スマホを見る、未来は見ない。
人の寿命は伸び続けているという。
医学の進歩、食生活の改善、社会の衛生環境の整備。
統計を見れば確かに、人間は100歳に届くほどの未来を手に入れた。
けれど街を歩いていると、奇妙な矛盾を感じずにはいられない。
人々が「若い」と呼び合う時間は、むしろどんどん短くなっているのではないかと思う。
大学を卒業した瞬間、もう「大人」として線を引かれる。
仕事を始めたその日から「社会人」という括りに押し込められる。
22歳や23歳の青年が、まだ10代とほとんど変わらぬ柔らかさを残しているのに、
周囲は急に「おじさん」「おばさん」と囁く。
まるで学生証を返した瞬間に、若さという衣を剥がされるかのように。
街角のカフェで、僕はそれを幾度となく見てきた。
高校生たちは制服を揺らしながら笑い合い、
隣の席で大学生らしい男女が将来の不安を打ち消すように喧しい声を上げる。
その一方で、まだ23にもならない青年が「社会人1年目の疲れ」を背負い、
髪を整える余裕もなくスーツにしがみついている。
誰がどう見ても、彼はまだ「若者」だ。
けれどその空気の中に、妙に老いた影が忍び込んでいる。
──なぜだろう。
かつて、人は23歳でも「まだ若い」と言われたはずだ。
江戸の時代、40歳で隠居しても珍しくなかったように、人生はもっと短かった。
だがそのぶん、20代、30代を「まだまだ若者」として扱っていた。
今は違う。
100歳まで生きると知っているのに、20代前半で「もう若さは過ぎた」と言い切ってしまう空気がある。
それはきっと、社会が人を「役割」で測るようになったからだろう。
学生は「若者」社会人は「大人」結婚すれば「親」
肩書きが変われば、年齢の実感とは関係なくその人の若さが剥奪される。
誰かがふと「おじさん」「おばさん」と呼べば、
それが冗談でも空気は簡単に固定される。
まるで言葉の一つが呪いのように、人の輪郭を決めてしまう。
僕は時折、ガラス越しに自分を眺める。
電車の窓、ビルのエレベーター、夜のコンビニの鏡。
そこに映るのは20代の青年で、肌に皺もなく、まだ幼さを残している顔だ。
だが、周囲の目に僕はどう映っているのだろうか。
「社会人」「大人」「もう若者じゃない人」
そんな風にラベルを貼られている気がしてならない。
平均寿命は80年を超えている。
僕が生まれた時代には、医者や本が「あなたたちは100歳まで生きるのが当たり前の時代になる」と言っていた。
けれど本当にそうだろうか。
100年生きる身体を持ちながら、心の方は20代で急速に老いてしまってはいないだろうか。
駅前で制服姿の高校生が騒いでいる。
彼らの背中を見送りながら、僕はふと思う。
──彼らが社会に出た瞬間、笑い方まで変わってしまうのだろうか。
──そして数年後、同じように「もう若くはない」と誰かに言われ、本人もそれを受け入れてしまうのだろうか。
若さとは、肉体の状態ではなく、誰かに「まだ若い」と言ってもらえる時間のことかもしれない。
ならば、僕たちはもうとっくに他人の言葉に若さを奪われている。
寿命は延びても、若さは縮む一方だ。
それは残酷で、どこか可笑しくて、そして少し哀しい。
外の街を行き交う人々の肩には、それぞれの「おじさん」「おばさん」というラベルが貼られているように見えた。
そのラベルを剥がして歩けるのは、ほんの数年しか許されないのだろう。
──人は長生きになった。
けれど若さは、誰かの言葉ひとつであっという間に終わってしまう。
そう思った瞬間、胸の奥がひどく冷えた。




