訪問者
こちらに赴任してきて一週間という時があっという間に流れた。引っ越してきた当初の慌しさもすっかりと消え、今ではすっかりこちらの生活にもなじんでいると思う。こちらでの仕事も順調で仲間たちも俺と他の仲間たちと何ら変わりなく接してくれている。加速して行く時間と冷めた風、それが俺にとっての新しい生活の実感だった。その日の会社からの帰り道、地下鉄で明日の予定を土壇場で仲間からブッキングされた。俺は一物の不安を抱えながらその話に承諾した。ウェルカムパーティーを開きたいというので参加を承諾したのだ。ウェルカムパーティーをするのになぜ独身男性の家に集まるのか意味が解らなかった。改めて、外国人のノリについていけないことを実感させられた。そして翌日のウェルカムパーティー当日、予定していた時間より少し遅れてそのパーティーは開催された。食べ物はみんなで持ち寄り特に食事の面で不便は感じなかったが、俺は彼らのマナーに対するものに違和感を感じた。いくら家が一軒家だからといって夜中の2時までドンちゃん騒ぎはいかがなものかと思う。俺は祝福してくれている仲間たちに注意することも出来ずにその会はお開きとなった。後片付けをするとなると明日の起床時間を考えれば就寝する暇は無かった。更に追い討ちを掛けるように俺はあるものを発見してしまった。それはテーブルの上に置き去りにされている一つの指輪だった。指輪の内側を見るとT.Kと刻まれていた。それは俺と同じイニシャルで送り主を見ると偶然にも日本で見合いをした彼女と同じイニシャルのI.Sと刻まれていた。あまりの偶然に言葉を失った俺は、すぐにその手を指輪から離した。目を反らしたところで何も変わらないことは承知のうえだったが、それでも気味が悪いことに変わりは無かった。彼らが帰宅してから数時間が経ったころ自宅の電話が部屋中に鳴り響いた。指輪の落とし主かと思い、俺は受話器を手にした。すると受話器の向こう側からケビンの声が聞こえてきた。どうやら指輪の落とし主はケビンらしいということが判明した。ケビンは2、3年前に来日したことがあり日本語が悠長に話せるのだ。ケビンは指輪の落とし主だとは名乗ったが、返してくれとか、取りに来るという話にはならなかった。少し不自然に思いつつも翌日その指輪を会社に持っていき、一人ひとり声をかけて落とし主と思しき人間にあたっていた。すると、ケビンではない声でとても悠長な日本語がどこからか聞こえてきた。それは俺の名を呼んでいる。俺がその声に振り向くとそこに立っていたのはあの日本にいるはずの彼女だった。俺に隠れる時間などありはしなかった。彼女がなぜここに来ているのかそれすらも解らなかった。すると彼女が俺に英語で話しかけてきた。「お兄さん、お久しぶりです。」そうお辞儀をしながら彼女が挨拶してきた。「えっと」俺は、状況が飲み込めないまま呆然とその場に立ち尽くしていた。俺の頭の中は完璧なほどに真っ白になっている。見事に白いペンキをぶちまけたように見事に一面が真っ白に塗られてしまっている。動揺している俺を見て彼女はこう言った。「お母様がね、一緒に暮らしていいって言ってくれたの。ね、いいでしょ?」彼女は大きな荷物を片手に俺に上目遣いをしながらそう言ってきて、返事を待っている。社員たちが俺たちを注目している中、彼女を無理につき返すことも出来ず俺はその話を不本意ながら了承してしまった。その日の夕方、いつも一人の家路に彼女の姿があった。俺は一体何をしたいのだろう、ここまで逃げてきても、まだなおこうして彼女を隣に置くのはいくら俺でも無私が良すぎる。なんとしても彼女を日本に送り返さなければ俺は罪を一生背負って生きていかなければならないことになる。この決意は俺の正義で、忙しいほどに俺はその策略を頭の中に巡らせていた。忙しいことを理由に彼女を遠ざけるにしても限界がある。これ以上考えても俺の頭はいっぱいいっぱいで何も入れることが出来ない。すると彼女が俺にこう話しかけてきた。「突然お邪魔してしまってごめんなさい。今日だけでいいの、ここにいさせてほしいの。明日にはどうせ日本に帰らなきゃならないから、邪魔になることだけはしません。」さっきの様子とは打って変わって彼女の言動はとてもしおらしい。その突然の申し出に俺は今までの策略から解き放たれた。しかし、次の瞬間俺はとんでもないことを口にしていた。「でも、せっかく来てくれたのにそんなとんぼ返りするような事して大丈夫?」その言葉を発してから俺は俺自身で自己嫌悪に追いやってしまった。すると彼女の表情がぱっと明るくなってからこうも言い出してきた。「じゃあ、私もこちらに住みます。」俺に住みます。とか言われてもこの家の大家さんじゃないしとか思いつつ彼女をこの家に迎え入れることになってしまった。そして俺たちはその週の週末から奇妙な半同棲生活を送ることになってしまうことになった。俺の心の迷いはいよいよ本格的に泥沼状態に陥って行くことになった。こんな状況は極度のお人よしかあるいは、相当なアホで無い限りおそらくこんな状況にはならなかったのだろう。つまり俺は、極度のお人よしだ。その出来事から数日が過ぎたある日、俺は空港へと呼び出されていた。車を飛ばして約1時間でその空港に行かれる。もう来ることは無いとまで思っていたその道のりが俺にとってとても短く感じられた。思っていたよりも道は渋滞しておらずスムーズに走行していたらしい。彼女は大きなボストンバッグを両手に辺りをきょろきょろと見回している。俺は彼女の前に車を回しその窓を開けた。窓の外の空気が車内に流れ込んできて俺は少し身震いをした。彼女は俺の車に乗るなり後部座席へと荷物を置いた。「すみません。突然お呼び出ししてしまって、ご迷惑じゃありませんでしたか?」彼女はそう俺に問いかけると、相当旅の疲れが溜まっていたのか俺の返事も待たずにそのまま車の助手席で寝てしまった。俺は深いため息とともに車のアクセルを踏み込んでいた。今日の会社の出勤は午後からだから、少しは彼女と離れていられる。流石に今日、この調子ではこのまま眠りつつけるだろう。俺は彼女を家に送って行くとそのまま今日は車で出社することにした。会社に出社するなり俺は耳を疑ってしまう。それはジョンの一言がきっかけで俺は知ってしまった。「明日から来る、イズミ、スドウに仕事を教えてやってくれ。」その言葉は、図らずも隣のデスクにいるケビンに伝えられた言葉だった。俺自身、彼女から何も聞かされてはいないのだから当然のことで一瞬、血の気が引いていくような感覚を覚えた。俺はそのことについてジョンに直接聞き出そうと声をかけた。「ジョン、その話は確かですか?その人物は本当にここに勤めることになるのですか?」ジョンは少しの冗談交じりに「嘘だと思うのかい?俺が今までにビジネス上で冗談を言ったことがあったかい?」と、そう捨て台詞を吐き向こうのほうへと鼻歌交じりに歩いて行ってしまった。隣にいるケビンはそれを聞かされ上機嫌で仕事に励んでいる。




