09 : 雨降る天に涙した。
雨が降っていた。雨季でもないのに長く続いている雨は、その状態から被害が大きく及ぶだろうと予測が立てられ、魔導師たちに警戒令が出た。王都にいる魔導師は外出を控え詰所にて待機させられているが、数人はすでに街の外に派遣され、周辺の被害状況を調べ始めている。その報告には、多少の被害はあるが拡大することはなく、雨脚も強まることはないという、とりあえず一息つける調査結果があった。それでも、国を覆う雨雲が消える気配はなく、陰鬱とした日々が人々の心を不安にさせていた。
多くの人々を不安にかき立てる空を眺めながら、その冷たい雨の中に身を投じた青年がくすりと笑う。
「わたしは随分と排他的でね……世の中が、とても嫌いなんだ」
急に大きなひとり言を始めた青年は、しかし己れの背後に確かな人の気配を感じていたようだった。
「綺麗な世界だと思うこともある。この世界に産まれてよかったと思うこともある。それでも、わたしは世の中が嫌いでどうしようもなかった。理由なんてない。ただ、嫌いなんだ。自分の存在が許せなくなるほどに……」
空を眺めていた青年が、ゆっくりと肩の力を抜き、背後を振り向く。
「きみは気づいていたよね……ギア?」
振り向いた顔は、ひどく寂しげで悲しげで、ギアはどう声をかけたらいいのかわからなかった。わからなかったけれども、彼がひどく、なにか温かいものを求めていることだけは、はっきりとわかった。
「お風邪を、召されます。お戻りください、シゼさま」
「きみこそ、風邪を引くよ?」
「わたしはいいのです。シゼさまのほうが」
「わたしが大事か?」
どきりと、した。あのときのように、消えてなくなりそうな気配が、したからだ。
「ねえギア? わかる? わたしが、どれほど、世の中を嫌っているか。どれほど、自分を忌まわしいと思っているか……きみはわかる?」
「お……お戻りください、シゼさま」
「ばかだね、ギア。それは答えではないよ。ちゃんと質問に答えないと」
「シゼさまっ」
「そんな泣き腫らした顔でわたしの前に現われるなんて、なんの余興だい」
ぐさりと刺さる言葉に、ギアは僅かに怯む。シィゼイユがめちゃくちゃなことを言っているという、その恐怖がギアを怯ませているのだが、そうさせたのは自分だと、ギアはもう自覚している。そうさせていることが、嬉しいとも思っている。
自然、涙が溢れた。
「……まだ泣くの?」
「お、戻り、ください…っ…シゼさま」
「いやだよ。わたしはこのまま死んだってかまわないんだから」
「シゼさま!」
いったいどれだけの間、雨に打たれ続けているのか。シィゼイユが吐く息は白く、またギアの吐く息も白い。寒い季節ではないのに、それを促している雨が、シィゼイユの身体から体温を奪いつつある。どうにか雨だけでも凌いで欲しいのに、シィゼイユはまるで聞いてくれない。
そこまで、追いつめた。
知らぬ間に、追い込んだ。
喜びと一緒に深い後悔がギアを襲う。
「ねえギア……わたしがどれだけ待っていたと思う? このときを、この瞬間を、いったいどれだけ待ち望んでいたと思う? 大嫌いなこの中で、わたしにとってそれだけが光りだったんだよ? それを打ち砕かれたわたしは、もうここに未練はない」
「シゼさま……っ」
「きみが、わたしを好いてくれた。それはわたしの光りだ」
ぐっと、ギアは息を呑む。
「けれど……待っていたのに、打ち砕かれた」
自嘲気味に、シィゼイユは笑う。
そんなことはないと、首を左右に振ることができたのは、ギアにもたらされた喜びだ。
「いや…っ…いやだ…っ…行かないで」
「……わたしはもうどこにも行かないよ。待つことには、疲れたからね」
「いや!」
そうじゃない、とギアは否定する。
そうじゃない、そうじゃないのだ。ギアの心が、いけなかったのだ。全身で表現していたくせに、隠そうとして、与えられた好機にも目を背けてしまった。立場や環境ばかりに気を取られ、本当の心を、言葉を、伝えなかった。そうしてもいいという立場なのに、だからこそ駄目なのだと、無理やり自分に言い聞かせた。
どだい、無理なことだったのだ。
ギアが、魔導師で在る限り。
万緑の世界に、囚われ続けてしまうように。
「行くなら、わたしも……わたしを、置いて行かないで」
「わたしがきみを? はっ……ありえない」
肩を竦めて笑ったシィゼイユが、眩しいものを見ているかのように眼を細めた。
「わたしはきみを攫うために戻って来た。この世界から、きみという存在を奪うためにね」
想いが胸に詰まる。涙が溢れて止まらなかった。
「なにをそんなに泣く? わたしが怖い? はは、怖いかもしれないね」
怖くなんかない。そう口にしたくても、嗚咽に邪魔されてしまう。だから必死に首を振るしかなかった。
「わ、たし……っ」
「……泣かないでよ、ギア」
「シゼ…っ…さま」
「壊れたいのに……きみが泣くと、壊れてなんていられなくなる」
危うい場所に、シィゼイユはずっといた。それは誰がそばにいても、そうだった。誰も彼の心を引きとめられなかった。どこか遠くを眺めているその眼差しを、誰も追うことができなかった。
けれども、ギアは違った。初めから、違っていた。
シィゼイユの空っぽな心に、ギアは気づいた。
「好きです……っ」
「ん?」
「わたしは、シゼさまが、好きです」
どうにか嗚咽をこらえ、想いを口にする。ずっと抑え込んでいた想いを一度でも口にしてしまえば、その壁は脆くも崩れ去る。
「どうすれば、わたしは、あなたをお支えすることが、できますか……っ?」
一歩踏み出し、ギアは自ら雨の中へと身を投じる。勢いが弱まっているとはいえ、冷たい雨はそれだけでギアからぬくもりを奪い、急速に冷えを与える。
「わたしは、あなたのそんな顔、もう見たくありません…っ…ずっと、笑っていて欲しいです」
「……簡単なことだよ」
ふっと笑ったシィゼイユが、雨に濡れたその身体を、無防備にギアへ曝した。
「わたしの妻になればいい」
広げられた両腕は、ギアを待っている。
「わたしをこの世で生かしているのは、きみだからね」
ふふ、と微笑む姿は、悲しみや寂しさを隠していた。しかし、ギアには隠し切れていない。
「シゼさま……っ」
どうしたらわたしは、この悲しくて寂しい人を、包み込むことができるだろう。
ギアは駆け出し、待っているシィゼイユの腕に飛び込んだ。
「ああ……漸く言ってくれたね、ギア」
「シゼさま、わたし……っ」
「待ちくたびれたよ」
ギアを拒絶することなく、迎え入れてくれた両腕に、強く抱きしめられた。
「待ちくたびれたんだよ、ギア……っ」
小刻みに震えたシィゼイユの腕は、それでも確かにギアを抱き込み、離すまいとする。泣いていると、そう気づくまで時間はかからなかった。
「シゼさま……」
「なんて不器用な、魔導師だろう……っ」
ああどうして、気づかなかったのだろう。あの横顔には気づいたのに、言葉には気づいたのに、どうしてこれに、気づかなかったのだろう。
「待たせて、ごめんなさい…っ…シゼさま」
求められていることに、どうして今まで、気づかずにいたのか。
いや、気づくわけもない。
『あの人もかなり歪んでるからな。自覚ねぇけど』
排他的だと自分で言いながら、破綻した心があることに、シィゼイユは気づいていない。ロザヴィンの言葉が当たっているなら、立場や環境を重んじて雁字搦めになっていたギアにだって気づけるわけもないのだ。
「好き……好きです、シゼさま。わたし、シゼさまが」
「そんなの初めから知っている」
これまで言えなかった分を吐き出そうとすれば、もう言うなとばかりに唇を塞がれる。その行為が嬉しくてまた涙を流せば、もう泣くなとばかりに目許へと口づけされる。
「シゼ…っ…さまぁ」
「ああ、ひどい顔……可愛いね、ギア」
未だ降り続ける雨は体温を奪う。それでもギアは、このひどく温かいぬくもりに歓喜し、雨降る天に涙した。




