『無』の世界
けたたましいサイレンが、マンションの前に鳴り響く。
普通の人なら不快に感じるこの音も、僕にとっては、この偽りの世界から解放してくれる、天使のラッパのように聴こえてくる。
鬱陶しいと思えるほどの玄関チャイムと、破壊する勢いで扉を叩く音が、同時に部屋の中に響きわたった。
「やっと、この時がやって来た」
高鳴る胸に手を当て、高揚する気持ちを抑え、ゆっくり、一歩一歩、この偽りに足を取られないように、しっかりと進んで行く。
偽りに排除されるということは、僕は理に抵抗できたのだろう。
物心がついた頃の子供は、この世界がどのように見えているのだろうか。
子育て熱心な親は物心がつく頃(4、5歳ころ)に様々な場所へと、連れていってくれるだろう。
そこで見る世界、見える世界は、子供の眼にどのように映るのだろうか。
僕は、とても広く見えた。
父親が天体好きで、一度、山に連れていってくれたことがあった。
駐車場に車を止め、外へ出た瞬間に見た、夜空に広がる満天の星。
もう何年前に見たのか、季節すら覚えていないのに、その夜空だけは、一度たりとも忘れた事はなかった。
世界は自由だ、世界は綺麗だ、世界は尊いものだ。
僕は、その時に世界の『広さ』に恋をした。
走っても、走ってもたどり着くことのない、世界の『果て』へと走る夢を日々見続け、『果て』に手が届きそうになると、また、世界が広がる。
『果て』へと手が届かないこの夢は、本来なら絶望を象徴するのかもしれない。
しかし、僕は、『果て』に手が届かないほどの『広さ』に希望を抱いていた。
だが、そんな日々は、唐突に終わりを迎えた。
ある時に見た夢で、『果て』に手が届いてしまった。
いつものように『果て』に向かって走っていると、広がるはずの世界が、なぜか広がらず、存在しないはずの『果て』に、いつの間にか手が届いていた。
『広さ』を愛し、『広さ』に希望を抱いていたはずなのに、手が届いた瞬間、『果て』を恐怖し、『果て』に絶望を抱いていてしまった。
どんなものにも限りがあり、どんなものにも終わりが来る。
その事実に直面した時、僕の世界は際限なく、小さくなっていった。
中学に上がる頃は、『広さ』への愛は、『果て』への恐怖に。
『果て』への恐怖は、世界の『狭さ』という事実を突き付けてきた。
世界は不自由だ、世界は醜い、世界は何処までも卑しい。
僕は、世界の『狭さ』を恨んだ。
何処までも行けると信じた世界は、終わりを迎え、広がりを知らない世界は、僕にとって息苦しい。
かつて、『広さ』を象徴した夜空は、『狭さ』を象徴する、部屋へと塗りかわっていった。
『狭さ』を受け入れた僕は、かつての『広さ』を愛した僕を憧れた。
何処で間違えたのか、何処で変わったのか、どうして『果て』に手が届いてしまったのか。
『狭さ』を知った、『狭さ』を受け入れた僕には、考えることすらできない事だった。
ある日、眠りについた時、いつぶりかもわからない夢を見た。
『果て』へと走るあの夢だ。
あの頃は、ただ『広さ』を感じたくて、走り続けていたが、今になって見てみると、何もなかった。
そう、何もなかった。
何でもある、何にでもなれると思っていた世界は、何もなかったのだ。
あるのは『無』のみ。
そして、僕はようやく気づいた。
今まで気付かなかった自分を恨むほど、憎むほど、もっと早く気付けばよかったと後悔した。
初めから、この世界には、何もなかったのだ。
自分がいる此処も、『果て』だと思っていた『向こう』も、広がっていると信じていた『世界』も、初めから無かったのだ。
『向こう』も『世界』も『広さ』も『果て』も『狭さ』も、何もかもが無かった、『無』だった。
僕は、ひどく後悔した。
『狭さ』に絶望して、枯れてしまった涙。
『広さ』を愛して、虜になった心。
『果て』を知って、恐怖を感じた体。
その全てが、『世界』の手のひらの上だった。
しかし、その『世界』すら『無』だった。
僕は、一体何に恋し、何に絶望し、何に恐怖したと言うのだ。
全てが憎い、全てがおかしい、全てが、全てが、その全てですらこの世界には、存在しない。
この世界には、真実は存在しない。
この世界には、偽りしか存在しない。
こんなことを考えている自分ですら、本物ではない。
僕の存在そのものが、いや、存在という言葉事態が正しくない。
なぜなら、『無』だから。
僕は『無』、世界は『無』、この考えすら『無』。
真実は『無』、偽りも『無』。
正しいも、正しくないも、世界の事象は、全て『無』に集約する。
僕は、どうすればいい。
僕は、何をすればいい。
一人、『無』に気づいた僕は何なんだ。
僕は此処にいる、僕らは『無』。
僕は何処にいる、僕こそが『存在』。
永遠に流れる考え。
しかし、その永遠すら『無』。
『無』とは何だ、『存在』とは何だ、『僕』とは何なんだ。
『無』の時間が流れた世界に一人の少年が現れる。
「ようやく気づいたか」
「え····、」
絶望を浮かべた顔で少年を見ると、かつての僕がいた。
「君は、『僕』なのか」
「そうだ。『僕』は君で、君は『僕』だ」
「どういうこと···なんだ?」
「君も『僕』も、本質は『無』だ。ゆえに、『僕』は、無限にいるといえるし、一人も存在しないといえる」
「つまり、僕や君はいつ消えてもおかしくないの存在なのか?」
「それは違う。君の『存在』は、『無』によって保証されている」
「意味がわからない」
「『無』がある限り、無限にいる『僕』の中で君がその本質になる。故に、君は、『無』が表すオリジナルだ」
「ますます意味がわからない」
「わからないなら、わからないままでもいい。問題はないからな」
「それで、なぜ君は今、此処にあらわれたんだ?」
「それは、『僕』の意識が崩壊しつつあるからだ」
「崩壊」
「そう。『世界』の正体に気付き、自身とはなんなのか?という考えに、永遠と考え続けていたせいで、君は崩壊しかけた。」
「·······」
「しかし、そんなことは『無』が許すはずもなく、君の一人である僕が此処へ来た」
「なぜ、『無』は君を此処に寄越したんだ?」
「今言った通りだ。『無』は、真実にたどり着いた者が、崩壊する事を恐れている。なぜなら、崩壊する事は、『無』ではなくなってしまうからだ」
「『無』は、どうして『無』でわないことを恐れているんだ?」
「それは、僕にもわからない。『無』は人でも、ましてや、意志が有るものでもない。ただの理に過ぎない」
「僕は、これからどうすればいい。何をすればいい」
「どうもしなくてもいい。何もしなくてもいい。これからも、『僕』が崩壊しそうだったら、また僕がやって来て、崩壊を止めるの繰り返し」
「そうか」
「じゃあ、またいつの日か、此処で」
その声が聴こえなくなると同時に、意識が元の世界へと、引き戻された。
この世界には、真に存在するものは無い。
その事実が、また僕の世界の見方を変えた。
眼を開けると、そこには何もなかった。
しかし、そこに物はあった。
ただ、見えないだけ。
この世界が『無』である事実を知った心が、こんな世界を見ること拒絶している。
今まで見ていた『世界』は、『無』が表面に造った、ただのハリボテ。つまり、偽りだった。
だから、今僕が見ている、この何もない『世界』こそが、真の『世界』といえるのだろう。
こう考え付いた時、僕は僕でなくなった。
ある意味では、僕も表面に造ったハリボテに隠れている人だった。
しかし今、ハリボテの僕と心の僕とが、入れ替わった。
そうして、心に秘めていた、一つの考えを実行しようと思った。
この偽りしか知らない人々に、『世界』の正体と、真の『世界』を見てもらうこと。
そのために何をすればいかは、すでに決まっている。
真の『世界』を見るならば、偽りを壊したほうがいい。
人が死のうが、それも偽り、『無』なのだから、気に病む必要も、気に止める人もいないだろう。
さあ、化けの皮を剥がそうかじゃないか。
『無』が、『僕』を嫌っているのならば、邪魔の一つや二つが入るかもしれない。
それすらも『無』なのだから、壊してやろう。
この世界には、存在や、正しさなんてないのだから。