10 : この世界が見えるだろうか。
*シィゼイユ視点です。
前半は過去、後半は現在『09:雨降る天に涙した。』の後日談になっています。
小さいものが、目の前をころころと転がっていく。自分もまだ小さいほうではあるが、目の前の小さいものより確実に五つは歳上だ。
『……なにをしているの、ギア』
『あ、シゼさま』
『? 草まみれだよ?』
『うん。土がやわらかくて、おちつかないんだって』
『落ち着かない? 誰が?』
『草花が』
ころころと、小さいものはまた転がる。自分が草まみれになっても、泥だらけになっても、かまうことはない。きっと母親に怒られるだろうに、それでも小さいものは転がり続ける。
『シィゼイユ殿下、いかがなされました』
『ああ、カザリア。いや、あれだよ』
『はい? ああ、ギアが転がっていますね』
『いったいなんの儀式?』
『遊んでいるだけだと思いますよ』
カザリア・チェリングは、小さいもの、ギアという少女の父親だ。娘が不思議なことをしているのに、彼の目には「遊んでいる」ようにしか見えないらしい。寛容な心も広過ぎると少し問題になるのではなかろうか。
『うーん……それにしても意味深な言葉』
『意味深? ギアがなにか言いましたか?』
『土が柔らかくて落ち着かないそうだよ。草花がね』
『……ああ、そういうことですか』
カザリアはなにか思い当たったらしい。
『なに?』
『魔導師の力があるからですよ』
『……、魔導師?』
『ええ』
『ギアが?』
『はい』
『うそでしょ』
『嘘は嫌いです』
『……落ち着いているね?』
『わたしにはどうでもいいことですからね』
ふつうに吃驚したのだが、カザリアの様子は変わらない。本気で「どうでもいい」ことらしい。
『……ギアに魔導師の力があるなら、師を見つけないと』
『誰がいいですかね?』
『誰にギアがそうだと教えられたの?』
『陛下です』
『あー……ロルガルーンに紹介してもらうといい』
『わかりました』
相談しておきながらあっさりとしたものだ。
『……カザリア』
『はい』
『一緒にはいられなくなるよ』
『そうですね』
『いいの? ギアは……まだ五歳だ』
『嫁さんにもうひとり産んでもらいますよ』
『それはギアにひどくないかな』
『そうですかね』
『……きみの愛情はよくわからない』
『よく言われます』
感情をどこかに置き忘れたような顔をして、カザリアは暢気にも娘の将来を野放しにする。顔が似ていなければ、カザリアとギアが一緒に歩いていても、きっと親子には見えない。
『さて……殿下、わたしはこれで失礼させていただきます』
『ああうん、それはかまわないけれど……ギアはどうするの?』
『殿下にお任せいたします』
『え』
『では』
カザリアは、よくて放任主義、悪くて無関心、といった態度の父親だ。けして鏡にしてはならない。あんな父親はいやだなぁと、常々思う。
『お任せって……え? どうすればいいの? 通りかかっただけなんだけど』
たまたま通りかかったところで、小さいものが転がっていた。それがギアという、見知った少女であったから声をかけただけだったのだが、そこをまた通りかかったカザリアに任されてしまった。どうしろというのだろう。
『ギア』
『はーい』
『いつまでそれやるつもり?』
『もうすこしー』
『……そう』
自身が満足するまでなのか、それとも「落ち着かない」という草花が満足するまでなのか、ギアはあっちへ行ったりこっちへ来たり、繰り返し転がる。ただ見ているだけでも不思議な行動だが、魔導師の力があるというならわからなくもない行動だ。
『ギアは、緑の声が聞こえるんだね』
『きこえるー』
『どんな感じ?』
『おちつかないって、いってるー』
『……五歳児に説明は無理か』
『シゼさまもいっしょにやるー?』
『やめておく。母上に殴られたくないからね』
任せられてもただいることしかできないが、まあ暇だからいいか、と近くの石椅子に腰かけ、ギアの行動をしばらく眺めることにする。
昨晩まで雨が降っていたせいか、今日の空気はとても澄んでいて、世界が洗われたように感じる。ギアが転がっている場所も、ギアが転がることで潰れるどころか、生き生きと背伸びしている。被害のない雨というのは珍しい。まさに恵みの雨というやつだ。
『シゼさま、おべんきょうは?』
満足したらしいギアが、転がるのをやめてそばに寄ってきた。
『終わったよ。もういいの?』
『くすぐったいの、よくなったって』
『そう。じゃあ……その恰好、どうにかしようか』
『かっこう?』
『草まみれ泥まみれ。お母上に怒られるよ?』
ギアは女の子だ。せっかくの衣装が草まみれの泥だらけでは、娘を想って着せた母親が可哀想だ。
『このままでいいよ。よごしたの、わたしだもん』
『なら、せめて手と顔を洗おうか。あと、髪も結い直したほうがいいね』
『いい。このままかえるから』
放任主義な父親にくっついて来るくらいなので、ギアはしっかり者だ。帰る、とひとりで歩き出してしまう。
『待ちなって、ギア。帰るなら送るよ』
『だいじょうぶ。すぐそこだもん』
『すぐ……ああ、カザリアの部屋か』
父親の部屋が、帰る場所であったらしい。考えてみれば、確かにすぐ近くには宿舎がある。カザリアは常に忙しい財務局の仕官なので、宿舎には仮眠用の部屋が用意されているのだ。
『家には帰らないの?』
『おまえだけかえるのはずるいって、とーさまが』
『ギアだけ?』
『よくわかんない』
もしかしたら、とすぐにその可能性を思いつく。カザリアは奥方と喧嘩でもしたのだろう。ギアはそれに巻き込まれているのだ。
『やっぱりカザリアの愛情はよくわからないな……』
可愛い娘を味方につけて、奥方の気を惹こうとしているのだろうカザリアの手口に、半ば呆れたため息が出る。娘の都合など関係ないという姿も、なんというか呆れてしまう。あれでよく恋愛結婚などできたな、と思ってしまうのも仕方ないだろう。
『……、ギア?』
カザリアの部屋に向かっていたギアの足が、ぴたりと止まる。こちらをじっと、見つめていた。
『どうしたの?』
ギアに問われた。それはこちらの台詞だと、苦笑して返す。
『わらいたくないなら、わらわなくていいのに……』
ギアからこぼれた言葉は、ひどく心臓に悪かった。
「わたしはたかだか五歳の子どもに殺されるのかと思ったね」
「え」
「とはいえ、その当時わたしも十歳くらいで、充分子どもだったけれど」
それでも心臓に悪かった。たった五歳の少女に、おとなを誤魔化すことができた嘘の笑みを見破られたのだ。騙せないらしいということに、唖然とした。それは今でも記憶に鮮明だ。
「わ、わたし、そんなに深い意味は、なかったと思うんですが……」
「うん、まあ、子どもは素直な生きものだからね。わたしが素直な子どもではなく、捻くれた子どもとして育ったから、その違いに吃驚したというか、そんなところだよ」
「わたしはシゼさまを驚かせたのですか」
「死ぬかもしれないと思ったくらいには」
「! す、すみません……」
おろおろとするギアは、シィゼイユに強烈な驚きを与えた五歳の頃から、随分と変わった。幼い頃は立場など関係なかったし、もしかしたらギアが魔導師にならなければ、それは今日まで変わらない姿だったのかもしれない。あのままギアが成長していたら、この関係も変わっていただろう。
「ギアが魔導師なのは、許せないことだしね……」
「は、い?」
「いや、なんでもない。きみがきみだから、わたしはきっと、きみがいる世界には生きてみたいと思ったのだろうね」
「わたしがいる、世界?」
「きみがいるか、いないか、それでわたしが見ている世界は随分と変わるんだよ」
この世界が見えるだろうか。
なにも感じなかった世界に、さまざまなものを感じるようになって、音が聞こえるようになって、色彩が鮮やかになって、肌に雨を感じたときの喜びといったら表現の仕様がない。
恋に墜ちたのだ、とすぐにわかった。
世界が艶やかになったのは、いとしいと想うものができたから。
素直に好きだと、想うものができたから。
「わたしは、シゼさまをお支えすることが、できますか?」
シィゼイユはくすりと笑って、ギアの額に手のひらを添えた。
「まずはその風邪を治してから、ね」
にこりと微笑めば、熱のせいで潤んだ瞳が柔らかくとろけ、嬉しそうに口角が上がった。
「わたしのほうが雨に打たれていた時間が長かったのに、どうしてきみが風邪を引くかな」
「すみません」
「まあいいよ。わたしは薬師だからね。治してあげる」
「はい、ありがとうございます」
「……ギア」
「はい」
まっすぐ見つめてくる潤んだ瞳は、ひどく危うい。
「……わたしの奥さんに、なってくれる?」
問えばとたんに涙が溢れ、枕を濡らす。
「わたし、シゼさまが好きです……どうしたらいいか、わからないくらいに」
「わたしを見ていてくれたら、それでいいよ。わたしと一緒にいてくれたら」
「あ、あのっ」
「ん?」
「どうして、いきなり、いなくなったんですか?」
「……ああ、留学?」
「わたし、帰ってきていたことも、知りませんでした」
寂しかった、とくしゃりと顔を歪めるギアに、シィゼイユは苦笑する。
「ちょっと行き詰っていてね……情けないことだから、気にしなくていいよ」
「でも……」
姿を暗ませていた間のことが、どうしても気になるらしい。けれども、それを詳しく話すにはもう少し、時間が欲しい。たとえ時間が多くあっても、今のギアに聞かせていいものでもない。
「いつか、話すときがくる……そのときが来たら、たぶんきみは、わたしの言いたいことがわかると思うから」
「……ほんとうに?」
「必ず」
「約束、してくださいますか?」
「それできみが安心するのなら、いくらでも」
さらりと額を撫で、そのまま滑らせて頬も撫でる。安堵したようにギアが瞼を閉じるのを見て、シィゼイユは笑みを深めた。
これにて【雨降る天に涙した。】は終幕となります。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
次話からは番外編となります。
おつき合いくださると嬉しいです。




