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不気味な沈黙が渦巻く中、先に静寂を切って出たのは、天使の叫び声だった。
「きゃあああっ!」
咄嗟に胸元を両腕で隠し、彼女は膝丈までかかっていた水面下へと体を沈めた。
その金切り声を聞いて、解は自分の世界から現実へと呼び戻され、今置かれている状況を把握する。そして、一気に血の気が引いていった。
(やばい、やばいやばいやばいやばい)
どうして自分は彼女の元へと歩み寄っていってしまったのか。
いくら見惚れていたとはいえ、この地へたどり着くまでに、全身の神経をすり減らしながら周囲を警戒しつつ進んできたというのに、こうもあっさりと気が緩んでしまうとは、と、自分の浅はかな行動を恥じた。
解は本当に、現実に光臨してきた天使の美しさに見惚れていただけだった。
視界に映っていたのは、全体的な体のラインと背中に生えた羽、そして解が思い描く、理想のタイプのど真ん中に位置する、その愛らしい顔。
他の官能的なパーツなど見る『余裕』もなかったが、そんなことを彼女に弁解しても、全く聞き入れてもらえないのは目に見えていた。
「ご、ごごご、ごめ……」
しどろもどろに謝りながら、解は少しずつ後ずさっていく。
この気まずい空気から、一刻も早く脱出してしまいたい。そう思い踵を返そうとするが、体は萎縮してしまって自由が利かずにいた。
頭の中は様々な議論がせめぎ合い、相殺されては白紙へと戻って行く。
脳の機能は完全に失われていた。
視界の彼女は背を向けたまま、ひどく怯えた表情で解を横目に見ていた。
天使の優雅な美しさがひっそりと影を潜め、大きく羽ばたきをしていた翼もみるみるうちに小ぶりになっていくと、やがて白い泡となって空中に消えていった。
(え? つ、翼が、消えた?)
天使って、翼は常に生えているものではないのか?
ならこの子は一体――
あまりにも衝撃的な光景に、後ずさる解の足がぴたりと止まる。
そして、脳はそれを理解する間もなく、解の右腕が悲鳴を上げることとなった。
激痛に堪えきれず、解はその場に突っ伏した。後ろに締め上げられた右腕の上から、肺を押しつぶそうとせんばかりの更なる圧力が加わる。満足に呼吸が出来ない。
背後から何者かに取り押さえられていた。
解はどうにかして抜けようと身をよじるが、襟首に無機質な筒状のものを突きつけられた。
それが何なのかをすぐに理解すると、解の全身は力を吸い取られるようにがっくりとうな垂れた。
「動くな」
耳元で低い声がした。
声質からすると、解を取り押さえている主は女性のようだ。
軍人を連想させるキレのある発声と、瞬時にターゲットを無力化するその手際の良さ。実際、本当の軍人なのかもしれない。
天使の姿に見惚れていた解は、背後に迫っていた人影にも気づくことが出来なかった。あまりにも無防備すぎたのだ。
「貴様、何者だ? 答えろ」
顔の見えない主が問う。
「お、お、おれ、俺は、たまたま、通りすがっただけで……」
「死にたいか」
「う、嘘じゃない! だ、団体から……討伐団体、から、逃げてきただけだ……」
途切れ途切れの言葉を必死にひねり出す。後ろの筒状のものの圧力が増した。
「嘘をつくな。政府の回し者め」
「せ、政府? な、何で?」
「白を切るつもりか。わたし達を追ってここまできたのだろう?」
「いでええええぇぇっ!」
肩の関節が締めあがり、痺れるような激痛が走った。これ以上力を加えられると、肩が脱臼してしまう。
「さあ、全て吐け。どうやってここを嗅ぎ着けた?」
「か、川から! 川から登ってきたんだ……本当に、ただ逃げてきただけなんだ!」
「…………」
「政府とか、意味わかんねぇし……団体の奴らに殺されたくないから、ここまで必死に逃げてきたのに……こんな……」
「…………ちっ。偶然か」
解は地面に顔を擦りつけながら、一心不乱に首を縦に振った。
声の主はしばらく沈黙を続けた。解の泥だらけの足元や所持品などを監察すると、静かに筒状のものを下ろす。
そして両腕を縄で縛り上げ、解の頭を鷲づかみにして、地面へと押し付けた。
「美羽様、これを着てください」
湖に向かって衣類を投げる風音がした。
美羽と呼ばれた少女は「はい」と小さく返事をして湖からあがると、そのローブらしきものを羽織る。
解は地球と口付けをしたまま、呼吸が出来ずにもがき苦しんでいた。
解が大地から引き剥がされたのは、少女がこの場から立ち去ってからしばらく経ってのことだった。
息も絶え絶えになった解の目に、黒い布が巻かれると、強制的に体を起こされた。
「歩け」
無慈悲な声が向けられる。背後から髪の毛をつかまれたまま、おぼつかない足取りで前へと歩き出した。
ぼろ雑巾のような扱いを受けていたが、とりあえず命はつないでる。解は息を切らしながらも、死ななくてすんだことに胸を撫で下ろした。
(なんでこんなことに……)
状況はまさに、地獄から天国へ、そしてまた地獄へ。
めまぐるしく変化してゆく環境に、解は心身ともに疲れ果てようとしていた。
崩れ落ちそうな体を、すさまじい精神力で押さえ込んでいたのだった。
まだ倒れるわけにはいかない。やっとここまで逃げてきた。
どんな絶望が立ちはだかろうと、生きる希望だけは絶対に捨ててはならない。諦めたらそこで人生は終了してしまうのだ。
たとえ、声の主が所持しているであろう無線から、最悪な悲報が流れようとも、自分が政府の回し者と再び疑われ、寿命が縮まることになろうとも、生き残る道を捨ててはいけないのだ。
『大変だ! 政府の……エアロガジェットがこちらへ向かっている!』
この世の終わりかのように、無線の向こう側の人物が叫び声をあげていた。
「さっさと乗れ!」
暗闇に包まれた解を気遣うことなく、声の主はある場所へと解を放り投げた。
勢いよく横転していき、硬い鉄板らしきものに背中を打ちつける。激しい痛みに耐え切れず、解はその場でのたうち回った。
すぐに慌しい靴音が床を響いて近づいてくる。
一つではない。おそらく五、六ほどの人間がこの場所に終結しているようだった。
やがて靴音がぴたりと止まると、床のあちこちから、窓の隙間から噴出してくる強風のような音が聞こえてきた。
どうやら自分は、大型の乗り物、おそらくバン型エアロガジェットの積荷へと担ぎ込まれたのだろう、と推測した。
「くそっ、もう後ろまで来ていやがる! 行くぞ!」
運転席に座っているであろう男が声を上げた。
地面から押し上げられたような付加がかかると、ガジェットは急発進を始めた。解の体は空気の糸で引っぱられるように、ガジェットのリアゲートへとぶち当たった。
縛られた腕は引きちぎれそうだった。
骨には異常はないようだったが、全身のありとあらゆる筋肉が軋んでいた。少しでも気を抜くと、解の意識は空の彼方へ飛んでいってしまいそうだった。
(屈するな……こういうときにこそ、考えろ……)
うつろな暗闇の中で、解の思考は少しずつ冷静さと鋭さを取り戻していく。
まずは現在、自分が拘束された経緯について考慮してみた。
何故、自分は取り押さえられたのか。それは『声の主』が言っていた、政府の回し者と誤解していることに間違いないだろう。
だが、こうして縛られる事となったのには、一度その誤解が説きかけた時だった。政府がらみとは別の理由があるはずだ。
それは何か。
つまり、見てはならないものを見てしまった、ということになる。
それは、天使のような翼を持った、あの可憐な少女の事なのだろう。翼を自由に具現化できる脳力などというものは、解はこれまで見たことも聞いたこともない。
それとも、脳力とは全く別の、不可思議な力なのかもしれない。
だが、そのどちらにせよ、誰しもが大空を自由に飛び回ることが可能になるかもしれないという人類の夢が詰まった力を、政府が手中に収めようとすることは容易く想像出来ることだった。
彼らはその少女を守るべく、国家権力という魔の手から逃れようとしているのか。
(考えろ……考えろ……)
いや、違う。そうと決め付けるにはまだ早計だった。
思うあたり、一つだけおかしな点が見つかる。それは、声の主のある発言だった。
その人は確かに言った。『わたし達を追ってここまできたのだろう?』と。
わたし達、というのは、もちろん少女以外の人間も含まれる。もし翼を持った少女だけを政府が狙っているのならば、"美羽様"をと発言するはずだ。それを”わたし達”と言ったことに違和感を覚えた。
少女だけではなく、このガジェットに乗っている全員が、政府に追われていることになる。そうなると話はまた変わってくる。
政府は、翼の少女の存在を全く知らない可能性も出てくるのだ。
政府に追われるような団体など、頭で考えなくても答えが分かる。
彼らは――現政権を転覆させようと試みる、レジスタンス組織だ。
解のこめかみから冷たい汗が滴り落ちる。
この思考結果はおそらく間違っていない。
だが、今はまだ生きてはいるものの、一寸先は既に詰みかけの王将状態だった。このまま仲良く彼らと共倒れするか、運よく生き延びても、偶然であれ秘密を目撃してしまった解の命を、彼らは見逃したりはしないだろう。
(くそっ! 本当にもう何も手はないのか?)
何か手があるはずだ。考えろ。考えろ。考えろ。
解の脳にある、全てのシナプスが活性化を始めた。
まるで金属でも埋め込まれたかのように、頭が重い。体は熱を帯び、大量のアドレナリンが解を興奮状態へと変異して行く。
五感を研ぎ澄まし、わずかな糸口をも見逃すまいと、暗闇の中に手を伸ばした。
そして解は見た。
漆黒の闇に映る、『白いもや』と『ある物』を。
解は無意識に唾を飲み込んだ。自分の命を三度救ってくれた、このもや。
しかし今回は、今まで感じていた不快感というのを全く感じなかった。
むしろ、これから自分がやろうとしている事が成功に終わるという、確信めいた何かが体の奥底から沸きあがってきている。
夢と現実の狭間にいるような、不思議な感覚だった。
当然、確証などない。だが――きっとうまくいく!
ガジェットは蛇行運転を繰り返しながら、背後から放たれた銃弾を避けていく。二、三発ほどリアゲートに着弾したが、装甲をえぐることなく弾き飛んでいった。
「もう少しスピード上げることはできないのかい?」
「だめだ! これ以上出力あげると、オーバーフローしちまう!」
けたたましい声が車内を飛び交う。彼らもまた、解と同じように、何としてでも生き抜こうと、必死に戦っていたのだった。
緊迫した空気が肌に張り付いてくるのが分かった。
解は落ち着きを取り戻し、深く息を吸った。言うなら今、この状況しかない。ぐっと拳に力を入れると、彼らの会話に割って入るように、声を振り絞った。
「逃げ切る方法がある。俺の話を、聞いてくれないか?」




