第三章 Sopdet-太陽を呼ぶ星-
第三章 Sopdet-太陽を呼ぶ星-
満天の星空の下、ムーシカが流れていた。
とても綺麗な旋律なのに伝わってくるのは淋しくて切ない感情だ。
男がムーシカを歌い終えると、
「どうしていつもこんなところで歌ってるの?」
隣にいた女性が訊ねた。
「皆こんなおかしな唄、嫌がるから。どこの村でもこれを気に入ってくれた人はいなかった」
どうやら男は村を渡り歩いてきたようだ。
「あたしは好きだな」
「変わってるな」
男が微笑った。
「あんただって好きだから歌ってるんでしょ」
「うん。だから、こうやって人に聴かれないとこで歌ってるんだ」
男が淋しそうな表情を見せた。
村々を旅してきたのは他のムーシコスを捜していたのかもしれない。
けれど、どれだけの多くの年数をかけて、どれほど沢山の村を回ってもムーシコスはいなかったのだろう。
広い世界でたった一人のムーシコス。
ずっと寂しい思いをしてきたんだろうな……。
今のムーシカは男の淋しいという感情から創られたものなのだろう。
一瞬、男の側に何かが見えたような気がした。
「こんなところで何してんの?」
楸矢の声に椿矢は我に返った。
椿矢は新宿駅近くの喫茶店でコーヒーを飲んでいた。
「叔父から資料を受け取ることになっててね。それ待ってるんだよ。楸矢君こそ」
「俺は仕立屋からの帰り」
「仕立屋?」
「そ。音大入って真っ先にすること何か知ってる?」
椿矢は首を振った。
「写真撮影」
「へぇ、新入生の集合写真撮る大学って珍しいんじゃない?」
楸矢の大学はそんなに学生が少なかっただろうかと一学年の人数を思い出そうとしたが、専攻科目毎の人数ならそれほど多くないのかもしれない。
「集合写真じゃないよ。プロフィール用の写真撮るの」
「プロフィール?」
「地球の音楽聴かないんだっけ。なら、クラシック音楽のコンサートとかも行ったことない?」
「うん」
「コンサートのチラシとかパンフとかに演奏家の写真載ることがあるの。そのときのための写真」
「入学早々そんな写真撮るんだ」
コンサートに出るという事は既にプロの世界に足を突っ込んでいるという事だ。
早い者は大学に入る頃にはプロとして活躍し始めてるらしい。
既に就職しているようなものだから普通の大学生とはかなり違う。
「それに、いつパーティに行くことになるか分からないから、その為にも正装は必要なんだって」
「パーティ? 会場で演奏するの?」
「演奏出来るなら柊兄はすっぽかしたりしないよ。そうじゃなくて、音楽業界の関係者への顔つなぎのため」
どれだけコンクールで優勝しようとプロになるのは簡単ではない。
オーケストラのコンサートなどで欠員が出たときに代わりに呼んでもらったりするためにも音楽業界の人間に顔を売っておく必要がある。
一種の営業活動のようなものだ。
その営業活動をすっぽかしたというのだから、やはり柊矢は本気で音楽家を目指してたわけではないのだ。
「音楽科の学生って大変なんだね」
「楽器や声楽専攻の学生はね。観客いらない、演奏さえ出来ればいいってなら確かに音大より今の仕事の方が遥かにいいよね。なってもいい程度なら顔つなぎのパーティとか時間の無駄だし。正直、俺だってさすがにパーティはバカらしいと思うもん」
やはり色んな点でムーシカと地球の音楽は違うんだな、と椿矢は改めて思った。
沙陽が大学の頃からよくパーティに行っているのはそういうことだったのか。
音大を出てパーティ三昧? と正気を疑っていたのだが、ちゃんと理由があったのだ。
「この前、小夜ちゃんが狙われたって言ってたけど、その後は? 大丈夫?」
「元気だよ。昨日のデュエット、聴こえたでしょ」
「うん」
昨日も小夜が新しいデュエットを歌っているのが聴こえた。
男声パートは聴こえなかったが柊矢と歌っていたのは容易に想像が付く。
「あれ、小夜ちゃん、台所で夕食作りながら歌ってたんだよ。で、柊兄がダイニングチェアに座ってキタラ弾きながら歌ってたの。信じられる!? マジで頭おかしくなりそう」
椿矢が笑い声を上げた。
「それ、不衛生って意味? それとも、夕食とムーシカ同時に創るのが信じられないって意味?」
「後者。歌うのが不衛生とか言ってたら料理中や食事中に話出来ないじゃん。でも、小夜ちゃん、ちゃんとマスクしてたけど」
椿矢が腹を抱えて大笑いした。
マスクで肉声が籠もったところでムーシカならムーシコスには聴こえる。
もっともムーシコスは基本的に自分が奏でたいから奏でてるだけで誰かに聴かせるために奏でてるわけではないが。
「ムーシカ創るときでもそういう配慮出来るだけの余裕あるんだ」
椿矢の家は一族揃ってムーシコスとはいっても自分自身を含め身近にムーシカを創ったことのある者は一人もいないからムーシカを創るときの心境などはよく分からない。
そういう意味では柊矢と小夜は紛れもないムーシコスの特徴を示しながらかなり異例だ。
例えが悪いかもしれないが、発見直後のシーラカンスを見た学者がこんな感じの印象を受けたに違いない。
同じ魚類なのに現代の魚と色んな面で違うというところが、これ以上ないくらいムーシコスとしての特徴を備えながら今のムーシコスと比べるとかなり異色という点でシーラカンスそっくりだ。
「小さい頃から料理してたらしいからね。料理はかなり慣れてるよ。しかも、お祖父さんと二人暮らしだったから和食多いんだよね。もちろん洋食も作れるけどさ。毎朝ご飯とお味噌汁とか最高だよ。しかも毎日違う料理なんだよ。家庭料理の種類がこんなに多いなんて知らなかったよ。和食多めの美味しい手作り料理とか憧れてたんだ。奥さんもらうまでは食べられないと思ってたよ」
うっとりした表情で言った楸矢の言葉を椿矢は聞き咎めた。
「小さい頃から? そういえば小夜ちゃんってお祖父さんが亡くなったから柊矢君が引き取ったって言ってたけど、ご両親はどうしたの?」
「聞いてない。お祖父さんに育てられたってことだけ……。初めて会ったのお祖父さんが亡くなった次の日だったんだけどさ、小夜ちゃんの名前の由来訊いたら聞いてないって言って泣きそうになっちゃって……ていうか、お鍋の様子見る振りして俺に背、向けたから泣いてたのかも……」
楸矢の話に椿矢は考え込んだ。
小夜という名前は割と平凡だから特に由来は無かったのかもしれないが、それならそれで聞かれたら「無い」と答えるだろう。
高校生になっても名前の由来を聞いたことが無かったとなると名付け親は祖父ではないという事だ。
名前を付けたのが親で、聞いたことがないのだとしたら両親はかなり小さい頃からいなかったのだろう。
それはそれで祖父は何故親から聞いてなかったのかという疑問が残る。
「まだ、お祖父さんが亡くなって半年も経ってないから、うちに来る前のことは聞きづらくてさ。小夜ちゃん、俺達に気を遣わせないようにって泣くの我慢しちゃうんだよね」
楸矢が、小夜が泣いたところを見たのは一度だけだが目が赤くなっていることが何度かあった。
多分、一人で泣いていたのだろう。
本人は隠してるつもりらしいから楸矢も気付いてない振りをしていた。
「無理してる姿見るのってこっちも辛いから個人的なこと聞けないんだよね。平気な振りしちゃうから何が原因で傷付いたのか分かりづらいし、理由知らないと回避しようがないじゃん。だから、小夜ちゃんが自分から話してくれたことくらいしか知らないんだ」
柊矢は色々な手続きをしたから両親がどうなったのか知っているだろう。
手続きの過程で両親を調べたはずだ。
特に祖父の実子の方の親が生きているなら相続人は小夜ではない。
どちらにしろ生きていれば親のところに行かせたはずだから多分二人とも亡くなったのだと思うと楸矢は言った。
「小夜ちゃん、西新宿に住んでたって言ってたよね。あの辺のマンションで火事があったって話は聞いてないし、一戸建てに住んでたの?」
「うん。ローンがなかったって言ってたから相当古かったんじゃない? 新しい家なら逃げられたはずだし」
「どういうこと?」
楸矢は、家が古くて出口が玄関しかなかったのに火元が玄関だったからお祖父さんは家から逃げ出せなくて亡くなったと、柊矢から聞いた話をした。
新しい家なら消防法で出口が玄関しかない建物など建てられない。
「ローンがなかったのは借家で地主が建てたからってことは……」
「土地も小夜ちゃんのお祖父さんのだったよ。だから相続税でお祖父さんの生命保険半分以上消えたって言ってたし」
「じゃあ、小夜ちゃんはずっと西新宿に住んでたってこと?」
「この前ヘビ見て驚いてたし、カエルも見たことないって言ってたからそうじゃない? さすがこの辺は都会だよね~。もっとも、ヘビもカエルも中央公園にはいそうだけど。てか、なんでそんなに小夜ちゃんがどこに住んでたかに拘ってんの? 俺達だってずっと新宿に住んでたんだし、ムーシコスが新宿に住んでたっておかしくないでしょ」
「君達は僕の大伯母さんの子孫でしょ」
「そうだってね」
椿矢の大伯母が若い頃と言ったら明治初期か下手したら幕末だ。
当時、結婚は親が決めた相手とするものだった。
それは別に貴族や武家などのいい家に限らず、普通の町人でも同じで裏店――時代劇に出てくるいわゆる長屋――住まいでもない限りそう簡単に好きな相手と一緒になるなどと言うことは出来なかった。
だから駆け落ちしたと聞いて、どこかへ逃げて消息不明になったんだろうと思い込んでいた。
だが榎矢が、柊矢達が親戚だと知っていたことに驚いて父に訊ねると、雨宮家は大伯母とその子孫の行方はずっと把握していたという。
居場所を知っていながら連れ戻さなかったのは、駆け落ちしたとき大伯母が既に子供を身ごもっていたからだ。地球人の血が混ざっている者を一族に迎え入れたくなかったからその子孫の居所を追うだけで関係を絶っていたのだと知らされた。
話を聞いたときは余りのバカバカしさに呆れ果てたが、こんな連中と親戚付き合いしなくてすんだのは霧生兄弟にとってはむしろ幸いだったのだと思うことにした。
「つまり、小夜ちゃんのことは言わなかったから親戚じゃないってこと?」
椿矢の話を聞いた楸矢が言った。
「あの時は小夜ちゃんのこと聞かなかったから断言は出来ないけどね」
霧生兄弟のことも椿矢がわざわざ訊ねるまで黙っていたくらいだから小夜も名指しで聞かないと教えてくれない可能性がないわけではない。
ただ榎矢が柊矢達と遠縁の親戚だと言ったとき小夜のことには言及しなかったらしいから違うのだろう。
「それより、この前の小夜ちゃんが狙われたときの話、もう少し詳しく聞かせてくれない?」
午後の授業が終わりかけた頃、不意にムーシカが聴こえてきた。
歌っているのは女性が一人だけだ。
他のムーシコスが奏でてないのは聴こえていないからだろう。だが呼び出しのムーシカでもない。
この前のと同じムーシカ……。
あの時は交通事故が起きた。
クレーイスは反応していないから小夜が狙われているわけではないのだろう。
どちらにしろこの教室は一階ではないからクレーン車でもない限り車が突っ込んできたところで被害は受けない。
でも、このムーシカを放っておいたら誰かが事故に遭うかもしれない。
そのとき授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
小夜はすぐに立ち上がった。
教師はまだ黒板に向かっているし、クラスメイト達は座っている。
教室中の視線が小夜に集る。
小夜が真っ赤になった。恥ずかしかったが今はそんなことを考えている場合ではない。
「霞乃、どうした」
教師が驚いた顔で小夜に訊ねた。
「すみません、気分が悪くて……、その、お、おて、おて、お手洗……」
「すぐに行きなさい」
教師が言い終わる前に小夜は駆けだしていた。
ここからなら音楽室より視聴覚室の方が近い。
確か視聴覚室は防音のはずだし補習で使うという張り紙もなかった。
小夜は視聴覚室の中に誰もいないのを確かめるとドアを閉めてムーシカを思い浮かべてみた。
なんでもいいから、とにかくこのムーシカを打ち消せるもの。
旋律と歌詞が浮かんでくると小夜はそれを歌い始めた。
すぐに他のムーシコスが演奏やコーラスを奏で始め、嫌な感じのムーシカは掻き消された。
歌い終えた小夜が視聴覚室のドアを開けると廊下に清美がいた。
「清美、なんでここに……」
「それはこっちの台詞だよ。具合が悪いって言って教室飛び出したのに、なんでこんなところで歌なんか歌ってんの?」
防音とは言えドアの近くで歌ったから聴こえてしまったのだろう。
「それは……」
「もしかして、また柊矢さんに贈る歌?」
「そ、そんなとこ……」
清美は溜息を吐いた。
「歌うときは楸矢さんに聴こえないところにしてあげてね」
「う、うん」
ムーシカでそれは無理なのだが小夜は頷くしかなかった。
楸矢が話しているとき、小夜の歌声が聴こえてきた。楸矢は時計に目を向けた。
「まだ、授業が終わったばっかのはずだけど、まさか学校で歌ってるのかな」
「これは……」
椿矢が真剣な表情になった。
「どうしたの?」
「これ、呪詛払いのムーシカだよ」
「え?『じゅそ』って呪いの呪詛?」
「そう。この前、小夜ちゃんが車に轢かれそうになったとき、小夜ちゃんにはムーシカが聴こえたけど、柊矢君には聴こえなかったんだよね?」
「うん。森も見えなかったって言ってたよ。小夜ちゃんが突然立ち止まったと思ったら、真ん前を車が通り過ぎてったって」
「そのムーシカで車の運転手を眠らせたんだと思う」
それでコントロールを失った車が小夜を撥ねそうになったからムーシケーが足止めをしたのだ。
「そういえば、柊兄が帰還派に狙われて事故ったときもムーシカが聴こえてきたと思ったら意識を失ったって……。それが呪詛?」
「そう。それに君も病院送りにさせられて危うく死ぬところだったでしょ。普通は当人にしか聴こえないはずなんだけど、小夜ちゃんには聴こえたって言ってたよね」
確かにあの時、楸矢と小夜には聴こえていたが柊矢は聴こえないと言っていた。
「多分、今も何かの呪詛のムーシカが聴こえたから、小夜ちゃんはそれを打ち消すために歌ったんだよ」
「でも、小夜ちゃん、呪詛払いのムーシカなんていつの間に知ったんだろ」
「知ってたわけじゃないでしょ。つい最近までムーシコスのこととか何も知らなかったくらいなんだから。ただ、この前の事故の時と似たようなムーシカが聴こえてきたから打ち消した方がいいんじゃないかって考えて、そういうムーシカを歌ったんだと思う」
ムーシコスなら望めばムーシカの旋律と歌詞はすぐに分かる。
「今、あんたも呪詛のムーシカ聴こえてなかったよね?」
「うん、普通は呪詛を受けてる当人以外聴こえないものだからね」
「じゃあ、小夜ちゃんはクレーイス・エコーだから聴こえたってこと? それとも聴こえる人がクレーイス・エコーに選ばれるの?」
「クレーイス・エコーは関係ないよ。極稀に聴こえる人がいるんだよ」
椿矢がそう言ったとき、テーブルの横に椿矢に似た面差しの青年が来た。
年は楸矢と同じくらいだろうか。
青年は椿矢の前にA4サイズの封筒を置いた。
「人をパシリにしないで欲しいんだけど」
「それは叔父さんに言ってよ。楸矢君、こいつが榎矢。榎矢、楸矢君だ」
「知ってるよ。この前、会ったの覚えてないの?」
椿矢に喧嘩腰の口調で言った。
「そのとき、お前達が起こした停電のせいで真っ暗だったの覚えてないの?」
椿矢が小馬鹿にした表情で言い返した。
榎矢はむっとした顔で椿矢を睨み付けた。それから周囲を見回した。
「今の、兄さんがあの子に歌わせたんじゃないの?」
「また、お前達の悪巧み邪魔しちゃったかな?」
椿矢が挑発するように訊ねた。
「誰が呪詛してたにしろ今のは僕じゃないよ」
榎矢はそう言うと踵を返した。
「ちょっと待った」
椿矢が榎矢を呼び止めた。
「何?」
「お前、小夜ちゃんに先祖返りって言ったそうだけど」
「だから?」
「どういう意味?」
椿矢が訊ねた。
「え?」
「小夜ちゃんを先祖返りだと思った理由。もしかして、雨宮家ではムーシコスの家系を追ってて、小夜ちゃんはそれ以外の家から出てきたとか?」
「先祖返りって言ったのは能力の強さのことだよ。血の薄まってる家系なんかいちいち調べたりするわけないでしょ」
「その割には楸矢君と柊矢君が親戚だって知ってたよね」
椿矢が嘲るように言った。「いつも楸矢達のことを血が薄いって言ってるのに」と仄めかしている。
榎矢は答えに詰まって椿矢を睨んだ。
「そもそも、能力が強いって何のこと言ってるわけ?」
「能力がなきゃクレーイス・エコーには選ばれないでしょ」
「それだけ? クレーイス・エコーに選ばれたなら能力があるだろうって思っただけ? 何か出来たとか、したとかじゃなく? クレーイス・エコーを選ぶ基準はムーシケーの意志に従う人でしょ」
「あの子も同じこと言ってたけど、もしかして、あれ兄さんの入れ知恵?」
「小夜ちゃんの話聞けば誰だって分かるよ。ああ、そういえばお前、振られたから話聞けなかったんだったね」
椿矢がせせら笑いを浮かべた。
榎矢の顔が赤くなった。椿矢を険しい目で睨み付けている。
こいつも呪詛のムーシカ知ってるのに大丈夫なのか?
楸矢はハラハラしながら椿矢と榎矢を交互に見た。
さすがに実の兄を呪詛したりはしないと思うが自分達が三人とも命を狙われたことを考えると安心出来ない。
「あ、ごめん。古傷えぐっちゃったかな。色男気取って皆の前で、女子高生落とすのなんか簡単だって大見得切ったのに、相手にされなくて大恥掻いちゃったんだよね」
「誰からそれを……!」
「やっぱり、そう言ったんだ」
椿矢のしてやったりという笑みを見て鎌を掛けられたと気付いた榎矢が耳まで赤くなった。
「意志って言うけど、今までは意志表示なんてしたことなかったじゃない」
「意志表示したことなかったのはムーシケーに行こうなんて考えるバカがいなかったからでしょ」
椿矢は冷めた表情で辛辣な言葉を放った。
榎矢の形相がますます険しくなった。
「まぁ、いいや。これ届けてくれたお駄賃やるよ」
その言葉に榎矢が手を出したのを見て楸矢は目を丸くした。
これだけ虚仮にされたのに、あっさり手を出すって結構単純な性格なんだな。
椿矢が呪詛の心配をしないのも頷ける。
「金じゃなくて情報」
椿矢の言葉に榎矢が決まり悪そうな顔で手を引っ込めた。
「お前が小夜ちゃんや沙陽に相手にされない理由だよ」
「あ、相手にされてないわけじゃ……」
榎矢の頬が更に紅潮した。
「お前、父さんや親戚達がよく言ってるムーシコス同士は惹かれ合うって言葉の意味、理解ってないから小夜ちゃん落とすの簡単だと思ったんでしょ」
「意味?」
「惹かれ合うのはムーソポイオスとキタリステース。ムーソポイオス同士のカップルなんて、うちの祖父様と祖母様以外で見たことある? お前がキタリステースなら小夜ちゃんや沙陽落とせたかもね」
榎矢はむっとした顔で踵を返すと足音荒く歩み去った。
榎矢が店から出ていって背後でドアが閉まる音がすると、
「小夜ちゃん狙ったのは帰還派じゃなさそうだね」
と言った。
「え?」
「あいつ、今、『僕』じゃないって言ってたでしょ。沙陽がまだムーシケーに行こうとしてるならあいつも噛んでるだろうから、帰還派が小夜ちゃん狙ったなら『僕達』って言ったはずだよ」
楸矢は僅かに考え込んでから、
「いや、違うか」
と言った。
「何が?」
「狙ったのは『クレーイス・エコー』じゃなくて、小夜ちゃん自身かなって」
「クレーイス・エコー以外で小夜ちゃん狙う理由って?」
「柊兄。沙陽が柊兄取り戻したくて邪魔な小夜ちゃん狙ったのかと思ったけど、小夜ちゃんは沙陽の声知ってるから呪詛のムーシカが沙陽だったならそう言ってるよね」
楸矢の言葉に椿矢は頷いた。
「霧生先輩、お久し振りです」
朝、楸矢は校舎に入ろうとしたところで後輩の美加に声をかけられた。
「久し振り」
楸矢は笑顔で軽く手を上げると足を止めずに玄関に入ろうとした。もうすぐ予鈴が鳴る時間だから美加も教室へ急いでいると思ったのだ。
「あ、待って下さい」
「ん?」
楸矢は立ち止まった。
美加が話し始めた。
それによると、しばらく前から放課後になると校門の前に他校の女生徒が立っていたのだという。
最初はここの生徒の誰かと待ち合わせをしているのかと思った。
しかし美加はコンクールが近いため、毎日遅くまで特別練習で学校に残っていて下校する時間はほぼ最後なのにその子は校門のところにいた。
それが何日も続いたので声を掛けると楸矢を捜しているのだという。
どうやら楸矢がここの生徒だと知っていても学年までは分からなかったらしい。
楸矢は三年だから滅多に来ないのでメールで連絡しようかと言うと、登校日を教えてくれたらその日に来ると言うから今日だと教えたそうだ。
「じゃあ、今日、放課後に来るんだ」
「多分」
「ありがと」
楸矢が礼を言うと美加は教室へ駆けていった。
放課後、校門のところで立ち止まって辺りを見回したが楸矢を捜してそうな他校の生徒は見当たらなかった。
この辺にはいくつか学校があるが近くの生徒なら制服でどこに通っているか分かったはずだから美加は学校名を言っただろう。
つまり、この辺の学校の生徒ではないということだ。
校門の前にいたそうだからここで待っていればそのうち来るだろう。
楸矢は校門の門柱にもたれた。
楸矢の高校は授業が終わるのが普通の高校より早い。放課後に各自が練習をするためだ。
美加の言っていた子が普通科の学校に通っているなら来るまでに時間があるだろう。
楸矢はスマホを取り出すとネットを見始めた。
「柊矢さん、今夜何か食べたいものありますか?」
「いや、特にない」
「今、筍が旬なので筍ご飯を作ろうと思うんですけど」
筍も結構重いのでこの前は諦めたのだ。
だが清美の言う通りそんなことを言って重い物を避けていたら旬の食材が使えない。
それはそれで柊矢達に申し訳ないだろう。
旬のもので作った方が美味しいのだし。
「いいな。他には?」
「後は売ってるものを見ながら考えます。食べたいものがあるならそれの材料買いますけど」
「どんな料理の材料もこの店で全部揃うのか?」
「足りないものがあれば向かいにもスーパーがありますから」
つまりスーパーから家まで真っ直ぐ帰ってきていたとは限らないということだ。
楸矢がよくリクエストしたりしているが、場合によっては足りないものを買うために真向かいとはいえ道路を渡ったところにある別のスーパーにも荷物を抱えて行っていたのだ。
楸矢が気付いてくれて良かった……。
「あ、ゴボウが安いですね。ゴボウでサラダか天ぷら作りましょうか」
小夜がゴボウの値段を見て言った。
「買うとき、いちいち値段まで気にしてたのか?」
「作りたいものがあるならともかく、なんでもいいなら高いものを買う必要ないですよ。野菜の価格は天候とかで変わるので、値段と質は関係ありませんから。少なくともこの店は」
小夜はゴボウを選びながら、
「サラダと天ぷら、どっちがいいですか? サラダならメインディッシュになるものを別に買わないと。天ぷらなら他にも何種類かお野菜買って、あとエビですね」
と言った。
食材の買い出しに一緒に来たのは初めてではないが小夜は今まで余り考えを口に出していなかったから夕食一回作るのにこんなに色々考えながら買い物をしているとは思わなかった。
これだけ苦労して作ってくれているのに何も考えずに食べていたと思うと申し訳なかった。
レジをすませると柊矢は卵のパックだけを入れたエコバッグを小夜に渡した。
小夜にも何か持たせれば荷物持ちをさせてしまうのは申し訳ないという思いが和らぐのではないかと考えて他の物と一緒にして壊れないようにと言う理由を付けて軽い卵のパックだけ渡したのだ。
柊矢が残りのエコバッグを持つと、小夜はいつものように「自分も半分持つ」とは言わずに先に出口に向かって扉を開けてくれた。
柊矢が一緒に帰るようになったのは買い物のためだと気付いたらしい。
楸矢が口実を思いつけずに毎回スーパーの前で待ち伏せしてたら当然か。
だが気付いたのだとしても小夜の性格ならやはり荷物を持つと言ってるところだ。
楸矢は清美と話をしていて買い物の荷物のことに気付いたと言っていた。
もしかしたら清美が小夜に遠慮しないように言ってくれたのかもしれない。
困ったな……。
楸矢は辺りを見回した。
小夜の歌声が聴こえるからもう帰宅して家で歌っているのだ。
なら他の高校も授業はとっくに終わっているはずだ。
スマホのバッテリー残量も少なくなってきた。
楸矢はモバイルバッテリーは持ち歩かない。
柊矢は音大をやめた後は楸矢がフルートの練習をする時は優先的に音楽室を使わせてくれていたこともあって学校へ行く以外で長時間外出することは滅多になかった。
通学は徒歩で三十分も掛からない。
学校以外で長時間の外出はせいぜいデートくらいだが、デート中にスマホは見ない。
だから外でスマホのバッテリー切れという事態は想定してなかった。
次は卒業式まで来ないし卒業したらもう高校に来ることはない。
だが高校には来ないが大学は同じ敷地内だ。
美加ちゃん、大学のことは教えたのかな。
音大に進んだことを教えたなら卒業式ですれ違いになっても大学の方に来るだろう。音大へは行かないかもしれないが。
しかし、どうしても会いたければ美加に連絡を頼むだろう。
学校だけで学年は知らなかったしメールでの連絡を断ったということはそれほど大事な用ではないのかもしれない。
楸矢はもう一度辺りを見回してからスマホをしまうと帰途についた。
小夜は料理をしながら、
「あの、柊矢さん」
近くに座っている柊矢に話しかけた。
楸矢はさっき帰ってきて部屋に入っていった。
「ん?」
「楸矢さん、彼女と上手くいってるんですか?」
「聞いてないが」
興味ないので聞こうと思ったこともない。
「そうですか」
小夜はテーブルの上に置いてある材料を手に取った。
小夜が料理しているのを見ていて作り始めたら冷蔵庫を空けることは滅多にないことに気付いた。
作ってる最中に一々冷蔵庫まで行くと言う無駄な動きをする必要がないだけではなく、小夜によると冷蔵庫を空ける頻度が少ないほど電気代が安く済むとのことだった。
買ってきたものを冷蔵庫に入れる時も必ず既に入ってる物を見て、場合によっては手前に置いたりしている。
何故毎日入れ替える必要があるのかと思っていたが、よく見ると日付の古い物や小さい物が大きな物の影に隠れないように配置している。
それを見て、小夜が来る前、冷蔵庫の中から十五年近く前の日付が書かれた謎の物体が出てきたことがあったのを思いだした。
十五年も前となると購入したのは祖父だろうが、買ったことを忘れ、その後、誰にも気付かれないまま放置されていたのだ。
祖父にしろ柊矢や楸矢にしろ、とりあえず適当に食材を買ってきてから何を作るか考えていたので使い道がないままのものがよく残っていた。
考えてみたらゴミ出しも小夜がしているが、ゴミ袋が重いのではないかと心配にならなかったのは楸矢と二人で暮らしていた頃よりゴミが少ないからだ。
料理では生ゴミがほとんど出てないし、食材の消費期限が切れて無駄になることもないしデリバリーも滅多に取らなくなったから空き箱などを捨てることもなくなった。それでゴミの量が大幅に減ったのだ。
家事もきちんとやるなると結構頭を使うんだな。
そんなことを考えながら、
「何かあったのか?」
と訊ねた。
「清美がこの前、楸矢さんと彼女が新宿駅の近くで喧嘩してるの見たって言ってたんです」
「駅前の路上で?」
「はい」
「呆れたヤツだな。そんなところで人目も憚らずに」
「それ、路上で小夜ちゃん抱きしめた柊兄にだけは言われたくないんだけど」
楸矢が廊下から言った。どうやら部屋から出てきてたらしい。
「しゅ、楸矢さん、どうしてそれを……」
小夜が真っ赤になった。
「清美ちゃんから聞いた」
柊矢のことを口に出すと亡くなった祖父のことに触れてしまうかもしれないから皆黙っているので学校中の生徒に見られていたことに気付いてないらしいと言っていたが本当だったようだ。
「清美……」
「清美ちゃん、なんて言ってたの?」
「駅の近くで喧嘩してるのを見かけたそうです」
「しょっちゅう俺達に文句言ってたのは自分が上手くいってないからか?」
「上手くいってたって柊兄達は痛すぎ」
楸矢の冷ややかな声で言った。
「上手くいってるんですか?」
小夜ちゃんまで、と言いかけて清美に聞いてくれと頼まれたのだと気付いた。
そもそも清美をうちに連れてきたのも楸矢に紹介して欲しいとせがまれたからだ。
清美に会ったことはなかったし、話した感じだと彼女がどこかで自分を見かけていたというわけでもなさそうだった。
多分、彼氏募集中ということだろう。
清美は可愛いし、友達思いでいい子だし、付き合ってみてもいいかなとは思うが聖子と別れるまでは無理だ。
二股をかけるのは嫌だし、それを抜きにしても親友が二股をかけられていたら小夜が胸を痛めるだろう。
まだ祖父を亡くした悲しみも癒えてないのに更に傷付けるような真似はしたくない。
楸矢の答えはそのまま清美に伝わるだろうから迂闊なことは言えない。
楸矢はテーブルの上に目を向けた。
「今日、親子丼?」
楸矢はテーブルの上の材料を見て訊ねた。
「はい。卵が旬なので」
「やった! おやつは?」
「今、用意しますね」
小夜は冷蔵庫を開けた。
話したくないと察してくれたのか小夜はそれ以上何も言わずにおやつの用意を始めた。
柊矢は彼女(沙陽)と別れたことがあると言っても先に向こうが二股の相手を選んだからだから交際相手と上手く別れる方法を聞いても無駄だろう。
そもそも友人も録にいないような柊兄に男女の機微が分かるかどうか……。
椿矢なら分かるだろうか。歳は知らないが大学を出ているようだから柊矢に近いはずだ。
それなら恋愛の一度や二度くらい経験しているだろう。
楸矢はスマホを取り出して椿矢にメールを送った。
楸矢がスマホをポケットにしまうと小夜が皿を前に置いた。
「これは?」
「豆苗の炒め物です」
「へぇ、いただきます!」
「あの、この前の音楽史の本なんですけど……」
「うん、どうかした?」
「後で見せてもらえないでしょうか?」
「いいよ。夕食終わったら持ってくよ」
「ありがとうございます」
小夜は夕食の支度に取りかかった。
夕食後、楸矢が音楽史の入門書を持って小夜の部屋の戸をノックした。
「わざわざすみません」
「気にしなくていいよ」
小夜は本の表紙に目を落とした。
しかしムーシカも浮かんでこないしクレーイスも反応しない。
小夜は表紙の写真を指した。
「これ、壁画ですか?」
「え、それは……。柊兄、ちょっといい?」
楸矢は柊矢の部屋の戸をノックした。
「なんだ」
部屋の中から柊矢のぞんざいな声が聞こえた。出てきそうにない。
「小夜ちゃんが……」
「え?」
小夜が目を丸くした。
「何かあったのか?」
柊矢がすぐに出てきた。
これだよ……。
「柊兄、これ、なんだか分かる?」
「小夜とどういう関係があるんだ」
柊矢が楸矢を睨み付けた。
「小夜ちゃんに聞かれたんだよ」
「お前、答えられなかったのか!」
「と、とりあえず、小夜ちゃんに教えてあげてよ」
「あ、お仕事中なら後でも……」
小夜が取りなすように言った。
柊矢は本の表紙に目を落とした。
「これはウルのスタンダードだな。用途は不明だが、今は箱状に復元されていてこの写真は『平和の場面』と呼ばれるものだ。反対側に『戦争の場面』がある」
「用途が分からないならなんで音楽史の本の表紙に……あ、ここに竪琴が映ってるからかな」
「ウルのスタンダードは楽器の共鳴胴だったんじゃないかって説があるからだ! 高校の音楽史で習ったはずだぞ! お前、授業に出てなかったのか!」
「出席はしてたよ! 覚えてなかっただけで……」
その言葉に、柊矢は授業で聞いたことを覚えてないなんて信じ難いという表情で楸矢を見た。
楸矢も胸の中で溜息を吐いていた。
柊矢は本当に音楽以外、何も見えていなかったらしい。
楸矢に授業で聞いたことを全て覚えてられるだけの記憶力があればあんな成績になるはずがない。
楸矢はムーシカの話が出来るから辛うじて相手にしてもらえてただけで、基本的には視界に入ってなかったのだ。
だから楸矢の成績がどれほど悪くても気にならなかったし、どうでもいいから叱らなかった。
小夜を好きになったことで、やっと他の人間に気付いたのだ。
もちろん他人が存在すること自体はずっと前から知ってはいたが、道路を舗装しているアスファルトみたいなものだったのだ。
だから自分を追いかけ回している女の子達にも気付かなかったし、調弦や解釈の違いで喧嘩することもなかった。
道路を意識したりはしないし喧嘩もしない。
頭が良くて知識は豊富だから〝家族〟という概念は知っていたし、楸矢がそれに当たるものだということも分かっていたが、あくまでも〝知っている〟と言うだけだったのだ。
他の人間との違いは同じ家に住んでいて養う必要があったということだ。
最近になって――と言うか小夜に対する感情によって――ようやく概念上の〝家族〟が実感として身に付き、意識が向き始めたのだ。
それで楸矢の存在を認識するようになり態度が変わってきたのだ。
成績のことで怒るようになったのもそのためだろう。
小夜ちゃんって結構成績いいからなぁ。
柊矢の知っている人間は自分以外では小夜だけだから、基準が小夜と自分なのだろう。
柊矢の一般科目の成績も〝音楽科にしては〟というレベルを超えて良かったから普通科へ行っていたとしても成績優秀だったに違いない。
十八年以上も一緒に暮らしてきたのに、まともに認識されてなかったなんて……。
これって、何気に叱られるより堪えるな……。
捨て猫には気付いて拾ってきていたことを考えると楸矢は猫以下ということになる。
家族ですら視界に入ってないなんて、地球人ならあり得ないあろう。
家族に〝感心がない〟としても一緒に暮らしていながら〝存在に気付いてない〟人間がいるとは思えない。
椿矢が柊矢は典型的なムーシコスだと言っていた。
それが事実だとしたらムーシコスというのは本当に異星人なんだと痛感させられる。あまりにも地球人とは違いすぎる。
ここまで他人が見えてない者によくクレーイス・エコーを選ばせようなんて思ったな。
やはりムーシケーの意志は楸矢の想像の範疇を超えている。
榎矢の言うとおり、楸矢はかなりムーシコスの血が薄いのだろう。
クレーイス・エコーなのも柊矢のおまけのみたいなものに違いない。
「あの、共鳴胴っていうのは……」
小夜が二人の間に割って入るように言った。
「糸(弦)を弾いても大きな音は出ないだろ。音を響かせるために共鳴の原理を使って弦の振動を増幅させるものを共鳴胴って言うんだ。ヴァイオリンの胴とかがそれだな」
小夜に意識が向くと柊矢の声が穏やかになった。
楸矢は再度胸の中で溜息を吐いた。
マジで柊兄にとって人間って小夜ちゃんだけなんだ……。
柊矢にしてみたら楸矢も沙陽も喋るイスかテーブル程度の存在なのだ。
それでも話しかければ返事をしてもらえる分、道路並みの女の子達や弦楽四重奏の仲間達よりはマシなのだから頭痛がしてくる。
小夜が困ったように本の表紙に目を落とした。
「これ、どのくらいの大きさですか?」
小夜は柊矢を見上げた。
「大きめのノートパソコンより横幅が少し長い程度だったはずだが」
「じゃあ、ヴァイオリンよりは小さいって事ですよね? 持ち歩いて演奏とか出来たって事ですか?」
「胴の部分だけを比較するならヴァイオリンよりは少し大きいな。ネックがあるから全長はヴァイオリンの方が大きいが。演奏は……、そういう説があるってだけで本当に楽器だったかどうか分かってないからな」
小夜はもう一度本に目を落とした。
そういえば、さっき楸矢が竪琴と言っていた。
確かに一番上の段の右端に竪琴のような物を持った人物が描かれている。
「これ、竪琴ですよね? ここに書いてあるってことはウルでは竪琴が使われてたってことですか?」
「ああ。それと同じものがウルの王墓から出土しているし、イラクから出土した粘土板にはリラのチューニング法が書いてあったそうだから実際の演奏に使われてたのは間違いないようだ」
ウルがイラクにあるのかどうか聞いたりしたら雷が落ちるのは間違いないよな……。
どうせイラクがどこにあるのかもよく分からないし。
後で検索しておこう。
小夜は学校でクレーイスから聴こえた楽器の音を思い出そうとしてみた。
途切れ途切れだったし、芸術の授業があるとはいえ小夜は楽器の知識が皆無に等しい。
弦楽器らしいと言う以上のことは分からなかった。
竪琴なら弦楽器だけど……。
小夜は首からクレーイスを外すと音楽史の本と一緒に柊矢に手渡した。
「何か聴こえますか?」
柊矢は手の中のクレーイスを見下ろした。
「いや……」
そう言って楸矢に本とクレーイスを手渡した。
楸矢も左手の本を見ながら手のひらのクレーイスを何度か握ったりしてみたが何も聴こえなかった。
楸矢は首を振ると小夜に返した。
「何か聴こえるのか?」
「いえ、今は何も……。ただ、昼間学校にいるときに少しだけ聴こえてきたんです。歌詞はほとんど聴き取れなくて、楽器は弦楽器みたいな感じでした」
小夜の言葉に柊矢と楸矢は顔を見合わせた。
「小夜、聞いてくれた?」
小夜が席に着くなり清美が訊ねてきた。
「ごめん、まだ」
そう答えると清美が身を乗り出してきた。
「小夜、楸矢さんと一緒に暮らしてるんだから機会なんかいくらでもあるでしょ」
他の人に聞こえないように声を潜めて言った。
「今、楸矢さん、大学の準備で忙しいみたいなの。毎日出掛けてるし」
「食事中まで入学の準備してるの?」
「そうじゃないけど……」
小夜の困ったような顔を見ると清美は溜息を吐いた。
「しょうがない、香奈の親戚の家に行って楸矢さんの彼女になれるようにお参りしてくるしかないか」
清美はそう言うと次の授業の準備を始めた。
清美はどうやら分かってくれたようだが問題は香奈だ。
学期末試験の点数が悪かったから勉強しないといけない、と言うのは無理だ。
小夜の高校はホームルームのクラスは同じでも授業は定期試験ごとにクラス編成し直される。
一番成績の悪いクラスに入れられているならともかく、どの教科も香奈より上のクラスにいるから試験の点数は言い訳に出来ない。
何より、この前の試験で香奈が出来なかった問題を教えたのは他ならぬ小夜だから点数が良かったのはバレている。
春休みは課題や補習もあんまり多くないし……。
先生に自分にだけ課題を沢山出してくれるように頼んでみようか。
どうせ春休みにやることは歌うことと家事の他は勉強くらいだ。
一日中家にいるのだから普段より歌う時間は長く取れるだろう。
柊矢も春休みが始まる頃には確定申告が終わって一息ついているからムーシカを奏でる時間はたっぷり取れると言っていたし。
でも、一日中歌ってるのは楸矢さんに申し訳ないし、普段より多めに掃除の時間を取った方がいいかな。
ただ課題を理由に断って香奈が、なんで小夜だけ多いんだ、などと捩じ込んだりしたら先生に迷惑がかかる。
塾へ行くという言い訳も使えない。
小夜の通ってる高校は塾へ行く生徒がほとんどいないのだ。
課題と補習が多い上に進学先に合わせた指導をしてくれるから塾へ行かなくても難関大学の合格率が高い。
普通の生徒でさえ行かない塾に、養ってくれる祖父が死んで遺産だけしかない小夜が通うというのは無理がある。
そういえば、お祖父ちゃんの四十九日の法要、初七日の時に一緒に済ませたってこと教えたっけ?
菩提寺がどこかは言ってないが、葬式の日に一日休んだだけで初七日は日曜にやったから学校は休んでない。
いつ初七日をしたのかも話してないが、学校を休んでないのだからお寺が日帰り出来る場所にあるということは見当が付くだろう。
泊まりがけで墓参りというのは無理があるが、法事なら準備なども必要だし日にちをずらすことも出来ない。
皆、亡くなった祖父のことには触れないようにしているから法事と言えば納得してくれるはずだ。
死んだお祖父ちゃんを何度も言い訳にしちゃうのは申し訳ないけど……。
でも、お祖父ちゃんもお世話になってるうちの家事をサボって遊びに行くのは良くないって思って許してくれるよね。
「小夜、旅行のこと、聞いてくれた?」
小夜が法事と答えようとしたとき、突然クレーイスが光った。
え……。
この前、従兄の写真を見たときのムーシカが聴こえてきた。
しかし香奈の手にスマホはない。
今、ムーシコスがムーシカ奏でてるのに……。
つまりこのムーシカが聴こえているのは小夜だけなのだ。
途切れ途切れで歌詞もよく分からない。
楽器は弦楽器のようだがそれ以上のことは分からなかった。
既存のムーシカではないが、かといってムーシケーのムーシカでもない。
ムーシケーのムーシカなら伝わってくるのは旋律と歌詞で、楽器の演奏や歌声が聴こえてきたりはしない。
香奈以外で側にいるのは隣の席の清美だけだ。
清美は歌で告白したと聞いて本気で「信じられない!」という表情をしていたから間違いなく地球人だろう。
そもそもムーシコスなら歌で心の内を伝えてしまったと聞けば前の晩に聴こえたムーシカを歌っていたのが小夜だと気付くはずだ。
ムーシコスの奏でているムーシカはまだ聴こえている。
「香奈、どこかから音楽、聴こえない?」
「音楽? 聴こえないけど、なんで?」
「歌みたいなのが聴こえるから。……誰かのスマホかな」
「そうじゃない? 今は聴こえないでしょ」
「うん。止まった」
聴こえているのに惚けているという様子もない。
香奈も地球人だろう。
この前このムーシカが聴こえてきたのは香奈の従兄の写真を見せられたときだ。
「香奈の従兄も海外旅行、行くんだよね?」
「でなきゃ留守番頼まれたりしないよ。家族全員で行って誰もいなくなるから頼まれたんだよ」
「だよね」
小夜は考え込んだ。
旅行でいなくなるなら従兄も関係ないだろう。
「もしかして、彼と上手くいってないから従兄紹介して欲しいとか?」
「まさか」
小夜は慌てて首を振った。知らない男の人と会わされるなんて冗談ではない。
「旅行のこと、今日柊矢さんに聞いてみる」
小夜は思わずそう答えてしまっていた。
「お願いね」
香奈がそう言ったとき予鈴が鳴った。
「え、彼女との別れ方? 大学のことかと思った」
椿矢が意外そうに言った。
「しかも、柊矢君と同い年って、柊矢君、君がそんな年上の相手と付き合ってるって知ってるの?」
柊矢と小夜の方が年の差は大きいとは言っても、楸矢が彼女と付き合いだした頃は柊矢と小夜はまだ出会ってもいなかった。
楸矢は、柊矢が弟ですら視界に入ってなかったらしいと言う話をした。
「俺がフルートに打ち込んでると思ってたから怒らなかったんじゃなくて、まともに認識されてなかっただけだった。家族すら見えてないって、なんて言うか、ムーシコスってホントに異星人だったんだなって……」
楸矢はがっくりと肩を落として言った。
「お祖父さんが亡くなって柊矢君と二人になったってことは、ご両親はその前からいなかったんだよね?」
「うん」
「そっか、周りにムーシコスがいなかったんじゃ分からないよね」
「やっぱ、ムーシコスって皆こんななんだ」
「うん、まぁ……。そうなんだけど……話には聞いてたけど皆大袈裟に言ってるんだと思ってた」
「どういうこと?」
一族の中でも特にムーシコスらしいムーシコスというのは、ムーシコスにすら変人扱いされるほどムーシカ以外のことには関心を示さないと聞いていた。
パートナーだけは例外だが。
だが椿矢はそんなムーシコスに会ったことはなかった。
だからオーバーに言ってるか、昔いた変わり者の話に尾ひれが付いただけだと思っていた。
「榎矢とか沙陽とかが、やたらムーシコスってことに拘ってたけど、僕も含めて皆相当地球人に近くなってるんだね。そこまで他人が見えてない人なんて、雨宮家にはいないし、多分霍田家にもいないよ。榎矢が小夜ちゃんのこと先祖返りって言ったけど、それは柊矢君の方だね」
小夜は周囲に気を遣いすぎるくらいだと言う話だから他人は見えている。
楸矢が、柊矢はすごい才能があったと言っていた。
家族の贔屓目で良く見えていたのではなく、本当にかなりの才能があって、しかも音楽をやっていたにも関わらず音楽家になりたかったわけではないというのも執着心のなさの表れだろう。
音楽家の肩書きは演奏そのものではない。
柊矢の関心は演奏自体だから音楽家と言う肩書きやそれに伴う称賛や名声などという付随事項はどうでもよかったのだ。
「つまり、あんたが前に言ったとおり、ムーシコスらしいムーシコスってこと?」
「多分、ムーシケーにいた頃のムーシコスに一番近いのが柊矢君だと思うよ。近いって言うか、案外そのまんまなのかもね。だから、クレーイス・エコーに選ばれたのかも」
「でも、家族でさえ眼中に入ってないんだから赤の他人なんか完全に見えないでしょ。それでどうやってクレーイス・エコー選ぶのさ」
「小夜ちゃんは見つけたでしょ。それに、沙陽と付き合ってたってことは、一応沙陽だって視界の隅くらいには入ってたってことだし。ムーシカしか頭にないからこそ、ムーソポイオスだけは見えるよ」
椿矢の言葉を聞いて納得した。
確かに地球の音楽と違って演奏だけのムーシカはない。
必ず歌詞が付いている。
歌うことが大前提なのだからそういう意味ではキタリステースにとってムーソポイオスは特別な存在だ。
「ま、それはおいといて、別れたいのは冷めたから?」
「冷めたって言うか……」
よく行く喫茶店で何度か顔を合わせるうちに親しくなった。
それで、お互い軽い気持ちで付き合おうと持ちかけられたので承諾したのだ。
そのときは特に好きな子もいなかったし美人で大人の女性と付き合うのも面白そう、くらいの気持ちだった。
だが向こうが本気になってしまった。
婚活していると聞いたときは、なら近いうちに別れ話を切り出してくるだろうと思っていたのだが、どうやら遠回しなプロポーズの催促だったらしい。
「結婚する気ないの? 今の話だと柊矢君は反対しそうにないけど」
「元々別れるの前提だったから付き合ったんだし、この歳で結婚する気なんてないよ。大体、向こうは社会人なんだから結婚したら食べさせてもらうことになるじゃん。俺、大学は行きたいから卒業まで働けないし、ヒモになる気ないし」
今は女性が働いて男性が家事をする家庭もある。
家族を養うのは男の方という考えは古い。
働きながら大学へ通う者もいるが、話を聞いた感じだと楸矢の成績では仕事をする余裕などないだろう。
両親というものを知らず、育ての親だった祖父も小学生の時に亡くして、その後は無関心な兄と二人だったのだから普通の家庭に対する憧憬は人一倍強いに違いない。
憧れが強い分、妥協はしたくないのだろう。
それに小夜の手料理に喜んでいるということは今の彼女は料理が出来ないのだろうが、料理が作れるという条件は外せないようだ。
だが料理をするのは女性というのも古い。
正直なところ、こんな古い考えの楸矢の理想にあう女性が見つかるのか心配になってくる。
「それに今、付き合いたいと思ってる子がいるから、聖子さん、早く結婚相手見つけてくれないかなって思ってたんだよね」
「結婚する気がないってことは言ったの?」
「言ったし、別れたいってことも何度もはっきり言った。聖子さんが諦めてくれないと、その子と付き合うどころかお茶すら一緒に出来ないよ」
「へぇ、別れたいと思う相手でも、ちゃんと別れるまでは他の子とお茶もしないなんてすごい貞操観念だね」
椿矢が感心したように言った。
「そうじゃなくて、聖子さんが何しでかすか分からないから。付き合ってたときから俺の周りの女の子達、片っ端から脅してたからさ」
「……それ、最初から軽い気持ちじゃなかったんじゃないの? 大の大人が高校生相手に本気だなんて言ったら引かれると思ったからそう言ってただけで」
「あ、やっぱ、あんたもそう思う?」
「うん」
椿矢の返事に楸矢は頭を抱えた。
「アドバイスくれない? 聖子さん、あんたと歳近いでしょ。なんて言えば諦めてくれるの?」
「ごめん、振られるか自然消滅しか経験したことないから、こっちから別れ話したことないんだよね」
いつも相手から告白されて付き合い始めるものの、しばらくすると振られてしまうか気付いたら他の男に乗り換えられていたと言うパターンばかりだった。
椿矢は人当たりがいいのと中性的な容姿のせいで優しそうな印象を与えるが、実際はリアリストでかなりシニカルな上に言うことも辛辣だ。
間違っても優しい人間ではない。
人当たりがいいというのも、どうでもいい相手だからトラブらないように当たり障りのない態度をとっているに過ぎない。
他人にはあまり関心がないから彼女相手にもかなり淡泊に接する。
もっとも柊矢は特に顕著だがムーシコスは恋人に対してはかなり愛情深い。ラブバードに例えられる所以だ。
だから椿矢は単に本気になったことがないだけなのかもしれない。
その上、彼女に対してはさすがに控えるものの他人――特に榎矢――に対する冷淡な態度やキツい皮肉や嫌みにショックを受ける女性は多かった。
優しげな外見とのギャップが大き過ぎるのだろう。
そのため女性からもっと優しい人だと思ってたと言われて捨てられてしまうのだ。
「参ったなぁ……」
「悩んでるときにこんなこと聞くの、気が引けるんだけど、楸矢君のご両親がいなくなったのっていつ? 離婚とかじゃなくて二人とも亡くなったの?」
「二人揃って俺が生まれてすぐに事故で死んだって聞いたけど」
「事故?」
「うん、交通事故だって」
「そう」
祖父が亡くなったのも交通事故だと言っていたが、病気以外で早死にと言えば事故死が殆どだろう。
事故なら交通事故が圧倒的に多いから不自然ではないのだろうが……。
生まれた直後に両親を亡くし、育ての親だった祖父も小学生で失って、親戚もおらず――雨宮家は親戚だが――、弟に無関心な兄と二人暮らしだったのなら多分年上に甘えたことは無かっただろう。
大人の女性に迫られて付き合おうという気になっても仕方ない。
関心が無かったとはっきり分かったのが夕辺だとしても薄々は感付いていただろう。
いくら楸矢を養っていくために働いていたと言っても実技重視で一般科目は参考程度にしか見ないエスカレーター式の大学へ進むのも危ないくらいだったのなら入学当初――下手したらそれ以前――から成績は良くなかったに違いない。
だとすれば学校から何度も連絡が行っていたはずだ。
それで何も言われないのは気楽でいいとはいえ、やはりなんでこれで怒らないのかと普通は考える。
柊矢を擁護出来る点があるとすれば私立高校へ何も言わずに通わせていたというところだ。
普通科の高校でも私立は高いが音楽科は授業料以外でも色々と金がかかる。
楸矢の高校の学費は施設使用料その他を含めるとかなり高い。しかも、おそらくそれはあくまでも基本的な金額だ。
どこの学校でも公式サイトに書いてある以外の出費はあるし、音楽科となるとその金額は桁違いだろう。
この前、仕立屋に行ったと言っていたがパーティや演奏会に着ていくものなら高級品に違いない。一着でも相当な金がかかるだろう。
柊矢に才能があったのなら自分がやっている楽器ではなくても音の良さには拘ってフルートも良いものを買い与えていたはずだ。
楸矢は楽器の値段がそのまま音に跳ね返ってくると言っていた。
楸矢に才能があるなら楽器の性能に足を引っ張られないためにはかなり高価なものでなければならないはずだ。
だとしたら楸矢が使っているフルートも相当高額なものだろう。
楸矢は良いものは下手な家より高いといっていた。
さすがに家より高価なものという事はないだろうが、高いフルートを買い与え普通のサラリーマンだったら子供によほどの才能がない限り行かせるのを躊躇うような私立高校へ通わせていたのだ。
いくら関心がないからどこへ行こうと気にしないとはいっても無い袖は振れないのだから多少無理してでも稼いでいた可能性はある。
楸矢にも才能があるようだが、仮に無くても柊矢は楸矢が希望すれば何も言わずに行かせていただろう。
おそらく楸矢は金の心配をしたことはないはずだ。
子供に金の心配をさせないというのは簡単に出来ることではない。
特に金のかかる私立高校や大学に行かせるとなれば尚更だ。
少なくとも愛情以外の部分では楸矢に不自由な思いはさせてなかっただろう。
関心のなさについては、そもそもムーシコスというのはそういう生き物だから仕方ない。
ムーシコスとしての特徴が顕著な者と地球人に限りなく近い者が兄弟として生まれてきてしまったのが不幸な巡り合わせだったとしか言いようがない。
「一応、女性関係が派手な友人がいるから上手い別れ方、聞いておくよ」
「お願いします」
楸矢は頭を下げた。
真面目な顔で敬語を使うなんて相当切羽詰まっているようだ。