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コーチ登場

 佐倉の自宅は小学校からほど近い場所にあるアパートの二階の角部屋だ。固定電話を引いていないことからも一人暮らしをしていることが分かる。

 

 佐倉も地元の出身ということで、わざわざアパートを借りていることを栞は不思議に思った。


 栞は五分もしないうちにアパートに着いた。


 佐倉の部屋の前に立ち、呼び鈴を押した。中からチャイムの音が聞こえてきたが、反応は無かった。

 仕事に行ってるのだろうか。普通の勤め人ならまだ働いている時間である。

 栞は佐倉の職業を聞いていなかったのを思い出した。


 考えなしにグラウンドを飛び出してきたことを後悔して、戻ろうとして、何気なくドアのレバーを捻ってみると、抵抗なくドアが開いた。


 雪国の田舎のことなのでカギを閉めないのは、ままあることだ。栞の家も在宅時にカギをかけることはない。


 栞は「お邪魔しまーす」とささやくように言って部屋に上がり込んだ。


 入ってすぐ右手に狭いキッチンがある。ピカピカとまではいかないが綺麗に使っているようだった。男の一人暮らしってこんなものなのかと思った。


 キッチンの横に冷蔵庫がありその上に電子レンジが乗っかている。

 冷蔵庫の横に洗濯機が置いてあり、その向こうがトイレのようだ。


 栞はキッチンを過ぎて左に曲がった。そこがリビングになっているらしい。


 そーっとドアを開けた。中は六畳ほどの洋室だった。入って正面に布団が敷かれていて、男が横たわっていた。


 まさか死んでいるのではないかと思って栞は慌てて駆け寄った。


 男の手首に触れてみると温かかったので安心した。脈拍もあった。


「え? 誰?」

 男が目を覚ましたようで、しわがれた声が聞こえた。目はまだ閉じている。


「佐倉さんですね? 起きてください」

 ようやく男が目を開いた。まだ半開きだ。


「だから誰?」

「新しくラディッシュの監督になった。米澤栞です」

「ああ、そうですか。佐倉です。よろしく。じゃあ出ていってもらえるかな? 不法侵入で警察呼びます」

 

 佐倉は壁のほうに寝返をうった。二度寝を決め込むつもりだ。

「そうはいきません。今日は活動日ですから。サボりは許しません」

 栞は食い下がった。


「いいだろ。いままでだって行ってないし、試合にだけいればいいんだ。教えるなら監督だってできるでしょう」

「駄目です。わたしは素人ですから」

 佐倉以外に教える人間はいない。


「は? なんでそんなのが監督になったのさ」

 初対面の人間の前で寝っ転がったままの佐倉もさすがに戸惑ったようだ。

「だから練習に来てください」

「あー、わかった。じゃあ明後日から行くよ。うん、絶対行く」

  

 ラディッシュの活動日は月水金と決まっている。土曜日には対外試合を行う。

「駄目。起きてください」

 栞は掛け布団を引っぺがした。


「勘弁してくれよ。二日酔いなんだ」

「二日酔いって、もう夕方ですよ。どれだけ飲んだんですか」


 部屋の窓側にコタツテーブルが置かれていて、その上にジンの空き瓶が転がっている。まさか一晩で飲んだのか。栞は想像しただけで気分が悪くなった。


「そう言うことだ」

 栞の様子を見て佐倉が言っって、再び布団を被った。


 栞は部屋を出た。向かいのアパートの前に自動販売機があった。ペットボトルの水を買い、佐倉の部屋に取って返した。


 戻ってきた栞を見て佐倉はうんざりした様子で「帰ったんじゃないのか」と言った。

 栞は佐倉の襟首をつかんでペットボトルを口に押し付け無理やり水を流しこんんだ。

 佐倉が暴れたが手は緩めなかった。やがってボトルが空になった。


 佐倉のグレーのスウェットがこぼれた水に濡れていた。

「うっぷ、何しやがる」

 げっぷをしながら抗議する。


「少しはスッキリしましたか? 110円貸しですからね」

「貸し? そんな馬鹿な。押し売りの間違いだろう」


 栞は問答無用で佐倉の腕を掴んで立たせ、そのまま外へ、そして小学校グラウンドまで引きずって行った。


 到着すると子供たちがキャッチボールをしていた。言いつけを守らなかったのかと思ったが、選手の母親が来ていたので安心した。熱心な保護者達は都合のつかない監督コーチの代わりに練習を見てくれることになっていた。


「随分かわいい監督さんね」

 そう言われて栞は赤くなった。

「同伴出勤? 佐倉君と手なんかつないじゃって」

 慌てて佐倉の手を掴んでいたのを放した。

「違いますっ。サボろうとしてたのを連れてきたんです」

「あら、そういえば佐倉君が来るの珍しいわね」

「はあ、どうも色々都合があるもので」

 非常識に見えた佐倉も保護者には普通に応対するようだ。


 子供たちが集まってきた。佐倉を囲む。

「コーチ、パワプロどこまで進んだ?」

「算数教えて」

「Ⅴtuberと友達ってホント?」

 どうやら慕われていないわけではないらしい。主に野球以外の部分で。


「さあ、練習続けて」

 佐倉は子供たちを追い払った。二日酔いでなければもっと愛想がいいのだろうか。


 子供たちがキャッチボールを再開した。

 佐倉がベンチに腰掛けた。


 栞はうんうんと頷きながら選手たちを見守った。

 相手が暴投して球を追いかける姿も、投げたほうが気まずそうにしているのも愛おしかった。しかしそれが何度も続くようではいただけない。


「佐倉さん、これを見て何かアドバイスはありませんか?」

「さあ、やってればうまくなるんじゃない?」

 大げさに肩をすくめて見せた。

 栞はそんなものかと思った。


「栞ちゃん、ノック打てる?」

 キャッチボールに飽きたのか選手が引き揚げてきた。

「ようし」


 栞は張り切って誰かが倉庫から出してあったバットを持って打席近くに向かった。

「それ、普通のバットだよ」

 球出しをするマサノリが指摘して、細長いバットを持ってきた。

「こっちがノックバット」

 普通のバットを置いてノックバットとボールを受け取った。


「さ、来い」

 サードのヒロキが威勢よく呼んでいる。

「行くよー」

 栞は見様見真似でボールを放り上げ、サードめがけて思いきりバットを振った。

 バットは空を切り、ボールは真下に落ちた。


 栞はポリポリと頭を掻いた。ボールを拾い上げ「行くよー」からボールが落ちるところまで繰り返した。それが何度か続いた。


 グラウンドに変な空気が流れた。栞は佐倉を見た。

「なんだよ」

「ノック、代わってもらえませんか?」


 佐倉はやれやれと言ったふうに首を振った。グラウンドのある一点を指さす。

「ヒサシ、お前が打て」


 マウンドにいたヒサシを指名した。

「俺? 良いけど」

 ヒサシがマウンドから降りて来たのでバットを渡し、すごすごとベンチに下がった。


「こりゃ、監督が一番コーチングが必要かな」

 栞は恥ずかしさで下を向いた。


 ヒサシはそつなくノックをこなしている。ノックを受けるほうはそうでもなかった。飛んできた打球を取り切れずぽろぽろ落とすし、投げては的確に狙いを外す。

 ただ、子供たちなりに一生懸命なのは伝わった。


 やがてノックは終わり、暗くなってきたので初日の練習は終了となった。

 最後に監督が喋ることになっているらしい。


「じゃあ一つだけ、野球をやるならちゃんとユニフォームを着ましょう」

 ユニフォームを着ていたのはライトのセイヤ一人だけであとはジャージを着ていた。これでは公園で遊んでいるのと一緒だ。


 選手たちは素直に頷いてめいめいに帰っていった。


「佐倉さんもですからね」

 声をかけたが佐倉は無視して帰っていった。


「もうっ」

 栞は頬を膨らませながら自分も帰途についた。佐倉のアパートに自転車を置きっぱなしなことには翌日まで気付かなかった。

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