐いた。
「誰だって納得いかねえはずだ。ソイツは俺たちを裏切った。ソイツのせいで俺たちの立場が狂った! 何が協力だ⁉ 誰でも恨むだろう!」
「連れ出しなさい」
「はい」
押さえていたうちの一人が、白髪の司令の言葉を受けて頷く。近くの人間たちが道を空けたが、男は叫ぶのをやめなかった。
「俺だけじゃねえだろう! 頭を下げなかったのは誰だ⁉ 味方と敵どっちが多い⁉ 今が好機だ、やれ――!」
人混みがざわりとうごめいた。広間のあちこちからカチカチと硬い物音が響いた。それぞれの戦闘準備だ。喚いていた男が勝ち誇ったような笑みを浮かべる。全員が自分の側ではなかったとしても、動揺を引き起こしただけで勝ちだとでも言いたげに。
背後で少年がぽつんと呟いた。
「殺すなよ」
「今さら命乞いかよ!」
嘲笑ったのは先ほどの男か。
塗りつぶすように、空気が吠えた。そう錯覚したくなるほどに、無数の異能が一点に殺到した。
周東は目を閉じなかった。
やがて感覚を支配していた強烈な異能の名残が消えた。五感がはっきりと戻り、目の前の光景が明瞭に把握できる。笑いたいくらい明瞭に。
哀れな被害者は事態が把握できていないようだった。全方向からの攻撃を受け、それでも辛うじて生きているのが却って悲惨だった。先ほどまで勝ち誇っていた顔が、訝るような奇妙な歪み方をし、その後ふっと力を失くす。
信じられなくて当然だろう。動揺させたと思いこんだ人間たちが、一糸乱れず自分を襲ったのだから。
「治癒をかけなさい。無力化して独房に繋いでおくこと。殺してはいけませんよ」
白髪の司令は楽しんでいるようだった。
「たってのご希望ですからね。我々の象徴の」
周東は振り向いた。少年は俯いたままじっと一点を見つめていた。
その悲壮な肩に、彼は毒々しい笑みを浮かべる。そんなに人死にが嫌いか? 高瀬望夢。そんなことで権威の象徴なんか務まるのか?
こんな甘ったれたガキに異能を担う名家が零落させられたのか、と思うと、怒りより先に笑ってしまいそうだった。
×××
「高瀬望夢。変わった苗字ではないわな? しかしな、異能史の問題になると意味が変わってくるのじゃ」
「聞いたことないわよ……異能史だとしても」
「それはそうじゃの。一般的には存在せぬことになっておるでな」
「存在しない……?」
「うむ。方針の違いじゃの。我らはそれをワールドプレットと呼ぶ」
「ワールド……?」
「世界解釈、という言葉から来る造語じゃ。噛み砕いて言えば、六〇年前、『灯火』は異能の世界に光を望んだ。しかし望まない者もおった。陰の中で既得権益を得ておった者どもは、その恩恵を得る者の数が増えるのを良しとしなかった」
「……」
「『灯火』はあらゆる異能を公開しようと試みた。そのためにあらゆる勢力に掛け合った。しかし、自分らの秘奥のみは明け渡してやるものかと、却って頑なに立てこもった者がいたのも当然じゃ。内容の削除を求める者もおったな。かくして『灯火』の作る異能分類は一から七版を重ねた」
「『八式』分類……」
「そういうことじゃ」
「じゃぁアイツは、私たちの知らない異能を今でも隠してる奴らの生き残り……?」
「妾に言わせればさしたる違いはないのじゃがなぁ。正確には、お主が知った連中はその生き残りの一部じゃ」
「他にもいるの?」
「応ともよ。困ったことにな」
「どうして……? 若いヤツも多かった。開放時代を知ってる歳じゃない」
「皆が皆、お主のように恵まれておるわけではないということじゃ」
×××
目を開けると、いつになく身体が軽かった。
「気分は?」
傍らで見ていた白髪の男が微笑んで言う。望夢は簡易ベッドの上で上体を起こし、右手を見下ろして握ったり開いたりする。
不思議な心地だった。枷を付けられた状態に慣れきっていて、外れると落ち着かないような。
「神名との契約が貴方の語った通りなら、これで全てが断ち切れたはずです。そうですね?」
「はい」
施術に当たっていた若者が頷いて席を立とうとする。望夢と男の話し合いに配慮して退出するつもりらしい。
「ちょっと待て。試していいか?」
望夢はベッドを降りて向き直った。男が薄笑いで見下ろしてくる。
「余計なことはしない方が得策と存じますが」
「分かってる、そんなこと。だから二対一で余計なことができない間に言ってるんだ」
若者がポケットから取り出した物体を放り寄越してきた。頭の上で受け取って検める。ライターだ。
「自分の得意分野なんで。何かあったら打ち消します」
望夢は終いまで聞かずに火を擦った。小さな炎が灯るか灯らないか、力を込めると火の粉が舞い散って炎が数十倍もの大きさに膨れ上がる。
壁に向かって手を振るう。壁と天井の継ぎ目に沿って青白い炎が素早く走る。部屋の角を伝って床にも燃える筋が広がるが、白髪の男と若者は微動だにしない。
望夢は落ち零れなどではなかった。否定もする気はなかったが、ひととおりの技術も知識もある。それが協会の敷いたルールに適合するかどうかの問題で。
しばらく二人を睨みつけていたが、望夢はおもむろにライターを切った。室内の青い炎が一斉に掻き消えた。壁にも床にも焦げ目一つない。
ライターを投げ返すと、若者は危なげなくそれを受け取ってポケットに仕舞った。
「満足しましたか?」
男は尋ねてはきたが、望夢の答えをさほど待ってはいなかった。
「それでは、今後の話に移りましょうか。席をはずしてもらえますか?」
若者は無言で部屋を出ていった。パタンと静かに扉が閉まるのを確認するかしないか、男は愉快でたまらない顔で話しかけてくる。
「改めて、よくお帰りを。『協力』感謝します」
「お前の話を確認する」
望夢は冷ややかな口調で歯の浮くような文句を遮った。
「うちの本家は複数の派閥に割れて、にらみ合いの状況にある。去年の騒動を協会の手引きと勘違いして、協会を狙っている勢力も少なからずいる。そうだな?」
「そして我々は、主犯が協会ではないことを知っている。協会などにあんなことが出来ようはずもありません。それに、そちら側に手を出すのはスマートではないですから」
「放っておけばいつどの勢力が事に及ぶか分からない。先手を打って、求心力としての『権威』を取り戻す必要があった」
「貴方には秘術の中枢として、他の誰にもない教育がある。それこそ全勢力が舌なめずりして欲しがるほどの」
「だから無用な手出しは防げるってことだったな? 俺が戻れば、中立で傍観していた連中がこっちになびく。拮抗から早く抜け出た者勝ちだって」
「のみならず、家柄を取り戻せば、我々の流派に留まらぬ全異能界の威信も得ることができます」
「そんな簡単にいくもんか?」
望夢は喋りながら簡易ベッドに寄りかかった。男は首を振って滑らかに答える。
「今後も障害を除いていく必要はあるでしょう。先ほどの広間での茶番は、恐らく他勢力にも伝わっていると思います。あれで威圧ができればいいのですが、まぁ今後も看過できない動きが起これば、一つ一つ制圧していくしかないでしょうね」
「一つ条件をつける。協会の会員には手を出すな」
協会に特別思い入れがあるわけではなかったが、派手な事件が起こると寝覚めが悪い。妙に冷静な心持ちでそんなことを考える。
「会員だけじゃない、職員や外部協力者や顧客、それぞれの家族にも。他勢力がこのあたりに狙いをつけるのも可能な限り止めろ。これが守れないようなら、俺は『協力』を放棄して、できる限りお前たちが困る手段で死ぬ」
男は目だけで笑っているようだった。
「いきなり死ぬだなんて、物騒ですねえ」
「どうせそのうち殺すだろ? 必要なものを引き出しきったら」
望夢のほうも少し笑って切り返すと、相手は同じ目つきのまま答えなかった。望夢の心中に諦観の影が落ちる。やはり否定はない。
「協会のことだけじゃない。今まで俺に語ったすべてに嘘がないと誓えるか? 何か一つでも違約があったら俺は同じことをする」
「約束しますよ。嘘はついていません。協会の会員にも職員にも外部協力者にも顧客にも、およそ関係者として登録されたことのある、すべての人間に手は出しません」
男は流れるように答えた。
「ずいぶんと手慣れた交渉ですね。流石は秘術士の粋、とでも言うべきですか?」
「似たような駆け引きを前もやっただけだ」
なるほど、と男は笑顔のまま言った。得心したのかどうかはよく分からなかった。
もう一つ、条件をつけられるかどうか、心の中で一瞬迷った。
「なあ、諜報部門を一人寄越せるか?」
男が表情を消した。
「どうしました?」
「怪しむほどのことじゃない。ただ……気になることがあるだけ」
男の目が細まった。それはそうだ。自分で言っていて、怪しまれないほうがおかしい。
「じゃあいいよ。お前に訊く。ウチの家は今まで、協会の会員に関わったことはあるか? 今回の、俺が知ってる分は除いて」
早々に方向転換してそう尋ねると、男は先刻までの笑顔を取り戻した。協会に手を出すなという要求の延長線上として理解したようだった。
「今回、我々が協会に関わったのは、貴方がそこにいたからです。そうでなければ、関わる理由がない。口実もなく歯向かっても不利にしかなりませんからね」
「お前の指揮下ではな。他の派閥では?」
望夢が重ねて問うと、男はきょとんとした。
仕方がないかもしれない。彼は元々中枢にいたわけではない。去年のひと騒動があって、ばらばらになった流派の一部で、新たな方針の指揮者としてポジションを得ただけだ。少なくとも望夢の記憶に照らし合わせればそのはずだ。
「じゃあ、今のを諜報に問い合わせておいてくれ」
「なるほど。聞いておきましょう」
「片手間だろ。明日の朝には結果を聞けるよな?」
「さあ、どうでしょう」
その答えを聞いた望夢は怪訝げに相手を見た。
「どうせ暇だろ」
「そうとも限りませんよ。色々と後処理が必要ですから」
相手の口振りに、望夢の歩みが止まった。
当然のことを言われただけだ。広間の茶番劇だって他勢力の反応を見るためのものだったのだ。それも後処理の一つ。権威なんて曖昧なものを図るために、絶え間ない諜報が必要であること自体は否定しない。
だけど、総力を挙げるほど……? 大した意味のある言葉選びではない、とは思いつつも、感じた違和感をきっかけにぐるぐると思考が回り始める。
簡単すぎる。そう言ったのは自分ではなかったか? 血族の末裔である自分さえ戻ってくれば全てが丸く収まるなんて、都合が良すぎると思わなかったか? それに対して相手はどう答えた? 障害を除いていく必要はある――。
重大な欠陥に気が付いた。自分が持ち掛けた交渉の。
「なあ。お前は、協会の関係者には手を出さないと言ったな……?」
問いかけた声の乾きっぷりに、自分でぞくりとした。
にっこりと、絶望するほどにっこりと、男は笑った。
「協会の関係者として登録された、すべての人間に」
望夢の頭の中で何かが停止する音がした。意識から剥離した部分で口が動いた。
「その中に、非公式の名誉会長は入ってるか……?」
「いいえ?」
その答えが決定的だった。
望夢の頭が真っ白になった。見落としていた。彼らにとって最も目の上のたんこぶになるはずの人物は、彼女に相違ないのに。
無意識に殴りかかりかけた。後先も考えず。しかしその身動きが実を結ぶ前に、得体の知れない拘束がぴしりと望夢の動作を止める。いつの間にか入り口に部下の一人が姿を見せている。目に見えない拘束の気配はそこから糸を引いていた。
「分かりませんね。貴方は神名の被害者でしょう?」
ゆっくりと目をしばたいた男は、心底から不思議そうにそう言った。
「てめぇ……隠してたな」
「訊かれませんでしたからね」
相手はうそぶく。暴れようとする望夢を見えない糸が妨害してくる。男はその光景を見て、肩を竦めた。
「少々混乱しているようですね。部屋にお連れして休ませてやってください。今日は疲れたでしょうから」
「ふざけんな、」
叫びかけたところで視界がすうっと遠ざかった。怖気を誘うくらい前触れなく、何らかの手段で黙らされようとしていることだけを悟る。
当たり前だ、彼らの「秘術」とはそういうものなのだから。異能なんて存在を、知られてはいけない――。
ふわりと意識が霞んで、混濁した。




