第0幕 始まりの花畑
『引越し?』
ジェイルは驚いたように叫び、花畑から顔をあげた。
『うん、明後日』
クレアはどこか悲しげな微笑を浮かべていた。
『“バルス”ってとこに行くんだって』
『バルスっていったら……』
とここまで言って、ジェイルは急に口を閉ざした。
『何? バルスがどうしたの?』
『いや、なんでもないんだ』
ジェイルは深く考え込んでいた。バルス? バルスだと?なんでよりにゆってそんなところへ!
バルスという国は、ここから山を二つも越えたところにあり、昔からこの国アリアスと因縁深い確執があるのだ。そして近日アリアスの兵士達の間では、二国間の戦争が近いらしい、などと噂されていた。
バルスとアリアスはもとは一つの国だったので人種的な差別はない。二国に分裂してしまった理由は、国内の二つの大きな権力者が対立してしまったからだという。そこまで考えて、クレアの心配そうな顔がこちらの顔をのぞきこんでいるのに気付き、ジェイルははっと我にかえった。
『どうしたの? バルスって国、そんなに危ないところなの?』
『いや、なんでもないんだ』
ジェイルは同じ言葉を繰り返した。
若き兵士ジェイルは、このことをクレアに言いたくなかった。彼女にこんなことを言っても余計に心配をさせるだけだし、何より今そのことを実際に口に出してしまったら本当のことになってしまい、それで彼女ともう会えなくなってしまうと思ったからだった。
『バルスって国、ここからどれぐらい遠いの? もう会えなくなっちゃうのかな』
彼女は顔をあげずに、手元の白い花を見たまま言った。
『大丈夫だよ。どこにいたって、二人が会いたいと思えば会えるんだよ』
それから少し口をつぐんでいたが、やがて唐突に口を開いた。
『愛しているよ、クレア』
言ってから、彼は少し顔を赤らめた。
『私も愛しているわ、ジェイル』
二人は見つめあった。しかし、クレアの表情はとても悲しげだった。
『怖いかい、引越しが』
『うん、でも怖いっていうより、心配なのよ』
『何が心配なんだい? 向こうの生活のことかい?』
『それもあるわ。故郷からの旅立ち、友人や……あなたとの別れ、向こうでの新しい生活、向こうの人達との付き合い、なにもかも心配なのよ、ジェイル。そして何より……』
クレアは顔を上げて、ジェイルを見つめた。
『あなたのいない生活』
二人はしばらく黙って、お互いを見つめあっていた。ジェイルにとっても、クレアとの別れはとても苦しかった。胸の奥から突き上げてくる思いをぐっとこらえた。
二人の眼には悲哀の色が浮かんでいた。
クレアは口を開くことができなかった。何か、何か一言でも喋ったりしたら、それが涙の言葉になってしまいそうで……
やがて、ジャイルがゆっくりと口を開いた。
『僕も堪えられないよ、クレア。君がいない生活なんて、とても……』
クレアは彼の声色が震えているのに気付き、はっと顔を上げた。
ジェイルは泣いていた。『やだ、そんな、泣いて……』
クレアは込み上げてくるものを止められずに、言葉を止めてしまった。そしてジェイルに飛び付いて思い切り泣いた。