2:交錯の昼、糸口の夜-3
演習場での対戦を、望夢はほとんど後出しに近い手段で終わらせた。煮えきらない瑠真の中には戦いたい理由がある――
その少女がいたのは、路地裏に面した扉の前だった。
凹みや擦り傷だらけの金属扉の向こうに耳を澄ます。本来なら使われていないはずの廃ビルの中に、かすかに話し声がするのを確かめる。
窓はない。内部を確かめる手段はこの扉だけだ。
少女が迷いなく扉を引くと、その場にいた大の男たちが動揺して腰を浮かせた。
金色の瞳が素早く室内を駆け巡る。人間の配置を確かめる。だが、その警戒は無駄なようだった。彼女の容姿を見た瞬間に、何かを悟った男たちが次々逃げ出したからだ。
「うっ、うわあぁぁ!」
部屋の右隅にいた一人が叫ぶや、突然虚空から巨大な槍を生み出した。自分に向かって振りかぶる動作を瞳に映して、少女はふむ、と呟く。
「『花桐』」
彼女を刺し貫こうとしていた異能の槍が、その胸に触れる一歩手前で阻まれた。何もない空中からはじかれたように紫色の円い花首が舞い飛ぶ。跳ね返った槍が空中で霧消する。
「『岩苦菜』」
返す刀でセメントの床からいくつもの蔓が噴き上がって男たちを捕えようとするが、彼らはその前に廊下へ飛び出していた。複数名の足音がばたばたと遠ざかっていく。
「まだ何も言っておらんじゃろうて……」
仕方なさげにひとりごちて、少女は見回した。部屋はもぬけの殻になっていた。調度品のたぐいは、パイプ椅子と折りたたみ机程度しか置かれていない。
ただし、たった今逃げていった人間たちの後を追うように、落とした紙束が点々と散らばっていた。
「書類か……」
少女はその一枚を拾い上げて目を通す。有益な情報がないと分かると、次の一枚。
机に腰かけて文字を追っていた金色の瞳が、ふと止まった。
彼女は机の上に書類を置くと、襟を持ち上げて懐に手を入れる。
帯の隙間から取り出したのは、朱色の、小さなお守りだった。
吊り下げられてその手の中でくるくる回るそれは、ぼんやりと、注意しなければわからない程度の光を放っている。
しばらく迷いがその姿に見えたが、やがて彼女は立ち上がった。紙束を手当たり次第に掻き集めて懐に突っ込むと、出入口の扉へ向かう。
道に駆け出しながら、彼女は口を動かした。
「杏佳? 聞こえるか。確認してほしいことがある」
小柄な体躯が、やがて風のように路地裏に消えた。
×××
ふと思いついて、スマートホンで会員情報データベースを呼び出した。名目上は依頼の直接指名に使うことになっているが、指名なんてものがあるのは一握りの上位ペアだけだ。
支局名や依頼分野から指名対象を絞り込むことができるが、さすがに名前から検索はできない。しばらくサイトを弄り回したが、有用な手がかりを見つけるのは難しそうだった。
最終的にホームページの検索サイトに戻り、閉じる前にダメ元でキーを触った。
音しか知らないミワノという名前。少し考えたあと、念頭にあった苗字を付け足す。
「!」
画面を暗くし、とっさに顔を上げる。目の前を誰かが通ったのだ。単なる通りすがりの知らない会員だった。通路の壁際でびくりと反応した望夢に、ちらりと不審そうな目を投げていく。望夢は一瞬詰めていた息を細く吐いた。何をこそこそしているんだか。
騒々しいペアはとっくに去っていた。用事があるとは言ったものの実際そんなに心を決めていたわけでもなく、誘われてのこのこついていった時点でかなり気が削がれていた。望夢はまだ演習場前の通路にいる。
彼女の明らかな過剰反応が気になっていた。昔の友達――それが昨日のお守りに何か関係があるというのか。鎌をかけてみたはいいが、正直、望夢のほうにも思うところがあったせいで深入りはできなかった。何も断言できず、考えすぎかもしれないが、手元に置いてちゃんと調べたいと思う程度には。
ただものならぬペタル発散。八月。所有者逝去のため――
何となく暗くした画面を点ける気が起きなくて、その場を離れた。人の少ない場所で落ち着いてちゃんと調べよう。本局書庫あたりがいいかもしれない。
×××
「もしもーし。協会の子よね?」
そう声をかけられたのは住宅地の路上で、瑠真は早々に帰り道についていた。元より本局に用事があったわけではない。
声をかけてきたのは女の人だった。ゆる巻きの茶髪にごてごてしいブレスレット、胸元の大きく空いたプルオーバー。年齢は女子大生くらい。苦手なタイプだ、と一目で思う。
「本局ビルってどっちにある? 道に迷っちゃって」
「あぁ……」
苦手なタイプだからといって無視するわけにもいかない。瑠真は振り向いて簡単な道順を説明した。
喋りながら違和感が脳裏をかすめたが、捕まえる前に消えてしまった。
「なるほどね。ありがと、助かったわ」
相手がウィンクなんか決めて、こっちの頭に手を伸ばしてきた。瑠真は仏頂面になる。いくらなんでも子ども扱いだろう。瑠真は背が低いのでしばしば小学生に間違えられるが、よしんば一一歳か一二歳だったとしても頭を撫でるには。
あれ?
逃していた違和感が再来した。
そういえばこの女、出合い頭に「協会の子」と呼びかけてこなかったか? 今は許可バッジをつけていない。近辺に小学校があるので当然このあたりに子供は他にもいるはずだ。何を以て瑠真をSEEPのメンバーだと判断した?
極めつけに、女はこう呟いたのだ。
「山代さん(、、、、)って方に用事があるの」
それが決定的だった。
そこはかとない危機感が瑠真の身体を突き動かした。
「およ?」
女が呑気に声を漏らした。
瑠真が伸ばされた手をすり抜けたからだった。数歩距離を取って、鞄を抱きしめて相手を睨む。女は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに甘い笑顔を浮かべて話しかけてきた。
「どうしたの? ごめんなさい、嫌だった?」
その笑顔に裏を見る。表情が不自然だ。何の確証もなかったが、瑠真はそう信じ込んだ。
昨日の今日で山代? 偶然だとは思えない。いや、苗字だけなら、特別珍しいとは思わないけれど、でも。
相手がすっと背筋を伸ばした。甘ったるい微笑が消えていた。
「それとも、もしかして――山代さん、ご存じ?」
物憂い視線を真っ向から向けられて、ふと背筋が寒くなる。
足が震えて、勝手に動いていた。その場にとどまらなければならない、問いかけの意図を探れと、頭は叫んでいたが、身体が言うことを聞かないのだ。
靄に霞んだような昼下がりの中に、夏の陽炎がフラッシュバックする。
いつの間にか、瑠真の知らない大人と話している少女の背中。振り向いて、ああ、瑠真、おはようと笑う。大丈夫だよ、何でもないよ。
曲がり角から出てきた誰かにぶつかりかけた。瑠真は慌てて急ブレーキをかけた。
「ごめんなさ、」
謝りかけたとき、口に手が回ってきて塞がれた。「もご」何が起こっているのか分からないうちに、細い路地に引きこまれた。身体をくるりと反転させて押さえつけられる。
「手がかかるな、神名の子猫は」
意味の分からない台詞が聞こえた。瑠真に言っているというより独り言らしかった。
ようやく事態に頭が追い付いてきた。トラブルに巻き込まれている! もはやなりふり構っていられなかった。声音から察するに、相手は若い男だ。単純な膂力ではかなわない。
経験上、自分の場合、全身に増強をかければ、通常の人間の力は上回るはずだと知っていた。瑠真は手足にペタルを込めて相手を引きはがそうとした。
しかし、男はびくともしなかった。
相手も超常師だ。双方膂力を底上げしていた場合は単純な腕力勝負ではなくなる。超常の巧みなほうの――そしてペタルが保つほうの勝ちだ。
超常犯罪者? 仕事だとしても、初級超常師に回ってくるレベルではない。
「ありがと、ストウ」
声がしたと思ったらさっきの女だった。表情を消して気だるげに近づいてきた。やっぱり彼女も噛んでいたのだ。
「手間かけさせるな」
「はいはい、悪いわね。ねえ瑠真ちゃん、山代美葉乃さんのこと、ちょっと確かめさせてもらうわね。大丈夫、痛くしないから。それに、終わったらこのことは忘れちゃうから」
今度はあからさまだった。名前を呼ばれたことを今さら不思議だと思えない。
敵意を込めて睨みつける瑠真に改めて最初と同じ微笑を向けて、女は言う。
「だって、あなたには関係のないことだものね」
その指で額に触れられた瞬間、目の前が真っ白になった気がした。
湧きあがったのは猛烈な怒りの感情だった。
瑠真には関係のないことだから。
りん、と声が鳴ったと同時に、不思議と頭が冴えて、やることがはっきり見えた。やみくもな抵抗ではない、何度も見てきた上位ペアの演習風景を思い浮かべる。
片側に身体を引いてから、一気に反対へ重心を動かす動作。拘束を振り切る技術だ。
ほのかに身体の周りが熱くなって、相手のペタルを弾いた気がした。
相手の手が意表を突かれたように緩んだ。その隙に瑠真は身を低くして、二人の敵の間から転がり出る。
二人の間でどちらが手を出すか、推し測るような沈黙があった。
瑠真は飛び出した。本局へ戻ろう。何をするにしても、これじゃかなわない。大人に知らせるべきだ。
ふと疑問が浮かんだ。そういえば、日曜の午後なのに道に人がいないのはどういうことだ? 住宅街は普段から閑静ではあろうが、それでも驚くくらいの静寂に包まれている。このあたりの住人は? 他に本局へ行き来する人々は?
足が止まった。
正確には、背後から引っ張る力に突然止めさせられた。慣性でがくんと頭が揺れる。見下ろした足首から肩までの広い範囲に、見落とすくらい細い銀糸がびっちりと絡みついている。
蜘蛛の巣にかかったみたいだ、と思ったときには手遅れだった。
「ごめんなさいね、もう少しだけ待ってくれる?」
優美にヒールを鳴らして、女が近づいてくる。
「記憶を消しておかないと、貴女のところのお婆ちゃんに怒られちゃうから――」
誰のことだ、と思ったとき、その言葉が途切れた。
頭上から飛び込んできた人影が原因なのだと、気づいた時には盤面は動いていた。
屋根ほどの高さから音もなく着地したのはスーツの女性だった。誰だ、と思う間もなく彼女は横抱きに瑠真を抱き上げる。
「わっ、ちょっ」
声を出す程度には余裕が生まれたのだと、遅れて気が付いた。
抱えられた胸元で、SEEPのピンバッジがきらりと光った。
「キョウカか……」
敵の舌打ちが聞こえた。彼女は構わず地面を蹴ると、タイトスカートの締め付けも思わせず軽々と跳び上がった。屋根の上で身を避けた敵を一顧だにせず、ひらりと足場から足場へ移っていく。
「ちょっと、待って!」
思わず叫んでいた。状況が理解できなかったばかりではない。瑠真は彼女の細腕の中で身を捩って来た方向に乗り出した。
「待って、アイツらは」
美葉乃って言った。逃げるのか! 何か知ってるヤツの前から!
暴れた瑠真の身体が彼女の腕から滑り抜けた。真下の民家の屋根に縋りついて瑠真は起き上がった。しかし一歩も進むことなく腕を捕えられ、強引に引き寄せられる。
彼女が白い手のひらを瑠真の顔に向けた。藤色の光がぼうっと浮かび上がったと思ったと同時、瑠真の意識は遥か彼方に吹き飛んでいった。




