3
掛け時計の秒針がやけに耳に障り、解はうっすらと目を開いた。
カーテンの隙間から外を覗く。
小さな街頭がぽつぽつと灯っていて、空はまだ黒い闇に覆われている。
部屋の豆電球を点け、寝ぼけ眼で時刻を確認した。秒針は丁度〇時を指していた。
深い眠りに落ちてから、まだ三時間ほどしか経過していない。
だが、丸一日休暇をとっていたような感覚に陥っていた。解の脳は完全に冴え渡ってしまい、再び夢の世界へ戻るまでは、いささか時間がかかりそうだ。
ぼさぼさの頭を掻きながらベッドから降りると、急に体が冷えたせいか、解はトイレにいきたくなった。
入り口で外履きの靴に足を通し、物音立たないようにそっと廊下へと出た。
銀勇決死団のアジトは、古くなった大手製薬会社の三階建ての社員寮を格安で買取り、団員達の手でリフォームした歴史がある。
個室は多いものの、備え付けのトイレや風呂はなく、用を足したい場合は一階中央にある大浴場兼、御手洗場まで足を運ばなくてはならない。
解の部屋は三階の一番東側に位置し、目的の場所までは少し遠い。
階段は何故か中央一箇所にしか存在せず、その階段まで行くために個室十部屋と会議室の前を通ることになる。
コンクリートの壁が薄いため、ちょっとした音でも響いてしまい、他人の迷惑になってしまうので、十一時の消灯時間を過ぎてからは特に、物音に注意を払いながら歩かなくてはならないのだった。
(なんだか夜の学校みたいだな……)
そんなことを思いながら、微かに身を震わせた。
四、五、六と個室前を忍び足で歩いていく。
やがて、会議室の前までたどり着いた時だった。
扉の隙間から微かに漏れる光の筋が、廊下を横切っているのに気がつき、解は思わず歩みを止めた。
消灯時間を過ぎているのに、なぜ明かりが灯っているのだろう。
誰かが会議室を使ったあと、電気の消し忘れたのだろうか。
部屋を確認しようと忍び寄ろうとしたその矢先、中から少ししゃがれた男の声が聞こえてきた。
「わりぃ団長。ちょっと遅れちまって」
顔が見えなくてもわかる。団員一の力技を誇る、幹部、安部辰也の声だった。
「相変わらず時間にルーズな男ね。それが作戦に支障をきたすというのに。即刻、改めなさい」
「まぁまぁ、マキちゃん落ち着いて。アベタツは実戦ともなればきちんと任務を全うしてくれるんだからさ」
甲高い声の女性と落ち着いた低音の男性。
それぞれ堀江真紀、桜田輝の声だ。
銀勇決死団の幹部達が、何か重大な作戦を話し合おうとしているようだ。
解は扉の隙間から顔を覗かす。が、この位置からだと壁しか見えず、中の様子は確認できなかった。
目視するのは無理があると判断し、解は壁に耳を当てた。所謂、盗み聞きというものだ。
消灯時間を過ぎてから自室を出ることは、御手洗に行くこと以外は禁じられていた。
それは幹部達も例外ではない。
団全体の秩序を乱す一端となる、と、団長自ら定めた掟だった。
その掟を無視し、団長と幹部達三人が、深夜に挙って終結している。ただ事ではない。
盗み聞きは良くないとわかっていながら、解はその場を離れることが出来なかった。
何かとてつもなく巨大な不安の波が押し寄せてくる。
胸がざわつくいてたまらないのだ。
そしてそれは、最悪な形で的中することとなった。
中から軽く咳払いが聞こえた後、銀次郎がその重い口を開いた。
「全員揃ったな。それでは始める。『中杉解殺害計画』を」
(俺を……さつ、がい?)
解の思考が追いつかないまま、死神達の言葉が雪崩込んでくる。
「真紀、解と岡本の様子はどうだったか?」
「ええ、それはそれはもう、二人ともぐっすり熟睡してましたよ。わたし特製の睡眠薬入りですもの」
「本人にだけは絶対に知られてはまずいからねぇ。それにあの弥代ってコ、妙にあの無脳クンに肩入れしているからね。同時に眠らせて正解」
「アイヴィジョンなんて機械さえなかったら、んなセコいことせずに、オレが一撃でブチ殺してやるってのによお」
「それはここにいる皆が同じ心情だ。だが感情的になっては全てが水の泡だぞ。いいかお前達。
今やIVMはボイスレコーダーや証言よりも、改竄できない確実な証拠となる、言わば現実を映し出す鏡だ。
その絶対的な信頼が寄せられているIVMをあえて逆手に取るには、こうして狩作戦が書かれたボードを目に焼きつけ、あたかも狩りの作戦会議をしているように偽装しつつ、殺害の計画を話し合う他ないのだよ」
「電話は通話記録が残ってしまいますし……なるほど、そういうことですか」
「さすが団長! 音声を拾わないIVMの盲点を突く、大胆な発想ですわ」
「緊急集会だっつーのに、んなことを思いつくとは、やっぱ団長すげぇわ」
「こちらとて生と死の綱渡りだからな。あらゆる事を死ぬ気で思考するさ」
「しっかし、何で今日の作戦であの無脳クン、生き延びるのかねぇ。
普通ありえないよね。鵺から十分近く逃げ切るなんてさ。どこにあるのそんな体力」
「オレでも脳力を使って何とか凌げるぐらいだぜ。まじ何なのあいつ」
「俺もだ。とっくに死んでいると思い解の元へと向かったのだが、まだ生きていたとはな。
危うく『団員を見殺しにした』という罪の記録が網膜に焼き付けられてしまうところだった。解から目を逸らすのに苦労したよ」
「運だけはやたらと持ち合わせているようですね」
「それか、野生の勘が異常に鋭いとか? もしそうだとしたら、今日のことで何か感づいているのかもしれないねぇ」
「やっかいだな。無脳に知られる前に殺るしかない。もう明日の狩りしか殺るチャンスはないってことか」
「そういうことになる」
「合法的に殺すって難しいものですわね」
「でも、直に手にかけるよりインベルに襲わせて死んでくれるほうが、余程気が楽だよね。
というか、未だに罪の意識なんて皆無だしね」
「だな! あぁ、明日こそはマジ死んでくれねぇかな。そしたら政府機関と保険屋から、莫大なカネが転がってくるっつーのに」
「死んでくれないか、じゃない。明日は必ず死なすのだ。
インベルに対抗できない無脳者は、消えて金になってくれるのが、銀勇決死団に対しての一番の貢献なのだからな」
「ふふ、そのとおりですわね」
「ごもっとも」
「ふははははっ!」
「では、明日の作戦を伝えるぞ、いいか、まずここの分岐で二手に分かれて――」
解は汗ばんだ手で胸元を掴んだ。
息が苦しい。今、聞こえてきたのは全て幻聴ではないのか、そう思い込みたかった。
頭からは血の気が完全に引き、顔はまるで死人のように蒼白だ。
あり得もしないと思っていた解の妄想が、そっくりそのまま現実となったのだ。それはあまりにも非情で、絶望的なものだった。
(みんな……仲間だとおもっていたのに……)
入団前に銀次郎は言った。
『インベルを駆逐するという目的は、人類共通の問題だ。脳力が有ろうが無かろうが、志を持たない人間はいずれ死ぬ。俺は、志ある無脳者、中杉解を歓迎するよ』
やっと自分を認めてくれる人に巡り合えたと思っていた。
自分の居場所がやっと出来たのだと、涙を流して喜んでいた。
だが違った。
その頃からすでに、銀次郎たちは解を殺害し、団員がインベルの襲撃により死亡した際に政府から団体に対して支払われる『名誉賞賛料』と、保険会社からの『死亡保険料』を同時に得ようと企てていたのだった。
今まで何事なく過ごしてこれたのは、危険な囮役を難なくこなしているという実績が欲しかったからだろう。
囮のプロが死亡すれば、名誉賞賛金の支払われる額もまた、跳ね上がるからだ。
昔の記憶がフラッシュバックする。有脳者達が解を罵倒し、袋叩きにされては奴隷扱いを受けていた、あの忌々しき日々が次々と蘇ってきた。
これまで脳力者に屈しまいと、必死に戦ってきた解だったが、今を以って悟ってしまった。
強き者は生き、弱き者は死す。
自然の摂理は揺らがないということだ。
ならば、一切の抵抗を諦め、現実を全て受け入れろというのか。
銀次郎たちにみすみす殺されろというのか。
解は首を振った。
(違う! 俺は……生きたい! 生きるんだ!)
無数の絶望たちは、幾度と無く解を貫き、精神の柱を折ろうとしてきた。
それを全て耐え切ってきたが、無脳に生まれてきた限り、これから先の未来は暗黒で満ち溢れていて、希望の道など有りはしない。
しかし、どんなに迫害されようとも、強者から無様に逃げ惑おうとも、死んでしまうよりは数百倍ましだった。
生きていなければ、何も変えることが出来ない。自ら希望の『道』を作らなければ、未来永劫、幸福など掴めるはずもない。
自分を縛り付ける運命に抗ってやるのだ。
(絶対に、生き延びてみせる)
もはや裏切られた事で、いちいち絶望している暇などなかった。
生きる。
ただそれだけの為に、解は全神経を研ぎ澄ませ、彼らの暗殺計画を脳に叩き込んだ。
そのまま自室へと戻り、工具がしまってある押入れの扉を開いた。
取り出した狩用のリュックサックに、シュラフ、レーション、コンパス、ランタン、デジタルラジオ、汎用圧縮ガスを二缶と、その他野外でもやり過ごせるように、必要な生活雑貨を詰め込んだ。
机の引き出しから地図を取り出し、豆電球の明かりを頼りに、考え出した逃亡ルートを指でなぞっていく。
知人のいない解に、目的地はない。他人をいかにして欺き、どう生き延びるか。脳力者相手に手段は限られてくる。
それからあとの事は、今は考えていられない。
しばらく悩んだ末、解は一つの決断をした。
鋼のナイフを取り出すと、そっと鞘を抜いた。
頬を伝う悲しみの涙を流しながら、左手の甲にその鈍く光る刃を滑らせたのだった。




