協力者
耳元で何かが騒がしい。俺の横たわるベッドの頭上にある目覚まし時計を見てもまだ5時前を指していた。俺は寝るに寝つけず、ベッドから体を起して着替えを始めた。思いきり口を大きく開けふぁと大あくびを上げた。俺は今、クローゼットを開け半裸状態で着替えをしている。今日から新しい職場で仕事をするはずだからしゃんとしなければ、そう思い新しいワイシャツに袖を通した。寝起きのままの顔はひどい顔にしか見えなかった。今朝の状態では、昨夜のことは夢ではないらしい。そんなことを考えながらふと我に返るとネクタイも締めずに部屋を飛び出した。ネクタイはだらしなく俺の首から両足をぶらぶらとさせながら揺れている。ダイニングに通じるドアを思い切りあけるとどこから引っ張り出してきたのかエプロン姿の彼女の姿がそこにはあった。「おはよう。」彼女は何事もないかのように澄ました顔で朝食の支度をしている最中だった。俺は唖然というよりも目の前の状況を察して愕然としたというほうが正しい表現だろう。俺としたことがなんというざまだ、当然のごとく朝食の支度をしている彼女の行動が俺の思考回路を次第に狂わせていく。彼女が不意に俺に話しかけてくる。「ねぇ、そういえば今日は何時頃に帰ってくるの?」彼女は俺の今日の予定を確認するようにそう尋ねてきた。「えっと、たぶん午後7:30には家に着くと思うけど俺のことはあんまり気にしなくてもいから家でゆっくりしていてくれるかな。あっ、ここが嫌でなければの話だけどね。」俺は最後にそう付け加え久々のちゃんとした朝食に手をつけていた。その朝食を食べながら俺は俺の先ことを考え始めていた。今日は恐らくいろいろと挨拶回りに行かなければならなくなるだろうからあまり会社で仕事はできないかもしれないな。そんなことを頭で考えながら朝食を胃の中に流し込んだ。俺は朝食を手早く済ませると流しのほうで洗いものを始める。すると、彼女がパタパタとかけよってきて俺の手を静止する。「私が後で洗っておくから早く会社に行く準備はじめてきてよ。ね?お願い。」俺はその静止を断ることができずにしぶしぶ支度を始めることにした。彼女は俺の使った食器を洗いながら朝の情報番組を見ている。それから俺は会社に出社し、海外赴任についていろいろな人に話をさせられた。ただ一つの秘密を除いては。俺の海外での仕事が好調だったこともあり誰一人として俺のプライベートを聞いてくる者など誰一人として居はしなかった。けれども俺にとってはそれが逆に不運ではあったのだ。仕事はしっかりしているのになぜ日本に戻ってきたのかと思われているだろうと思いつつも知らん顔をしている同僚たち。いろいろと海外の動向を知りたがる上司に後輩、本当に色々な人が俺のもとを訪ねてくる。そんなこんなで会社復帰初日は終了した。家に帰ることが不安でもありどこか楽しみでもある。彼女は家に帰ることを決意したのだろうか、それとも俺の家にまだいるなんてことは。昨日は半ば強引に連れてきたし、彼女の考えをしっかりと聞いていないことも事実だった。地下鉄を昇り、私鉄に乗り換える。朝、通った道のりを帰りの道中も同じ道を通う。海外赴任の時の交通手段は車だったり、電車に乗って通勤したり特に通勤手段は限定されてはいなかったが、やはりここは日本でほぼ通勤手段は限定されてしまう。普通のことと言えば普通のことなのだが、やっぱり日本は道がごちゃごちゃとしてなにかと狭く感じていたりする。暗い夜道のところどころに街灯があるのはやっぱり安心する。その街灯が照らしだす夜道はまるで小さなスポットライトで照らしているようだ。ここら辺の道は夜に犬の散歩をしている人をよく見かける。夜の暗がりには決して素敵なことは期待ができないけれど、それでもこの国は俺の居場所を俺の存在意義を見出してくれている。そんなことを考えていると、時間がたつのは早いものでもう、自宅の門の前にまでたどり着いてしまっていた。家々の温かいぼんやりとした灯りがそこここに現れ始めると俺の家はもうすぐそこだ。この道をまっすぐ行って正面つきあたりを右に曲がると角から三軒目の家が俺の住んでいる家だ。俺の足取りは次第に速くなる。ふと窓のほうに目をやると、雨戸が閉まっていた。俺は愕然とすると同時に今日も彼女が生きていてくれているということがとても嬉しかった。あの日の彼女はとても見てはいられないくらいに酷い状況だったからだ。俺は俺の持つ自宅のカギをポケットから片手で取り出し家のカギ穴にそのカギを差し込んだ。それを回し終えると中の方からパタパタとこちらに向かってくるスリッパの足音が聞こえてくる。「おかえりなさい。お仕事ご苦労様。ご飯、一緒に食べようと思って作って待っていたの。」彼女はニッコリと笑ってそう言った。俺は今更軽く外食で食べてきたことを言い出せるはずもなく彼女の料理を口にする。彼女は今日一日の出来事をマシンガンのごとく俺に話し出す。家での家事のことやら買い物に行ってきたこと、そこで知り合いに会いそうになったことなど実に様々なことを俺に話しかけてくる。俺は彼女を匿った以上、それを聞くことが最低限の思いやりだと確信している。「それでね、もうビックリだよ。修ちゃんが脱サラして田舎暮らし始めたんだって。あの潔癖男がだよ?」彼女は嬉しそうに俺の目を見てにこにこしながら話し出す。そこで彼女が不意に俺の顔を覗き込んできた。俺は食べているものを吹き出してしまっていた。「っばか。突然俺の前に顔を出してくるなよな。びっくりするじゃないか。」吹き出したものを布巾で拭きとりながら話しだす。彼女は拗ねた様子で俺に話しかけてくる。「だって、私の話ちゃんと聞いているのか知りたかったんだもん。」膝を抱え丸くなりながら応える君、俺はどうしていいか分からず困惑する。俺はいつだってそうだ。都合が悪くなるとすぐ逃げ場を求めて視線を反らす。少しの沈黙の後俺は、彼女の隣にしゃがみこんで頭を掻いた。深いため息の後俺が発した言葉。「ごめん、言い過ぎた。ちゃんと話は聞いてるよ。だからそんな悲しそうな顔するな。」彼女の頭をポンポンと二回ほど軽く叩き、ふにっと両方の頬を軽く横に伸ばした。「今日はもう遅いし俺は風呂に入ったら寝るよ。明日は少し遅めの7時起床、朝食は出来れば洋食歓迎。朝刊はポストから予め出しておいてくれると凄く助かる。あと、金魚の餌はもう少し少なめに。以上業務連絡終了おやすみ。」そう言い終えると俺はすたすたと自室に向かっていく。この状況をいつまでもよしとするわけには行かないがほんの少しの間だけなら問題は何もない。暗い廊下を慎重に歩きながら俺は欠伸するその口でハッとする。彼女はいつまでもこの家にいることなどないと改めてそこで気がつかされた。俺は風呂に入ることを思い出し、とりあえずシャワーだけでもと風呂場に向かって歩き出した。風呂の温かい湯気が俺の心をも曇らせる。田舎暮らしか、出来ることなら俺だって田舎暮らしをしたい状況にいる。でも田舎は通勤には少しばかり不便すぎる。だから脱サラってか、それは俺にはまだ到底出来そうにもなさそうだ。いや俺でなくとも彼女に田舎暮らしを進めてみてはどうだろうか。そうすれば俺の負担も少しは軽減出来るかもしれない。仕送りをすれば納得してくれるだろうか、住居を与えれば行ってくれるだろうか。とりあえず提案だけはするに越したことはない。




