星追う旅路
その日、たくさんの星が降った夜、カフは独り、丘の上で空を眺めていました。美しい星の輝き。儚く燃え尽きる流れ星の光。カフは声もなく見惚れていました。夜の闇が深まり、痛いくらいの静けさの中で、カフの目の前を一つの流れ星が横切ります。その強い光をカフは思わず目で追いました。流れ星は運命を拒むように輝き続けながら、カフのいる丘の向こう、山と川と森を越えた先に落ちたように見えました。燃え尽きることなく地上に辿り着いた星は、その輝きのままに世界を白く照らしていました。
――星が、地上にある。
いつも夜空の向こうにあって、手を伸ばしても届かないはずの星が地上にある。近付いて、間近に見ることができる。もしかしたら、手に取ることだって――
カフは、星の落ちた場所に行ってみることにしました。
丘の向こう、高くそびえる山の道をカフは歩いていました。すでに日が昇り、早朝の山の空気はひんやりとしています。星の落ちた場所はまだまだここから遠い場所にありました。山の道は曲がりくねり、上り下りも激しく、時には獣道と見まがうような頼りない姿をしています。しかしカフは、無言で淡々と歩みを進めます。
「うわっ!」
突然カフの目の前に、カフと同じくらいの歳の男の子が現れました。その男の子はびっくりしたように目を丸くしてカフを見つめます。カフは歩みを止め、男の子を見つめ返しました。
「な、なんだ、びっくりした。イノシシかと思った」
男の子はそう言うと、カフをしげしげと観察し、不可解そうに眉をひそめました。
「お前、こんなところで何してんの?」
カフは昨夜に星が降ったこと、地上に落ちた星を見に行く途中であることを男の子に伝えました。ふぅん、とあまり興味のない返事をして、男の子は意外な提案をカフに持ちかけました。
「俺も連れてってくれよ」
落ちた星に興味もなさそうだったのに、どういう風の吹き回しだろうとカフは首を傾げます。男の子はちょっとバツの悪そうに言いました。
「兄ちゃんとケンカしちゃってさ。ちょっと家に帰りづらいんだよ」
ああ、とカフは納得しました。朝も早いこんな時間に、男の子が一人で山道にいること自体が不自然だとは感じていましたが、そういう理由なら分からないではありません。そしてきっと、山に入ったはいいが行く当てもなく、心細くなったのでしょう。カフは男の子に了承の意を伝えました。男の子はホッとしたように笑うと、カフの隣に並びました。
「よぅし、行こうぜ! 地上に落ちた星を追う大冒険だ!」
手ごろな長さの枝を拾って天に掲げ、男の子は元気よく宣言したのでした。
「ひっでえんだぜ? 年上だからって、いっつも偉そうにしやがって」
枝を振り回しながら、男の子は『兄ちゃん』への不満を語ります。カフはそれをうなずきながら聞いていました。自分のおやつを勝手に食べられた、お使いを押し付けられた、
男の子は『兄ちゃん』がいかに理不尽かを一生懸命に訴えていました。山道はやがて緩やかな下りとなり、お昼を回ったころには街道の入り口が視界に入りました。カフたちは山を越えたのです。
「……なぁ、星がある場所ってまだ着かないの?」
ふと、男の子の声に弱気が混じりました。カフは、星が落ちた場所はここからさらに川と森を越えた場所にあると説明しました。男の子は「ゲっ」と嫌そうな顔をすると、手に持っていた木の枝を放り投げて言いました。
「俺、帰るよ。そんなに遠いんなら今日中に帰れないじゃん」
じゃあな、と言って男の子はカフに背を向けて帰っていきました。しばらくその背を見送り、カフは星が落ちた場所に向かって再び歩き始めました。
星を目指すカフの前に、対岸がかすむほどの大河が姿を現しました。雄大なその流れは日の光を反射してキラキラを輝いています。ゆったりとして力強い自然の姿にカフはしばらくの間見惚れていました。しかし、ずっとここに立っているわけにもいきません。カフは河を渡る方法を探すことにしました。
川沿いを歩くことしばし。カフは河原に立って対岸を見つめる兄妹の姿に気付きました。どこか思いつめた顔をして、兄はじっと川に隔てられた向こう側を見ています。まだ幼い妹は兄と手をつないで、対岸を見る兄の顔を見上げています。カフは兄妹に近付くと、川を渡る方法を聞くことにしました。
「河を渡りたいのかい? だったら、橋を渡るか渡し船だね」
兄は親切に、このまま上流に向かえば橋が架かっていて、下流に向かえば船着き場があることを教えてくれました。そして、「でも」と少しだけ顔を曇らせます。
「河の向こうは別の国さ。通行証が必要だけど」
カフは思案げに腕を組みました。通行証なんて持っていません。と、いうことはつまり、カフは橋も渡し船も使えない、ということです。カフは他に方法はないかと尋ねました。「うーん」と兄はうなり、「あまりお勧めしないけど」と前置きして言いました。
「上流に行けば川幅は狭くなる。なるべく狭くなっている場所を見つければ、泳いで渡ることはできるかも」
なるほど、とうなずき、お礼を言って、カフは上流へ向かって歩き始めました。慌てたように兄がカフの背に声を掛けます。
「本当に泳いで渡るつもり!?」
カフは振り返るとはっきりとうなずきました。兄は迷いをその顔に浮かべると、少しの間言葉を探すように口を閉ざし、そして迷いを吹き散らすように口を開きました。
「僕たちも一緒に行っていいだろうか?」
お勧めはしないと言いながら一緒に行くというその言葉に違和感を覚え、カフは首を傾げました。兄は何かを言いたそうな、何も言いたくないような、複雑な表情を浮かべています。特に断る理由もなく、カフは了承を伝えました。どこかホッとした様子で兄は微笑みます。妹はあまり状況を理解していない様子でしたが、兄の表情が和らいだことを嬉しく思っているようでした。
川を渡る風は冷たく、透明で、無関心で、カフは少しだけ安心して歩きます。兄妹は黙ってカフの後ろをついていきました。やがて、カフたちの前に大きな橋が見えてきます。大勢の人たちが行き来し、笑い声や怒声や呼び声や、さまざまな声が飛び交っています。兄妹がわずかに身を固くしました。表情を改めて人波を突っ切っていきます。橋の手前には石造りの門があり、審査官が通行証を検めているようです。滞留する人々を横目に、カフたちは急ぎ足で通り過ぎました。
人々の姿が見えなくなるほど橋から離れたところで、兄は息苦しさを吐き出すようにほぅと息を吐きました。
どれだけの時間を歩いたのか、すっかり日が傾いたころに、カフはふと足を止めました。川幅は多少狭くなった、とはいえ、対岸が霞むほどだったのが多少はっきり見えるようになった、程度です。しかしこの場所は他と違って、川の真ん中に大きな中洲がありました。中洲までなら何とか泳いで渡ることはできそうです。この先、もっと渡りやすい場所があるか分かりません。ならば、ここを渡ると決めてしまったほうがいい。カフはそう決めて兄妹に伝えました。兄はうなずき、
「……ここを渡れば――」
とつぶやきます。カフは靴を脱ぎ、ズボンのすそをまくると、川の水の中に足を差し入れました。続いて兄が一歩を踏み出し――
「お兄ちゃん」
手をつないでいた妹が心細げに呼び掛けます。ハッとした様子で兄は足を止め、小さな妹を見下ろしました。わずかな逡巡の後、兄はカフの背に声を掛けます。
「ごめん。やっぱり、行けない」
足首まで水に浸し、カフは振り返ります。兄はうつむいて妹の手を少しだけ強く握りました。
「……帰るよ。帰るしか、ないから」
苦しそうに兄は目を瞑りました。カフは、わかった、と答えると、元気で、と言って別れを告げました。
「ありがとう」
力なく笑って、兄は妹と共に元来た道を戻っていきました。去っていく姿をしばらく見送り、カフは小さな荷物を頭に括りつけると、まだ冷たい川の水の中に入っていきました。
無事に川を渡り、国の境を越えて、カフは深い森へと入っていきます。星が落ちた場所はこの森を抜けた向こうのはずです。もうすぐ星に辿り着く。カフは逸る気持ちを抑えながら細い林道を進んでいました。
「誰だ!」
鋭い誰何の声が森に響き、カフは足を止めました。声に驚いた鳥が一斉に飛び立ちます。カフは声の主のいるほうへ目を向けました。そこにいたのは意外にも年若い、カフとそう変わらない年齢の少年でした。ナイフを手に少年はカフをにらみます。
「僕を連れ戻しに来たのか!?」
針を逆立てるハリネズミのように少年はカフを威嚇します。少年の放った言葉の意味が分からず、カフは首を傾げました。その様子に勘違いを悟ったのでしょう、少年は拍子抜けしたような、がっかりしたような表情を浮かべました。
「てっきり、僕を捜させるために雇った者かと思った」
よく見ると、少年の身なりは相当に裕福な家の子供のそれでした。ただ、森をさまよっていたのでしょうか、枝で引っ掛けた破れ目や草の汁でついた汚れに泥汚れと、少々服がかわいそうな状態になっています。カフは少年に、どうしてこんなところにいるのかと尋ねました。森は裕福な家の子供が進んで立ち入るような場所ではありません。遠くで狼の遠吠えが聞こえ、少年はわずかに身を震わせました。
「……家出したんだ。どうせ僕なんていてもいなくても同じだから」
仄暗い光が少年の瞳に差しています。この世界に自分は必要ないのだと、そう確信している瞳です。しばし目を伏せ、少年は切り替えるように少し大きな声を出しました。
「そういう君は? こんな森の中でいったい何をしてるんだ?」
カフは少年に、星がこの森を抜けた先に落ちたこと、それを探しに行くのだということを話しました。少年の顔に驚きと興味が湧き上がります。
「星を探す旅か。すごいな」
少年はカフにグッと近付き、興奮した様子で言いました。
「ぜひ僕も連れて行ってくれ。地上に落ちた星、ぜひ見てみたい」
カフは、森は危険だということ、無事に抜けられる保証はないこと、星が落ちた場所まではまだ距離があることを説明しました。カフは少年が長時間歩いて星のいる場所までたどり着くことができるようには見えなかったのです。しかし少年は頑として聞き入れず、連れて行けの一点張りです。そこまで言うなら、とカフは少年と一緒に行くことにしました。
少年はひどくはしゃいだ様子で、見慣れない森の木々や草花にいちいち驚いたりしながら歩いています。しかしその目だけはどこか乾いて、冷たく沈んでいるようでした。二人はしばらく進み、腰かけるのにちょうどいい岩を見つけて、そこで休憩することにしました。少年は「ふぅ」と大きく息を吐きます。ずっとはしゃいで気付かなかった自分の身体の疲労に初めて気づいたのでしょう。カフはゆっくりと呼吸します。まだ星の落ちた場所までは遠いのです。休めるときには休まねばなりません。
「……なあ」
何もしゃべらないカフにしびれを切らしたのか、少年が口を開きました。
「どうして星なんか探してるんだ? こんな遠くまでわざわざ?」
カフは腕を組んで少しの間考えると、なんとなくかな、と答えました。あの日、星が流れるのを見た。それ以上の理由は特にないのです。少年は驚いたように言いました。
「誰も止めなかったのか? 家族は?」
家族はいない、とカフは首を横に振ります。もうずいぶんと前から、カフは一人で生きてきました。だからカフが星を探す旅に出たときも、誰もそれを止める人はいませんでした。少年の顔が、同情し、そして隠し切れない優越を表しました。しかしすぐに暗く沈み、少年は重苦しいものを吐き出すように言います。
「……家族なんて、いないほうがいいかもな。そのほうが、自由だ」
少年にはとても優秀な兄がいるのだそうです。容姿端麗、頭脳明晰、性格もよく誰からも好かれる。両親の期待にも軽々と応え、非の打ち所の無い完璧な男。少年は小さなころからそんな兄と比べられて生きてきました。
「どうしてお前はできないんだ、兄さんにはできたのに。なんて、言われ続けてみろ。何もかも嫌になって仕方ないだろう?」
自分が特別に弱いのではないのだと、少年はそう主張しています。カフは返答に困ったようにあいまいな笑みを浮かべました。少年はうつむいてため息を吐きます。
「父様も、母様も、皆も、兄さんさえいればそれでいいんだ。不出来な弟なんて、誰も気にしちゃいない。きっと僕がいなくなったことだって誰も気づいちゃいないんだよ」
自嘲気味に少年は笑います。少年の言葉を聞いていたカフは、帰りたいの? と問いかけました。少年は身を乗り出し、むきになった様子で言いました。
「そんなわけないだろう! 僕は家を出たんだぞ! これからは一人で生きていくんだ!」
自分の言った「一人で」の言葉に打ちのめされたように、少年の瞳が心細げに揺れています。カフは小さく息を吐きました。このままこの少年を連れていっていいのか、悩ましいところです。腕を組んで思案していると、
「見つけた!」
藪がガサリと音を立てたかと思うと、そこから一人の青年が飛び出してきました。品のよい、優しげな風貌のその青年は、少年に向かって真っすぐに近付くと、逃げ出す隙も与えずにその手を掴みました。
「ど、どうして?」
目を白黒させながら少年が問います。青年は怒ったように答えました。
「こっちのセリフだ! 急にいなくなって! どれだけ心配したと思っているんだ!」
青年のあまりの剣幕に少年は何も言えず口をパクパクさせました。青年は厳しい眼差しでカフを振り返ります。
「――君が弟を連れ出したのか?」
「ち、違います! こいつはたまたま森で会っただけで、無関係です!」
少年が慌てた様子で青年の言葉を否定し、カフは安堵の息を吐きました。青年は疑わしいと目をすがめてカフを見ていましたが、すぐに興味を失ったように少年に向き直ります。
「帰ろう。皆、待っている」
手を引こうとする青年に、少年は気弱げに「でも」とうつむきます。青年は安心させるように微笑みます。
「実は僕も昔、家出をしたことがある」
「えぇっ!?」
少年が心底驚いたように顔を上げました。青年は苦笑いを浮かべました。
「でも、急に心細くなって半日もせずに帰った。帰ったらものすごく怒られたよ。だけど、追い出されたりはしなかった」
青年は少年の頭をくしゃくしゃに撫でました。
「一緒に謝ってあげるから、だから、帰ろう」
少年は「うん」と幼くうなずきます。青年もうなずきを返し、少年の手を引いて、来た道を戻っていきました。少年は一度だけカフを振り返り、何も言うことなく、帰っていきました。カフはしばらく、二人が消えた方向を見つめていましたが、やがて振り返り、歩き始めました。星が落ちた場所を目指して。
森を抜けた先には、誰が訪れることもない、草木さえほとんど生えない、荒れ野の地が広がっていました。乾いた風が吹き渡り、土ぼこりを巻き上げます。時折、小さな虫が地面をカサカサと這って視界の端を通り過ぎていきました。カフは一人で歩き続けます。そして、荒野の真ん中に辿り着いたとき、カフは息を飲みました。そこには、淡く光に包まれた球体――星が、わずかに揺れながら明滅していました。
カフは駆け出して星に近付くと、、膝をついて、神聖なものを持つように両手で星をすくいあげました。星は嫌がる様子もなく、カフの掌の上で輝いています。カフは魅入られたように星を見つめました。
「……これは、僕のものだ」
カフは呆然とつぶやきます。僕のものだ、そう言いながら、カフはそっと星を胸に抱きしめました。
カフには、ありませんでした。旅立ちを止める家族がありませんでした。日が暮れるからと帰る家がありませんでした。河を渡る危険をためらう大切な相手がありませんでした。不在を心配してくれる誰かが、ありませんでした。しかし今、カフの腕の中には星がありました。淡く輝く星がありました。
「この星は、僕の――」
カフの目から涙が溢れました。星は、何もないカフが初めて手に入れたものでした。大切なものでした。身をかがめ、祈るように、カフは泣き続けました。星を抱きしめたまま、僕のものだと何度も言いながら、カフはずっと泣き続けたのでした。