序章 協会の暴れ猫
薄暗がりにちろちろと、灯火が燃えている。
「して、そなたの望みは?」
黒髪の少女が問う。くつろいだ手を熱い湯呑に添え、もの思わしげな眼で相手を見つめている。
「あるべきものを、あるべき場所に」
痩身の男が答える。短い頭髪は白に近く、笑みを含んだ声で泰然と少女に相対している。
「ただ、それだけのことです」
これを聞いた少女は、全身でふうと息を吐いた。
湯気を立てる茶で一口、唇を濡らして、試すような視線をあげる。
「妾は、自ら望んで門を敲いた子を、売り渡すようなことはせぬ」
「では、自ら望んで門を出る者は?」
男の切り返しに、少女の身動きが止まる。
「言っておくが」
表面上変わらない穏やかな声は、背後にたっぷりと気迫を孕んでいた。
「妾の子らを傷つける不埒者を、妾は見過ごしてはおかぬぞ」
「そのようなことは申しておりません」
男は飽くまでも余裕のある笑みを崩さない。
「しかし、貴女がそうとしか受け取られないのであれば……信用を説いても無意味、ということですね」
少女も応えて、微笑んだ。せいぜい一二、三の幼い顔立ちに見合わず、嫣然と。
「かような立場で、二度と相まみえぬことを」
白い顔の真ん中で、金色の瞳がきらりと光った。
×××
遊園地なんて、仕事を抱えて来るもんじゃない。
心の中で繰り返し呪いながら、七崎瑠真は窓の外を眺めていた。
目の前は電飾てかてかのお子様ランド。笑顔の人混みが左右に行き交い、楽しい悲鳴がこもり気味に響いてくる。
だけどこんな状況じゃその何もかも、苛立ちの種になるだけだ。
傍らで幼稚園児がぎゃんぎゃん泣いている。
「ちょっと七崎。協力しなさいよ」
子供の相手をしていた相方が隙を見てひそひそ言ってきた。くせ髪とそばかすの花井奈々(はないなな)。責めるような響きに瑠真はうざったげな横目を向ける。
「役割分担。私は外を見て大人を探す」
「いらないでしょそんな役割?」
花井の声が尖った拍子に、子供の泣き声が大きくなる。
「あぁほらっ! 七崎が怖い声出すからっ」
「どっちが」
抑えめに毒づいて外に向き直った。空は晴れ色、春先の清々しい天気だが、人手不足の迷子センターは一線を画して気が滅入る。
ふと群集の中に、こちらへ近づく女性を認めた。足元ですんすん言っていた子供も窓越しに気が付いた。
「おかあさん」
「ここにいたの!」
戸口から女性が飛び込んできた。茶髪を巻き髪にして綺麗なお化粧の、まだ若いイマドキのお母さんという風情だ。
「お迎え?」
トーンの高くなる花井の声はまるきり無視し、子供が駆け出して母親に抱き付いた。花井は釈然としない顔になったが、
「お姉さんたち、見ててくれたの?」
子供を撫でながら母親が問うとすかさずの営業スマイル。
「はいー。サニーファウンテンの近くで泣いててぇ」
言いながらバッジを誇示するように胸を張る。あざとい、と瑠真は聞こえないように吐き捨てた。特別許可バッジはダサいから、瑠真は目立たないスカートの腰に留めている。
「保護協会のお姉さん?」
母親が目を丸くした。そんなに珍しいものでもないのだが、部外者には効力を持つらしい。依頼以外で立場を踏まえて話す機会はまれなのだ。瑠真にしてもそうそう素人の相手をしたくない。
だが無反応を貫き通す瑠真の方にも、母親の頭が向く。
「お姉ちゃんも、早く迎えが来るといいわね」
「……はぁ?」
一瞬意味が分からなかったあと、思わず柄の悪い声が出た。
母親がびくっと身を竦めた。視線がさまよい、瑠真のバッジにも目を留める。
まずった顔をしたかしないか、そのまま子供を連れて背を向けてしまった。フォローでも入れればいいものを。渋面の瑠真とは対照的に、何も知らないスタッフが別れの挨拶を飛ばしている。
そそくさと立ち去る親子を見送りながら、花井が脇腹に肘を押し込んできた。
「あのね。何なのその態度」
「悪かったな。アンタもずいぶん媚びてたじゃない?」
「あれは礼儀よ」
「子供にまとわりついて無視されるのが?」
花井のそばかす顔にさっと赤みが差した。気にしてたのか。単純なヤツめ。
しかしその表情がみるみる転じて、
「子供に礼儀は分からないものねぇ。あなたも迷子に見えたみたいだけど?」
そう言ってきたときにはすっかり気に障る笑顔になっていた。
「ぶっ飛ばされたいの?」
「やだぁ、ガキ大将っぽい」
威嚇の空気が激しくぶつかり合う。相手を見下すには背の高い花井のほうが優勢だ。
「まぁ、そんな見た目じゃ小学生にしか見えないわね。頭も何年その――きゃぁっ!?」
そばかす顔から悲鳴が上がった。
理由は簡単、瑠真がその手を掴んで足払いをかけたからである。
迷子センターがざわついた。ケンカの波長にようやく気付いたらしい。
「危ないわね!?」
「狙ったからね?」
「いきなりひどいじゃない!」
「いきなり? 予告したでしょっ」
周りに人が集まってきた。触れあぐねて遠巻きにしている雰囲気が伝わってくる。瑠真はふんと鼻を鳴らして窓の外を見た。そろそろ使いっ走りが戻ってくる頃合いだ。
まさしく頃合い、場所に似合わないスーツの青年がのんびり歩いてやって来ていた。窓越しに瑠真と目が合うと、両手に持った屋台のおやつを片方ひょいひょい振ってみせる。こっちの空気には気づいていないらしい。
瑠真は適当に手を伸ばした。大体花井の方向へ。
「予告したからね」
ズドン‼ と、凶暴な低音が轟いた。
迷子センターがしんと静まり返った。
花井が血の気の引いた顔で瑠真を見上げた。その足元のタイルに亀裂ができている。
瑠真の手のひらから飛び出した白色の光が、床を叩いて消えたのだった。
すぐに沈黙は騒動に変わった。事態を問う叫び、泣き出す迷子、連絡機器類の操作音。
「ちょっと! これ、何の騒ぎ!?」
血相を変えた例の青年が、迷子センターに飛び込んできた。
「私」
「そうだろうね!」
名乗りを上げたが反応はそれだけだった。青年は手近な机に手荷物を投げ、床にへたり込む花井に駆け寄っていく。
「怪我はしてないと思うわよ。一応外して撃ったから」
「そういう問題じゃないでしょ!?」
たちまちお叱りが飛んでくる。青年の腕に縋りついた花井が、味方を得て息を吹き返す。
「あなたってほんとにありえない! 仕事中よ!? ペアに向かって威嚇するなんて……っ」
「そんだけ喚ければ元気でしょ」
肩を竦めると、花井は口を噤んで真っ赤になった。コロコロ顔色が変わるヤツだ。
「あの、これはいったい?」
どこかから当惑の声が投げかけられた。青年がまごまごと見回した。監督役の大人と見定めた彼に、迷子センターの視線が集中している。
瑠真は空気を読まない声を張り上げた。いくらか助け船のつもりで。
「もう無理よ。花井とは相性が合わない」
「それあなたのセリフ!?」
即座に花井が食いついてくる。
「こっちから願い下げよ、こんな暴れ猫!」
気に障ったが言い返すほどでもなかった。甲高い声に片耳を塞いで見上げると、青年が口をぱくぱくさせていた。
「待って――」
「「ペア契約破棄に同意します」」
彼が何かを言うよりも、二人の言葉が重なるほうが早かった。
瑠真はその場をすり抜けると、後ろには構わず出入口に向かった。自然と人波が進路を避け、レッドカーペットのような通り道ができる。もっとも、向けられる視線は名誉なものとは程遠いけれど。
外に出ると音の洪水が襲ってきて、顔をしかめながらバッジを毟り取った。いい意味でも悪い意味でも注目を集めるこんなもの、使わないならないほうがいい。
真鍮のバッジの、曇った表面の凸凹は、四文字のアルファベットをかたどっている。
いわく、「超常異能者保護教育協会」。