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雨降る天に涙した。  作者: 津森太壱。
【雨降る天に涙した。】
9/18

08 : わずかな、ぬくもり。





 誰かを好きになって、愛することが、こんなにも大変なことだったなんて知らなかった。それは人生のすべてを左右するもので、とても大きな力で、ギアは強く揺さぶられる。


 ああ疲れた。


 そう思っても、溢れてくる想いは止め処なく、疲れている暇などどこにもない。

 想いはいつでも常に、ぐるぐると、胸中を疼かせる。


「……まだ泣いていてもいい」


 優しい声に、止まりかけていた涙がこぼれ落ちる。もう涙も枯れたと思っても、優しい声にまた涙は込み上げた。


「だからいやなんだ……風詠は、苦しい選択をする」


 苦しくなんかない。

 そう、以前なら言えた。

 今はもう言えない。


「楽土の、言う、とおりだった……っ」


 アノイの言葉は、嘘ではなかった。本当だった。今になってそれがわかるなんて、気づくのが遅過ぎだ。


「どうしよう…っ…どうしよう、楽土。わたし、シゼさまが好きだ…っ…シゼさまが」

「素直になればいいだけだ」

「でも、シゼさまは、わたしのこと好きじゃない……っ」

「そうと決まったわけではない。ちゃんと聞いたか?」

「聞いた…っ…聞いたよ…っ…縁談、断るためって」

「風詠……それはちゃんと聞いたとは、言わない。風詠の解釈が、違っている場合もある」

「でも、シゼさまがそう言った……っ」


 想われていないことが、こんなにも寂しくて悲しいことだなんて、言葉にして聞くとよくわかる。失恋した、とは思っていたが、そのとき以上に寂しくて悲しくて、もう死んでしまいたい。


「いやだ…っ…もういや」


 考えたくない。

 けれども考えてしまう。

 好きで、好きで、どうしようもなく好きで、どうしても考えてしまう。どうしても想ってしまう。

 こんなに寂しくて悲しいなら、それを捨て去って忘れてしまえばいいのに、それができない。

 魔導師とは不自由なものだ。


「風詠……」


 ぼろぼろと流れ落ちる涙は、意識を手放してから運ばれた寝台の上に、染みを作っていく。その涙の一滴を拭って、アノイが頬を撫でてくれた。


「泣き止めとは言わない。もっと泣いていい。だが、すべてを投げ捨てないでくれ」


 そろりそろりと、頬を撫でてくれるアノイの手つきは優しい。心の底からギアを心配してくれていると、それがわかる。アノイに要らぬ心配をかけていると、それもわかるのに、今の自分をどうしようもできない。

 悲しくて、悲しくて、空しくて寂しくて、身の置き場もない。

 どうしたらいいだろう。


「風詠、だめだ。泣いていい、悲しんでいい」

「らくど……っ」

「堕ちるな、風詠。捨てるな、忘れるな、風詠」


 アノイが泣きそうな顔をしている。そうさせているのはギアだ。アノイにそんな顔をさせていいわけがないのに、どうして、わかっているのにそれができないのだろう。

 ああもうわたしは最低だ。

 魔導師だから仕方ないなんて、そんな言い訳はできない。アノイに悲しい顔をさせていいわけがない。ギアのことに、アノイを振り回してはいけない。

 わかっているのに、シィゼイユのことが頭から離れなくて、涙が溢れて止まらなくなる。想いも、溢れて止まらない。

 いっそ、過去に戻れたら。

 そうして、シィゼイユと出逢わなければ、よかったのかもしれない。それも悲しくて寂しいことだけれども、生きていく一生をこの悲しくて寂しい想いを抱えていかなければならないのなら、すべて白紙に戻されたらいい。それが無理なら、すべてを忘れてしまえたら、ギアはただの魔導師として生きていけた。シィゼイユに恋をするという、あってはならない想いを抱えることなく、魔導師として一生を過ごせたかもしれない。

 あるいは、恋する相手が、シィゼイユでなければ。

 なぜこんなに、シィゼイユが恋しいのだろう。

 あのとき、ギアひとりが、シィゼイユの弱音を聞いてしまったからだろうか。


「ひどい…っ…ひどいよ、シゼさま」


 恨みたくないのに、恨んでしまいたくなる。ギアにこれほどの想いを抱かせたシィゼイユを憎んでしまう。愛憎は表裏一体だというが、その通りだ。

 いとしさが、憎しみに変わってしまう。


「言いたいことは、すべて、言ってしまえ。それでいいんだ、風詠」


 言いたいことは、余すことなく吐き出してしまえと、アノイは言うけれども。

 それならギアから出てくる言葉は、シィゼイユへの想いだけだ。それ以外、ギアの口からは出てこない。

 こんなにも強い想いを抱いていながら、想うだけで充分だなどと、よく言えていたものだ。


「アノイさま、アノイさま」

「……レム?」

「ロザヴィンさまがいらせられております。どうしますか?」

「雷雲が……うん、通していい」

「わかりました。ではこちらに。お茶でも用意しましょうか?」

「頼む。風詠には温かいものを」

「少しお待ちください」


 寝台に顔を押しつけて、ぼろぼろとこぼれる涙を吸わせていると、どっかりと誰かが腰かけたように寝台が揺れた。少しだけ顔を動かしてそちらを見れば、不機嫌そうな顔をした雷雲の魔導師ロザヴィンが、じっとギアを見下ろしていた。


「あ……」


 いやだ、逢いたくなかった、と思ったのは、ロザヴィンがシィゼイユの幼馴染で、とても仲がいいと聞いていたから。

 僅かに身を引いたギアに、しかしロザヴィンのほうは気にした様子もなく表情を変えない。


「面白ぇこと、教えてやるよ」

「……な、に」

「だから代わりに、あんたも教えろ。そうだな、先にあんたから話してもらおうか」

「……なん……の、こと」


 問いかけに、ぐるぐると思考が混乱の渦を巻く。


「たとえどこにも、嘘がなくても……語られなかった真実は、どこかにあったはずだ」


 そうだろう、とロザヴィンに問いかけられる。意味がわからなかった。


「あんた、言わなかっただろ」

「……なにを」

「どうしてなにも言わずに出て行ったんだ、とか」

「え……?」

「あんたには言う権利があったのに、あんたは言わなかった。違うか?」


 なにを言われているのか、本当にわからなかった。それがシィゼイユのことだと、あの日誰にもなにも語ることなく国を出て行ったことへのものだと、気づいたのはロザヴィンの雰囲気を感じ取ってからだった。

 ロザヴィンは、静かに、怒っている。


「その前でもいい。あんたは聞いたはずなんだ。けどあんたは、立場を気にして言わなかった。言えばよかったのに」


 もしやそれは、あの弱音のことだろうか。あれには、やはりとても深い意味が、あったというのだろうか。


「五年……いや、もう六年になるか。あの人の忍耐力も対外だ。そろそろ、限界だろうな」


 ハッとした。それはまるで、なにかが起ころうとしている、その予兆のように聞こえた。


「どういう、ことだ……雷雲、それは、いったい」

「あんたの目にはどう映る」


 こちらを見てくる灰褐色の双眸は、静かな怒りを含んで、ギアを責めてくる。どうして気づかなかった、どうしてわかろうとしなかった、どうしてきちんと聞かなかったのだと、そしてなぜ言わなかったのだと、ギアを捲し立てている。


「あんたの目にあの人は……シゼさはまどう映るんだ?」


 問われたことの意味が、まるでわからなかった。


「目に……って」

「あんたは知ってるはずなんだ」

「知ってる……なにを」

「シゼさまの、本当の心だ」


 それは、とギアは黙り込んで脳裏にあの日のことを思い出した。


『すごく、寂しくなる……心にぽっかり穴が開いて、どうしようもなく締めつけられて、それで、苦しくなる。温かいものを見ていると、感じていると、どうしても……寂しくて悲しくなるんだ』


 シィゼイユの、おそらくは最初で最後の、弱音。ギア以外に聞くことがなかった、シィゼイユの本当の想い。ギアがそのとき思ったことは、彼が強くて弱い人だということだ。


「……ほらな、あんたは知ってんだ」


 にやりと、ロザヴィンは笑った。不敵なそれは、しかしすぐに、優しげな眼差しに変わる。


「あんただけは、気づいたんだ。シゼさまが、消えてなくなりたいとか、そういうことを考えて生きてるってことに。おれは、気づけなかったけどな」


 ギアは、確かに気づいていた。シィゼイユの弱音が、彼の生き方に対するものであることに、気づいたからこそ強くて弱い人だと、思ったのだ。


「面白ぇこと、教えてやるよ」


 ロザヴィンは、来たときと同じ言葉を口にした。


「ただ、あんたにとって面白ぇかどうかは、あんた次第だ。おれが面白ぇと思ってるだけだからな」


 面白い、と言いながらも、言い渋るようにロザヴィンは肩を竦め、けれどもその眼差しは変わらず優しげだった。


「シゼさまが今までずっとひとりだったのも、いきなり姿を消したのも、国のためじゃねえ。たったひとりの、不器用な魔導師のためだ」


 ロザヴィンのそれは、ギアの苦しんでいる心に、僅かなぬくもりを与えるものだった。







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