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巨大な怪物が、中杉解を見下ろしていた。
鼻を突く刺激臭と共に、その猿らしき口元からはねばついた涎が滴っている。
狸のような胴体からは、しま模様の手足が四本伸びていて、太く鋭い鉤爪が大地に突き刺さっていた。
蛇なる尾をくねらせながら、解の元へのしり、のしりと詰め寄ってきていた。
解はただ、怯えながらそれを見上げることしか出来ずにいた。
腰は砕け、九の字に折れた細い両足は、張り裂けそうなほどに硬直し、激痛が体を蝕んでゆく。機関銃と化した心音は、今や爆撃音に変わり、全身の血液が激しく脈うっている。満足に息を吸うことも許されない。
大地にしりもちをついたまま、少しでもその鵺から遠退こうと、両手で渾身の力を振り絞り、後方へと身体を引きずった。しかしすぐに固いものが背中に当たった。
地層の壁だった。
天国へと導く階段かと錯覚してしまうほど、壁は規則正しく段を成し、目の前に聳え立っていた。それと同じようにして、巨大なる鵺の鉤爪が大地を蹴り、乾いた土ぼこりが宙を舞った。
(何をしているんだ、みんな! 早くしてくれよっ!)
心の中で必死に助けを求めるが、一向に援護してくれる気配がない。まさかこのまま自分を見殺しにして、逃げてしまったのではないかという恐ろしい考えが脳裏を駆け巡ると、たちまち頭の血の気が引いていってしまった。
(このままでは死んでしまう……)
解はどうにかして逃げ道を探そうと辺りを見回した。
しかし、前方は怪物。後方は地層の壁。左右にはその壁が崩れたと思われる様々な色をした砂が混ざり合い、荒々しく積まれていて退路を塞いでいた。
だがそれ以前に、目の前の強大な恐怖から逃れるために、全身の力を使い果たしてしまった解には、絶体絶命の状況を打ち破る術など持ち合わせてはいなかった。
鵺の動きがピタリと止まった。
こめかみあたりから脂汗がにじみ出る。やがて、ゆっくりと解の頬を伝うと、皮膚から滑り落ちていき、衣服を滲ませた。
(もう、だめだ……)
死を覚悟し両目をつぶった次の瞬間、左首に生暖かい液体がこびり付いた。
(ああ――首元を噛み千切られたんだな。やっぱり俺みたいな『無脳者』は遅かれ早かれ、こうなる運命だったのか)
思い起こせばろくでもない十六年だった。
幼くして両親を失い、親戚中をたらい回しにされた挙句、唯一の希望となった『脳力覚醒診断』では、過去に類を見ない『無脳者』と診断され、『脳力者』達からありとあらゆるいじめを受けてきた。
血縁、親友、想い人、恩師――解に関わった人物は全て、彼の元から姿を消していった。
あれから脳力者に負けじと抗い努力してきたものの、やはり結果は死という形でやってくるものなのか。
くやしい……
解は両手の拳を固める。そして自分自身のある違和感に気づいた。
(あ、あれ? 力が、入る?)
千切られたと思っていた首をそっとなぞってみる。ぬめりとした感触が手の平を滑っていく。
血だ。でもこの血は、自分のものではない。
首はつながっている。痛みもない。息も、出来る――
固く閉じた瞼を恐る恐る開いてみると、目の前には横たわった鵺の姿があった。喉元には銀色に輝く矢が貫通しており、緑色の血溜まりが広がりを増していた。ひゅーひゅーと隙間風が吹き抜けるような息をしながら、その巨体を起こそうともがいていた。
(た、たすかった……のか?)
この矢はよく知っている。
団長が愛用している即効性の神経毒が仕込まれた、超プラチナ合金の矢だ。解の知る限り、この矢の標的になった獲物たちは、一匹たりとも生存していない。皆、一撃で喉元を射られ、絶命しているのだ。
やがて鵺は痙攣を起こし始め、しばらくすると長い舌をだらりと垂らし、死肉と化した。解は自分の身の安全を確信すると、ほっと胸をなでおろしてぼんやり宙を見やった。
「すまない、援護が遅れた。大丈夫だったか?」
巨大な死肉のすぐ斜め後方から、聞きなれた声が聞こえてくる。解の命を救った篠塚銀次郎が駆け寄ってきた。
「だ、団長! 死ぬところでしたよっ! もっと早く援護してくれないと、囮役にも限界がありますよ!」
「すまなかった。本来ならすぐこちらに向かう予定だったのだが、周りに三つ頭の犬数匹と出くわしてしまってな。駆逐するのに時間がかかってしまった」
「ケルベロス、ですか……なら、他のみんなも?」
「ああ。駆逐しておかないと色々と厄介なのでな。まぁ、そろそろ仕留め終わる頃だろう」
死肉に目を向けたまま銀次郎は答えた。
「そうでしたか……団員みんな強いですからね。余裕ですよね! ああ、俺にも『脳力』があったなら、囮以外でみんなの役に立てるのに」
「……お前にとってはそうかもしれないな。だが――」
銀次郎はおもむろに、腰に下げていた超プラチナ合金製のサバイバルナイフを取り出した。それを逆さまに握り、大きく振りかぶると、鵺の腹部めがけて思い切り振り下ろした。
何度も、何度も、何度も。
解はそのおぞましい光景に、即座に背筋が凍りついた。
「『脳力』云々よりも、私は日本からこの怪物どもが消滅してくれさえすれば、それでいいのだよ」
「団長……」
銀次郎の、インベルに対する憎悪は、入団当時からよく知っている。このように死体を惨たらしく痛めつける事は、昨日今日の話ではなかった。
解を震え上がらせたのは、彼から感じ取れた、憎しみといった感情とは別のものだ。
まるで解がその場に存在しないかのように、視線を一切向けず、ただ淡々と死体をナイフでさばいてゆく銀次郎の姿は、解の目には死体処理を焦っている殺人犯のように映った。
肉を切り裂き、かき混ぜるようにして内臓をほじくり出す。
胃、腸、心臓、肝臓――体内の臓物全てを切り刻み、その中から赤黒く光る物体を摘出した。
討伐団体に所属する者たちの生活基盤となっている、エクシウム鉱石だ。
「さあ。狩りは終わった。みんなと合流してアジトに戻るぞ」
「は、はい……」
篠塚銀次郎率いる討伐団体『銀勇決死団』に入団できたことを、解は心から嬉しく思った。無脳な自分を無脳扱いせず、インベルどもを駆逐するための同志として迎え入れてくれた、彼の器の広さに感服していた。
『脳力者』に負けないぐらいの、強い力と精神が欲しい。そして、その力を団員のため、何よりも銀次郎の為に捧げたいと、そう思った。
いや、そう思っていたのだ。
背を向き歩いてゆく銀次郎の肩に、何やら薄暗い雲のようなもやがかかっていた。解は驚き、何かの見間違いではないかと目をこすり、再び視線を向けた。
もやは消えていた。やはり見間違いなのだろう。だが、皮膚にねっとりとへばりつくこの嫌悪感は一体何だ? 心の支えとなっている団長に対して、自分は身の危険を感じているとでもいうのだろうか?
そんなはずはない、と、解は首を横に振った。きっと恐ろしい目にあって、身体が疲労しているために見えた幻覚なのだろう。
砂にまみれた服を両手で払い落とす。
その黒く見えた銀次郎の肩を気にしながら、彼の三歩斜め後ろを歩き出した。




