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緩やかに流れる川のほとりへと飛び降りた解は、電動式エアロブーツの出力を最大にし、着地時のショックを和らげる。
すぐに体制を整えると、川の上流を目指し、囮役で鍛えたその脚で地面を強く蹴る。と同時に、エアロブーツの出力効果がプラスされると、解の体を数メートル先の岩場へと運ばせた。
エアロブーツを扱うには、熟練した技術を要する。
地獄のような収容所で培われた技術が、解の命をつないでいた。今となっては、脳力を持たない解にとって無くてはならないアイテムだ。
だが、この電動式エアロブーツには、莫大な瞬発力と衝撃吸収力を得られる反面、出力を最大にするとものの数分でエネルギーが切れてしまうという欠点があった。
特に、衝撃を吸収する際に大量のエネルギーを消費してしまう。
解が鵺から長時間逃げ切ることができたのは、着地する瞬間、エアロブーツの電源をオフにしてエネルギーの消費を押さえていたからだった。
重力に反した動きをしない限り、ある程度は自力で受身を取ることができる。
解は自身の装備を最大限に使いこなすことで、数多の苦難を乗り越えてきたのだった。
そして、団員たちが慌てふためきながら鬼と交戦している今こそが、絶好のチャンス。
一秒でも早く、一歩でも遠く、この場から遠ざかるために、解は持てる全ての力を使い、風を切る速さで水辺を北上していった。
地図で調べたとおり、川は鬼の巣の裏側を流れていて、もぬけの殻となった今では何の警戒もせずに突破できた。
川辺の小石は次第にごつごつした岩に変わり、足場が不安定な場所でのエアロブーツの使用は、解の体力を大きく奪っていった。
小さな滝を三つ程飛び越え、エアロブーツの電源が空になった頃には、解の膝ががくりと折れる。
息は荒れ、両足は小刻みに痙攣している。
後ろを見る余裕すらなかった解は、ここでようやく自分が登ってきた道を振り返った。
(はぁ、はぁ、こ、ここまでくれば、何とか大丈夫そうだ……)
鬼の巣からは二キロほど離れただろうか。あの身を潜めていた巨木が遠目に見える。
後は自分のペースで目的地へとたどり着ければいい。
解は呼吸を整え、立ち上がろうとしたが、両足はまだ震えたまま力が入らない。
「はぁっ……やっぱもうちょっと休憩……」
岩場に腰をかけ、エアロブーツを脱ぐと、川へ両足をつけた。
ひんやりと心地よい冷たさが、体の熱を冷ましていく。川の流れをぼんやり見ながら、何にも告げられずに置きざりにしてきた弥代の事を想った。
(俺が死んだって聞いたら、弥代姉、大泣きするだろうな……)
解の身を一番に案じ、過剰なぐらいに面倒をみてくれた弥代。
いつも笑顔を絶やすことなく、差別なく接してくれた、強くて優しい女性。
そんな彼女の気持ちを、解は裏切ることになってしまい、ずきりと心が痛んだ。
しかし、これはどうしようもないことだった。
弥代は朝まで睡眠薬で眠っており、手紙で事の真実を伝えるとしても、事件後にアイヴィジョンがかけられるのは明白だった。
銀次郎たちの殺害計画の隠蔽は、おそらく完璧なのだろう。手紙の内容は嘘だと捉えられ、解は無断で退団したという重罪が科せられてしまう。
それだけではない。弥代だけはきっとこの話を信じる。
彼女の性格からして、銀次郎たちの犯罪を暴こうと行動するだろう。
そうなると次は、弥代自身の命が狙われることになりかねない。自分のせいで弥代を巻き込むことだけは、絶対に避けなければならなかった。
そのためには、味方でいてくれた弥代自身をも欺いた、今までの決断がベストなのだと、解は思っていた。
思ってはいたが――納得はできずにいた。
「やるせないよなぁ……ほんと……」
解はぽつりと呟いた。
全ては自分自身が脳力を持たないが為に招いた悲劇だった。
一般人と同じように、もし自分にも何かしらの脳力が開花していれば、今頃どこかの機関でインベルを駆逐すべく活躍していたことだろう。この世界は全ての人々に平等、などと言う生ぬるい言葉は存在しないのだ。
しかし、無脳な解は、この混沌とした現代を、必死にもがきながら生きていた。
ゆっくりと目を閉じ、人目の寄り付かなくなったこの自然の宝庫を肌で感じる。
小さくせせらぐ川の流れ、風のにおい、小鳥たちのさえずり――今まさに、生きているという実感を抱かせる大自然の感触。
死んでしまってはこれも全て、感じることはできなくなってしまう。
そう。『生きる』ことは、脳力の有無など関係ない。
この世に生まれてきた人類全てに与えられた権利なのだ。それすらを放棄してしまったら、それこそただの愚者に成り下がってしまう。
解の瞳は再び生気を取り戻した。
川に浸していた足を上げると、エアロブーツを履き、出発の支度を始めた。空になったカートリッジを取り外し、少しでも足の負担を軽くする工夫をする。
そして、川のさらに上流にある湖を目指し、一歩一歩大地を踏みしめ、前へと進む。
ここで立ち止まってはならない。今も、これからも必死にもがき、生き抜いて、いつか弥代へ自分の無事を伝えよう、そう心に誓った。
人間が寄り付かないこの山奥は、もはや秘境と呼ぶべき場所だった。
岩の隙間からは無数の草木が乱雑に伸びていて、解の体に蛇のようにからみつく。
鋼のナイフでそれらを刈り取りながら、ぬめった岩に足を掛け、少しずつ川辺を登っていく。体力と時間の消耗は激しいが、水辺のルートから離れて進む訳にはいかなかった。
インベルは海辺や河川など、水がある場所にはなぜか近づいてこなかった。
遠出の狩りをする場合はまず、水辺を探してそこにキャンプを張るのが鉄則となっている。とはいえ、必ずしも襲われないという保障はなく、あくまで襲われる確率が格段に減る、ということに過ぎないのだが、無鉄砲に山道を一人で登っていくよりは遥かに安全だ。
同じ作業を淡々と繰り返し、道無き道を進んでいく。
解の体力が限界にさしかかろうとする頃、重圧に空を覆っていた木々の数が徐々に減ってゆき、暖かな木漏れ日が降り注いできた。
どうやら目的地は近いようだ。
(や、やっと湖に着くか……もう少しの辛抱だな)
重かった足取りが一気に軽さを増す。
ナイフを使うことも忘れ、乱暴に手で草を掻き分けながら先を急いでいると、川の流れに乗ってゆらゆらと揺れるものが、解の目に留まった。
それを両手で掬うと、思わず眉をひそめた。
(これは……羽?)
白鳥の羽にしては一回り大きく、白と言うよりも透明に近い羽だった。
野鳥に関してはそれなりに知識を持っている解だったが、これはどの野鳥の羽にも該当しない。
首を傾げて眺めていると、今度は頭上から複数の羽が舞い振ってきた。
透明な羽は太陽に照らされて、七色にきらきらと光り輝いている。それはまるで天からの癒しの魔法を浴びているような、幻想的なものだった。
この先に何がいるのだろうか。
好奇心の波が解を打つ。
水辺を恐れない新種のインベルという可能性もあるが、不思議と警戒心を全く抱かなかった。
この世のものとは思えないほどの、美しい羽の持ち主。それはもしかしたら天使なのかもしれないな、と、かつて収容所で思い描いていた自分の中での救世主像が浮かび上がり、解を奮い立たせた。
そして――解の想像は、本当に現実のものとなり、目の前に姿を現したのだ。
ミルクのような白い背中からは、彼女の体を覆い隠すほどの、半透明の大きな翼が生えている。
腰までかかった艶やかな白髪を揺らし、優しい音色を口ずさみながら、湖で『羽休め』をしていた。華奢で繊細な体は水しぶきで濡れ、大自然と融合した至高の絵画を見ているようだった。
解は、彼女から視線を逸らす事ができなかった。それは決して、一糸纏わぬ姿の女性を拝んでいたいなどと、やましい気持ちからではない。
天使の美しさを一目見て、純粋に心を奪われていた。
無意識のうちに、解の足は彼女の方へと歩み始めた。
地面に落ちていた小枝を踏んでしまい、乾いた音が静かな湖畔に響き渡る。その刹那、羽の持ち主がぱっと振り向き、解の瞳を確実に捉えた。
雷に打たれたような衝撃が、体全体に駆け巡る。息が出来ない。
全身の全てを彼女に持っていかれたようだった。
曇りのない純真無垢なその瞳は、解を構成する全細胞を射抜いていく。まだあどけなさが残る顔立ちからすると、歳は解とさして変らないだろう。
ふわりと垂れた前髪から覗かせる、大きな蒼眼。
少し下がり気味の眉に、長いまつげ。
ふっくらとした艶やかな唇。
その無駄のない全てのパーツが、綺麗な小顔に完璧なまでに配備されている。もはや世界中の美少女をかき集めても、彼女の足元にも遠く及ばない事だろう。
(か、可憐だ……)
裸の美少女を前に、解はその蒼眼を見つめ続けていた。
それは、彼女と出会ってほんの数秒の出来事だった。
荒んでいた解の心に、一輪の花が咲いた。




