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星満ちる夜に  作者: 春生
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第一話

月のない夜だった——



 天上にまたたく星が地に降り注ぐ雨のように空を満たす。

 エメルはギウナに呼び出され、公爵家の庭におとずれた。

 勝手知ったる他人の家である。迷うことなく指定された泉の位置を目指す。幼いころから遊び慣れた場所は、夜の仄かな光を受けて幽玄にその姿を誇っていた。

 敷かれた淡い色で統一された石畳の両側は、鮮やかな色で咲き乱れる花で飾られている。やさしい匂いのする花の香りを楽しみながら、エメルは庭の一角にある泉へと向かっていた。

 年頃の未婚の女性が男の呼び出しをやすやすと受けるなどほめられたことではない。なにか間違いが起きても、同意であったのだろうと周囲から女のほうが非難される。それくらいのことは女らしさが欠如したエメルも理解していたが、互いに見知った気安さでまったく警戒心など抱くことなく、彼女はギウナの呼び出しにこたえたのだ。 

 白銀にまたたく星空の下、星明かりの光をうける泉が静かに輝いていた。

 エメルは幼なじみに姿をすぐに見つけた。

 闇に浮かびあがるような美貌の持ち主である。

 背後に星の光を従えて立つ姿が、ため息をつきたくなるくらい似合う。

 エメルは男装の麗人と一部の女性たちに騒がれているが、ギウナはその比ではなく年頃の女性に黄色い声をあげさせていた。

 短く切られた漆黒の髪に、少年の幼さがようやく消えてきた輪郭線。エメルの気配を感じ向けられる目は、夜の闇をくり抜いたような美しい藍色だ。瞳の色をことばにすればエメルと同じはずなのに、その瞳の輝きは自分のものとは全く違うと感嘆するように思う。

「こんな時間にこんな場所に呼び出して何の用だ?」

 酒でも飲むにしても、庭に呼び出すとは珍しい。なにか子供のいたずらめいた悪巧みでもしているのかと、怪訝というよりは面白そうに問いかける。

 その、陽気な感情もすぐに掻き消えることになるとは、尋ねた瞬間のエメルは思いもしなかった。

 相向かう男は常になく真剣な瞳で、エメルを見つめている。楽しい話しではないと感じ取って、エメルは表情を改めた。

「どうした?」

 簡潔に問うエメル。

 エメルは生まれてこのかた人前で淑やかな話し方をしたことがない。

 軍人の家に嫁いだ王女であった母がやけに気負って、娘であるエメルを立派な軍人に育て上げようと娘らしいことをするのを固く禁じたからだ。

 婚家したとはいえ、王女であった女に周囲は強くいうこともできず、エメルは王女であった母の望み通りに成長した。

 二十歳になったエメルは、長身で細身ではあるが女性らしい丸みにかけた体つきをしている。

 冷たさを感じる整った容貌は男が好むような甘やかさがなく、思わず避けて通りたくなるような厳しい性格が透けて見えるようであった。

 灰色の髪は肩のあたりでざっくりと短く切られている。

 藍色の瞳はそんな自分を特に悲観するふうでもなく、常に泰然としていた。

 その、藍色の瞳はギウナに強引に手をひかれ、奪われるように唇をふさがれた瞬間に混乱に揺れた。後頭部に手をまわされたことの意味を考えるより早くに行われたそれを、エメルは瞬時に理解することができなかった。

 見開いた目に男の顔が飛び込んできて、唇にはやわらかな感触。

 一瞬の後にようやく我が身に起きていることを理解し、反射のようにエメルは暴れた。

 抵抗のためにギウナを突き放そうとしたエメルの抵抗など、強引に抱きしめてくる男の腕力には一切敵わず、呆気なく捻じ伏せられた。

 ギウナ——! 

 声に出ない叫びがあがる。

 口の中に我が物顔で割ってはいってくる粘膜の感触に、気持ち悪さを感じるよりもぞくりとした寒気に怯えた。エメルはそれを恐怖だと錯覚した。足掻く力は俄然増すが、それに煽られるように口づけは激しくなっていく。

 力を込めて抱かれる背が痛いと感じた。その痛みに気を向けなければ、訳が分からぬまま意識が溶けてしまうように思えた。頭の奥で星のように白い光がきらめく。ギウナの唇がようやく離れたとき、水の中で溺れたように息も絶え絶えだった。

 殴りつけるようにエメルは強くギウナを突き飛ばそうとしたが、腰にまわされた手はぴくりとも動かず彼女を拘束していた。

 異様なほどに近い距離。

 女性にしては長身の部類に入るエメルだが、青年として成長しているギウナには体格からして敵うはずもなく、純粋な力の差で負けていた。

 それに抗いきれぬ、良い知れぬ恐怖——

 抱きしめられたまま、エメルは激したようにギウナを詰問する。

「このようなことを! 一体なんのつもりだ!」

 突然の事態をエメルは理解しきれず、恐怖を怒りにすり替えて激高した。夜の静けさを荒々しく裂く厳しい声。ギウナはそれに一切たじろがず、真剣なまなざしでエメルを見下ろす。

「今ので分からなかったか?」

 エメルを愚か者と誹るような冷笑を受けべるギウナ。

「何を分かれというんだ!」

「存外鈍いな。鈍すぎだろう、お前」

 頭の後ろにまわした手が、またエメルをギウナのほうへと引き寄せる。腰にまとわりついたギウナの手がさらに二人の身体を密着させた。視点がぼやける寸前にまで近付いた、男の顔。

「俺は、お前が好きだ。エメル。ずっと、ずっと子供の頃からお前のことが好きだった」

 ためらうことなくきっぱりと告げられたことば。

 ギウナの翡翠色の瞳に、このような強行なあとだというのに一切揺るがぬ真摯な想いを見つけてエメルはたじろいだ。

 後ろめたいことをされたのはエメルなのだ。何をいうのだと怒鳴ってもいい立場にある。しかし、その罵倒を封じ込めるような切なる真意を見つけてしまい、エメルは何も言えなくなった。

 幼いころからよく知っているはず青年に、全く見知らぬ男の顔を見つけて、目眩に似た感情の揺らぎを覚えた。初めての感覚に、どうすればいいのか困惑する。

 幼いときからの付き合いで、それこそエメルは赤ん坊の頃からギウナのことを知っている。といっても、ギウナが赤子のときはエメルも二歳の幼児であったので、漠然としか覚えていないが。

 エメルにとって、ギウナは性別も年齢も違えど、何にも代え難い友であった。いいかえれば、友でしかなかった。

 弟のように見ることはなかったが、それと同時に異性として意識することもなかった。

 そんなギウナが、エメルのことを好きだと……

 ギウナに蹂躙された唇の表面はやけにぬらついていて、それはとても気持ちが悪いはずなのにそのことから意識が逸れるほど、意味なくギウナのことばをこころの内で反芻する。

 だれにも触れられない場所にやたらと虐め抜くように、ぬちぬちと貪られた。それの好悪を受け止める暇もない困惑の坩堝におとされたことは、エメルにとって幸運であったのか不幸であったのか、それはエメル本人ですら分からない。

 混乱するエメルに追い討ちをかけるように、ギウナは了解のない口づけを詫びるでもなく告げる。

「俺と結婚してくれ」

 ギウナのことばが聞こえなかったわけではない。

 ただのひとつも漏らすことなく、耳に届いた。

 誠意のあることばに反して、エメルを捕える体勢はあまりにも強引で乱暴だ。一切の逃げを許さず、ギウナはエメルを欲していることを教えている。ことばの形だけは懇願を装いながら、ギウナの真意は強制でしかなかった。

「は……?」

 気の抜けた音がもれたのは、理解できなかったからだ。理解することを拒んだのだ。

 エメルにとって、結婚はいつか訪れるものであったが、このような形で友でしかなかった男に突き付けられるものではなかった。

 ギウナにされた口づけも、終わってしまえば夢や幻のような出来事のようにエメルの頭の中でぼんやりと情景が白ににじみはじめている。逃避のように、ギウナの告白の真剣さも困惑で白くぼやける思考の中でなかったものとしようとしていた。

 それを引き止めるように、ギウナがエメルの肩や腰に強い力でまわした腕。

「聞こえなかったか? 俺はお前を愛している。俺はお前と結婚して、友人としてではなく、男と女として夫婦として生涯を共にしたい。俺と結婚してくれ」

 伝わるギウナの熱さは、そのあまりの熱さに却ってエメルがこれが現実であるということを忘れさせた。

 エメルの動揺と混乱は、ギウナにはっきりと伝わっているだろう。

 抱きしめるギウナの腕。近すぎる距離が、エメルの正常な思考を奪っていた。感情だけがことばにならず唇から漏れて、不規則な呼吸が苦しげに心臓を高鳴らせる。しかしギウナは密着する身体からそれが伝わってきても一切の容赦なく、エメルを抱きしめて離さない。

「否とは言うな。言わせるつもりもない」

 傲慢に言い切り、ギウナは再びエメルに口付けた。

 逃げるように顔を背けると、追いかけて再び唇が重なる。それでも逃げると、今度は服の隙間から僅かに除く首筋に吸い付かれた。

「あ……やめろ、ギウナ!」

「俺と結婚するというなら、今はやめてやる」

 不遜にエメルを脅し、逆らえない状況に追い込まれたエメルに陰惨な欲の宿った目で見つめた。

 エメルは肩を振るわせて怯える。生まれてこのかた初めて向けられる剥き出しの男の欲望に、初心な少女のように心底から恐怖した。

「ここで、お前の処女を奪ってやっても俺は構わないんだ。でも、お前は女だし、花嫁衣装は処女のまま着たいだろう?」

 ギウナが口にした処女ということばに、エメルの白い頬に羞恥でさっと朱が走る。未婚の女性なのだから純潔なのは当然だが、それを男の口からこのような状況で告げられるのは、エメルの女性としての部分が耐えられなかった。

「馬鹿を言っていないで離せ!」

「馬鹿、か。そんな風に言われるのは心外だな」

 笑い声が聞こえると同時に、草むらに押し倒されていた。呆然とした思いで見上げると、目の前には見知ったはずなのに、全く知らない他人を見ている気にさせるギウナ。その後ろには月のない空が星に彩られて輝いていた。

 ギウナの重みが肢体にかかる。

 身動きが取れない屈辱と、恐怖。必死に身を捩るがその程度の抵抗で男からの束縛から逃げられるはずもなく。

 ギウナがエメルの耳元に唇を寄せる。鼻先が髪の合間を掠めた。その僅かな感触にすら全身が総毛立つ。

「こんな時間に、人のいない場所の男の呼び出しに答えるなんて、お前にもその気があるんだろ?」

 低い声が耳朶を嬲る。囁かれた場所から、現実から夢の世界へと導くように、全身にどうしようもない倦怠感と痺れが広がっていく。それはとても嫌なはずなのに舌で転がせば蜜のように甘い錯覚がして、エメルは自身を襲う恐怖とは別の感情に、酷くたじろいだ。

「や、だ……やめろ、ギウナ……こんな、悪辣な冗談はやめろ……!」

 エメルは必死に叫んだ。

 その訴えにギウナは眉を顰める。

「冗談じゃない、本気なんだ。俺はお前を愛しているんだ、エメル」

 耳元で囁かれているだけだというのに、おかしいほどに目の奥がちかちかと明滅した。早鐘のように鳴る心臓は警鐘のようで、その音の警告に従って逃げ出したいというのにギウナの束縛のせいでちっとも身体は言うことを聞いてはくれない。

 愛というのは、こんなにも乱暴にエメルを捻じ伏せ自由を束縛する免罪符にはなりえない。

 それを詰るつもりで息を吸い込んだ唇が、ギウナによって再び塞がれる。

 やわらかく食まれる口蓋に、執念深く舐めとられる粘膜。どちらのとも分からない唾液が口の端から溢れた。

 嫌だという拒絶はギウナの口内に消えた。くぐもったうめきしかもれず、エメルは草むらに押しつけられたまま必死にギウナを足で蹴り上げた。

 膝が鋼のような筋肉に覆われた肉に食い込む感触。その瞬間にエメルの両手の動きを阻害していたギウナの力はゆるみ、それを見計らって渾身の力をふりしぼり目の前の男を突き飛ばした。

 ギウナが尻もちをついたのをろくに確認もせず、自分のものとは思えないくらいに力のはいらない萎えた足を必死に動かした。

「エメル! 待て!」

 制止の声がかかったがそんなもの聞いてやる理由などない。

 通い慣れた公爵家の庭を、息を荒げながら突っ切る。

 見慣れた場所のはずなのに、そこが魔物のすみかのように恐ろしくてエメルは早くそこから逃げ出したかった。

 屋敷の敷地から抜け出したとき、エメルはまともな呼吸もできないほど喘鳴を繰り返し、立っていることも難しかった。

 背後からギウナが迫っていないことを確認してから、へなへなとその場にくずおれた。


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