第八章 Tistrya -雨の神-
第八章 Tistrya-雨の神-
何日も雨が続いていた。海が荒れている。
男は船に乗って遠くへ行っている。
帰ってくるとは思うが見送りにも行かなかったから、もしかしたら戻ってこないかもしれないと思うと不安が募る。
つまらない意地なんか張らず、せめて見送りに行って帰ってきてくれるように頼めばよかったと後悔していた。
「大変だ!」
女達が作業しているところに村の男が走ってきた。
「船が難破したらしい」
「なんだって!?」
「船に乗ってたヤツがさっき戻ってきたんだ」
その男は別の船に助けられ、一度、他の港へ寄港した後ここまで帰ってきたらしい。
船が難破したのは一ヶ月以上前だと男が言った。
「他の人達は?」
「誰も見つからなかったそうだ」
「その船に、あの人は乗ってた?」
アトの問いに男が頷いた。
「あいつも船から放り出されてそのまま……」
それを聞くとアトは海に向かって掛けだした。
「アト! どこ行くんだ! アト!」
アトはいつも男が歌っていた海辺に立つと海に向かって歌い始めた。
帰ってきて。
この唄を聴いて、帰ってきて。
お願い……。
小夜は目覚ましが鳴るより前に目を覚ました。
窓を見ると森が出ていた。
なんだか、すごく歌いたい。
小夜は大急ぎで着替えると音楽室に向かった。
小夜が歌い始めると間もなく柊矢も入ってきてキタラを弾き始めた。
楸矢が目を覚ますと小夜の歌声とキタラの音が聴こえていた。
時計に目をやると午前四時を少し過ぎたところだ。
まだこんな時間……。
二人とも、ホントに好きだな……。
ムーシカは止まることもあるが基本的に二十四時間聴こえている。
数が多くないとはいえムーシコスは世界中にいるから常に誰かが歌っていて余り長く途切れることはないのだ。
だが今ムーシカを奏でてるムーシコスの中にあの二人以外で日本在住の者はいるのだろうか。
楸矢は寝返りを打つと、もう一度目を瞑った。
清美が自分の席で大きな欠伸をした。
「清美、徹夜? また料理の練習?」
「夕辺は旅行の支度」
「出発は三日後でしょ。ていうか、そもそも徹夜するようなこと?」
「だって、何持っていけばいいか分かんなくて……」
清美はそう言って目をこすった。
「何って、着替えと洗面用具と課題以外に何かある?」
「その着替えが問題なんだよ。毎日楸矢さんと会うんだから好みの服じゃなきゃ。楸矢さんに聞いても清美ちゃんなら何着ても似合うよって言われちゃったし」
「そう……」
小夜は清美の惚気を冷めた表情で聞いた。
あれだけ散々、人のこと痛いって言ってたのに……。
「小夜だって毎日柊矢さんと過ごすのに服装悩まないの?」
「今だって毎日一緒だし……」
何よりクレーイス・エコーとしてムーシケーの意志を探ってそれを実行するという使命のために行くのだ。
遊びに行くだけの清美ように服装に拘っている余裕はない。
もっとも楸矢が柊矢に旅行用の服を買ってやったらどうかと言ってくれたらしく、服が必要か聞かれたが二人きりで行く特別な旅行ならともかく使命のための旅行に余所行きの服はいらないだろうと思って断った。
楸矢が音楽室で考え込んでいると柊矢が入って来た。ムーシカが聴こえているからキタラを弾きに来たのだろう。
「あ、柊兄、ちょっといい?」
「どうした?」
「クレーイス・エコーとして行くなら笛は持っていかないとダメだよね。フルートも一緒に持っていくとなると大荷物になっちゃうけど、置いてくと一週間も練習休むことになるし、どうしよう」
「小夜に確認したのか?」
「何を?」
「田舎っていっても野中の一軒家じゃなくて住宅地に建ってるんだからな。防音設備のないところでフルート吹いたりしたら苦情が来るぞ」
「あ、そっか」
「フルート奏者になりたいわけじゃないんだろ」
「うん」
「なら、別に何日か練習休んだところで構わないだろ」
楽器の練習は一日休むと取り戻すのに三日かかる。
だから演奏者は手にケガをしないよう細心の注意を払うのだ。
だがプロの音楽家を目指しているわけではないなら練習をサボって腕が落ちたところで関係ない。
確かにフルート奏者を目指していたのは柊矢の代わりに音楽家にならなければいけないという使命感によるもので自発的になりたいと思ったわけではない。
それでも何年間もプロのフルート奏者になるためにやってきたから、そう簡単に切り替えられないのだ。
そういう意味では止めると決めたら、すっぱり止めてしまえた柊矢はすごい。
ヴァイオリニストを目指していたわけではないというのが嘘ではなかったということを改めて実感した。
もしも本気でヴァイオリニストを目指していたなら練習を休めばいいなどとは口が裂けても言わないはずだ。
毎日ヴァイオリンを弾いていたのは本当に演奏が好きだからやっていただけであって、腕が落ちるとか上達したいとか思っていたわけではなかったのだ。
だから止めるのも簡単だったし、ここで弾くのを止めたら二度とヴァイオリニストを目指せなくなる、などと未練がましいことも考えなかった。
それであっさりキタラに乗り換えられたのだろう。
演奏が出来るなら楽器は何でもよかったのと、キタラならムーシカを奏でることが出来るからヴァイオリンに後ろ髪を引かれることもなかったに違いない。
小夜のためにしょっちゅうセレナーデを弾いてるところを見ると、案外ヴァイオリンを〝止めた〟とすら思ってないのかもしれない。
演奏さえ出来れば楽器には拘らないからキタラでもヴァイオリンでもなんでもいいのだ。だからピアノを弾いてることも珍しくない。
さすが演奏家というべきか。
小夜は柊矢のセレナーデに本気で感激しているが、それはあくまで恋人が自分のために弾いてくれているからであってクラシック音楽が好きなわけではない。
初めて柊矢が小夜に弾いたセレナーデがエルガーの『愛の挨拶』で、曲が出来たときの経緯などを訊いてうっとりしていたが、だからといってCDなどで『愛の挨拶』を聴いたりはしないしクラシック音楽に興味を持ったりもしなかった。
その後、柊矢が弾いた曲にしても聴くのはあくまで柊矢が弾いてるときだけで、それ以外で聴くことない。
ドラマとかだと、よく初デートの思い出の曲だとか言ってCDを聴いたりするがムーシコスの場合そうなるのはムーシカなのだろう。
ムーシコスはCDを聴く代わりに自分でムーシカを奏でるのだ。
大抵のムーシコスは既存のムーシカを奏でるらしいが、おそらく柊矢と小夜の想い出のムーシカは自分達が創ったものだろう。
結局ムーシコスにとって音楽とはあくまでムーシカであって地球の音楽は恋人と過ごすときのBGMでしかない。
だが〝ムーシコスの血が薄い〟楸矢には演奏さえ出来ればいいから楽器には拘らない、フルートの腕が落ちても構わない、などと簡単に割り切ることは出来なかった。
いくら自分からなりたいと思ったわけではなくても何年間もプロになるために努力してきたのだ。
なる必要がなくなったからといってあっさり練習を止めることなど出来ない。
だからといってプロとしてやっていけるだけの才能や実力がないことも分かっている。
音楽家の末端に名を連ねる程度ならなれるかもしれないが、それでは家族をちゃんと養えるか分からない。
フルートで今の自分と同じような暮らしを家族にさせてやれるだけの収入を得られる保証があるならどんなに無理をしてでも頑張るが、どちらかしか選べないなら家庭を取る。
だがそれを選択したら今までやってきた事が全て無駄になる。
自分は今まで一体何してたんだろう、という思いに駆られる。
普通の大学に行きたいなんて言っておきながらこれだもんなぁ……。
楸矢は溜息を吐いた。
すぐ側で弟が悩んでいるにもかかわらず柊矢はムーシカにあわせてキタラを弾いていた。楸矢は完全に眼中に入ってない。
俺、ホントにイスかテーブルなんだな……。
話しかければ返事はしてくれるから相談には乗ってくれると思うが役に立つ答えは期待出来ないだろう。
柊矢は自分がやりたいことをやってるだけで、楸矢も好きなことをすればいいと思っている――というか、そうしてると思ってた――ようだから「自分のしたいことをしろ」以外の返事が返ってくるとは思えない。
これでよく祖父が亡くなったときに楸矢を育てる必要があるという事に気付いたものだと思いかけたが、単に興味がないから自発的に関わろうとはしなかっただけで社会の仕組みなどに関する知識はあるから働いて金を稼がないと生活していけないということは理解してるのだ。
楸矢に関しても、関心がないから口出ししない――というかしなかった――だけで弟がいることや養う必要があるという事は分かっていたから面倒を見てくれたのだ。
家族への思い遣りでも義務感でもない。ただ、そういうものだからやったに過ぎない。
俺、絶対地球人と結婚しよう。
楸矢は改めて固く決意した。。
「デートのお膳立て、もういいんですか?」
清美が意外そうに言った。
楸矢と清美は新宿駅近くの喫茶店にいた。
「ちょっと早かったかなって。今はまだ色々遠慮が先に立って、小夜ちゃん、楽しめそうにないし」
「でも、お花見の時、二人で先にどっか行ってましたよね?」
「うちに帰って音楽室でセレナーデ弾いてた」
正確にはデュエットのムーシカを歌っていたのだが、それを言うわけにはいかないので少しだけ脚色した。
「え、結局家でセレナーデになっちゃうんですか……」
清美が絶句した。
これが普通の反応だよなぁ……。
ひたすらムーシカ奏でて喜んでるの、柊兄と小夜ちゃんくらいだよな。
楸矢は小夜の歌声とキタラの演奏を聴きながら苦笑した。
楸矢が家に向かって歩いていると小夜の新しいムーシカが聴こえてきた。
さっき何曲か歌って小夜はそれでお終いになった。
といっても他のムーシコスも一緒に奏でていて小夜が抜けたと言うだけだが。小夜が止めた後もムーシカは何曲か続いていたがその後、しばらく途絶えていた。
そこへ小夜が歌い始めたのだ。
おそらく新しいムーシカが出来たからまた歌い始めたのだろう。
ラブソングだが、嬉しさとか楽しさが伝わってきて聴いているだけで明るくなるようなムーシカだった。
またムーシコス好みのムーシカだな。
柊矢にしろ小夜にしろ、ムーシコスの一族である椿矢に一番ムーシコスらしいと言われるだけあって二人の創るムーシカはムーシコス好みのものが多い。だから創るとすぐに他のムーシコスが奏でるようになる。
なんか良い事でもあったのかな。
小夜は新しいムーシカを歌い終えるとそこで止めた。他のムーシコスが別のムーシカを奏で始めた。
「ただいま~」
楸矢が台所を覗くと、
「お帰りなさい」
小夜が夕食を作りながら振り返った。
小夜は冷蔵庫から野菜の入った容器と卵を幾つか出すと、野菜入りの卵とじを作って楸矢の前に出した。
すぐに作れるように野菜は事前に下拵えしてあったらしい。
台所のテーブルの上には珍しく花が飾られていた。
ピンク色のチューリップとかすみ草の花束だった。
「ありがと。この花、どうしたの?」
「柊矢さんがプレゼントしてくれたんです」
小夜が嬉しそうに言った。
さっき突然新しいムーシカを歌い始めたのはこれに喜んで創ったのか。
「なら自分の部屋に飾った方がいいんじゃない?」
「夕食が終わったら持っていきます」
バレンタインに花束を渡した後は特に贈り物はしてなかったはずだが、なんでもないときに花束を買ってきたということは一応花見は効果があったという事だろう。
小夜が桜を見て嬉しそうにしていたから花束を買ってきたのだ。
高価なものだと小夜が恐縮してしまうし、花を見て綺麗だと喜んでいたから花束を贈ったのだろう。
デートには行かないにしても、ムーシカやセレナーデ以外にも小夜が喜ぶことがあるという事を学んだようだ。
デートは小夜自身それほど行きたがってるわけではないし、柊矢の方も興味がないから今後も行くことはないだろう。
やっぱ俺の方が出掛けるしかないか……。
春休みに入り旅行の日になった。
香奈の親戚の家の最寄り駅に着き、柊矢の運転するレンタカーで家に向かっているとき林の間から海が見えた瞬間クレーイスが光り始めた。
途切れ途切れのムーシカが聴こえてくる。
小夜は運転している柊矢と後部座席の楸矢に目を向けた。
二人にも聴こえるらしい。
小夜と視線を交わしたが清美達も一緒だったので黙っていた。
香奈の従兄の写真には海は写ってなかったと思ったけど……。
「うわ、おっきい!」
香奈の親戚の家の前に立った涼花が驚いたように言った。
「豪邸じゃん」
清美も目を丸くしている。
「都内だったらね。この辺じゃ普通だし」
香奈が周囲に目を向けながら答えた。
確かに都内の住宅街で見かける平均的な一戸建てと比べるとかなり大きいが周囲の家も同じくらいだ。
周囲と言っても家も大きく庭も広いので隣まではかなりの距離があるが。
「ま、入って」
香奈はそう言うと、鍵を取り出して小夜達を中に招じ入れた。
家に入ると香奈は小夜達をそれぞれの部屋に案内した。
「香奈、台所見せてもらっていい? 夕食の材料がないようなら買い出しに行かないと」
「叔母さん、材料用意しておくって言ってたよ」
「でも、材料見ないと何が作れるか分からないし、それにこの人数だと足りないものがあるかもしれないから」
「分かった」
「買い物に行くなら車を出すから言ってくれ」
柊矢が小夜に声を掛けた。
「今夜は豚肉の生姜焼きと菜の花のおひたしでいい? あと、フライドポテト」
「いいよ」
香奈が言った。
「買い出しは必要ないか?」
「お米は足りますけど、明日の朝、お味噌汁に入れるものが必要です。せっかく海の近くに来たんですし、アサリが買えるといいんですけど。あと、香奈の叔母さんが用意してくれてた材料は今夜と明日の朝の分だけで殆ど無くなってしまいます。明日の分を明日全部買うとなると量が多くて大変だと思うので、今日買っても問題ないものは今日買っておいた方がいいと思います」
「じゃあ、行こう」
「大丈夫だとは思うけど、一応俺も随いてくよ。荷物が多くなったときのために」
「なら、あたしも一緒に行きます!」
清美がすぐに志願した。
「じゃあ、あたし達は神社行こうよ」
涼花がそう言うと香奈が頷いた。
「案内するよ。清美はお小遣い叩く必要なくなっちゃったもんね~」
香奈が意地悪い目付きで清美を見た。
「そ、それはまだ分かんないよ」
清美が珍しく赤くなった。
まだ正式に付き合ってるわけじゃないんだ……。
とっくに付き合ってるのかと思っていたのだが。
楸矢さん、振られたって言ってたし、まだ心の傷が癒えてないとか?
その割には清美と痛いノリで始終盛り上がっているけど。
香奈と涼花に「小夜と清美、二人して見せつけてきてこれじゃ拷問!」と電車の中で散々文句を言われてしまった。
柊矢と自分はそんなに痛いことは言ったりしたりしてないと思うのだが、清美と楸矢は人目を憚らずにイチャイチャしてて物凄く痛かった。
柊矢と自分も端からはこう見えているんだとしたら確かにかなりキツい。
失恋の痛手で控え気味にしててこれなんだとしたら傷が完全に癒えたらどうなってしまうのかと思うと先が思いやられる。
香奈と涼花を残し、小夜達は柊矢のレンタルした車に乗って街へ買い出しに向かった。
柊矢が駐車場に車を止めている間、先に下りて待っていた小夜達は椿矢と出会した。
「あれ、あんた、どうしてここにいんの?」
椿矢に気付いた楸矢が声を掛けた。
「楸矢君、小夜ちゃん。君達の旅行先ってここだったんだ」
楸矢は椿矢と清美を引き合わせた。
小夜の親友にも関わらず楸矢が紹介した。
どうやら楸矢が言っていた付き合いたいと思っている相手というのは彼女らしい。
椿矢と清美が挨拶してる間に柊矢がやってきた。
「なんで、あんたがここにいるんだ?」
「例の知り合いを訪ねてきたんだよ」
「東京に住んでるんだと思ってたが……」
「住んでるのは東京だけど……」
「兄さん、何やって……あ!」
榎矢が椿矢に声を掛けようとして小夜達に気付いた。
「宗二さん!」
清美が榎矢を見て叫んだ。
「お前、なんでここに……、ああ、そうか、あんたの弟だったな」
柊矢が榎矢を睨み付けた後、椿矢に言った。
「え、弟? でも、宗二さんって柊矢さんの元カノの仲間だったんですよね?」
その宗二の兄と楸矢達が親しげにしているのを見て清美が困惑したようだった。
「椿矢は俺達に味方してくれたんだ」
「ホントは中立の立場を貫きたかったのに、不肖の弟が関わっちゃったからね。それより、宗二? お前、そんな偽名使ってたの? 小夜ちゃん、お前のこと知らなかったんだから偽名なんか必要ないのに」
椿矢が嘲笑った。
あからさまに「バカじゃねーの」という表情をしている。
榎矢がむっとした顔をした。
「僕は先に行くから」
榎矢はそう言うと踵を返した。
「ごめんね、小夜ちゃん。あいつ、恥ずかしいんだよ。色仕掛けで近づいたのにあっさり振られちゃったから」
椿矢が聞こえよがしに嘲った。
榎矢は赤い顔で振り返って椿矢を睨み付けると足早に去って行った。
「あんたの弟も知り合いを訊ねてきたのか?」
「いや、あいつは別件。親の代理でね」
「えっと……宗二さんのホントの名前は……」
清美が小夜達を見た。
もう顔を合わせることはないだろうと思っていたから聞いてなかったが、楸矢が椿矢とかなり親しげにしているからまた会う機会があるかもしれないと思って訊ねた。
小夜が答えようとしたとき、
「宗二でいいよ」
椿矢が肩を竦めた。
「え? でも……」
清美が戸惑ったような表情を浮かべた。
小夜も意外そうな顔をしていた。
「宗二って君達を騙すために使った偽名でしょ。その名前で呼ばれる度に振られたこと思い出して古傷えぐられるはずだからさ。この先もずっとその名前で呼んでやって。いい気味だから」
椿矢が人の悪い笑みを浮かべて言った。
この人、弟には容赦ないな……。
楸矢は横目で椿矢を見た。
兄弟だから遠慮がないのかもしれない。
もっとも遠慮がないのと意地悪は別だが。
買い出しから帰ってきて、荷物を家の中に運び込んでいると柊矢がそわそわしているのに気付いた。
さっきからムーシカが聴こえている。
「柊兄、後はやっとくから小夜ちゃんと散歩にでも行ってきたら? 南の方に人気のない浜辺があるらしいよ。そうだよね、清美ちゃん」
「はい。松林を抜けた先だそうです」
「西の方には灯台があるんでしょ。俺達はそっちに行こうよ」
楸矢がそう言って清美を誘った。
「じゃあ、後は頼んだ。お前達もあんまり遅くなるなよ」
柊矢はそう言うと小夜と連れだって出掛けていった。
旅行へ来てもムーシカ奏でるとか、柊兄ブレないな……。
キタラは持っていかなかったから二人で歌うのだろう。
柊矢と小夜が並んで歩いていると、突然クレーイスが輝きだしてムーシカが聴こえてきた。
柊矢にもそのムーシカが伝わってきた。
このムーシカは!
「小夜、早く歌え!」
柊矢の強い口調に小夜は目を丸くしたが、すぐに歌い始めた。
次々と歌声や演奏が加わっていく。椿矢も歌っている。
柊矢は注意深く小夜を見守っていたが、なんともなさそうだった。
間に合ったのか……?
歌い終わった小夜が柊矢を見上げた。
柊矢は、このムーシカは以前小夜が呪詛で倒れたときにムーシケーが伝えてきたものだと教えた。
「じゃあ、今、聴こえたのって呪詛のムーシカ……」
「聴こえたのか!? 無事か!? 具合は!?」
柊矢が顔色を変えた。
「あ、すぐ掻き消されちゃったのでなんともありません」
その言葉に柊矢は胸を撫で下ろした。
どうやら今回はぎりぎりのところで間に合ったようだ。
しかし当人が聴こえたと言っているのだしムーシケーがクレーイスを通して伝えてきたことから考えても狙いは小夜だろう。
だが小夜を狙う理由が分からない。クレーイス・エコーが邪魔なのは帰還派くらいだろうが沙陽はともかく他の者は諦めただろう。
クレーイス・エコーが関係ないとなると残る狙いはムーシケーくらいしか思い付かないが惑星に敵対するものなどいるのか?
ムーシケーの外側を回る惑星は砕けてしまってもう無い。
ムーシケーと二重惑星のグラフェーは意識がないはずだし、仮にあったとしてもムーシケーの恋人――人ではないが――なのだから狙うとは思えない。
この地球がある太陽系の惑星が現時点で判明しているだけで八つということを考えればムーシケーが回っている恒星にも他に惑星があるのかもしれない。
惑星同士が敵対するというのも意味不明だが、それをいうなら惑星が意志を持っていたり歌ったりすること自体、人知を超えているからそこは深く考えても仕方ないだろう。
再び何事もなかったかのようにムーシコスがムーシカを奏で始めた。
「とりあえず歌うか」
「はい」
柊矢と小夜は聴こえてくるムーシカに合わせて歌い始めた。
楸矢と清美が食料を冷蔵庫に入れていると小夜の歌声が聴こえてきた。
このムーシカ、この前の……。
一瞬、不安に駆られたが歌ってるのは小夜だから彼女は無事だし狙われたのが誰にしろ呪詛は払われたと考えていいはずだ。
ムーシケーのムーシカが終わるとムーシコスが別のムーシカを歌い始めた。
小夜の歌声も聴こえる。
一緒にいる柊矢に何かあれば小夜が呑気に普通のムーシカを歌っているはずがないから柊矢も大丈夫だろう。
念の為スマホをチェックしてみたが小夜からも柊矢からもメッセージは来てなかった。
「楸矢さん、終わりましたから、あたし達も出掛けませんか?」
清美が声をかけてきた。
「そうだね、行こうか」
楸矢と清美は連れだって出かけた。
柊矢と小夜、楸矢と清美はほぼ同時に家に戻ってきた。
居間に入るとソファに座って小さくなっている香奈を隣に立った涼花が上から睨み付けていた。
「どうしたの?」
小夜が香奈達に声をかけた。
「香奈があたし達を誘ったホントの理由が分かったの!」
「どういうこと?」
小夜が首を傾げた。
「ここお化けが出るんだって!」
「ええ!」
清美が怯えたように後退った。
柊矢と楸矢、小夜も目を見張ったがそれはクレーイスが光り出したからだ。
「お化けって?」
小夜が訊ねた。
ホントにお化けなら小夜も怖いが、ただのお化けにクレーイスが反応するわけがない。
香奈の話によると、この辺りは昔から夜になると海辺の崖の方から女性の歌声が聴こえると言われていた。
歌声……。
最近は観光客が増えてきたこともあり観光協会の人が御祓いしてくれる人を呼んだらしい。
神社で香奈が知り合いのおばさん(観光協会の人)と鉢合わせして事の次第を聞いたそうだ。
その言葉に柊矢と楸矢、小夜は顔を見合わせた。
「実はお姉ちゃん、去年留守番に来たとき、お化けの声聞いたらしいんだよね。だから今年は来たくないって……」
香奈が小さな声で申し訳なさそうに言った。
それであんなに必死に小夜達を誘っていたのだ。
「じゃあ、神社が縁結びの神様って言うのは嘘だったの?」
清美が訊ねた。
「それはホントだよ。お参りの後、彼が出来たのも」
「香奈、そのお化けのこと、詳しく聞かせて」
「小夜! 本気でお化けの話なんか聞きたいの!?」
涼花が信じられないという表情で言った。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花っていうだろ。ちゃんと聞いたら案外笑い話かもしれないぞ」
柊矢が言った。
楸矢も頷いて香奈の方を向いた。
「それで? お化けってどんなの?」
「どんなって言っても、夜中に海辺の崖の方から歌声みたいなのが聞こえて来るっていうだけで……」
歌声が聴こえるのは昔からで、ぼんやりとした女性の姿を見たという人もいるらしい。
「それは風の音じゃないのか?」
柊矢が言った。
「風の音が歌みたいに聞こえますか?」
香奈が疑わしそうに訊ねた。
「声って言うのは声帯を息、つまり空気で振動させて発しているから、空洞の形状によっては中を風が通り抜けるときに声に近い音が出ても不思議はない。自然の風なら強弱があるし、風向きだって変わるだろ」
「でも、夜だけっていうのはおかしくないですか?」
「海陸風は昼と夜で風が吹いてくる方向が逆転するから空洞の位置によっては夜しか風が通らない事は有り得るぞ。後は昼間は人が物音を立ててるから聞こえないだけかもしれんし」
海陸風というのは海岸地帯で昼夜で風向きが逆転する現象である。
「どっちにしろ、御祓いの人が来たんでしょ。なら、御祓いで出なくなればお化け、御祓いしても出るなら海岸沿いのどこかにある洞窟を通ってる風ってことじゃない?」
楸矢が柊矢に同意するように言ってから、
「もしかして、出る時間が決まってたりする?」
と香奈に訊ねた。
「お姉ちゃんが聞いたのは深夜に近い時間だって言ってました」
香奈の答えに柊矢と楸矢、小夜が密かに視線を交わした。
小夜が深夜に出歩くなど本来なら柊矢は絶対許可しないところだがムーシケーが伝えてきていたのはまず間違いなくこの〝お化け〟のことだしクレーイス・エコーとはいえキタリステースの柊矢と楸矢だけが行っても意味がないだろう。
キタラは宅配便で送ったのが届いているから手元にあるし楸矢も笛を持ってきてはいるが、この家の中で小夜が歌うわけにはいかない。
おそらく物理的な事からはムーシケーが護ってくれるはずだ。
過信しすぎるのは禁物だが少なくとも小夜だけは助けてくれるだろう。
「夜しか出ないなら今日は早めに寝ようよ。御祓いは今夜だと思うから、お化けなら明日からは出ないだろうし」
小夜がそう言うと清美達がこくこくと頷いた。
翌朝、小夜と清美は朝食を作っていた。
清美は練習の成果もあってそれなりに役に立っていたが、香奈と涼花はただの賑やかしにしかなっていなかった。
「ねぇ、御祓い終わったのかな」
「神社行ってみる?」
涼花の言葉に香奈が提案した。
「行ってみて、まだだったらどうするのよ」
「出るのは神社じゃないんでしょ。どっちにしろ夜なんだし」
小夜はそう言って小皿にとった味噌汁を味見した。
「それはそうだけど……」
「柊矢さんか楸矢さんのお友達二人連れてきてもらえば神社行く必要なかったんじゃない?」
「そしたら、ここに来る必要もなかったって事じゃん」
清美の言葉に香奈と涼花がそれもそうだという表情になった。
朝食の後、小夜達は神社に、柊矢と楸矢はそれぞれ自由に過ごす――という名目でお化けが出るのはどの辺りなのかを調べる――ことになった。
夕辺、清美達が寝た後、柊矢と楸矢、小夜の三人で出掛けようとして街灯が道路沿いにしかないことに気付いた。
道路から少し離れた場所は真っ暗だった。
小夜はとりあえず海辺を歩いていればクレーイスが反応するのではないかと提案したのだが、柊矢が狙われているときに無闇に暗がりを彷徨くのも足下が見えないのに崖の側を歩くのも危険だと反対し、楸矢がそれに賛同した。
柊矢が小夜の頼みを断ることはまずない。
そもそも小夜が頼み事をすること自体滅多にないにしても。
だが小夜の身の安全に関することだけは断固として意志を曲げないし、小夜の頼みでも絶対に聞かない。
こちらへ来てからも呪詛されかけたことを考えると小夜としても強く主張することは出来なかった。
柊矢は念の為、家に残った。家に居ればいつムーシケーがムーシカを伝えてきてもキタラを弾ける。
キタラは音がそれほど大きくない上に、この辺の家は大きく庭も広いので隣までは距離があるから防音設備がない場所で弾いても迷惑にはならないはずだ。
楸矢が失敗に気付いたのは図書館へ来てからだった。
楸矢はこの辺の郷土資料を借りて読んだのだが――
現代の日本語で書いてあるのに意味分かんない……。
楸矢は頭を抱えた。
ヤバい、現代の日本語が読めなかったなんて言ったら絶対柊兄に叱られる……。
普通の勉強でさえ出来ないと怒られるのにクレーイス・エコーとしての使命――つまり小夜――が関わっているとなると、どれだけ大きな雷が落ちるか想像も付かない。
それそこ、地震、雷、火事、親父がまとめてやってきたくらいの大目玉を食うに違いない。
今まで叱られたことがなかっただけにどんな罰を喰らうか予想も付かない。
楸矢は一度外に出るとスマホを取り出した。
どうしよう……。
楸矢は手にしたスマホに目を落としたまま迷った。
椿矢もこの近くに来てるから頼めば文献を読んでくれるかもしれない。
しかし椿矢は小夜を狙った可能性のある人物を捜しに来たのだ。
楸矢が文献を読んでくれるように頼んだことでその人物を捜すのが遅れ、そのせいで小夜に何かあったりしたら自分が許せなくなる。
それに例え柊矢のおまけだったとしてもクレーイス・エコーは楸矢であって椿矢ではない。
いくら楸矢が柊矢の弟とはいえ、椿矢の方が適任と判断していればムーシケーは楸矢ではなく椿矢を選んだはずだ。
だとすれば文献以外で何か調べる方法があるのではないだろうか。
難しい文献を紐解いて読んでも土地勘がないのだから地名が分かったところで今度はその場所への行き方を調べなければならない。
香奈ちゃんと涼花ちゃんは神社で観光協会の人に会ったんだっけ。
観光協会の人から御祓いのことを聞いたとか。
つまり観光協会か神社の人なら場所を知っているということだ。
楸矢は観光案内所に向かって歩き出した。
「君の家は確かクレーイス・エコーの家系だったね」
沢口朝子の叔父が言った。沢口の弟ではなく朝子の実父の弟である。
このやりとり、一体何度目なんだ……。
うんざりしながら椿矢は、
「ここ三代ほど続けて選ばれたってだけで、家系なんてご大層なものじゃありません」
と、いつもと同じ答えを返した。
ここは沢口朝子の実の父親の家だった。
沢口は養父の名字で実父の名字は石野という。
祖父の住所録に載っていた朝子の住所はとっくに引き払われていたので行方が掴めず、ツテを辿って朝子の実父の実家を突き止め訪ねてきたのだ。
「クレーイス・エコーに選ばれるのに血筋は関係ないのかね」
「ありませんね」
霧生兄弟は雨宮家の血を引いてるが、それで選ばれたわけではないだろう。
それに霞乃家は霧生家とは縁もゆかりもないと言っていた。
つまり雨宮家とも関係ないと言う事だ。
「クレーイス・エコーに選ばれるのはムーシケーの意志に従う人ですから」
「意志に賛同出来なかったら?」
「ムーシケーの意志は保守派に投票するかリベラルに入れるかみたいな世俗的なことではありませんから、賛成も反対もありませんよ」
「なら、クレーイス・エコーになっても心配することはないのかね」
小夜が帰還派や朝子と思しき人物など複数の人間から度々命を狙われていることを考えると大いにあるが、少なくとも小夜が無事でいる限り他の者が選ばれることはないだろう。
小夜以上の適任者がいるとは思えない。
「今のクレーイス・エコーはまだ十代ですから次は当分先ですよ」
「しかし、変わるのはよくあるだろ」
「え?」
「君のお祖父さんから別の人になっただろ」
「……祖父が外されたこと、ご存じだったのですか?」
偽のクレーイスを作ってたくらいだ。他人に打ち明けたとは思えない。
「朝子がなったからね」
小夜を狙っていた可能性の高い人物が元クレーイス・エコー?
沙陽のように自分が外されたからと言って腹いせに新しいクレーイス・エコーを狙うような者がそんなに大勢いるとは考えづらいのだが。
沙陽はムーシコスやクレーイス・エコーに尋常ではない拘りがあったから逆恨みするのも分かるが朝子はムーシコスを嫌っていたと聞いた。
クレーイス・エコーを外されたからといって新しいクレーイス・エコーに腹を立てたりするだろうか。
「朝子さんがクレーイス・エコーに選ばれたのはいつ頃ですか?」
「お義兄さんが亡くなった頃だから十八年くらい前かな。すぐに別の人に変っちゃったけどね」
祖父が外されたのは十八年前だから、おそらく次くらいだろう。
けど、すぐに外された?
祖父様や沙陽のように存命中に外されるのは稀だと思っていたのだが意外とよくあることなのか?
クレーイス・エコーは小夜や霧生兄弟のように選ばれている当人すら分かってないことがあるから知らないうちに選ばれて知らないうちに外されてたら、なったことがあると気付かないままでもおかしくはない。
クレーイス・エコーはムーシケーの意志に従う者が選ばれる。
だがムーシケーの意志はクレーイス・エコーになるまで分からない。
もっともクレーイス・エコーでも椿矢の知る限り意志が分かったのは小夜だけだから従う従わない以前の問題だが。
とはいえ今、朝子の叔父に話したようにムーシケーの意志というのは世俗――というか地球――とは関係ない。
霧生兄弟や小夜を助けたが自分の惑星の者を守ったと考えれば地球には干渉してないといえる。
やはり沙陽が外されたのはムーシケーの神殿でムーシカが聴こえなかった――ムーシケーの意志が分からなかった――からか。
椿矢の祖父が外されたのは呪詛を利用して欲しくないというムーシケーの意志に反していたからだが朝子の場合は一体なんだ?
沙陽同様ムーシケーの意志が分からなかったのだろうか。
しかし祖父の祖父から祖父までの三代以前にも先祖が何人かクレーイス・エコーになっているがムーシケーへ行った者は殆どいない(少なくとも言い伝えの類は残ってない)。
それは霍田家も同様だ。
だからムーシケーに行った沙陽が称賛を集めたのだ。
それくらい珍しいという事は一々ムーシケーに呼んで意志が分かるか確かめてるわけではないはずだ。
十八年前だと小夜はまだ生まれてないが霧生兄弟の両親が亡くなったのがその頃だ。
「そもそも、誰がクレーイス・エコーか簡単に分かるものなんですか?」
「君こそ、クレーイス・エコーの家系なのに分からないのかね」
「ですから、そんな家系はありません」
何故初対面の人の家に来てまで家系云々などと言う戯言を聞かされなければならないのか。
「朝子がクレーイス・エコーの時に会った時にね『あ、クレーイス・エコーだ』って分かったんだよ。多分、クレーイス・エコーはなんとなく分かるんじゃないかな。っていうか、君は分からないのかね」
「分かりません。なら、ムーシコスと地球人も見分けられるって事ですか?」
「いや、普通のムーシコスと地球人の区別は付かないね。クレーイス・エコーならムーシコスって事だから」
沙陽が、自分がクレーイス・エコーだと分かったのは、沙陽か彼女と親しい人間がクレーイス・エコーが分かる人間だったのだ。
最初のクレーイス・エコーが選定者というのは椿矢が最近思い付いた仮説だから本当にムーソポイオスを選んでいるのがキタリステースなのか確証はないし、当時はそんなこと思いもよらなかったから当然誰かに話したこともない。
沙陽が分かる人間だとしたらムーソポイオスしか分からないのだろう。
だから柊矢と付き合っていながら気付けなかったのだ。
「ただ……」
朝子の叔父は一瞬躊躇うように言い淀んだ。
「兄は昔からムーシコスが分かったんだよ。『見える』と言ってたな」
「見える……」
「人間が見えるのは当たり前だろって言ったら、ムーシカが見えるって言うんだ。ムーシコスは奏でてないときでもムーシカに覆われてるとかなんとか」
やはり色聴だったのだ。
厳密には少し違うようだが共感覚の持ち主だったのは間違いなさそうだ。
奏でてなくても、というのもムーシカと言うよりはムーシコスが発している何かが見えたのだろう。
「時々おかしなことを言うことはあったが、それでも昔はまともだったんだよ。結婚して、子供……朝子も生まれて、普通の家庭を築いてたんだが……人が死ぬところを見ておかしくなってしまったんだ」
「どなたが亡くなったんですか?」
「知らない人だよ。兄と私が道を歩いてるときに近くを通りがかった人が突然倒れて亡くなったんだ。きっと心臓発作か何かだと思うんだが、兄はムーシカのせいだって言い出してね。でも、そのときムーシカは聴こえてなかったんだよ」
呪詛は当人にしか聴こえないが、共感覚で聴こえなくても見えたのか、あるいは小夜のように呪詛が聴こえる人で見ることも出来たのか。
ムーシカが〝見えた〟なら死因が呪詛だと分かっても不思議はない。
「兄は、あの人はムーシカのせいで死んだって言い張ってね。それ以来、ムーシコスは邪悪な悪魔だの、ムーシカは呪いだのって言うようになって……。悪魔を滅ぼすとか言い出して仕事を辞めて毎日どこかをほっつき歩くようになって……奥さんは愛想を尽かして出ていってしまったんだ」
「…………」
「奥さんも朝子を連れていってくれれば良かったのに、朝子も父親と同じようにおかしなことを言うからって置いていってしまってね」
霧生兄弟の祖父と父は普通のムーシコスだったのに、それでも祖母は息子を「気味が悪い」とまで書いていたくらいだ。
共感覚は今でさえ知らない人が多いのだから、ましてや朝子が子供の頃は普通の人は知らなかったはずだ。
父娘揃って聴こえない歌が〝聴こえる〟というだけでも地球人には異様に映るのに、その上〝見える〟などと言い出したら逃げられても仕方ない。
「けど、母親が出ていってすぐに兄が事故で亡くなってしまってね」
「事故? もしかして交通事故ですか?」
霧生兄弟の祖父が呪詛したわけではないだろう。
小夜の母は霧生兄弟の祖父に警告されて養子に出されたのではないかと言っていた。
呪詛で殺した、もしくは殺すつもりがあったのなら小夜の祖父に警告などしないはずだ。
だが諺が長年伝わっているのは人々にそれを真理だと思わせる事象があるからだ。
人を呪わば、というのもその一つだ。
霧生兄弟の祖父から警告を受けた誰かが先手を打ったのかもしれないし、呪詛を依頼された者が危険なのは朝子の父の方だと判断したとしてもおかしくない。
「階段で足を踏み外したんだよ」
「階段を下りてるときに意識を失ったとか……」
「いや、見てた人の話によると下りてる最中に頭を振ったらしいんだ。その拍子にバランスを崩したって言ってたよ。兄はムーシカが嫌いで聴こえてくるとよく振り払うみたいな仕草をしてたから、そのときも多分……」
それなら呪詛ではなく普通のムーシカだったのだろう。
見たくなくて咄嗟に首を振ってしまったのだ。
「……奥さんは地球人だったから沢口さんが朝子さんを引き取ったと聞きましたが……」
「当時、私は失業中でね。独身だったから自分一人ならなんとかなったけど、朝子までは養えなくて……。葬式に来た沢口君が引き取ってもいいって言ってくれたんでお願いしたんだよ。朝子を置いて出ていった地球人より同じムーシコスの方がいいと思ってね」
楸矢が観光案内所の近くまで来たとき椿矢と出会した。
「楸矢君。小夜ちゃんは?」
開口一番椿矢が訊ねた。
椿矢も昨日の呪詛払いのムーシカを聴いて小夜を心配していたのだろう。
楸矢は昨日、柊矢から聞いた話をした。
「そう」
椿矢が考え込むような表情で言った。
「それで君は? どこに行くの?」
「ここってお化けが出るって知ってる?」
「うん。お化けって言うか幽霊でしょ」
「観光協会の人が御祓いの人、呼んだって言うからそのお化けが出る場所聞きに」
「それなら榎矢が知ってるよ」
椿矢があっさりと答えた。
「その御祓いの人って榎矢だから」
「もしかして、もう御祓いしちゃった?」
「いや、見つからなかったって言って手ぶらで帰ってきた」
口振りからして「使えねーヤツ」と思っているのは明らかだった。
「御祓いも呪詛なの?」
「いや、うちは呪詛や呪詛払いもするってだけでムーシカで出来る事ならなんでもやってるから」
「例えば?」
「雨乞いや雨鎮、それに御祓い――つまり、除霊――や治癒の祈祷とか」
そういえば治癒のムーシカを教えてくれたのは椿矢だ。
「椿矢君はなんで幽霊の出る場所なんて知りたいの? 肝試しのためとかじゃないんでしょ」
楸矢は事情を話した。
「幽霊は地球人のはずだけど……」
椿矢が考え込むような表情で言った。
「まぁ、いいや。榎矢から場所聞いて案内するよ」
「ありがと。助かった~」
楸矢が大きく息を吐いた。
「そんなに大袈裟に安心するようなこと?」
不思議そうな椿矢に、楸矢は文献が読めなかったことを打ち明けた。
「俺、やっぱ普通の会社員、無理かも。でも、俺の腕じゃ出演料貰うどころかチケットのノルマで却って赤字になりそうだし……」
「え、小劇団のお芝居とかだけじゃなくて、コンサートとかでもそういうのあるの?」
「全部じゃないけど舞台に出る系のは珍しくないよ。子供のバレエの発表会とかだって教室によっては一枚一万円以上するチケット何枚って割り当てがあって、ノルマ引き受けないと出られなかったりするって聞いたことあるし」
「子供のバレエの発表会、一万以上するチケット買ってまで観に行きたい人なんているの!? 家族以外で」
「いるわけないじゃん。だから大抵は自腹だよ」
「そもそも発表会に出られるかどうかが実力じゃなくてノルマ?」
「基本的にはまず実力だよ。その上でノルマ引き受けた人だけ出られるの。実力あってもノルマ引き受けられないと、補欠でノルマ引き受けられる人に役が回されるんだよ」
「じゃあ、衣装代その他に加えてチケット代数万円!? 発表会が将来何かのキャリアに役立つとか言うわけじゃないよね? それなのにそんな大金負担しないと出られないの?」
高が子供の発表会に、という言葉を呑み込んだのが分かった。
「まぁ、大きいホールは借りると高いし」
子供の発表会にそんな大ホールを借りる必要ないだろう、というのはあるが。
出演者の親がチケットを捌かなければ席が埋まらないのは観に来る人がいないということだから小さいホールで十分だと思うが、それなりに知名度のある教室だと体面などがあるのだろう。
「逆に劇団とかの公演でも、その人目当てにお客さんが来てくれるような有名人はそういうノルマないみたいだよ。人気俳優とか」
「……もしかしてソロコンサートだと会場の座席全部自分で捌くの?」
「それは演奏する人によるよ」
音楽家にとってソロコンサートは夢だから、どうしても開きたいが無名だからチケット販売サイトで売りに出したところで捌けそうにないという場合は自分でなんとかするしかない。
親戚や友人知人など知り合い全員に片っ端から頼み込むのだ。
普段、音楽教室で教えてる人の中には生徒に買ってもらったりする事もあるらしい。最悪、借金して自腹を切る。
逆に有名人など頼まれて出る場合はノルマがないどころか出演料も貰える。
「沙陽からそう言う話聞いたことないから知らなかった」
普段、近付かないようにしているとはいっても昔から家族ぐるみでの付き合いがあるから嫌でも顔を合わせることがあった。
「沙陽んちが金持ちなら親戚とかに無料でばらまいて自腹切ればいいだけだし、それに沙陽って顔だけはいいじゃん。大抵の男は沙陽に頼まれたら買うんじゃない? ブランド物のバッグ贈るより安上がりなんだし」
「あれ? コンサートで出演料もらえないとしたら音楽家ってどうやって生活してるの?」
楸矢の話によると一応、演奏の仕事も色々あるそうだ。
テレビや映画、CMを始めとした色々な番組その他諸々のBGMやアーティストのバックバンドなど。あと小さいイベントでの演奏や数は少ないがレストランやバー、結婚式場など色々な場所での生演奏などもある。
沙陽は声楽家だから、おそらくコーラスの仕事をしてるのだろう。
まぁ、霍田家もそれなりの資産家だし今は親と同居しているから出演料をそれほど当てにする必要はないに違いない。
楸矢と話していると、この世には想像も付かない世界があるんだと思い知らされる。
とはいえ椿矢の夢は普通の家庭人であって音楽家ではない。
家族をちゃんと養えるようになりたいというのなら演奏の仕事をするにしても収入にならないどころかチケットのノルマで赤字になるかもしれないコンサートに出たいとは思わないだろう。
今の話を聞いた感じでも音楽家の憧れであるソロコンサートを自分も開きたいと思っている様子はない。
柊矢がヴァイオリニストになりたかったわけではないというのが本気だったのと同様に、楸矢が義務感でプロを目指していただけというのも本心なのだ。
正直、楸矢が憧れてるような普通の家族などというものは存在しない。
どこの家もそれなりに問題を抱えているものだが、それは実際に家庭を持てば分かることだから今話して夢を壊す必要はない。
なんとなく将来、結婚した楸矢から「想像してたのとは違った」という愚痴を聞くことになりそうな気がした。
現代の日本語の文献が読めなかったのは歴史の文献というのは必ずしも読みやすく書かれているとは限らないから普段その手の文章を読み慣れていなければ分からなくても無理はない。
特に素人が書いた郷土資料の中には国語の勉強やり直せと言って書き直させたくなるものも少なくないから楸矢の読解力に問題があったとは限らない。
柊矢に叱られたくなかったのに読めなかった時点で近所にいると知っている椿矢を安易に頼らず頭を使って他の方法を考えついたのだから自力で何とかしようという気概があって機転も利くという事だ。
実社会で必要なのは学業成績よりそういう臨機応変さだから仕事に支障を来すことはないはずだ。
性格も真面目だから仕事で手を抜いたりサボったりすることもないだろう。
一度バイトをしてみればそれほど心配する必要はないと分かりそうなものだが、問題は勉強をする時間を削ってバイトして留年することなく卒業出来るかどうかである。バイトのせいで更に成績が落ちて卒業出来なかったりしたら本末転倒だ。
ふと、視線を感じて顔を上げると通りの向こうに朝子がいて、こちらを見ていた。
「楸矢君、ちょっと待ってて」
そう言って朝子の元へ行こうとしたのだが、彼女は身を翻して細い路地に入っていってしまった。
椿矢が路地の入り口に辿り着いたときには朝子の姿はなかった。
朝子はこの辺に詳しいが椿矢は土地勘がない。
おそらく追いつけないだろうと判断して楸矢のところへ戻った。
運転手を眠らせるための呪詛ならともかく小夜を直接狙ったような呪詛ならどこにいても歌えるのだから彼女を追いかけてここへ来たわけではないだろう。
お彼岸が近いから実父の墓参りの可能性もなくはないだろうが他に理由があるのかもしれない。
昨日の小夜への呪詛も気になる。
「今、柊矢君と小夜ちゃん、どこにいるの?」
椿矢の問いに、楸矢が答えると、
「柊矢君は家にいるんだね。じゃあ、今からそこにお邪魔していいかな」
と言うので楸矢は椿矢を連れて親戚の家に向かった。
楸矢が椿矢を連れて帰ると柊矢は大して驚いた様子もなくお茶を入れた。
椿矢がこっちに来ているのは知っていたし昨日の呪詛払いのムーシカが聴こえていたことも分かっているからだろう。
小夜は友達と出かけたきり、まだ帰ってきていなかった。
椿矢は朝子の叔父から聞いた話をした。
「沙陽が小夜ちゃん狙うのは分かるよ。正気を疑うけど元々沙陽まともじゃないし。だけど、朝子さんの動機が分からないんだよね」
「その朝子って人で間違いないの?」
「リストを作ったのは彼女のお父さんだろうし、そうなるとリストのことを知ってそうなのは朝子さんくらいだから」
沢口も朝子の叔父も、朝子の実父が「ムーシコスは邪悪」と言っていたと話している。
偶然同じ頃に別の人間が同じ事を言う確率はかなり低い。
しかもムーシコスは数が少ない。同時期に同じ事を言っていたのなら同一人物と考えて差し支えないだろう。
それに朝子の叔父は兄に仲間がいたという話はしていなかった。
「リストには十五人くらい名前が載ってたでしょ。リストの人達がムーシコスの会でも作ってて頻繁に音楽会でも開いてたならともかく、全く繋がりのない十五人ものムーシコスを見つけ出せたとなると、それこそムーシコスを見分けられる能力のある人でもないとまず無理だよ。柊矢君と沙陽が付き合ってた期間は知らないけど交際しててもお互い相手がムーシコスだって気付かなかったわけでしょ」
柊兄なら沙陽がムーシコスだって気付かなくても不思議はない気がするけど……。
柊矢は沙陽に対してもイスかテーブル扱いの楸矢と同じような態度で接していた。
未だに小夜だけ特別扱いなのが理解出来ないくらいだ。
ムーシコスはパートナーだけは大事にするって言ってたけど、それにしても態度が違いすぎる気が……。
「動機とはちょっと違うんだが……」
柊矢がおもむろに口を開くと昨日考えたことを話した。
「狙いはムーシケー……」
椿矢が考え込んだ。
「朝子さんは一度クレーイス・エコーになってるからムーシケーの意志を知ってる可能性はあるね。朝子さんの叔父さんが、もしムーシケーの意志に賛同出来なかったらって言ってたっけ」
「ムーシケーの意志は分かったが従う気がなかったから外されたのか」
「いや、ちょっと待ってよ。ムーシケーって惑星だよ。普通の人間が惑星攻撃したり出来る?」
「だから、代弁者を狙うんだろ」
「狙ってどうすんのさ。ムーシコスがいる限り、何人殺そうとムーシケーは新しいクレーイス・エコーを選ぶだけでしょ。ムーシコスを皆殺しにしなきゃ意味ないけど、そうじゃないんでしょ。雨宮家や沙陽んちの人の名前、書いてなかったって言ってたよね? あんた、よく新宿うろうろしてるってことは家は東京か隣の県でしょ。だったら、リスト作った人がうちの祖父ちゃんや小夜ちゃんのお祖父さん見つけられて雨宮家の人、見つけられなかったはずないよね?」
楸矢の言葉に椿矢が考え込んだ。
「君達、ムーシケーの意志って分かる?」
椿矢の問いに二人は首を振った。
ムーシケーが柊矢と楸矢に直接ムーシカを伝えてきたことはあるが、あの時は緊急事態だった。
「……朝子さんの叔父さんにも、うちはクレーイス・エコーの家系だろって言われたんだけど……」
「そうなんでしょ」
「だから違うってば。けど、祖父様までは三代続けてなってたのは確かなんだよね。それも一度なった後は死ぬまで変わらなかった。けど祖父様が外された後は随分ころころ変わったみたいなのが引っかかっててね。前に君達に話したこと覚えてる? 小夜ちゃんの前は誰もムーシケーの意志は分からなかったって」
「本来は意志の分かるものが選ばれる」
「そう。多分だけど。三代続けて死ぬまでってことは一世紀前後雨宮家の人間がなってたってことでしょ。だからそれ以前はどうだったのか分からなくなっちゃってたってだけで元々クレーイス・エコーはムーシケーの意志が分かる者が務めることになってたんじゃないかな」
「俺達は分からないが、キタリステースは補佐みたいなものだからな」
意志に従うというのはムーシケーが伝えてきたムーシカを歌うということだからキタリステースは分からなくても支障はないのだろう。
キタリステースに伝えてくるのはムーソポイオスが歌えないような非常時の時くらいである。
補欠だから歌えないキタリステースで構わないのだ。
「ムーシケーってそんなにしょっちゅう色々言ってくるの?」
「前にも言ったけど、必要がなければ伝えてこないんじゃないかな。ムーシケー溶かそうとするようなバカが出てきたりとかね」
そう言えば榎矢に面と向かって「バカ」って言ってたな。
「ここはよその惑星だから」
地球にもムーシケーのように意志があるのかは分からない。
ムーシケーの意志ですら分からない一般のムーシコスによその惑星の意志など知りようがない。
仮にあったとしても地球人でも分かる者はまず居ないだろう。
もっともガイア理論を聞いた限りでは意志の有無はともかく地球も生命体であるのは間違いないようだが。
「ただ、いざというときのために意志が分かるものを選んでおく必要があるんじゃないかな」
「ムーシケーの意志が分かるムーシコスだけ殺せばムーシケーは意志を伝えることが出来なくなる」
「そう」
「だからクレーイス・エコーでも俺達は狙われないのか。俺達にはムーシケーの意志は分からないからな」
「そして、リストに載ってた僕の知り合いは小夜ちゃんと同じく呪詛が聴こえた。クレーイス・エコーにはなってないみたいだからムーシケーの意志は知らなかっただろうけど、もしクレーイス・エコーに選ばれていたら……」
「ムーシケーの意志が分かったかもしれないって事だな」
「そういうこと。雨宮家や霍田家の人間がリストに載ってなかったのもそう考えれば辻褄が合うんだよね。どっちの家にいもムーシケーに意志があったって話が伝わってないって事は分かった人間がいなかったって事だから」
楸矢は柊矢と椿矢を交互に見ていた。
この二人、ほとんど話したことないはずなのにツーカーじゃん。
どちらも一を聞いて十を知るという感じで最後まで言う前に話が通じている。
楸矢は改めて榎矢に同情した。
兄がこんな目から鼻に抜けるような賢さじゃ、人並み程度でもかなり見劣りするよな。
榎矢は普通科の大学へ行ってることを考えると楸矢は彼より更に出来が悪いという事だ。
楸矢は音楽科でフルートが吹けるとは言っても大して才能があるわけではないのだからなんのアドバンテージにもならない。
なんだか、すっげぇ落ち込んできた。
「それで、ムーシケーが伝えたい事って何?」
楸矢はなんとなく不愉快な気分になって不機嫌な声で訊ねた。
「呪詛のこと……かな」
「呪詛? なんでムーシケーが呪詛なん……」
「呪詛をやめさせたいんだろ。封筒、燃やしたくらいだし」
「呪詛のムーシカってどれも地球の言語のものばかりだから、おそらくムーシケーにいた頃には無かったんだと思う」
楸矢が片手を上げた。
「あのさ、後にしろって言われるかもしれないけど聞いていい? 前もなんかの時に地球の言語しかないって言ってたことあったよね。でも、あんた地球上の言葉、全部知ってるの? ムーシケーにいたときの言葉研究してるってことは、ムーシケーで使ってた言葉が全部分かってるって訳でもないんでしょ」
「ムーシカを思い浮かべたときの歌詞って文字で出てくるんじゃなくて発音が分かるわけでしょ」
ムーシケーにいた頃のムーシコスは文字を持っていなかったのだから当然、浮かんでくる歌詞は発音だけだ。
旋律と一緒に歌詞の発音が浮かんでくるから知らない言語のムーシカでも歌うことが出来るのだ。
「発音記号で検索すれば大体出てくるから」
古典ギリシア語のように現代とは発音の違う言語や今では失われた言語もあるが椿矢は複数の言語に精通している。
それも現代語だけではなく古代の研究をしているから古代語も多少知識がある。
その上で比較言語学を学んでいるので知らない言語でも発音が近いものを探しだして類似性を見れば地球上のものかどうか凡そは推測出来る。
現存してない地球の古代語なのかムーシケーの言葉なのかの区別を付けられるように、地球の古代の言語の研究者とも頻繁に交流を持って教えを受けたり論文を読んだりしているから大体の見当は付くらしい。
椿矢は楸矢に祖父がクレーイス・エコーから外されたときのことを話した。
「謡祈祷は呪詛以外のこともするんだけど、今の時代に雨乞いはしないでしょ」
「治癒の祈祷もするって言ってなかった?」
「まともな人は具合が悪かったら病院行くよ」
病院嫌いの人間は多いが、だからといって祈祷を頼もうとは考えない。
病院嫌いが医者にかからないのはそのうち治ると軽く考えているから行かないのだ。
当然、祈祷師などと言う医者より見つけるのが大変な人種を捜したりする手間など掛けない。
とはいえ、わざわざその手間を掛けて祈祷を頼みに来る物好きもいることはいる。
医者に見放された重傷者ならともかく、病院に行けばすぐに治るような者が来るのだから呆れる。
「続けて選ばれて、死ぬまで変わらなかったのはうちの蔵にある呪詛の資料を消したかったんじゃないかな」
「わざわざこんなところまで来てそれを報告したかったんじゃないだろ」
「さっき朝子さんを見かけたんだよ。彼女、なんでここに来たんだろうって思って。呪詛なら東京で出来るでしょ。車の運転手、眠らせるとかなら別だけど」
運転手を眠らせるのも遠くから出来るが、タイミングを計るためには近くで見ている必要がある。
車のコントロールを失わせて突っ込ませるような物理的なものはムーシケーに阻まれてしまうから直接命を狙うような呪詛を使うしかないわけだが、そういうものはわざわざここまで出向いてくる必要がない。
「昨日の呪詛も失敗してる事を考えると確実に小夜ちゃん仕留めるために来たんじゃないかと思うんだけど、それがなんなのかよく分からないんだよね。それで、君達の意見を聞きたくて。何か動機に心当たりはない?」
「ムーシケーの意志が関係してるなら俺達には分からんから小夜に聞くしかないが……」
「小夜ちゃんも分からなくて困ってるんだよね。俺達がここへ来たのはムーシケーの意志だけど、今回のムーシケーの意志はお化けのことだから呪詛とは関係ないんじゃないの? あんたもお化けは地球人だって言ってたよね?」
「榎矢から聞いた限りじゃ幽霊は怨霊じゃないから呪詛とは関係なさそうだったけど……。あいつ、バカだから依頼人から何か大切なこと聞き漏らしてるのかも……」
ホントに榎矢にはキツいな……。
頭から見下されてるのと、イスかテーブル扱いなのと、どっちがマシなんだろう。
椿矢が黙り込んだ。
「どうした?」
「あいつ、夕辺は出なかったって言って御祓いしないで帰ってきたんだよね。どうせ目印になるもの聞き忘れたか、場所を間違えて見付けられなかったんだろうと思ってたけど……。君達がその件で来たならもしかしてムーシケーに阻まれたのかなって。そうだとしても、呪詛の件と関係あるかは分からないんだけど……」
「祓ってないなら今日も出るって事だな。それなら行ってみれば分かるだろう」
椿矢は柊矢達との待ち合わせの時間と場所が決まると帰っていった。