第五章 Sothis-水の上の星-
第五章 Sothis-水の上の星-
満月が明るく輝いていた。波が寄せては返す音が聞こえている。
「前に誰にも聴こえないって言っただろ」
「うん」
「ホントはいたんだ。聴こえた人」
「誰?」
身を乗り出したアトの顔に一瞬、嫉妬の表情がよぎったが、男性は夜空を眺めていて気付かなかったようだ。
「俺の親。親父は聴こえる人を捜して捜して……、長いことかけてやっと見つけたんだ。それが俺のお袋。それでお袋と一緒になって俺が生まれた」
アトが安堵したように肩を落とした。
二人はとても仲睦まじかった。あまりにも仲が良すぎて母が病で命を落とすと父も気落ちしたのか後を追うように翌朝息を引き取った。
「ホントに仲が良くてさ。すごく羨ましかった。子供の俺ですら二人の間には割って入れなかったくらいだった」
男が遠くを見つめたまま言った。
「だから、親父が死んだ後、俺も村を出たんだ。親父みたいに聴こえる人を見つけたくて……」
その言葉にアトが目を伏せた。
男が捜しているのは聴こえる人だ。
地球人のアトではどんなに頑張っても男が求めている相手になれない。
男が竪琴を弾き始めた。
「また、唄が聴こえてきたの?」
「うん」
男が頷いた。
「……ホントに綺麗な音」
けれど、どんなに耳をすましてもアトには歌声は聞こえなかった。
小夜は以前、柊矢に買ってもらった桜色のブレザーを着て楸矢の高校に来ていた。
柊矢と共に楸矢の卒業式に参列したのだ。
「卒業おめでとうございます」
卒業式が終わり講堂から出てきた楸矢が、先に外に出ていた柊矢と小夜の所へやってきた。
「来てくれてありがと」
「でも、良かったんですか? 参列していいのは家族だけなんじゃ……」
「何言ってるの、小夜ちゃんも家族でしょ」
楸矢がそう言うと、小夜は一瞬驚いたような顔をした後、面映ゆそうな表情で俯いた。頬が赤く染まっている。
小夜の両親がいつ亡くなったのかは知らないが、おそらく祖父と二人だけの期間がかなり長くて誰かに家族だと言われたことがなかったのだろう。
楸矢や小夜の祖父の年代の男性は愛情表現の言葉を口にしたりしない人間が多い。
祖父を慕っていたのだから愛情は感じていただろうが、それを言葉で聞いたことはなかったのかもしれない。
ふと、小夜が柊矢のセレナーデを喜ぶのは単に恋人が弾いてくれるからというだけではなく、家族に甘えたことがなかったからではないかと気付いた。
祖父母は孫を甘やかすとは言っても大抵の場合は別居していて偶に会ったときの話がほとんどだ。
同居しているとしても、両親がいるならまだしも一人で育てているならそうそう甘やかしてはいられない。
実際、楸矢も祖父に甘えたことは余りない。
祖父は柊矢ほどではないが無関心に近くほとんど干渉してこなかった。
叱られるのも〝歌〟のことを口にしたときだけで、テストでどれだけ酷い点数を取ろうと怒られたことはなかった。
楸矢は祖父や兄の関心を引くために悪さをするような性格ではなかったし、そんなことをしなくても祖父は二人の演奏だけはよく褒めてくれていた。
フルートを吹いてるときだけは楸矢に注意を向けてくれた。
発表会の日には絶対に仕事を入れずに聴きに来てくれて、終わった後は必ず頭を撫でて褒めてくれた。
それが嬉しくて、いつの間にかフルートの練習に打ち込むようになっていた。
柊矢もそうなのかと思っていたが、どうやら彼の場合は単に演奏が好きだからやっていたに過ぎなかったらしい。
祖父が褒めても全く表情を変えないのは照れ隠しなのかと思っていたが、楸矢のように褒められたくてやっていたわけではないから特に嬉しいとも思わなかったのだろう。
弾きたくて弾いてるだけだから例え相手が祖父だろうと他人の評価はどうでもよかったのだ。
偶に手入れなどでヴァイオリンが弾けないときはひたすらピアノを弾いていたし、祖父の死後キタラを手に入れてからはキタラを弾くことが多かったから楽器には拘らないようだ。
一度何故ヴァイオリンを選んだのか聞いたら覚えてないと言っていたから親か祖父が習わせたのだろう。
霧生家にはCDプレイヤーはあってもレコードプレイヤーが無いのがずっと不思議だった。
そのCDプレイヤーにしても柊矢が授業で必要になったから購入したもので、ずっと柊矢の部屋に置いてあって祖父は使ったことがない。
というか楸矢も使ったことがなくて、ヴァイオリンだと必要なのかと思っていたが、小夜が外国語の勉強のために借りてるのを見て柊矢も外国語の学習に使っていたのだと気付いた。
中学に入学したとき柊矢にCDプレイヤーがいるかと聞かれた。
フルートの練習には必要ないから断ったが英語のリスニングに使うかという意味だったのだ。
ノートを読んでくれた椿矢から祖父がムーシコスだったと聞かされてようやくレコードプレイヤーが無かった謎が解けた。
祖父にとっても音楽とはムーシカだったから地球の音楽を聴くための機械は必要なかったのだ。
地球の音楽に興味がないのに孫達に楽器を習わせたのは〝歌〟のことを口にしないようにさせるためだったのかもしれない。
だとしたらクラシック音楽に興味がないのに柊矢や楸矢の演奏を褒めていたのは地球の音楽に注意を向けさせるためだったのだろう。
楸矢は祖父の目論見通りになったという事だ。
柊矢は単純に演奏が好きなだけのようだからヴァイオリンを与えられてなくても何かしらの楽器をやっていただろう。
祖父が亡くなった後は、柊矢は自分を養うためにヴァイオリニストを諦めて音大を中退た(と思っていた)ので尚更我が儘は言えなくなった。
祖父の他に兄までいた楸矢ですらそうなのだから、祖父しかいなかった小夜は甘えることなど出来なかっただろう。
大体、甘やかされて育っていたらこんなに人に気を遣いすぎるような性格にはなっていないはずだ。
常に祖父の負担にならないようにと、いつも気にしていたから人に何かしてもらうのは申し訳ないという発想に繋がって遠慮ばかりするようになってしまったのだろう。
柊矢にセレナーデを弾いてもらうのも、小夜がねだっているわけではないから厳密には甘えているのとは違う。
だが柊矢がやりたくてやっていることだからこそ小夜には申し訳ないからと断る余地がない。
けれど自分のために弾いてくれているから嬉しい。
特に二度目からのセレナーデは最初のときに嬉しそうにしていたから喜ばせるために弾いてくれている。それが嬉しい。
これが今の小夜にとって精一杯の甘えなのだ。
柊矢がそこまで考えて弾いてるかどうかは分からない。
単に偶々セレナーデを弾いたら思いの外小夜が感激してくれたから喜ばせたくてしょっちゅう弾いてるだけかもしれない。
柊矢に嬉しいという感情があるのかは分からない――ムーシコスも人間だからあるとは思う――が、もしあるとしたらセレナーデを弾いてるのは小夜が喜んでいるのが嬉しいからだろう。
楸矢も聖子が甘えさせてくれたときは嬉しかった。
楸矢は男だからいくら年下とは言っても堂々と甘えることは恥ずかしくて出来なかった。
だから何度かふざけてる振りで甘えただけだったが。
…………。
「楸矢、友達が呼んでるぞ。俺達は先に帰ってるからな」
振り返るとクラスメイトが手を振っていた。
「分かった。なるべく早く帰る」
「ゆっくりで大丈夫ですよ。今日は時間がかかりますから」
小夜が言い添えた。
楸矢のクラスメイトのほとんどは同じ大学へ進学するから学校へ行けば会える。
留学などで会えなくなる友人にだけ別れの挨拶をすると、スマホを取り出してメールを送った。
楸矢が喫茶店に着くと聖子はもう来ていた。
「楸矢、話って?」
「俺、聖子さんにちゃんとお礼言ったことなかったから。きちんとお礼と、お詫びを言わないといけないと思って」
楸矢は聖子の顔を真っ直ぐ見つめて言った。
「俺、大人に甘えたこと、ほとんどなかったから、聖子さんが甘えさせてくれてホント、すごく嬉しかった。当たり前になりすぎて感謝すること忘れてた。ごめん。今までありがとう」
「…………」
「だけど、感謝やお詫びの気持ちだけで結婚は出来ない。沢山愛情もらったのに全然返せなくてホントにごめんなさい」
楸矢は頭を下げた。
聖子は僅かな間、楸矢を見つめた後、バッグを手に取ると席を立った。
楸矢の横を通り過ぎるとき、
「さよなら」
と言って店を出ていった。
柊矢と小夜が歩いていると家の前に中年女性が立っていた。
「何か?」
二人は立ち止まると柊矢が訊ねた。
「言っておきますけど、義母の遺産は全て義父が築いた財産で、あなた方には一切関係ありません! 鐚一文渡したりしませんからね!」
女性は前置きもなくいきなり捲し立てた。
「欲しいとも思ってないが。どなたですか」
「あなた方とは関係ありません!」
女性がヒステリックに叫んだ。
「だったら遺産とやらも関係ないでしょう」
「そんなこと言って、娘の事故も遺産の取り分を増やしたくてあなた方が仕組んだんじゃないの!?」
「遺産を要求する気はないが、言い掛かりを付けるなら名誉毀損の訴えは起こさせてもらう。それだけ大きい声なら近所中に聞こえてるから証人はいくらでもいる」
女性は言葉に詰まって柊矢を睨み付けた。
柊矢はジャケットの胸ポケットに手を入れて名刺入れを取り出した。
「うちの弁護士だ。遺産を放棄するという書類を作成させる。ここに連絡してくれ」
そう言って名刺を手渡した。
「封筒も返して頂戴。相続権を主張するとき、あなた達に都合が悪いから盗ったんでしょ!」
「違います! あれは……」
言いかけた小夜の肩に手を掛けて柊矢が止めた。
「祖母の遺産が貴女のお義父上のものだというなら、封筒は祖父のものだ。祖母が無断で持ち出したんだし、祖父はそれを返すように要求していた。貴女に返せと言われる筋合いはない。用件がそれだけならお引き取りを」
柊矢が毅然として言い放つと女性は憤然とした足取りで帰っていった。
「なんであんなプライベートなものを勝手に見せたのか不思議だったんだが、祖母さんが亡くなったことを知らせるためだったんだな」
柊矢は女性の背中を見ながら呟いた。
小夜は柊矢を見上げた。
「あの……」
「悔やみの言葉なら必要ない。俺が生まれる前から縁が切れてた人間だ」
柊矢はそう言うと門を開けて小夜を通し、自分も中へ入った。
翌日、楸矢が喫茶店に入っていくと、先に来ていた椿矢が手を上げた。
椿矢の向かいの席に座ると紙袋を渡した。
「これが日記。あと、日記じゃないけど個人的なことが書いてあるものだって」
「悪いね」
椿矢は紙袋を受け取ると隣の座席に置いた。
「いいよ。俺、いつも相談に乗ってもらってるし。まぁ、これ、探したの柊兄だけど。呪詛のこと知りたいんだよね? でも、祖父ちゃん、ムーシコスだってこと隠してたし、参考になるようなこと書いてあるか分からないよ」
「そうかもしれないけど、リストに書かれてた名前が気になってね」
「あ、そうだ。柊兄に聞かれたんだけど、『こうぞう』って、どんな字だった?」
「え? 封筒どうしたの?」
椿矢の問いに、楸矢は封筒が燃えた経緯を話した。
楸矢の話を聞くと椿矢は黙り込んだ。
「どうしたの?」
「……前に、ムーシケーが意志を伝えてきたのは小夜ちゃんが初めてだって言ったことがあったんだけど……」
「柊兄と小夜ちゃんから聞いたよ」
「そのとき、ムーシケーが伝えてきてたのに分からなかっただけかもしれないとも言ったんだよね」
「うん。それも聞いた」
「後者だったのかもしれない」
「つまり、ムーシケーは意志を伝えようとしてたのに誰も分からなかったってこと?」
「もしかしたらね」
呪詛のムーシカを書いた物は雨宮家の蔵には何冊もあった。
今は榎矢が持ち出したまま戻してないので所在不明だが。
封筒の中に書かれていた呪詛はあまりにも危険すぎるからこれだけは抹消したいと判断して小夜に燃やさせたとも考えられるが、そうではなく呪詛の書かれたものは全て人目に触れないようにしたかったのにムーシケーの意志が分かる者がいなかったため今まで焼却出来なかった可能性も十分有り得る。
雨宮家の者がクレーイス・エコーに選ばれ続けていたのも呪詛の書かれた古文書を処分したかったからなのかもしれない。
呪詛のムーシカは色んな国の言語で存在するが古典ギリシア語のものはほとんどない。
数少ない古典ギリシア語のものも古代ギリシアの文献に載っている単語が使用されているからまず間違いなく地球で作られたものだ。
ムーシケーにいた頃のムーシコスにも感情はあったのだから当然、怒りや憎しみなどを覚えることはあったと思うが、だからといってムーシカで相手を攻撃するようなことはしなかったのだろう。
あるいはムーシケーにいた頃のムーシコスやムーシカにはそんな能力はなかったのかもしれない。
地球という環境か、もしくは地球人の血が混ざったことでムーシカに特殊な効力が発生するようになった可能性も考えられる。
ムーシケーからしたら呪詛などにムーシカを使われるのは不本意だから出来れば存在を全て消してしまいたいのだろう。
魂に刻まれているとはいっても呪詛のムーシカがあるということを知らなければ、それを望むものもいないから存在に気付かれずにすむ可能性が高くなる。
椿矢は光蔵の漢字を教えた。
「気になることって何?」
「紙に書かれてた僕の知り合いも、小夜ちゃんと同じように呪詛が聴こえたんだよね。小夜ちゃんからお祖父さんのこと、何か聞いたことない?」
「ムーシカが聴こえるってことは人に話しちゃダメって言われてたってことくらい」
楸矢は卒業式のときのことを話した。
「気になったから柊兄に小夜ちゃんのこと聞いたんだよね。相続の手続きするときにご両親のこと調べたはずだから」
柊矢の話によると、両親が亡くなったのは小夜が二歳のときだった。
小夜の祖父は母方だった。
小夜の母は幼い頃、事故で大ケガをした後、養子に出された。
祖父の戸籍には娘の名前は記載されていたが特別養子縁組先として載っていたのは全く関係ない夫婦で、その家には養子を含め子供は一人もいなかった。
付き合いもなかったようだから金でも払って戸籍に名前を載せてもらっただけではないかと柊矢は言っていた。
子供のいない夫婦を養子先として戸籍に載せ、実際には別の夫婦の元に養子に出したのだ。
死んだことにして名前を消さなかったのは将来何かあって孫を引き取らなければならなくなったとき、自分の戸籍に娘の名前が載っていないと引き取るのが難しくなるから残しておいたのだろう。
養子に出した後は完全に連絡を絶っていたため、小夜が二歳の時に親子三人で事故に遭って両親が亡くなったときもすぐには祖父に知らせが届かなかった。
「事故?」
「うん。急な坂道をすごいスピードで下って壁に激突したんだって。小夜ちゃんはチャイルドシートにいたから無事だったって」
車は大破して原形を留めていなかった。
それだけの事故に遭ったにもかかわらず子供が無事だったチャイルドシートなら有名になっていてもおかしくはなかった。
そうならなかったのはチャイルドシートが車の外に放り出されたからだ。
結果的に子供が無事だったと言うだけでチャイルドシートが外れて車体から飛び出したなどとは口が裂けても言うわけにはいかなかった。
「もしかして、チャイルドシートはほとんど破損してなくて、小夜ちゃんは〝奇跡的に〟助かった?」
「あんたの言いたいことは分かるよ。柊兄も事故の記事や写真見て同じこと考えたって言ってたし。けどさ、その頃のクレーイス・エコーはあんたの祖父ちゃんだったんでしょ。その次は沙陽でそれが七年前だよね」
椿矢が頷くと、楸矢は話を続けた。
小夜は二ヶ月ほど福祉施設にいた。
すぐには引き取り手が見つからなかったため、小夜が親と住んでいたアパートにあった荷物は全て処分されてしまっていて祖父が迎えに行ったときには何も残っていなかったらしい。
小夜の両親が亡くなった頃はまだTwitterやFacebookもなかったからウェブ上にも写真の類は残っていなかった。
柊矢が見つけることが出来たのは事故の記事に載っていた顔写真だけだったそうだ。
小夜に見たいか訊ねると「考えさせて欲しい」と言ったきりなのでまだ見せてないと言っていた。
写真が残ってる楸矢と違い小夜は写真ですら親の顔を見たことがなかったのだ。
柊矢は小夜の後見人になる前、小夜の父方の親戚を見つけた。
それで会いに行ったが、小夜の祖父が亡くなったと告げた途端、祖父の遺産のことを聞いてきて、その親戚には相続権がなく小夜の後見人になっても遺産の管理状況を定期的に裁判所へ報告する義務があって自由にならないと知ると引き取りを拒まれ、福祉施設に連絡するように言われた。
小夜が両親を失った時にもまず彼らに連絡が行っていた。
だが小夜の両親には財産と呼べるようなものは何もなかった。
生命保険すら掛けておらず、唯一の財産と呼べるものは車だけだったが、それは事故で鉄屑になってしまった。
だから親戚は引き取りを断り小夜は福祉施設に送られたのだ。
柊矢は元々小夜に身寄りがなければ引き取ろうと考えていたとはいえ、身内なのに金にならないという理由で拒絶した親戚の話をするときは不愉快そうだった。
祖父は福祉施設から引き取った後すぐに小夜を養子に出そうと考え、実際、話もまとまっていたようで書類も金庫の中に残っていた。
何故その養子先に引き取られなかったのか分からなかったので一応その夫妻にも会いに行って話を聞いた。
夫は既に亡くなったとのことだったので妻の方に話を聞いたのだが、それによると夫妻が引き取りに行くと幼い小夜は祖父にしがみついて泣き叫んだという。
祖父や夫妻は宥めようとしたが、どうしても嫌がったので結局祖父が育てることにしたそうだ。
事故に遭ったことや、突然親がいなくなって福祉施設に入れられたことが余りにもショックだったらしく祖父に引き取られた当初は酷く怯えていた。
いきなり泣き出すことも珍しくなかった。
祖父はもう定年退職していたので小夜を安心させようと付きっきりだったそうだ。
ようやく小夜が落ち着いた頃、夫妻が迎えに来た。
それで、また施設に連れて行かれると思って怖かったのではないかと女性が言っていたそうだ。
夫妻はその後、別の子供を養子にしていた上、夫が亡くなっているので小夜は引き取れないと言うので柊矢が後見人になった。
「柊兄が、小夜ちゃんのお母さんを養子に出したのは、娘が事故に遭ってうちの祖父ちゃんの警告を信じたからじゃないかって。自分との関係がバレないように全く連絡とらなかったんだろうって言ってた」
小夜の養父母になるはずだった夫妻の書類が残っていたのに実際に養子に出した娘のものは一切残っていなかったのは火事で焼失したのではなく人に知られないようにするために処分したと考えるのが妥当だろう。
小夜の養子先の書類が残っていたのは自分にもしものことがあったとき引き取ってもらえるように備えていたのだ。
小夜が福祉施設にいたのは二歳の時の短い間だから覚えていないはずだが、物心ついた時から祖父と二人きりだったから未だにお祖父さんのことを口に出せないんだと思うと楸矢は付け加えた。
楸矢の言葉に椿矢は黙り込んだ。
ついこの前の交通事故の件は別だが、以前小夜を狙ったのは間違いなく帰還派だし、彼女を排除しようとしたのはムーシケーに行くのに邪魔だったからだ。
帰還派が出来たのは沙陽がムーシケーに行った後だからまだ十年も経ってない。
小夜の両親が亡くなったのは十四年前だから帰還派は関係ない。
仮に当時、既に帰還派がいたとしても二歳の小夜が邪魔するはずないのだから狙われる理由がない。
呪詛の依頼があった頃は椿矢の祖父がクレーイス・エコーだったが祖父の名前はなかったから狙いはクレーイス・エコーではないだろうがムーシコスを抹殺したい理由が分からない。
雨宮家のようにムーシカを利用して何かをするムーシコスは稀で、ほとんどは普通のムーシカを奏でているだけの無害な人間だ。
呪詛をするような危険なムーシコスを排除しようというのなら真っ先に雨宮家の人間を狙うだろう。
リストに載っていた椿矢の知り合いもムーシカの悪用はしていなかったし、小夜も祖父がムーシコスだと知らなかったようだからムーシカは奏でていなかったということだし、それなら当然利用もしていなかったはずだ。
だとすればリストに名前があった他の人達もムーシカの悪用はしていなかっただろう。
小夜の祖父と椿矢の知り合いは互いのことを知らなかったはずだ。
椿矢の知り合いが知っているムーシコスは雨宮家の人間だけで妻にも話してないと言っていた(妻は地球人で子供はいなかった)。
互いにムーシコスだと知っていたのだから名前までは明かさなくてもムーシコスの知り合いが他にもいるということを隠す必要はない。
実際、祖父は雨宮家、霍田家以外のムーシコスの知り合いを話題にしていた。
小夜の祖父の遺産は全て小夜が相続したし、知り合いの財産は妻が受け継いだから金目当てではないだろう。
だが遺産以外で小夜の祖父と椿矢の知り合いが亡くなることで得する何かがあったとは思えない。
小夜の祖父は西新宿に住んでいたが呪詛の依頼があったのはバブル期よりもずっと前だから地上げ屋はまだいなかった。
それに椿矢の知り合いは神奈川県に住んでいたから土地目当てでもないだろう。
ムーシコスを捜し出すのは地球人には無理だし、ムーシコス同士でもムーシカを奏でてるときに出会さない限り分からない。
だから大して離れてない場所に住んでいながらつい最近まで霧生兄弟と小夜が知り合うことはなかったし、柊矢と沙陽も付き合っていながら互いに気付かなかった。
同じムーシコスですら隠されたら見抜けないのに呪詛の依頼者はどうやって複数のムーシコスを突き止めたのだろうか。
霧生兄弟も小夜もムーシカのことを話さないようにきつく口止めされていたと言うくらいだから当の祖父自身が不用意にムーシカを奏でて知られたとは考えにくい。
小夜のように他人に向けられた呪詛が聴こえる人間がいるというのは知っていたが無条件でムーシコスを見分けられる者がいるという話は聞いたことがない。
椿矢が知らないだけで、そういう能力を持った者がいるのだとしても小夜の祖父と椿矢の知り合いを狙った理由が分からない。
二人とも最近まで生きていたから計画は頓挫したようだが、それもよく考えてみれば変だ。
霧生兄弟の祖父に断られたくらいで諦められる程度のことなら何故そんなことを企んだりしたのか。
それに、どうして他人に呪詛したことを知られる危険を冒してまで依頼する必要があったのか。呪殺なら警察に捕まる心配はないのだから自分でやればいい。
いや、キタリステースじゃ無理か……。
キタリステースが歌っても効果は出ないし演奏だけでも効果はない。
呪詛は基本的には狙われてる当人にしか聴こえないから演奏を聴いたムーソポイオスが歌うということがないからだ。
それでもムーシコスを見つけられる力があるなら他のムーソポイオスを探せばいいだけだ。
ノートには聴こえると言ったとしか書いてなかったが歌詞を渡されて歌ってほしいと依頼されたということは霧生兄弟の祖父はムーソポイオスだったのだろう。
だが霧生兄弟の祖父に断られた後どうして他のムーソポイオスを捜して頼まなかったのか。
狙いが全てのムーシコスではなく一部の者だけな理由も不明だ。
雨宮家の人間は東京に何人も住んでいるし霍田家の者もそうだ。
霧生兄弟や小夜の祖父を見つけられて何故雨宮家や霍田家の人間は見つけられなかったのか。
それに霧生兄弟と小夜が揃って幼い頃に両親を亡くしているのも関係があるのだろうか。
呪詛の依頼と、霧生兄弟と小夜の両親が亡くなるまで三十年ほど間が空いているのは関係ないからだろうか。
雨宮家と霍田家の人間の名前はなかったが、両家とも血が薄いという理由でムーシコスを殺して回るほどイカレてる者はいないはずだ。
何より、どちらの家もムーシコスの一族なのだからムーソポイオスはいくらでもいる。赤の他人に頼む必要はない。
一応この前手紙を読んだときにリストを写させてもらったが、小夜の祖父や椿矢の知り合いが楸矢の祖父と同世代だったことを考えると大半の人は鬼籍に入ってしまっていて捜し出せたとしても話は聞けないだろう。
先月の件で相手がムーシコスならこちらもムーシコスだと明かしやすくなった――その点では帰還派のやらかしも多少は役に立ったと言える――が、さすがにあの世に逝ってしまった人間とは話せない。
分からないことが多すぎるな……。
柊矢君がわざわざ探してくれたんだし、まずは日記の類を調べることから始めてみることにしよう。
小夜が夕食の皿を並べていると柊矢が部屋から下りてきて席に着いた。楸矢は既に椅子に座って待っていた。
「明日の夕食リクエストするの柊兄の番だけどさ、俺に譲ってくれない?」
「明日じゃないとダメな理由でもあるのか?」
「俺、彼女に振られちゃったからさ、心の傷を癒やすようなものが食べたい」
「なんでそんなことで譲らなきゃいけないんだ」
柊矢が冷たく答えた。
「彼女と別れたんですか?」
案の定すぐに小夜が食いついてきた。
清美に教えて欲しいと頼まれているからだろう。
これで明日には清美に伝わるはずだ。
「うん」
「柊矢さん、明日は楸矢さんのリクエスト聞いてあげていいですか?」
小夜がそう言うと、
「ああ」
柊矢はあっさり頷いた。
「小夜ちゃんは優しいなぁ」
柊兄は小夜ちゃんにだけは甘いな……。
けれど彼女の生い立ちを考えると小夜に一番必要なのは柊矢みたいな相手なのかもしれない。
「譲ってくれたのは柊矢さんですよ」
小夜はそう言ってご飯をよそい始めた。
大学の助手室で休憩していた椿矢は思い立ってパソコンで小夜の家の火事を検索してみた。
楸矢の話していた通りだった。
そして小夜の祖父の名前はやはり『光蔵』だった。
火事の原因は載ってないから沙陽がやったというのも間違いないようだ。
時期的に柊矢が小夜をクレーイス・エコーに選んだ頃で、二人はまだ付き合ってはいなかったから単純に小夜がクレーイス・エコーになったことに腹を立てて抹殺を企てたのだろう。
その程度のことで人の命を奪おうとするなんて、やはりムーシコスの家系だの血筋だのに拘ってる連中はまともじゃない。
血が濃くなり過ぎるのは良くないと言われるが実際のところ雨宮家も霍田家もかなり地球人の血が入ってるし、何より両家の人間より柊矢や小夜の方が遥かにムーシコスらしいのだから血の濃さとムーシコスらしさに関係はないだろう。
霧生兄弟の祖父が良識のある人だったから小夜の祖父を呪詛したりせず、おかげで柊矢と楸矢は後ろめたい思いをせずに小夜と接することが出来るのだ。
もっとも柊矢と小夜の年の差を考えると、呪詛で小夜の祖父が亡くなっていたら小夜の母が生まれることはなく、小夜がこの世に生を受けることもなかったかもしれないが。
そのときメールの着信音がしてスマホを見ると高校時代のクラスメイトからだった。
その名前を見て前に彼が話していたことを思い出した。
彼は時々検索エンジンで自分の名前を検索しているのだと言っていた。
SNSならともかく、検索エンジンで一般人の名前なんか検索したって出てこないだろうに自意識過剰なヤツとバカにしていたが事件や事故に巻き込まれていれば話は別だ。
現に小夜の祖父の名前は出てきた。
椿矢はスマホで撮ったリストの名前を見ながらパソコンで検索し始めた。
リストにある名前で事故や事件で亡くなった人はいなかった。少なくとも検索では見つからなかった。
しかし霧生兄弟の祖父が呪詛を依頼された当時とは違い今はSNSがある。
特にFacebookは実名での登録を推奨しているからリストの名前のほとんどが出てきた。
ただ珍しい名前の人はあまりいなかったからFacebookに同名の人が複数いる場合もあったが呪詛の依頼は半世紀近く前だから五十歳以下の者は弾ける。
出てきた名前がリストにあったのと同一人物なのかは断定出来なかったが、二、三人の例外を除いて亡くなっていた人は天寿を全うしたか癌などありがちな病死で、不審な死に方をした人はいなかったし何人かはまだ存命していた。
やはり理由は不明だが霧生兄弟の祖父が断った後、呪詛の計画は頓挫したと見ていいようだ。
「あの、柊矢さん」
小夜は隣を歩いている柊矢に話しかけた。
「なんだ?」
「楸矢さんの卒業祝いのパーティ、改めて開いたらいけませんか? 今度は清美を呼んで四人で」
「構わない」
「有難うございます」
嬉しそうな小夜に柊矢も微笑みを返した。
次の日、学校に着くとすぐに清美に声をかけた。
「行く! 絶対行く! 今日プレゼント買いに……」
「あ、柊矢さんが手ぶらでって言ってた」
小夜が清美の言葉を遮った。
「プレゼントはダメってこと?」
「うん。絶対持ってこないように言えって念押されちゃった。私も買いに行っちゃダメだって言われてるし」
「小夜は料理作るからいいけど、あたしはご馳走になるだけって申し訳ない気がするけど……」
「なら、お料理作るの手伝ってくれない?」
「いいの!?」
「清美が手伝ってくれれば、その分だけ手の込んだもの作れるから助かる」
小夜がそう答えると清美が嬉しそうな表情になった。
楸矢が大学の近くに来たとき椿矢の声が聴こえてきた。
この近くだ……。
しばらく中央公園には行かないと言っていた。
おそらく集まってくる人が増えてきたから場所を変えたのだろう。
楸矢は声の聴こえる方に向かって歩き出した。
椿矢は池袋駅の近くの公園で歌っていた。
椿矢のテノールにソプラノやメゾソプラノ、アルトの合唱が重なっている。
歌声を聞いていると気分が良くなってきた。
ムーシカを聴いているだけでも意識が美しい旋律と一つになって何もかも忘れることが出来る。
どれだけ嫌なことがあってもムーシカが全て洗い流してくれる。
ムーシコスがムーシカを好む所以だ。
柊矢は椿矢の歌声を聴きながら音楽室に行きたいのを我慢して仕事をしていた。
確定申告の時期は忙しいのだ。
小夜と一緒にいる時間は削りたくないし、かといって確定申告に間に合わないのもマズい。
柊矢が溜息を吐いてマウスをクリックした。
昼休み、小夜は清美に作る予定のご馳走のレシピをスマホで見せながら説明していた。
「あたし、足手まといにならないかな。料理とか、ほとんど作ったことないけど」
「大丈夫だよ。そんなに難しいものは……」
不意に椿矢が歌っているのとは別のムーシカが聴こえてきたかと思うと目の前が暗くなって意識を失った。
柊矢がキーボードのエンターキーを押したとき部屋が消え、白く半透明の森の中にいた。
ムーサの森?
どうして……。
ふと見ると楸矢が立っていた。
楸矢も同時にムーサの森にいた。
え?
思わず周りを見回すと戸惑った表情の柊矢と目が合った。
そのとき二人にムーシカの旋律が伝わってきた。
これはムーシケーのムーシカだ。
ムーシケーが直接伝えてきたのだ。
次の瞬間、柊矢と楸矢は元の場所に戻っていた。
自分達に伝えてきたということは小夜が何らかの理由で歌えないが急いで奏でる必要があるという事だ。
小夜に何か遭った!
柊矢は部屋を飛び出して音楽室へ向かった。
楸矢は聴衆を掻き分けて椿矢の側に行くと、
「ごめん、今すぐ歌って」
と言って手を出した。
楸矢の真剣な表情に椿矢が歌うのを止めてブズーキを渡した。
周りで聴衆が楸矢に抗議の声を上げたが椿矢が片手を上げて制した。
楸矢がブズーキを弾き始めた。
やはりムーシケーのムーシカか。
急いで奏でる必要があるのに小夜が歌えないのだ。
椿矢がムーシカを歌い始めると他のムーシコスの歌声や演奏から戸惑いが伝わってきた。
いきなり中断して別の歌を歌い始めた椿矢を聴衆達が戸惑ったような表情で見ていた。
そのときキタラの演奏も聴こえてきた。
ムーシケーのムーシカだと気付いたムーシコスが、それまでのムーシカを中断して柊矢や椿矢と共にムーシカを奏で始めた。
誰かが泣いてる。
真っ暗な闇の中で。
――誰かじゃない。
私だ。
公園の植え込みの中に隠れていつも泣いていた。
狭い家の中ではどこで泣いても祖父に聞こえてしまって心配をかけるから、いつからか公園の植え込みに隠れて泣くようになった。
自分と同い年くらいの子が親に手を引かれて歩いているのが羨ましかった。肩車が、抱き上げられているのが、頭を撫でてもらっているのが羨ましくて仕方なかった。
何度か祖父の留守に家の中を探したが両親の写真は見つからなかった。
両親の話も聞いたことがない。
僅かな情報の断片を掻き集めて分かったのは、どうやら祖父は母の父親らしいと言うことだけだった。
年齢が上がるにつれて羨ましさより不安が増してきた。
自分は祖父のお荷物になってるのではないか、迷惑なのではないかと。
だから少しでも負担を掛けないようにと小学生になったばかりの頃から家事を積極的に手伝い、自分一人で出来るようになってからは全て引き受けた。
料理も図書館で料理の本を読んでレシピをメモして色々作った。
それで三年生になる頃には料理も完全に任せてもらえるようになった。
ただ料理は火を使うので小学生にはやらせない家が多いと聞いたから料理を作っているということは黙っていた。
小学生に火を使わせていると祖父が非難されたら申し訳いと思ったからだ。
友達とは殆ど遊んだことがなかった。
一度、友達の家に遊びに行ったが、友達のお母さんが出してくれた手作りのクッキーを食べたら悲しくなって一つ食べるのがやっとだった。
美味しかったからこそ胸が痛かった。
それ以来、人付き合いを避けるようになった。
小夜が避けるようになったから他の子達も自然と近付いてこなくなった。
誕生日会にも誘われなかったが、誘われたらプレゼントを持っていかなければならないと知って誘われなくて良かったと思った。
祖父にプレゼントを買うお金を出して欲しいとは頼めないから誘われても行けない。
寂しくなかったわけではない。友達同士で遊んでいるのを見て羨ましいと思ったこともある。
けれど自分が手に入れられないものを持っている子を見て悲しい思いをするくらいなら一人でいた方がマシだった。
人付き合いを避けているうちに人と話すのが苦手になった。
それが一人でいることに拍車を掛けた。
ふと小夜は泣いてるのが自分だけではないと気付いた。
他にも泣いてる子がいるのだ。
皆寂しがってる。
寂しくて、それが悲しくて泣いてる。
小夜にはその気持ちがよく分かった。自分も気付いた時からずっと抱えてきた想いだからだ。
小夜も抱えていた膝に顔を埋めた。
このままここで蹲っていれば消えてしまえるだろうか。
この世から消えてしまえば悲しい思いをしなくてすむのだろうか。
あの家から出ていくのは嫌だ。
祖父もいなくなった今、あそこを出たら今度こそ本当に一人になってしまう。居心地のいい場所を失いたくない。
この先ずっと寂しい思いをしながら生きていくのはもう嫌だ。
それくらいならこのまま消えてしまいたい。
誰かがこのまま目を瞑っていればいいと囁いた。
ここで眠りにつけば何もかも消える。全てのことから解放されるのだと。
眠るだけでいい。
それだけで出ていくなんて決断をしなくてすむ。
もう二度と大切なものを失う悲しみを味合わなくていい……。
柊矢さんや楸矢さんにお別れを言う必要はなくなる。
小夜が眠ろうとしたとき優しい旋律が聴こえてきた。
これは……ムーシケーのムーシカだ。
気付くと胸元のクレーイスが熱を帯びて光っていた。
ムーシケーが呼んでる……。
小夜は躊躇った。
戻ったら辛い決断を迫られる。あの家を出ていく覚悟を決めなければならない。
柊矢や楸矢に別れを告げてあの家を出て一人になるなんて耐えられない。
でも、いつまでも甘えてはいられないのだから出ていかなければならない。
そのときムーシカから感情が伝わってきた。
ムーシケーのムーシカなのに悲しみや寂しさが伝わってくる。
今までムーシケーの感情が伝わってきたことはなかったのに。
……ムーシケーも寂しいんだ。
ムーシケーはグラフェーが意識を失ってからずっと一人だ。
独りぼっちになると分かっていて地上を旋律で凍り付かせムーシコスを一人残らず地球へ送った。
孤独と引き替えに自分の地上の者達を守ることを選んで以来、ずっとグラフェーの目覚めを、旋律を溶かしてムーシコスが還ってくる日を、たった一人で待ち続けているのだ。
寂しいのは自分だけじゃない。
ムーシケーは自分よりも遥かに長い時間を一人で過ごしてきた。
椿矢がムーシケーの意志が分かったのは小夜だけだと言っていた。
ならば自分がいなくなったらムーシケーの意志が分かる者がいなくなる。ムーシケーは本当の意味で一人になってしまうのだ。
自分が生まれてくることが出来たのはあのときムーシケーがムーシコスを地球へ送ってくれたからだ。
ムーシコスを守るために孤独を選んだムーシケーをまた独りぼっちにするわけにはいかない。
小夜はゆっくりと立ち上がった。
馴染みのある弦の音が聞こえてきた。
これは……柊矢さんのキタラだ。
振り返ると温かく柔らかな光が見えた。
旋律はその光の方から聴こえてくる。
ムーシコスの歌声や演奏も聴こえる。
その中には椿矢の歌声も交ざっていた。
そうだ。
ムーシカを奏でればムーシコスが応えてくれるんだから自分が、ムーシコスが一人になることはあり得ない。
ムーシケーの所に行かなきゃ……。
柊矢さんも待ってる。
柊矢さん達の所に帰らないと。
皆も一緒においでよ。
私と行こう。皆一緒なら寂しくないよ。
振り向いて手を差し伸べながらそう声をかけようとしたがそこには誰もいなかった。
暗闇は消えてしまっていた。泣き声も聞こえない。
目を開けると病院のベッドの上だった。
ムーシカが終わると楸矢は椿矢にブズーキを返した。
「ありがと。助かったよ。後で連絡する」
楸矢は礼を言うと急いでスマホを出し、その場を離れながら柊矢に電話を掛けた。
病院で目覚めた小夜は迎えに来た柊矢に連れられて家に帰ってきた。
「すみません、忙しい時期なのに時間を取らせてしまって……」
「気にするな」
「お帰り。小夜ちゃん、大丈夫?」
玄関で待っていた楸矢が声をかけた。
「楸矢さん、心配掛けてすみませんでした」
小夜は頭を下げた。
「気にしなくていいよ」
「今日は休め。夕食はデリバリーにする」
「はい」
もう身体はなんともなかったが自分が休まなければ柊矢と楸矢が心配するだろうと思って大人しく従った。
翌朝、学校へ着くと清美達に取り囲まれた。
「小夜、もう大丈夫なの?」
「うん、心配掛けてごめんね。ちょっと貧血起こしただけで、もうなんともないよ」
小夜がそう言うと皆は安心したように席に戻っていった。
清美だけはしばらく様子を窺っていたが、小夜の顔色が悪くないのを見て取ると大丈夫そうだと判断したらしく何も言わなかった。
「そう」
新宿駅に近い喫茶店で椿矢は楸矢から前日の顛末を聞いていた。
「それで、お医者さんは異常ないって言ったらしいけどホントに大丈夫か、柊兄があんたに聞いて欲しいって」
「つまり、呪詛のムーシカで普通の検査では分からないようなダメージを受けてないかって事?」
「うん」
「呪詛が聴こえてなければ大丈夫だと思うけど……」
椿矢が自信なさげに答えた。
「はっきり分かんないの?」
「呪詛なんて興味ないから、君が入院したときに調べた程度なんでね。それに僕が調べられるのはあくまで雨宮家で使ってる呪詛だけで、よその人が使ってるものは知りようがないし」
「そっか」
「けど、ムーシケーが伝えてきたんだから大丈夫なはずだよ」
「だよね」
楸矢が安心したような表情を浮かべた。
「柊兄が脅かすからちょっと怖くなっちゃってさ」
「どういうこと?」
「前に柊兄も呪詛で眠らされて事故ったじゃん。小夜ちゃんは学校にいたんだから寝ちゃっただけなら急いでムーシカ奏でさせるわけないから別の呪詛じゃないかって」
「…………」
柊矢はついこの前までムーシケーやムーシコスのことを何も知らなかったとはいえ手持ちの知識で仮説を組み立てて推測するくらいのことは出来るのだ。
楸矢の言う通り確かに柊矢は頭が良い。
今までよほどのことがない限りクレーイスを通さずに意志を伝えてきたことはなかったし伝えてくるにしても小夜にだった。
いくら小夜が倒れたとはいえ柊矢や楸矢に直接ムーシカを伝えてきたのはそれだけ急を要したということだ。
恐らく急がなければ命に関わるような呪詛だったのだろう。
実際、小夜は救急車で搬送されて病院で目を覚ましたと言っていた。
椿矢の知っている呪詛はどれも払われたらすぐに意識を取り戻すものばかりだ。
払っても目覚めるまでに時間が掛かったということはかなり危険な状態だったのだ。
柊矢もそれを察したからダメージが残ってないか心配しているのだろう。
ムーシケーにすらどうにも出来ないムーシカがあるとは思えないし、もしあったとしたらそれを払うためのムーシカは存在しないということだから霧生兄弟に伝える事は出来ない。
払えるものだったからこそ直接伝えてきたのだ。
「この前のノート、あれからどうしたの?」
椿矢はムーシケーを信じて話題を変えた。
「ノート持ち出したこと気付かれる前に早く返してやれって言われたからすぐに返したんだけど、バレておばさんが乗り込んできたんだって」
楸矢が柊矢から聞いた経緯を話した。
「そっか。お祖母さんが亡くなったってこと知らせたかったんだ」
柊矢と同じく椿矢も不思議だったのだ。祖母自身から頼まれたならともかく、何故親の反対を押し切ってまで勝手に楸矢達にノートを見せたのか。
「いきなり遺産がどうのとかって怒鳴りつけてきて、封筒返さなかったのも遺産もらうのに都合が悪いからだろ、なんて言い掛かり付けられたらしいんだよね。それで小夜ちゃん、自分が封筒燃やしちゃったせいで柊兄があんなこと言われたってすごく落ち込んじゃっててさ、可哀想だった」
確かに小夜なら封筒を燃やしてしまったせいで柊矢が悪く言われたと自分を責めそうだ。
「その上、交通事故まで俺達のせいにしようとしたんだって。いることすら知らなかった人達の事故に関係あるわけないのに」
「事故?」
椿矢が聞き咎めた。
「あれ、あのとき言わなかったっけ? ノート渡されたとき、彼女、腕と足に包帯巻いてたんだよね。ホントはもっと前に会うはずだったんだけど来なくてさ。そしたら、事故に遭ったから来られなかったんだって」
また交通事故?
「……その子、従妹……なんだよね?」
「そうだと思うよ。あの子、何も言ってなかったけど、祖母ちゃんのこと、お義母さんって言ってたおばさんの娘らしいから。……親戚って優しいもんだと思ってたよ。あ、ゴメン、あんたも親戚だよね」
「気にしなくていいよ」
椿矢は苦笑しながら手を振った。
実際、雨宮家の連中も〝優しい〟親戚とはほど遠い存在だ。
柊矢達のことを知っていたのだから七年前未成年の霧生兄弟が二人だけで遺されたことも把握していたはずだ。
柊矢が私立の音大に通っていたくらいだから経済的には困ってなかったにしても未成年の子供達が保護者を失ったのに雨宮家の連中は誰一人手を差し伸べようとしなかった。
当時、楸矢はまだ小学生だったのに。
「夢を壊すようだけど、親戚って単に血縁者かその血縁者の配偶者を指す言葉であって、人間性とは何の関係もないよ。あくまで僕の個人的経験だけど、親戚だからって理由で優しくしてくれる人なんかほとんどいないよ」
まぁ、椿矢の場合ムーシコスの血筋だのクレーイス・エコーの家系だのと寝言を言う連中に辛辣なことを言うから親戚達と折り合いが悪いというのもあるが。
「そうなんだ。友達が皆お正月に親戚の家回ってたのは、てっきり親切にしてくれるからだと思ってた」
それはお年玉を回収しに行っていただけじゃ……。
お年玉の存在を知らないとは思えないし、柊矢が多額の小遣いを渡しているとは考えづらいが、欲しい物もあまりなく、フルートの練習に忙しくて金を使うことがほとんどないのだろう。
金銭欲がない上に、お年玉を貰った経験がほとんど、もしくは全くないから正月の挨拶回りは小遣い稼ぎだと思い至れないのだ。
お年玉を貰ったことがないなんて……。
雨宮家が霧生兄弟と親戚付き合いをしていれば貰えていたはずだ。
楸矢に金銭欲が無く小遣いが欲しいと思ったことがないとしても子供は皆お年玉を喜ぶものだし地球人らしさの強い楸矢もきっとお年玉を貰えば嬉しかったはずだ。
雨宮家が霧生兄弟を無視していなければ楸矢はその楽しみを経験することが出来ていた。
また一つ自分の出自を呪いたくなる要因が増えた。
椿矢は密かに溜息を吐いた。
「ところで、その子の名前、聞いた?」
「聞いてない。あの子、名乗らなかったし、向こうも俺達と関わる気ないみたいだからさ。俺には柊兄と小夜ちゃんいるから、それでいいやって。あ、それとあんたも」
楸矢の言葉に椿矢は楽しげな笑い声を上げた。
「どうせ結婚したら嫌でも親戚付き合いしなきゃいけなくなるよ」
椿矢は笑いながらそう言った。
「すごいご馳走! これ全部、小夜ちゃんと清美ちゃんが作ったの!?」
楸矢がテーブルに並んだ料理を見て声を上げた。部屋には飾りも付けられていた。
「作ったのはほとんど小夜です」
「清美も色々手伝ってくれましたよ。清美が手伝ってくれたからケーキも作れたんだよ」
「二人ともありがとう! 二回もケーキ食べられるなんて嬉しいよ」
「楸矢さん、ケーキ好きだったんですか?」
甘すぎなければいいとは聞いていたが特に好きだとは言ってなかったような気がしたが勘違いだったのだろうか。
「好きっていうか、ケーキってなんか特別な感じがするじゃん。だから、お祝いしてもらってるんだなって実感するっていうか……。今までお祝いとかしてもらったことないし」
小夜は頷くと、
「部屋の飾りは清美が全部やってくれたんです」
と続けた。
「ありがとう、清美ちゃん」
「ご馳走になるだけじゃ申し訳ないので」
プレゼントがダメならと、ささやかな飾りを買ってきたのだ。
恐る恐る柊矢に飾っていいかお伺いを立てると構わないと言ってくれた。
柊矢が飾り付けに感心しているのを見て、霧生兄弟も早くに両親を亡くして祖父に育てられたという話を思い出した。
小夜だけではなく、柊矢や楸矢もこう言う家庭での祝い事とは無縁の環境で育ったのだ。
「まさか鯛を使ったご馳走が出るなんて……鯛なんて高いですよね? あたし、お呼ばれしちゃってホントに良かったんですか?」
「気にする必要はない。祝いに来てくれただけで十分だ」
「そうだよ、清美ちゃん。それに、作るの手伝ってくれたんでしょ。でも、これ、ホントすごいね。塩の塊の中に鯛が入ってるなんて」
楸矢が塩を崩しながら言った。
「炊き込みご飯は清美が作ってくれたんです」
「ホント!? これもすごく美味しいよ」
「小夜に教わったとおりにやっただけですよ」
清美が慌てて手を振った。簡単な料理で、それも細かく指示してもらったから作れたのだ。
さすがの清美もそれを自分が作ったと言えるほど図太くはない。
「でも、教われば作れるってことはお料理出来るんだ」
「えっと……」
楸矢の期待に満ちた視線に清美は言葉に詰まった。
出来ると答えて万が一何か作ってほしいと言われたときに出来なかったら失望されるだろうが、楸矢の口振りからして料理の上手い子が好みらしいから出来ないとも答えたくない。
「出来ますよ」
小夜が代わりに答えた。
「小夜!」
「色々手伝ってくれたけど、どれもちゃんと作れてるじゃない。やれば出来るよ」
「そっかな。じゃあ、練習しようかな」
清美が照れたように言った。
「清美、おはよう」
小夜は教室に入ると清美に声をかけた。
「おはよ。ね、小夜、楸矢さんの好みってどんなタイプ? 大人の女性だとちょっと厳しいんだけど、守備範囲広いなら高校生もありだよね?」
「そうだね」
楸矢の好みはよく分からないが、中学の頃の彼女は同い年だったそうだし女子高生の彼女もいい、などとも言っていた。
清美とは話もあうようだからチャンスはあるだろう。
「楸矢さんの好みのタイプ、聞いておいてくれない?」
「いいよ」
小夜は頷いた。
楸矢が帰ると小夜はもう夕食を作っているところだった。
「お帰りなさい」
小夜は鍋の火を弱めると冷蔵庫から唐揚げを取り出して手早く火を通すと楸矢の前に置いた。
「あの、楸矢さん」
「何?」
「楸矢さんって、どんな子が好みなんですか?」
「っていうと?」
「例えば、お料理出来る子とか……」
当たり前だが自分の事が好みかを聞いているのではない。清美のことだ。
楸矢はちょっと考えてから、
「昨日ご馳走作ってくれたとき、清美ちゃんって実際どれくらい手伝ってくれたの?」
と訊ね返した。
「色々やってくれましたよ」
「じゃあ、お料理は普通に作れるって思っていいの?」
「はい。普段作ってないので慣れてないだけです」
手際のよくない部分もあったが、それは数をこなしていれば解決する。
それ以外は特に問題はなかった。
慣れてないのに調味料を目分量で量るようないい加減なこともせず、きちんと量っていた。
まぁ、楸矢に食べてもらうのだから失敗できないと必死だったというのはあるだろうが。
「古いって言われそうだけど彼女の手料理って憧れてるんだよね。別に特別上手とかじゃなくてもいいんだけどさ」
その気持ちは小夜にも理解出来た。
楸矢は別に料理は女性がするべきという古い考えで言っているわけではないのだ。
小夜も母親に作ってもらったお弁当に憧れていた。
だから少しでもそういうお弁当に近付けたくて料理の練習をした。
作ってもらうことは無理でもコンプレックスを持たなくてすむようなお弁当は作れるようになった。
両親がいないことは知られていたから「誰に作ってもらったの?」と聞かれることはなかった。
楸矢も生まれてすぐ両親を亡くして育ての親は祖父だけだったのだからクラスメイトが持ってくる綺麗に盛り付けられたお弁当が羨ましかったのだろう。
そういう子供の頃の憧れというか、不可抗力で欲しくても手に入らなかったものに対する憧憬の念というのはそう簡単には消えない。
彼女、というか特別な相手が自分のために何かしてくれるという状況を経験してみたいのだ。
小夜も柊矢がヴァイオリンを弾いてくれるのが嬉しいから楸矢の気持ちは理解出来る。
柊矢がヴァイオリンを弾いてくれる度に楸矢がげんなりした顔をしているのを見ると申し訳ない気持ちになってしまうが。
「それ以外には何かありますか? 大人の女性の方がいいとか」
「年には拘らないよ。まぁ、さすがに中学生以下とか三十超えてるとかだと厳しいけど」
小夜は頷いて礼を言うと夕食の支度に戻った。
「小夜、聞いてくれた?」
「うん。お料理、上手じゃなくてもいいけど彼女に手料理作ってもらえたら嬉しいって言ってた。それ以外は特に好みとかはなくて、年にも拘らないって」
「ホント!? なら、頑張ってお料理の練習する! 楸矢さんの好きなものって何?」
「一番好きなのは親子丼。あとは……」
小夜が楸矢の好きなものを言うと清美は必死でメモを取っていた。
「ごめん、待った?」
楸矢は先に来ていた清美に謝った。
「いえ、あたしも今来たところです」
二人は以前会った喫茶店で待ち合わせていた。
楸矢が、柊矢と小夜のデートのことで改めて相談したいといって清美を呼び出したのだ。
「この前はごちそうさまでした。あたし、鯛なんて初めて食べました」
「あれ、卒業祝いって鯛は食べないものなの? もしそうなら小夜ちゃんには言わないであげてね。小夜ちゃん、知らないで作っちゃったんだと思うから」
「いえ、小夜にも言いましたけど、お祝いって家ごとに違いますから鯛を食べる家だってあるはずですよ。鯛ってお祝いのときに食べるお魚なんですから。あたしの家では食べなかったってだけで」
「そっか。なら良かった」
楸矢が安心した表情になった。
「小夜に随分気を遣ってるんですね」
「そりゃね。親の顔も知らなくて育ての親は祖父ちゃんだけって言うのは俺も同じだけど、俺には柊兄がいるし、祖父ちゃんが亡くなってからもう七年もたってるけど、小夜ちゃんはついこの前でしょ。しかも家が焼けちゃったから何も残ってないし」
確かにクラスメイトは皆小夜の祖父に少しでも関係ありそうなことには絶対触れないように避けている。
小夜の彼なのに柊矢のことを話題に出来ないのは亡くなった祖父の代わりに後見人になった相手でもあるからだ。
さすがの清美でも、柊矢はともかく祖父のことは話題に出来ない。
「小夜ちゃんってかなり繊細そうだし、うっかり傷付けるようなことしたら普通の女の子のとき以上に罪悪感半端なさそうって思うとかなり怖いんだよね」
確かに小夜は平気な振りをするからこそ怖い。
常に、傷付いてない振りをしているのではないか、という不安が付き纏っているのだ。
「それで、聞いてくれた?」
楸矢は話題を変えた。
「はい」
「どこ?」
「柊矢さんと一緒にいられればそれでいいそうです」
「え~! 女の子ならテーマパークとか好きそうだけど……」
「テーマパークは無理だと思います」
深雪にテーマパークの写真を見せられたとき羨ましそうにしてたが恐らく口が裂けてもデートで行きたいとは言わないだろう。
「小夜ちゃん、テーマパーク嫌いなの?」
「いえ、行きたそうな顔はしてました。でも、お金かかるじゃないですか。行ったら支払いは全部柊矢さんがすることになりますよね」
「そりゃ、デートの支払いは男が持つものって考え方が古いとしても、仕事してて収入のある柊兄が、バイトすらしてない高校生に奢ってもらうわけにはいかないでしょ」
「でも、小夜は居候ですから、金銭的に負担になるようなところは……」
「家賃とかはもらってないけど居候じゃないよ」
「小夜はそう思ってます」
「けど、家事してもらってるし」
「家事はお祖父さんが生きてたときもしてましたから小夜にとってはチャラになるほどのことじゃないんです。この前、楸矢さん、何も言わずにあたしの分の勘定書き、さりげなく持っていってくれましたよね。あたしはそういうの、格好良くて素敵だと思いますけど、小夜だったら気にしちゃいます」
確かに清美の言う通りだ。
小夜は性格的に奢ってもらって嬉しいなんて考えないだろう。
むしろ気に病むに違いない。
「でも、柊兄が小夜ちゃんに奢ってもらうってのも無理だよ」
楸矢は清美に再度、後見人は財産を殖やすことが出来ないという話をした。
「うちみたいに自宅以外に家賃収入のある不動産があったとか、株を持ってて配当があるとかならともかく、小夜ちゃんのお祖父さんはそういう収入があるような遺産は残してないから出来る限り減らさないようにするのが精一杯だって言ってたし。それにテーマパークには行きたいんだよね? お金出してもらうのがダメっていってたら一生無理じゃない? 仮に小夜ちゃんが働くようになったとしても柊兄は割り勘でも嫌がると思うよ」
「その辺は段階を踏めば抵抗なくなると思います。まずはお金がかからないところに行けばいいんじゃないでしょうか。丁度この前、東京も開花宣言ありましたよね。お花見とかどうでしょう」
「お花見かぁ」
楸矢が難しい顔で腕を組んだ。
「何か不都合でも……?」
清美が恐る恐る訊ねた。
考えてみたら楸矢が親の顔を知らないということは両親が亡くなった頃は柊矢もまだ子供だったということだ。
幼くして両親を亡くしているのだから小夜ほどではないにしろ兄弟揃って普通の人より触れたらマズい部分が多いはずだ。
「そうじゃなくて、うちって公園に囲まれてるじゃん」
霧生家がある住宅街は公園に食い込むような形になっている。
動物園の予定地を住宅地や団地にしたため、広い公園の中に虫食い状態で住宅街や団地が入り込んでるのだ。
「あの公園って別に花の名所ってわけじゃないんだけど、桜がいっぱいあるからうちの近所の人ってわざわざ花見に行かないんだよね。せいぜい公園のベンチでお弁当食べるくらい。近くに住んでる人しか来ないから上野公園とかと違って人少ないしさ」
「だったら尚更好都合じゃないですか」
「え?」
「近所なら交通費もかからないわけですよね。小夜がお弁当作るなら柊矢さんの負担にならないか心配する要素ないわけですし」
清美の言う通りだ。
しかし……。
「名案だとは思うんだけど……」
楸矢が考え込むような表情になった。
もしかして花見に嫌な思い出があるのだろうか。
清美は思わず身構えた。
「東京が満開の頃って俺達旅行中じゃない?」




