第四討 暗ク青白キ異界
―――夕方。
ヨーコは研究所を訪れていた。アルバヰトとして仕事に従事するのは当然の事である。しかしその使命感よりも、逃走した場合の危険性の方が彼女の背を押していた。
「うむ、よく来た。さあさあ、実験を始めようではないか」
「すっっっっっっっごい不安なんですが…………」
表情を曇らせるヨーコに対して、ゲンジョウは高笑いを続ける。
「よし、では案内しよう!」
研究所を奥へと進み、ゲンジョウは頑丈そうな鉄の扉のノブに手を掛けた。建付けの悪いそれは、ぎぎぎ、と擦れる音を響かせて開かれる。前室とは異なり、その部屋にはガラクタはただの一つも無かった。
「これは…………?」
部屋の中心に置かれていたのは、曲芸団で猛獣が潜り抜ける輪のような円形の装置。床にしっかりと据え付けられており、様々な装置から伸びる幾つもの配線が繋げられている。
「ふっふっふ、これこそが我が発明!異界転送装置である!!!」
「い、異界転送!? …………ってなんです?」
「まあ、そうであろうな。よろしい、では教えるとしよう」
ヨーコの疑問に対して一つ頷き、ゲンジョウは解説を始める。謎の装置について、そして彼が定義した異界について。
「まず我々が存在する世界とは異なる、ヱレキテルが満ちた世界が存在する」
「あ、ごめんなさい、その時点で分からないです」
「早速、話の腰を折りに来たな」
やれやれとゲンジョウは肩をすくめる。
「既にキミも見ただろう。青白い空間とそこにのみ現れる光の玉を」
「ああ、アレですか」
「そうだ。先のものはあくまで疑似的にだが、この研究所内に異なる世界を作り上げたのだ。あの空間がそのまま世界を形作っている、それが『異界』である。我々の住むこの世界と表裏一体の世界であるな」
「は~、何かよく分からないです」
「キミは、実に説明甲斐の無い研究助手だね」
手を額に付け、ゲンジョウは大きくため息を吐いた。しかしそれでも、彼の講義は続く。
「異界には光の玉など比較にならない、異形なる者が存在する。吾輩はそれを総称して『幻魔』と呼称しているのだ」
「あ~、時々言ってた幻魔ってそういう事だったんですね」
「映画でも説明していたはずだが」
「アレで分かれ、って無茶過ぎです」
不満げに研究助手は博士を見た。その視線を躱すように、ゲンジョウは更に言葉を繋ぐ。
「コロコロと変わる店然り、七不思議然り。不可思議な事象には何かしらの原因が存在するはずだ。その仮定の下に、吾輩は更なる仮定を組み立てた。つまりは、幻魔は表裏一体のこちらの世界に影響を及ぼす、という事である。」
「はへぇ~」
訳が分からない話をぶつけられ、ヨーコは何とも気の抜けた返事をする。熱をもって説いていたゲンジョウは彼女の様子に脱力した。が、気を取り直して結論へと言葉を届ける。
「幻魔の存在を証明する、そのための研究助手。幻魔が悪であるならば打ち倒す、それが討滅士。つまりキミには異界へ行ってもらう」
「は~…………はぁ!?」
結論だけを理解して、ヨーコは驚愕の声を上げた。何やらよく分からない異界とやらに、自分が行く事になっているのだから。
「ちょちょちょっ、なんでですか!自分で行けばいいじゃないですか!」
「異な事を言うな。勿論、吾輩も行ったに決まっておろう」
「え?じゃあ何で私が行く事に……?」
首を傾げるヨーコに対して、ゲンジョウは実に残念そうに嘆息する。
「長時間の異界探索が出来んのだ、吾輩は。精々十分程度で意識が混濁する」
「え、めちゃ危険じゃないですか!私もそうなっちゃったら…………」
「いや、それはおそらく問題ない」
「へ?」
腕を組んで言い切るゲンジョウの言に、ヨーコは頓狂な声を上げた。彼は部屋の中を当て所なく歩きながら、彼女へその理由を解説する。
「先に見せた光の玉、吾輩はあれに触れられぬ。だがキミは」
「……触った」
「そうだ。異界に対する適性がある者だけが触れられる、と吾輩は考える。その才こそが『奇心』だ。名称が無ければ定義出来んからな、名を付けた」
「奇心……それが私に?」
「ああ、おそらくな。まあ、軽い異界散歩と考えればよい。初めから幻魔と戦え等とは言わぬ、吾輩は鬼ではないからな」
フッと笑みを浮かべたゲンジョウに対して、ヨーコは疑念溢れる目を向けた。至極当然、当たり前である。
「さあ、あの輪を潜りたまえ。そうすれば瞬く間に異界へ到着だ」
「うぅ、本当に危険は無いんですよね?」
「ああ、勿論。少なくとも吾輩が探索した範囲には」
恐る恐る輪の前に立つヨーコを尻目に、ゲンジョウは機械を操作する。ぶぅん、という低い音と共に、輪の内側の空間が波立った。ゆらゆらと陽炎の如く揺らめくそれへと、ヨーコはゆっくりと歩みを進める。そして。
「ううーっ、えいっ!」
最後の一歩は目を瞑って足を揃え、ピョンと跳ぶ。何の抵抗も受ける事なく、彼女は輪を潜り抜けた。あまりにも何の衝撃も無かった事からヨーコは不思議に思い、きつく閉じていた瞼をゆっくりと開く。
「お~……」
以前見たものと同じ、青白くもどこか暗い世界。それが彼女の周りには広がっていた。きょろきょろと辺りを見回すが、先程までいた研究所の中と寸分違わない風景だった。ただ一つを除いて。
「あれ? 博士ー? どこ行ったんですか~?」
自身を送り込んだ人間がいない、それだけが違いだ。当て所なく研究所内を歩きながら、ヨーコは声を掛け続ける。すると。
「異界には行けぬ、と先程言ったはずだが。もう忘れたのかね?」
「うわっ!?え、え、どこにいるんですか!?」
急に話しかけられた事でヨーコは跳び上がった。探し人の姿は見えず、されど声ははっきり聞こえる。右に左に前に後ろに、彼女は身体を向けて周囲を確認した。が、どの方向にも誰もいない。
「何をしているのかね。左手首の腕輪だよ、腕輪」
「え、あ! ここから声が聞こえる!」
「それを介して声を伝えている。」
「おお~、電話みたい。交換手とかいるんですか?」
電話が発明されて十数年。それまで直接話をするか、手紙を送るかだけだった人と人の通信手段に革命が起きたのだ。いまや町には公衆電話が置かれ、大きな会社や裕福な家には固定電話が普及している。
だが気軽にどこにでも掛けられるようなものではない。一旦電話局へと繋がり、電話交換手に呼び出し相手を伝えて繋げてもらうのだ。当然であるが相手の側にも電話機が必要、となると発信着信どちらもある程度限られてしまうのである。
そんな電話は女学院にも設置されている。地方からのお上り組は、故郷の家族へと連絡する時にそれを利用するのだ。そしてヨーコもその例に漏れず、入学から一年の間に数回は電話を使用していた。
「そんな者はいない。強いて言うなれば、腕輪に封じ込めたヱレキテルがその役目を果たしている、という所か。こちらにいる時にも使える事は検証済みだが、異界との通信も今回で検証完了、問題はなさそうだな」
「えーっと、それって結構凄い事なのでは?」
良くは分からないが何だかすごい事なのではないか、とヨーコは感じて口に出す。しかしゲンジョウは、そんなものはどうでもよい事だ、と一蹴した。
「異界探索だ、探索。それが何よりも重要だ。それと確認である、身体に不調は無いかね?」
「え、ああ、はい。特に何も……。ちょっと肌寒い感じがするだけですかね」
涼しいというには過剰で、寒いというには緩やか。肉体的に寒いというよりは、精神面に不安が生じて寒さと認識しているような感覚だ。
「ふむ、ならば良し。仮説は立証された。奇心ある者は異界で活動可能である」
「で、私は何をすれば?」
「とりあえずは散歩だ。危険が有るか無いかも分からん世界、いきなり遠くまで探索する事など不可能。研究所の周り、港近くを歩きたまえ」
こうして、ヨーコの気ままな異界散歩が始まった。