氷の姫と黒い騎士
暖かく穏やかな空気、優しい陽射し、そして咲き誇る花々。
ベランジェール宮殿が誇る数ある庭園の一つ、第三王女の誕生を祝って造られたここ“春の花園”には、手入れの行き届いた花たちが美しい体を競うように広げている。色は実に様々で、命溢れる季節を象徴するように力強い。
「春は美しい。鮮やかな花々が我を見よと言わんばかりに咲き誇っている。……しかし一番美しい花はあなた。私は遠い木の枝からあなたという花を眺める小鳥のよう……切なく愛の歌をさえずるしかありません。どうかこの哀れな下僕に、あなたの花唇から麗しい言葉を頂けはしまいか、私の美しき“氷の姫”よ」
胸に手を当て、舞台の上にいるかのような大仰な仕草で、貴公子は跪く。
彼が愛の歌をさえずる相手は、その正面に立っている。
「……顔をお上げください」
恥じらうような、可愛らしい声。してやったり――貴公子はうつむいた顔でにへらと笑い、しかし一瞬できりっとした表情を作って顔を上げた。
目の前にいる姫は、氷までも溶かしてしまいそうな美しい笑顔を浮かべている。
――“氷の姫”と大仰な名で呼ばれていようと、所詮は十七の小娘。美しい男が一言二言愛の言葉を囁きかければ、たちまち籠絡できる。近付く求婚者を片っ端から振っているという噂も、尾ひれがついているだけに違いない。大方、恥ずかしがって求婚者に会いもしないのだろう。今回会う気になったのは、自分が特別美しいからだ――
「あなたのさえずる愛の歌とやらは、独創性に欠けるな」
「は」
「どの女にも当てはまるような言葉を並べたところで、新鮮味に欠ける。黒い絹のように艶やかな髪、青みがかった暗灰の瞳、雪のごとく白い肌、女神の造形にも値する顔立ち。優しげとか鮮やかとかいった言葉とは程遠い、この他者を寄せ付けぬ神秘的美貌のどこを見れば、赤だの黄だのピンクだのといった花に例えられるのだ」
「へ」
先程の愛らしい笑顔はどこへ行ったか、“氷の姫”は髪をさらりと払い、まさに氷の冷たさを持つ瞳で、彼を見下ろす。
「あ、あの……姫?」
「このフロルの最も好きな事の一つは、『絶対にオトしてやる』とがっついてくる男に思わせぶりに振る舞い、最後は冷たくあしらってやる事だ……小鳥の貴公子殿。失礼ですが、お帰り下さい。迎えを来させよう」
あんぐり口を開けている小鳥貴公子に微笑をくれてやると、“氷の姫”は大股で庭園を歩き去った。
*
「ミカ! おらぬか、ミカ!」
「はいはい、ここに!」
たった今求婚者を振って来た“氷の姫”ことフロル王女は、宮殿の廊下を歩きながら大声で従者の名を呼んでいた。
その直後、柱の陰から少年が現れる。柔らかな金髪と淡い緑の瞳が印象的な、どこか儚げな雰囲気の美少年である。フロルの怜悧な美貌とは対照的だ。
少年がフロルの斜め後ろにつくと、フロルは粗雑な手つきで頭に付いている絢爛な髪飾りを外し、それを投げ渡した。首やら腕やらに付いている宝石の飾りも同様にむしり取って、ぽいぽい投げていく。その一つ一つが世の多くの女性が生涯で目にする事もできぬような代物なのに、とんでもない扱いだ。
「また振ったんですか?」
慣れっこだ、と言うようにミカはフロルの投げ捨てた物を大事に持ちながら、溜息をつく。
「当然。あの頭の軽そうな男を私が気に入るとでも思ったか?」
「……あの方、あれでも隣国の大貴族のご子息なんですよ。陛下も今回こそは、と期待されていらっしゃったのに」
「知るか。なぜ私が外国の軟派男とにこやかにお茶をしなければならんのだ。父上の遊びに付き合うのは疲れた」
「遊びって……姫様、あなたもいずれは結婚しなければならないのですから、こうも徹底的に振りまくらなくてもいいじゃないですか。そのお陰でいつの間にか“氷の姫”だなんて呼ばれて……」
自室の前に来ると、フロルはドレスの裾をむんずとつかみ、豪奢な扉を蹴って開けた。機嫌の悪い時はいつもこの開け方をするせいで、扉の下部には傷がついている。
ミカもフロルの後に続いて部屋に入るが、そんな事も構わずにまとっていたドレスを堂々と脱ぎ始める。ミカは昔からフロルのこの癖に慣れ親しんでいるので、今更赤面したりはしない。
ミカがあらかじめ用意しておいた着替えをひっつかみ、黙々と着替えはじめる。
「もし結婚したらこんな事もできなくなりますよ。直しておいた方が……」
「なぜできなくなるんだ? 夫ならば妻の裸なんぞ見慣れてしまうだろうに」
「そっ、そういう問題じゃ……!」
フロルが着替えた服は、簡素なシャツにかろうじて太腿を覆う程度の丈のズボンだ。庶民の男の子が着るような服である。間違っても一国の王女のあるべき姿ではないが、フロルの普段着は大抵これだ。
フロルは満足気に背伸びをした。
「やっぱりこれが一番落ち着くな。着飾るのは嫌いではないが、ドレスは裾やコルセットがうっとうしすぎる」
長く艶やかな黒髪を広げて天蓋付きのベッドに横たわる様は、着ているのがドレスでさえあれば絵画のように美しい。
ああ神よ、人を魅了してやまないこの美貌に、なぜこんなにも粗暴な魂を与えたもうたのか――主人であり幼馴染であるこの王女を見るたび、ミカは嘆きたくなる。
彼女を知らぬ者が先程の小鳥貴公子への台詞を聞いたら、ただの自信過剰な女と鼻で笑うだろうが、実際フロルを目にすればそんな気持ちは消え失せる。
性格はともかく、容姿だけならフロルは他国に噂が渡っても仕方がないような美姫であった。大国アヴェナの第三王女という事もあって数え切れぬ縁談が持ち込まれるのだが、フロルはそれを片っ端からばっさばっさと斬って捨てているのだった。他国の王子、大貴族、大富豪……世の女性が夢見るような求婚者を、顔を見もせず振るのがほとんどだ。たまに気まぐれを起こして直接会う事もあるが、大抵は先程のような末路を辿る。
その美貌で男たちを吸い寄せておきながら、決して誰にも心を溶かす事はない姫――フロルはいつしか“氷の姫”と呼ばれるようになっていた。
*
「これで何度目だ?」
「実際にお会いしてお断りしたのは丁度二十回目かと、父上」
しれっと答える娘の前で、父であるフィルマン国王は文字通り頭を抱えた。言うまでもなく、この末娘は悩みの種である。
見合いの後は執務室で首尾を尋ねているのだが、毎度寸分違わず同じ結果だ。
「今は春、恋をするにはいい季節ではないか」
「恋に季節は関係ありません。そもそも恋はしようと思ってするものではなく、落ちるものです」
「まったくもって結婚する気がないのか」
「そういうわけではありません。まだ生涯添い遂げたいと思う殿方にお会いしていないだけです。ただ、このような見合いは無意味かと。結婚したい相手には、自分から申し込みます」
部屋の隅にはミカも控えている。この父娘のやり取りもいつもの事だ。
「ミカよ。そなたからも何か言ってやってくれんか」
「恐れながら陛下……姫様は何が何でもご自分の意志を曲げない、ひっじょーに一本気なお方です。何を言っても無意味かと……」
フロルは頷く。
「さすが、長い間私にくっついているだけの事はある。――ミカの言う通りです、父上。私は自分の意見を曲げる気はありません」
「……そうか。ならば仕方がないな」
ようやく諦めたか、とフロルは早々に退室しようとした――が。
「今夜宮殿で開かれる夜会に出席しろ」
「え」
「安心しろ、定期的に開かれるただの社交の場だ。もちろんお前の出席は公表されていないから、お前目当ての下心のある輩はおらぬ」
「し、しかし父上」
珍しくどもるフロルに、父王はにやりと笑う。
「この夜会に出席する貴公子たちをよく見て、興味のある男を一人選べ。誰も選ばないのはなしだ。そして選んだ男と、後日もう一度会って話をしろ。何もその相手と結婚しろと言っているわけではない」
言ってるようなものだろうが――とフロルはよほど口にしたかったが、黙っていた。
*
「陛下もついに強硬手段をとられましたね」
「父上は何もわかってない! 私は夜会とかそういうちゃらちゃらした場に出る男は好かぬと言うのに!」
部屋に戻ってから、フロルは苛立たしげに悪態をつく。
「じゃあお聞きしますけど、どんな男性なら好みなんですか?」
「言ってみれば、お前は私の好みだぞ」
「えっ!」
思いも寄らぬ言葉に、ミカはぼっと赤くなる。
「どどどどういう意味ですか!?」
「並みの女の子よりずっと可愛くて、観賞用にはもってこいだ。すぐ泣くが何だかんだで根性もあるし、性格もいじりがいがある」
「……ただのペットって意味じゃないですか」
八年前、ミカが八歳、フロルが九歳の時に二人は出会った。
ミカは代々勇猛な騎士を輩出する名家の三男で、父親は王国最強のアヴェナ聖騎士団団長を務めている。ミカの父は国王とも親交が深く、フロルのお転婆ぶりに手を焼いた王が、ミカと引き合わせたのだ。歳が近く、誉れある騎士の父親に教育を受けて来た彼ならば、護衛や従者であると同時に、フロルの良き遊び相手になるだろうと。
実際、フロルはミカを実に気に入った。片時も離さず、ペット――もとい、遊び相手として可愛がっている。
「私の相手が務まるのは、お前くらいしかいないからな。自由にしてやるつもりはないぞ」
溜息をつきながらも、ミカは笑った。
*
月の見事な夜。王都ベランジェールの宮殿では、煌びやかな夜会が催されていた。
アヴェナ王国が誇る“氷の姫”フロル。彼女はその美貌と求婚者斬りだけでなく、夜会嫌いでも有名であった。世俗的な事には興味がなく、騒々しく人の多い場所を嫌う。故に、世に名だたる“氷の姫”の姿を目にできる事は滅多にないのだった。
「今夜のお客様は実に幸運でございますね。姫様のお姿を見たくて仕方がない殿方は星の数ほどいらっしゃるのに」
「やるからにはきっちりやらないとな。気合い入れてくれ、エマ」
「もちろんでございます。このエマ、全身全霊をかけて姫様をこの世で一番の美女にしてさしあげますわ」
鼻から息を吐いて答えたのは、フロルの黒髪をすいている若い侍女、エマだ。彼女は昔からフロルに仕えている数少ない猛者である。
現在フロルは多くの侍女たちにドレスの着付けやら化粧やらを施されている。
「たまにはいいかもな。ミカだけに私を独占させておくのももったいない」
さすがに侍女たちに追い出され、今ミカは部屋の外にいる。
「ふふふ、本当にその通りでございますわね。……さあっ、できましたよ! 誰が見ても文句なしです!」
額の汗を拭い、エマは大きく頷いた。
姿見の前に立つフロルはちょっと驚いたような顔をする。
「なるほど、すごい美人だ」
と堂々と言うフロルだが、確かにその通りではあった。
真珠の髪飾りが結い上げられた黒髪を彩り、首にも大振りな真珠の首飾りがある。ドレスは体のシルエットがよく出るシャープなラインのものだ。フロルの希望で色は深い青になった。無駄な飾りのない、極めてシンプルなデザインだ。
「せっかくですから、もっと華やかなドレスをお召しになれば良かったのに」
エマは不満気だが、フロルは当然のように言い放つ。
「こっちの方が素の美貌がより際立つだろう」
言葉だけなら鼻持ちならぬ台詞だが、フロルが言うと不思議とそう嫌味でもない。自己陶酔の色は一切なく、彼女の口調は非常にさっぱりしていて、ただの事実を述べているだけに聞こえるからだ。
「まあ、本当に!」
エマたちはくすくす笑った。
言動も行動も王女と言うにはあまりに粗暴で男勝りだが、飾らない性格に好感を抱く者は少なくない。こてこての化粧やドレスで身を固める宮廷貴婦人たちに辟易した貴公子にも、新鮮味があるのだろう、人気がある。とはいえ、フロルを快く思わない者の方が圧倒的に多く、特に身分の高い貴婦人は“氷の姫”の陰口を叩くためにお茶会を開く事もしばしばである。
「どうだ、ミカ」
しかし当の王女は自分の評価など興味はなく、部屋から出ると仁王立ちになってミカにドレス姿を披露する。
ミカも長い間フロルと一緒にいるが、このように気合いを入れて着飾った姿を見たのは少なく、新鮮である。
「う――美しいです」
「顔が赤いぞ。ま、当然か」
はっはっはと豪快に笑うフロルから、ミカは顔を背けた。
「好きなだけ貴公子様たちを誘惑して来たらいいですよ」
「お前は来ないのか?」
「あのですね。結婚できそうな男性を探しに行くんですよ。僕がいたって仕方ないでしょう」
「ふーん……まあいいや。こうなったからには楽しんでやる」
愉快そうに笑って歩き去るフロルを、ミカは呆れたような、複雑な表情で見送った。
*
思いがけぬ“氷の姫”の登場に、広間が騒然となったのは言うまでもない。
しかもほとんどの者がフロル王女を初めて目にするのだ。噂に名高い美姫と言葉を交わそうと、たちまち人が群がって来る。
「フロル殿下、お目にかかる事ができ光栄です」
「あの“氷の姫”を間近で目にする事ができるとは……」
我先にと称賛の台詞を並び立てる貴人たちに、フロルは『近寄るなオーラ』を発しながらにっこりと笑った。
「ありがとうございます。身に余るお言葉ですわ」
完全なる余所行きの笑顔と声。ああ、この美しい少女のどこが“氷の姫”なのだろう。花のように愛らしい姫ではないか――この場にいる誰もがそう思ったに違いない。ミカがいれば「騙されている!」と叫ばずにはいられないだろう。
「時に殿下、数えきれぬ縁談を断っていらっしゃるという噂は誠でございますか」
「ええ。中々うまく進まなくて……」
「でしたら是非、この私が」
「いえ私が!」
「いやいや、この私こそ!」
ちょっと愛想を振りまくと、この状態だ。やはり普段通りに過ごすのがいいらしい――とフロルは少し後悔したが、公共の場で素の自分を出すわけにはいかない。自分の噂や評価はどうでもいいが、父である国王の評判を貶めるわけにはいかない。
ふと、視界の端に妙なものが映った。
「……?」
人混みから外れた柱の陰に隠れるようにして、黒い人影があったのだ。遠くなのでそこまでよく見えないが、長身の男のようだった。騎士風の黒衣に黒い帽子、仮面舞踏会でもないのに、顔の上半分を覆う仮面を付けている。その色まで黒だ。
鮮やかな色に着飾った人々の中、その黒衣は異様だった。しかし皆おしゃべりに夢中で気付かれている様子はない。
「殿下? どうかなされましたか?」
「いえ――」
一瞬視線を外し、また柱の方を見たが、既に騎士の姿はなかった。
再びフロルは言い寄って来る貴公子たちにそつなく笑顔をふりまき始めたが、しばらくするとうつむき、口元に手を当てた。
「少し気分が……慣れない場所で、緊張してしまって」
「それはいけない! どうぞ、少しお休みになられてください。お送りしましょう」
「いえ、結構ですわ。皆様はこのままお楽しみください。――失礼致します」
早々に立ち去ってしまう王女に皆名残惜しそうな視線を向けていたが、気分が悪いというのを引き止めるわけにはいかない。もちろん真っ赤な嘘で、人混みで酔うほどフロルは繊細ではない。一応人気がなくなる所までは少しふらつきながら歩いていたが、一人になった途端いつものように大股で歩き出した。
*
昼間、求婚者をこっぴどく振った“春の花園”にフロルはいた。太陽の下で鮮やかに咲き乱れる花々も、今はひっそりと風に揺れるのみだ。
「綺麗な月」
夜空を仰ぎ、フロルは思わず口にした。
噴水の縁に腰掛けて優しく涼やかな夜風に身を任せると、とても心地が良い。フロルはこの季節が好きだった。美しい花も、暖かい陽気も、気持ちを穏やかにさせてくれる。
水の音、風の音、遠くから聴こえる喧噪――それらを包み込む静寂は、突如破られた。
「――?」
石畳を踏む足音。間もなく複数の人影が姿を現した。
全部で五人。皆一様に黒装束に身を包み、フロルを取り囲む。
「フロル殿下」
男の声だった。
「何か用か」
微動だにせずフロルは問う。次の瞬間、男たちが剣を抜いても焦りはしなかった。
「お命、貰い受ける」
剣の切っ先を向けられる――が、“氷の姫”は鼻で笑った。虚勢でこのような表情をできたとしたら、大した女優である。
「つまらん決まり文句だな。どいつもこいつも、気の利いた台詞は吐けんのか」
「騒がないで頂きたい。苦しむような事はせぬ」
「騒いでなどいないだろうが。無駄にかっこつけている暇があったらさっさと斬りかかって来い、卑怯者ども」
腕を組み、挑戦的に笑いかける。セオリーとあまりに違う標的の態度に、彼らは少なからずたじろいだようだ。
「それともその剣ははったりか? 石畳を堂々と踏んで歩いてくるくらいだから、暗殺を生業としているわけでもないだろう」
「――覚悟!」
男の一人が剣を振り上げ襲い掛かって来る。
その瞬間、月がふと翳った。いきなり灯りが消えた事で気を取られたのか、男の動きが一瞬止まる。月を隠したのが突如として舞い降りた人影だとは、フロルもすぐには気付けなかった。
剣と剣がぶつかり合う音が響く。
「……な、何奴!」
フロルの目の前で、黒いマントがはためく。
刺客の剣を受け止めたのは、突如として現れた剣士だった。
フロルには後姿しか見えぬが、この剣士もまた上から下まで真っ黒な服に身を包んでいた。黒い帽子まで被っているので、髪の色もわからない。だがこの黒ずくめ――見覚えがある。
刺客の問いには答えず、剣を弾き返す。
「かかれッ!」
後退した男の合図で、他の刺客たちが一斉に剣士へ斬りかかった。
月下の庭園に、たちまち剣戟が繰り広げられる。しかし、ほとんど勝負になっていなかった。
傍観者と化したフロルが感心するほど、黒い騎士の剣技は鮮やかだった。しかもフロルが推測した通り、刺客たちの力量は大した事はなかったらしい。まるで大人に軽くあしらわれる子供のように、ほとんど一撃で剣を叩き落とされている。
「くっ……ここで邪魔が入るとは――退くぞ!」
真っ先に倒されたリーダー格の男が叫ぶと、他の仲間たちはへろへろと走り去って行く。黒い騎士はその後を追いはしなかった。
「…………」
ずっとフロルに背を向けて戦っていた黒い騎士が、ゆっくりと振り向く。
彼は仮面を付けている上、鍔広の帽子を目深に被っているので、顔立ちはよくわからない。手にも黒い手袋がはめられ、肌が露出しているのは仮面で覆われていない部分の顔しかない。
彼は確かに、先程会場で見かけた騎士だった。
「あなたは、さっき……」
フロルは灰色の瞳で、目の前の男を真っ直ぐに見た。仮面の下からも視線を感じる。
「…………」
「ともかく、礼を言おう。名を聞かせては頂けないだろうか」
相変わらず黙ったままの騎士は深く一礼すると、そのまま闇の中へ走り去ってしまった。
「……何だったんだ、あれは」
一人取り残されたフロルはぽつりと呟いた。
*
「夜会の方はどうでした? 陛下にご紹介できそうな方はいらっしゃいましたか?」
いつもの服に着替え、フロルは部屋でくつろいでいた。ミカが紅茶を持ってくる。
「襲われた」
「――は?」
「見知らぬ男たちに襲われた」
がちゃん、とミカはティーカップを床に落とした。陶器の破片が散らばり、湯気の立つ紅茶が絨毯の上に無残にも吸い込まれる。
「お、お、襲われたって! どういう意味ですか!?」
出窓に座るフロルに、真っ青な顔で詰め寄る。しかし当人はしれっとした顔でさらりと言い放つ。
「なんだか知らないが、私を殺そうとしたらしい」
「なっ――」
「五人の男だ。外に涼みに出た私に襲い掛かって来た。顔はわからなかったが、そう大した使い手ではなかった」
「って、まさか戦ったんですか!?」
「さすがに素手では無理だ。か弱い乙女モードだったし」
「……それは置いといて、じゃあなんであなたは無事なんです?」
「謎の騎士が現れた」
「は?」
フロルは窓の外の闇に目をやった。
「突然、どこからかやって来て私を刺客から守った。刺客には逃げられたが……言葉も発さなかったし、仮面を被っていたので顔もわからない。……よくわからない男だった」
いつもはきはきと相手の目を見据えて話すフロルが、今回は遠くを見つめながら呟いている。
「……まさか」
今度は別の意味で青くなっているミカである。
「その得体の知れない騎士とやらを、陛下に……」
「そのつもりだ」
「こ――恋しちゃった、んですか?」
フロルはくすっと笑って幼馴染を見る。
「何だ? 散々私に結婚相手を選べと言ってきたじゃないか。それにあの状況は、絵になるくらいロマンティックだと思うぞ」
ロマンティック――よもや、“氷の姫”の口からそんな言葉が発せられるとは。
ミカはぽかんと口を開けたまま、フロルを見るしかなかった。
*
王女襲撃事件は瞬く間に知れ渡りすぐに犯人捜しが始まったが、三日経っても犯人の行方は掴めていない。そして同時に、王女を窮地から救った騎士の噂も広まり、王宮内の女官たちを中心に話の種となっていた。
後日、フロルは約束通り父王に呼び出された。
「思わぬ事件が起きたが、とにかくお前が無事で良かった。危険な目に合わせてすまなかったな。警備の徹底と犯人の捜索を命じた。安心するがよい。気分が優れぬだろうが……」
「ご安心を、父上。あの程度で心を病むような私ではありません」
「……そうであったな。では先日の約束通り、夜会で気に入った男を教えてもらおうか」
ミカは例によって部屋の隅に控えながら、はらはらしていた。フロルは本当に、得体の知れぬ騎士を結婚相手として考えるつもりなのだろうか。
「残念ながら、夜会に出席されていた貴族のご令息の中に、私の心に留まる方はいらっしゃいませんでした。ですがたった一人……父上もお聞きになっているでしょう、私を助けたとある騎士を」
「……ああ。聞いている」
フロルはにっと笑う。
「その方とならば、私は喜んで一緒になりましょう」
「――ひ、姫様!」
ミカは思わず叫んでいた。
「陛下、どうか発言をお許し下さい。僭越ながら、私は反対です! そのような正体の知れぬ輩が王女と婚姻を結ぶなど、許された事ではありません。第一その者が本当に姫様を助けたという保証などない。ひょっとしたら刺客の仲間で、このような展開になるのを見越して――」
「もしかしたら私を救ったあの騎士は、さる身分の出かもしれないぞ。物語ではよくあるだろう」
「物語は物語、現実は現実です!」
「私が誰を選ぼうと、お前に指図される筋合いはないだろう」
じろりとミカを睨むフロルの目はやけに鋭く、ミカはぐっと押し黙る。
「それは……そうですが」
王は顎に手を当てて考えた。
「ふむ。ミカの言う事も一理あるが、断定はできん。何よりフロルがその気になっているのだ。父親としては、望む相手と結婚してもらいたい」
「ですが……陛下」
「とにかく、刺客同様その騎士の行方も掴めておらぬ。私としても礼をしたいが、目撃情報もほとんど無いのが現状だ。捜しはするが、見つからぬ可能性もある。それは承知だな?」
「もし私と結ばれる運命ならば、神が引き合わせるでしょう」
「では父として、私もその運命を信じよう」
王も満足気である。ただ一人ミカだけが、憮然とした顔で突っ立っていた。
「それはそうと、フロル。あんな事件が起きてしまい、いつ次の危険がお前に及ぶかわからぬ。そこで新たに護衛を付ける事にした」
「私に? 必要ないと思いますが……一応ミカもいることですし」
と言ってフロルはミカを振り返り見るが、ミカはぷいとそっぽを向いてしまった。
「まあ、そう言うな。私は可愛い娘が心配でたまらんのだ」
「ああそうですか」
「入ってきなさい」
王の合図で、侍従が扉を開ける。足音もなく、その人物は部屋に入って来た。
「失礼致します」
低く、大きくはないもののよく通る声。
若い男だった。整えられた漆黒の髪、鋭い光を宿す切れ長の黒瞳は、一見怜悧で近寄り難い印象を与える。更に彫刻のように整った顔立ちや、均整のとれた素晴らしい体つきも、男のまとう刃のごとき雰囲気を助長させていた。
ミカはその男を見て、はっと表情を変える。
「セレスト卿!」
すると男はミカに向かって深く礼をした。
「ミカ、知り合いか?」
フロルに尋ねられ、ミカは動揺しながらも頷く。
「え、ええ……」
「ミカは父君の関係で面識があるのだ。――紹介しよう。我が王国が誇るアヴェナ聖騎士団の若き副団長、セレスト卿だ」
フロルの斜向かいに立ち、騎士セレストは深く一礼をした。
「お目にかかる事ができ光栄です、フロル殿下」
フロルはセレストをじっと見つめた。顔を上げたセレストも、フロルを見つめる。
“氷の姫”の異名をよく表している瞳。雲がかかる夜明けの空のように神秘的で冷え冷えとしたその目に真っ向から見つめられて、たじろがぬ者は滅多にいない。セレストは数少ない例外の一人であったようだ。
「この身をかけてお守りいたします」
極めて淡々とセレストは言った。名高い“氷の姫”と国王を前に、委縮するでもあがるでもない。微笑む事さえ知らぬような若い騎士は、しかし真摯な瞳を守るべき王女に向けている。
フロルは微笑んだ。それを見たミカが思わず目を見開く。
「こちらこそ、よろしく頼みます。セレスト卿」
「セレスト卿には、基本的に常にフロルの傍に付いてもらう。それで良いな?」
「はい」
即答したフロルに、ミカは反論しなかった。
*
「どうした、ミカ。不満そうだな」
自室に戻り、フロルは紅茶を楽しんでいた。ミカも一緒だが、端正な顔はむすっとしかめられたままだ。
「当たり前です」
「何がそんなに気に入らないんだ。セレスト卿か」
セレストとフロルは面識こそなかったものの、互いの噂は良く知っていた。言わずと知れた“氷の姫”、そして若き聖騎士セレスト。弱冠二十歳で誉れある聖騎士団の副団長に大抜擢され、以降三年間その大役を立派に勤め上げている。
「そういえばミカ、いつからセレスト卿と面識があるんだ?」
聖騎士団団長であるミカの父親は、セレストの直接の上官である。奇遇にも今回共にフロルに仕える事になったセレストは、ミカの父親の片腕なのだ。
「僕が王宮に入る前からです。昔から父は彼を可愛がっていましたから……」
じろりとミカはフロルを見る。
「まさか、セレスト卿が黒い騎士だとお思いですか?」
フロルの表情は肯定とも否定ともとれぬ、はっきりしない表情だ。
「――さあな。お前はどう思う?」
「知りませんよ。セレスト卿が気に入ったんなら、求婚したらいかがです」
「すねてるのか」
「違いますっ! なんだって僕がすねなきゃいけないんだ」
ぼそぼそ不満気に言うミカを横目に見ながら、フロルは紅茶に口を付ける。その時、ドアが叩かれる音がした。
「どうぞ」
「失礼します」
入って来たのはセレストだった。ミカに気付くと、そちらにも礼をする。
「丁度良かった、セレスト卿。一緒にお茶でも」
フロルのにこやかな応対に、横にいるミカは白々しい視線を向ける。
「いえ、私はご挨拶に……」
「殿下、僕は失礼します」
ミカはどこか憮然として立ち上がった。
「お二人で話された方が良いでしょう」
「へえ、なかなか気の利く真似をするな」
そしてミカはそのまますたすたと部屋を出て行ってしまう。セレストは少し戸惑ったようだ。
「良いのですか?」
「あいつがすねるのはよくある事だ。ま、放っておきましょう。二人で散歩でもどうかな?」
*
フロルがセレストを伴って向かったのは、先日刺客に襲われた“春の花園”だ。咲き乱れる花々は、春の光を一身に浴び眩しいばかりの鮮やかさである。
「ここは私が生まれた時に記念として造られた庭園なのです」
「美しいですね」
フロルは花に顔を寄せ、香りを堪能した。
「将来“氷の姫”と呼ばれるとわかっていたら、こんな色とりどりの花は植えなかっただろうが」
「そうでしょうか? 確かに殿下のご容姿とここにある花の色は合いませんが」
無表情のまま言うセレストをフロルは好ましく思ったが、当の騎士ははっとして頭を下げた。
「――失言でした。お許し下さい」
「いや、事実だ。大体の男はここに連れてくると、私を花に例えて無理に褒める。それよりずっといい」
フロルがベンチに腰掛けると、セレストはその背後に立つ。
「どうぞ、あなたも」
「いえ、私の務めは殿下の護衛ですので」
フロルはくすりと笑う。
「それはいいから、話し相手になって欲しいな。一人で座っているのもわびしい」
しばらくして、セレストは人一人分空けてベンチに座った。
「私が“氷の姫”と呼ばれる所以をご存知か?」
「……噂でしか」
「噂通りさ。実はこの庭園は見合いの時によく使っているんだ。そして一人残らず振った。なぜだと思う?」
「私にお聞きする権利はありません」
愛想はないが、冷たいわけでもない。フロルは無表情のままのセレストに、からかうような笑みを向ける。
「あなたが初めてだ。そこまで私に興味を持たないのは」
挑発的ともとれる言葉に、セレストは少し返す言葉に迷ったようだった。
「いえ、そういうわけでは……」
「想う人はいないの? それだけの美形で騎士としても一流、あなたを見て目の色を変えない女はいないと思うが」
と、セレストを見ても全く目の色を変えなかったフロルは言う。
「過ぎたお言葉です。私は無愛想で近寄り難いらしいので、女性とは縁がありませんが……」
「あなたは高嶺の花なのさ。男にはさぞ羨望と嫉妬を向けられるだろう。ミカのように」
セレストは首を傾げた。
「ミカ様が?」
「彼は自分の女っぽい体つきや顔を随分と気にしているから、あなたのような凛々しい人に憧れを持つらしい。それに、あなたはミカの父親からも厚い信頼を受けている。騎士として父親に認められる道を諦め私の玩具になったミカからすれば、あなたを妬むのも頷ける」
「御身をお守りする事は、大変栄誉ある事です。騎士でなくとも、ミカ様は父君に認められています」
何とも複雑な微笑を見せるだけで、フロルは言葉を返さなかった。もし“氷の姫”としてのフロルしか知らない者がその表情を見たなら、どのように感じただろうか。その悲しげにも見える、儚い笑みを。
*
「……はあ」
どこにいても、何をしても、口をついて出るのは溜息ばかりだ。
ミカは城下町の商店街をとぼとぼと歩いていた。威勢よく出て来たものの、行くあてはない。いや、今のうちに次の仕事を探しておいた方がよいか……
「あら? ミカ様じゃございませんか?」
「え?」
ぱっと顔を上げると、正面にフロル付きの侍女エマが立っていた。いつもの女官服ではなく、私服姿である。
「エマ? 君こそ何でここに……」
「少しお休みを頂いたものですから、買い物に。ミカ様は?」
「いや、僕は……散歩。ついでに次の仕事を探しに……」
「はい? 何をおっしゃっているんです?」
端正な顔を絶望的に歪めて、ミカは溜息をつくばかり。エマもこれは奇妙に思った。
「ミカ様、よろしければお茶でもいかがですか? おいしい茶屋がありますの」
ミカは気の入らない返事をしたが、エマに腕を取られて半ば強引に店へ連れて行かれた。若いが面倒見の良いエマには、少々強引なところがある。それくらいでなければ、長年フロルの侍女は務まらないのかもしれないが。
最初は躊躇ったが、不満や不安を口にし出したら止まらない。結局、セレストや黒い騎士のこと、何から何まで吐き出してしまった。
「――とにかく、僕はもういらないんだ。これからはセレスト卿が姫様を守るから」
ほとんど息をつかず、ミカはこれまでの事を一気に話した。
「姫様とセレスト様が……セレスト様のお姿を拝見したけれど、とても男らしくて立派な騎士様でしたものね。姫様や陛下がお気に召すのも納得――」
正直な感想に、ミカがずんと沈み込む。エマははっとしてあたふたと取り繕った。
「あ、で、でも、ミカ様程ではありませんわ! だってミカ様は小さい頃から姫様と一緒で、誰よりも姫様の事をわかっていらっしゃるもの!」
ミカは青い目を伏せ、金色の頭を振る。
「そんな事ないよ。何年経っても姫様の考えてる事はわからない。刺客を倒した黒い騎士とセレスト卿が、同一人物だと思ってるみたいだし」
「まあっ!」
「これ以上ないくらい完璧だろ? これで僕の居場所もなくなった……」
「お二人がご結婚なさるなんて、決まった事ではありません!」
「姫様はセレスト卿の事、すごく気に入ってる。今までの求婚者たちとは全然態度が違うし。結婚する気なんてさらさらなさそうだったのに、いい男が現れた途端……」
ぶつくさ言うミカに、エマはくすりと笑う。
「ふふふ、結局はすねてらっしゃるのね」
その言葉にかっとなって、ミカの頬が赤く染まった。
「違う! そんなんじゃ……」
「でしたら、何をそんなに悩んでいらっしゃるの? 自分の仕事がなくなるかもしれない事? それとも、セレスト様に姫様の隣を取られる事?」
何に悩んでいる――?
セレストに良くない感情を抱いているのは確かだ。父に見限られた自分とは違い、騎士として認められている。容姿だって、鍛え抜かれた体に凛々しい顔立ち――十六になっても女の子と間違えられる自分と比べて嫌になる。
しかしそれ以上に、フロルがセレストに笑顔を向けるのが耐えられなかった。フロルの近くにいる事を許された男は、ただ一人自分だけだったのに。
初めて会った時からフロルは今と変わらぬ気性で、周りの大人の手を煩わせてばかりだった。
第一印象は、美しい――けれど寂しげな女の子だった。瞳は強い意志を宿し、表情や振る舞いも凛然としている。大人に遠巻きに囲まれながら、彼女はいつも一人だった。
自分と似ている――そんな思いも抱いた。
自分の何を気に入ったのか、会ってすぐにフロルはこう言い放った。
『今日からお前は私のものだ。逆らう事も離れる事も許さない。常に私の傍にいろ』
高圧的だったが、不思議と心が安らいだのを覚えている。お前の居場所はここだと――そう言われたような気がした。
遠い昔に思いを馳せるミカに、エマは優しく微笑む。
「ね、ミカ様。思う通りになさったらよろしいわ」
うつむいたまま、ミカは拳を握りしめた。
*
ミカが王宮へ戻ってきたのは、もう陽が西に姿を消す頃だった。何となく、“春の花園”に向かう。
風が花の香りを運んでくる。薄闇に花の色が紛れ、香りだけが一層芳しく鼻腔をくすぐるような気がした。
十七年前の春、フロルの誕生を祝ってこの庭園は造られた。花のように優しく美しい姫に成長するよう、願いを込めて。昔からフロルとミカの遊び場であったここには、当時から変わらぬ種の花が植えられている。
他に誰もいないはずの空間に、無機質な靴音が響いた。
「ミカ様」
姿を現したのは、セレストだった。ミカははっとして身構えてしまう。
「セレスト卿……」
「明日は騎士団の職務があるので帰る所でしたが……ミカ様が戻られたと聞いたので、ご挨拶をと」
セレストと初めて会ったのはフロルと会うよりも前の事だ。セレスト自身まだ少年だったが、一際父に目をかけられて騎士として訓練を受けており、屋敷にもたまに来ていた。
子供ながらに激しく嫉妬したものだ。その才能、容姿、自分と接する時とは明らかに違う父の態度に。
「大きくなられましたね」
「あなたは昔から変わりませんね。騎士として将来を嘱望されている……」
ただ挨拶をしに来てくれたのだとわかっていても、口調に棘が生えてしまう。
「お父上はいつもあなたの事を気にかけていらっしゃいます」
「……ずっとろくに会ってない息子の事なんか、気にするはずない。父はあなたがいてくれれば、それで満足なんですから」
こんな事しか言えない自分が情けなかった。そう思うと涙さえ出て来そうになる。
「あなたは何もかも持ってる。僕が欲しくて仕方のないものを、当然のように……そして今度は……」
ただ卑屈になっているだけだという事はわかっていても、言葉を止める事はできない。
「姫様を刺客から救った黒い騎士というのは、あなたですか?」
「……いえ」
即答というにはあまりに間が空いていた。ミカは力なく笑う。
「姫様は彼との結婚を望んでいます。黒い騎士でなかったとしても、あなたとなら結婚するでしょう」
「私は……殿下と婚姻を結べるような身分ではありません」
「姫様はそう思ってはいません。陛下も認めるでしょう。――失礼します」
逃げるようにミカは走り去る。
すっかり暗くなっていた。日が長くなり始めているとはいえ、春の夜は案外すぐにやって来る。
フロルの隣にいられなくなって、その後は一体どうするのだろう。実家に帰っても迷惑がられるだけ、騎士として働けるわけでもない。フロルに頼めば、城で働く事は可能だろうか。しかし、すぐにその思いは打ち消した。姫に捨てられた玩具と噂されるであろう場には、いたくない。
いつかこんな時が来るとわかっていたが、永遠にあの場所は自分のもののような気がしていた。
「とんだ思い上がりだな……」
呟きは闇に溶けていく。
*
真夜中、フロルの部屋の窓からはちょうど月が見える。部屋の中に白い月光が入り込んでいた。
フロルは天蓋付きのベッドで仰向けに眠っている。その寝姿は、昼間の姿からは想像もできないほどたおやかだ。艶やかな黒髪は差し込む月光によって一層煌めき、肌も陶器のように光を弾いている。
そろりとドアが開いた。姿を現したのは全身黒衣に身を包んだ騎士だった。
足音は絨毯に吸い込まれ、わずかな衣擦れの音だけが響く。
黒い騎士はベッドに歩み寄り、眠れる美姫を見下ろした。仮面に隠されて、その表情を窺い知る事はできない。
騎士はゆっくりと跪き、フロルの寝顔に唇を寄せた。
息がかかるほど近く、唇と唇が触れようとしたその時――眠っていたはずの暗灰の瞳がかっと見開かれる。
騎士が反応するより速く、フロルの手が騎士の仮面をはぎ取る――騎士は一瞬で身を引き腕で顔を隠した。
フロルはベッドに体を起こす。
「夜中に堂々と女の部屋に入るなんて、大した度胸だ」
とても眠っていたとは思えない程、口調も表情もはっきりしている。
騎士は帽子の鍔を引いて一層目深に被り、顔を見られないようにしている。
「なぜ必死になって隠す? 怖いのか」
「…………」
フロルの瞳は矢のごとく鋭いが、騎士は一言も口にしない。
騎士の黒い影と、それを正面から見据えるフロル――その光景は幻想的ですらあった。
黒い騎士はじりじりと後退し、部屋の扉へ向かう。
「逃げるのか?」
からかうように言ったが、騎士は身を翻し廊下の闇へ消えてしまった。
フロルは追わなかった。ただ、開かれたままの扉を見つめて呟く。
「……誰が曲者だか。にしても、扉から入って出るとは随分行儀が良いな」
姫の苦笑は、そのまま夜の空気へ溶けていった。
*
次の日の昼頃、フロルは部屋にミカを呼んだ。
「ごきげんよう、ミカ」
やけに爽やかな笑顔を見せるフロル。一方ミカの目の下には濃い隈があり、雰囲気も表情もどんよりとしている。
「……どうも」
「どうした、寝不足か」
「ええ、色々と……」
「それよりこれを見ろ」
うきうきとした様子でフロルは枕元から何かを取り出した。
「それは……」
「仮面だよ。黒い騎士が昨夜、ここに来たのさ。その時にこれを奪い取った。残念ながら顔を見る事はできなかったが」
フロルは大仰に肩をすくめて、色を失ったミカの顔をちらっと見る。
「まったく、何の為に警備を強化したんだか。まあ、幸い私を殺しに来たわけではないようだったけど」
ミカの声は少し震えている。
「申し訳ございません……姫様に、危険を……」
「過ぎた事だ。昨日はセレスト卿もいなかったし……だが、警備兵が誰一人気付かないとは妙だな。それに堂々と扉から入ってきた事から、私が鍵をかけて寝るのを嫌っている事を知っていたのか……」
「この事は、誰かに?」
「いや、まずお前に言っておこうと思って」
「そう、ですか……」
「これから父上の執務室へ報告に行くぞ」
「い、今からですか? いきなり?」
驚くミカに、フロルはしれっと頷く。
「一応連絡はしてあるし、準備も万端だ。お前も来い」
「準備……?」
「芝居の終焉にふさわしい客を呼んだのさ」
*
相手は一国の王だ。娘といえど、簡単に会える相手ではない。しかしフロル王女の行動は早かった。
「呼びもしないのにお前から来るとは珍しい。こちらの都合を顧みない所はお前らしいが」
「お忙しいところ、申し訳ございません。どうしてもお伝えしたい事がありまして」
「ほう。伝えたい事?」
「件の黒い騎士です。昨日、私の部屋に現れました」
王は目を見開いた。
「何だと?」
驚く父に、フロルは騎士から奪い取った仮面をひらひらと見せる。
「これが証拠です。――父上、もうお遊びはよろしいでしょう」
「……何の話だ?」
「説明しましょう。まずは――セレスト卿、お入り下さい」
フロルが言うと、ノックの音と共に黒衣の騎士が入って来た。
「失礼致します」
「セレスト卿! 今日は騎士団の職務があるのでは……」
「殿下に呼び戻されておりました」
動揺するミカはそっちのけで、フロルはにやりと笑う。
「ネタばらしは、黒い騎士殿にも聞いてほしいからね」
「黒い騎士! やはり……」
「まあ逸るな。私の話を聞いてから存分に驚け」
と、フロルはすらすらと話を始める。
「最初から怪しいと思っていましたよ。仮にも刺客に私への接触まで許してしまったというのに、対応は警備を強化するという口約束と、護衛を一人増やしただけ。未だに犯人は捕まっていない。ついでに、私を助けた黒い騎士も。――あんな小芝居で私を騙せると思っていらっしゃったのなら、私を見くびりすぎです」
「小芝居……?」
堪え切れずに尋ねたのはミカだ。
「最初から刺客も黒い騎士も、存在しなかったのさ」
「は!?」
「すべては仕組まれた事だった」
しばらくフロルと王の視線がぶつかり合う――が、やがて王は吹き出した。
「全てお見通しだったとはな。さすがだ」
「な、な……」
あわあわと状況を理解できていないのは、ミカだけのようだった。
「つまり、私にセレスト卿を婚約者として指名させるための芝居だったんだ。まず兵士数人に私の命を狙う刺客のふりをさせて、襲撃をかける。そこへセレスト卿扮する謎の騎士が颯爽と現れて、私を救う。突如として現れた謎の騎士に私は恋をしてしまう――という設定。そしてセレスト卿が新たな護衛としてつけられる。後は適当なところでセレスト卿と黒い騎士が同一人物だったという事をばらし、セレスト卿と婚約してめでたし――って具合」
「恐れ入ったぞ。正解だ」
「こんな内容の薄い劇、始まったところで怪しいとわかります」
「騙し通せなくても良かったのだ。セレスト卿ならばお前も気に入ると思ってな」
「だったら見合いをさせれば良かったでしょう」
「たまには違う切り口から攻めてみたのだ。これでお前が恋をする気になれば、と」
フロルは呆れたように息を吐く。
「大きなお世話です」
「しかしフロル。昨夜、確かにセレスト卿はいなかったはずだが……」
セレストが前に出る。
「その事なのですが、陛下。今朝、ここへ参る前に王宮内の自室へ寄ったのですが……荷物に、何者かがいじったような形跡がありました。恐らく私ではない誰かが……」
フロルは頷いた。
「時に、父上。元々恋愛に興味を持たせるために芝居を打ったのでしょう」
「ああ、そうだ。お前としてはどうだ? 未来の夫にセレスト卿を選ぶというのは――」
「セレスト卿は立派な男性です。彼の妻になる女性は幸福でしょう。しかし残念ながら――私が結婚したいと思う相手は、もう決めてあります」
「――は?」
いささか間抜けな声は、男性陣の綺麗な三重奏であった。
これでもかというほど、フロルは艶然と笑う。
「ミカを婚約者に指名します」
「へ?」
また気の抜けた声を出したミカの腕を、フロルはぐいと引っ張る。
残る王とセレストの二人も、突然すぎるこの出来事には目を丸くするしかない。
「お前と結婚するって言ったんだ」
「け、ケッコン!?」
フロルは父とセレストの方を向き直り、またにっこりと笑って見せた。
「我が愛しの婚約者殿は混乱気味ですので、二人でじっくり話して来ます」
「なっ――待て、フロル!」
「では、そういう事なので」
フロルは制止も聞かず、ミカをずるずる引っ張りながら部屋を出て行ってしまう。
「…………」
残された王とセレストは、二人の出て行った扉を眺める。
「……とりあえず我が娘は結婚する気になったのだろうか」
「そのようですね」
ため息をつき、王は若い騎士を見つめた。
「なんというか――すまなかったな。忙しいそなたにわざわざ協力してもらったというのに」
「いえ――こうなるのではないかと、少し思っていました」
そう言うセレストは、彼にしては珍しい面白がるような微笑を浮かべていた。
「初めてお会いした時からわかっていました。間違っても心奪われた様子ではなく……だから殿下が黒い騎士を婚約者に指名しようとしているという話を聞いた時、驚いたのです。それに殿下とミカ様の関係は、私から見ても特別でした」
「しかしそれにしても、昨夜フロルの部屋に侵入した黒い騎士は……」
「それは恐らく――」
*
フロルはミカの腕を引き、庭園へ走った。二人だけの世界へ走る恋人たち――というには立場が逆のような気もするが。
「ひっ、姫様……一体どういう事なんです!?」
ようやく立ち止まると、息を切らしたミカはフロルを見る。
一方のフロルはなぜか満足気な顔だ。
「やっぱりここはいい場所だな」
「ちょっと! 聞いてくださいよ!」
「うるさいな。ちょっとは静かにしろ」
フロルは正面からじっとミカを見つめた。その目は全てを見透かしてしまいそうだ。
「昨晩、私の部屋に来たのはお前だろう。お前ならセレスト卿の部屋も知っているし、衛兵に言って警備を外させる事もできるだろう。セレスト卿の荷物から、黒い騎士の衣装を取ったんだな」
ミカはうつむきながら唇を噛んでいる。
「……そうです」
「私が気付かないわけがない。お前とセレスト卿じゃ体格も違いすぎるし、私の部屋に容易に入って来れる人間はそういない。見張りには適当な事を言って下がらせたのか」
「……気付かれても良かった。これで最後って思ったら……」
「最後?」
きっと顔を上げたミカの両目には、涙がたまっている。
「あなたが誰かと結婚したら、僕の居場所はなくなる。そう思ったら、怖くて……」
「別にお前の居場所はなくならないだろう」
「僕が嫌だったんです! あなたが他の男と幸せそうにしてるのを、横からずっと見てるなんて……耐えられない」
「今までは散々結婚しろと言ってたくせに」
「……心のどこかで思ってたんです。あなたが、上っ面だけの求婚者を受け入れるはずがないと。優越感さえ抱いていた。一番近くであなたを見ているのは僕……ありのままのあなたを知っているのは、この自分だけだった。でも、黒い騎士が現れて――」
「……試したんだ」
ぽつりとフロルが言った。
「私が誰かと結婚する気になったら、お前はどうするのか。だからわざと芝居に乗った」
「え……」
「お前が黒い騎士の恰好で私の部屋に来た時、正直……安心した」
ぽかんとするミカの前で、フロルは相も変わらず乱暴な仕草で頭を掻いた。
「それともお前は、単にセレスト卿に負けるのが嫌だったのか?」
「違いますっ! そ、それは嫌ですけど……あなたを誰にも取られたくないんです。だから、あんな事を……本当に申し訳ありませんでした。今日限りで――」
「別に怒ってなんかいないし、辞めさせてやる気もない」
フロルは冷たい声色でミカの言葉を遮った。
「お前にはむかついてるけどな」
「あなたこそっ、こんな事をするなら何でお見合いをしたりしたんです!?」
「お前の反応を試してたんだよ! お前こそしれっとした顔をしてたくせに、面倒な真似をした挙句めそめそ泣きやがって。だったら最初から堂々と結婚を申し込めば良かったんだ」
「だ、だって……」
「結局どうしたいんだ? キスしようとしただろ、私に」
はっきり言われて、ミカは顔を赤くする。顔を逸らそうとしたが、フロルは華奢な少年の肩をがっしり掴んで自分の方を向かせた。
「目を見て言え。後涙を止めろ。そんな顔してたら、私がいじめてるみたいじゃないか」
「実際、そうじゃないですか……」
「あ?」
「な、何でも……」
「ほら、早く」
この状況でノーと言えるだろうか――ミカは冷や汗が滲むのを感じながら、覚悟を決めて本心を言った。
「……好きです。ずっと前から、あなたが好きでした」
しばらく、そのままの体勢だった。傍から見れば、脅迫されているように見えなくもない。どっちにしろ、この華やかな庭園には似つかわしくない雰囲気だ。
しかしやがて、フロルはにっこりと笑った。ふわりとした、花が開くような笑顔。
まだ泣き顔のミカの頬に、優しく口付ける。
「こんな美少女と何年も過ごして何も思わない方がおかしい」
「は、はあ……」
「心配だった」
「な、何がです?」
「お前が荒んだ兵や城下のチンピラに食われやしないかと、ずっと気が気じゃなかったんだ」
「……一応僕、男なんですが」
ミカのささやかな反論は無視して、フロルは大げさに首を振る。
「でも良かった。やっと言う気になってくれて」
「言わされた感ありますけど……」
「ごちゃごちゃ言うな」
フロルの顔はどこか晴れやかだ。
「あの……本当に、僕を……」
顔を赤くしながら、震える声でミカは尋ねる――しかし、声は出なかった。フロルが唇を唇で塞いだからだ。
唇を離すと、固まったままのミカに、“氷の姫”はほんの少し照れたように笑う。
「こんな美少年と何年も過ごして、何とも思わないわけがない」
「じゃ、じゃあ……」
「お前が私にキスしようとするずっと前から、私はキスしたいと思ってたんだからな」
白い歯を見せて笑ったフロルの頬は、柔らかな花の色をしていた。
読んでくださり、ありがとうございました!