序章 歌のふる里 あらすじ
短編形式の歌のふる里のあらすじです。
歌のふる里を読んで下さった方は飛ばして下さい。
一
風の中に歌が聴こえる。
いつも聴こえる美しい旋律の歌。
どこにいても聴こえるのに、どこを捜しても歌っている人間を見つけることが出来ない。
誰かが歌い始めると、それに誘われるようにして見えない歌い手達が次々と歌に加わっていく。
複数の蝶が戯れるように主旋律を歌う者が何度も交代し、それに多重コーラスが重なる。
古い賛美歌のようでもあり、どこかの国の民族音楽でもあるような独特の旋律の歌だった。
歌詞も基本的にはどこの国のものか良く分からない不思議な言語だが、稀に英語など知っている言葉のときもある。
霧生柊矢は仕事が終わり中央線に乗って新宿に向かっていた。
美しい歌声と楽器の音色が聴こえている。
車内には大勢の人がいるがこの歌が聴こえているのは柊矢だけだろう。
新宿駅で電車から降りた時、いつもと違い歌声が聴こえてくる方角が分かった。
西だ。
今までどこから聴こえてくるのか分かったことはない。
もしかして……。
柊矢は声の方に向かって歩き出した。
新宿の地下道が地上の道路になったところで頭上から歌声が聴こえてきた。
柊矢が都庁脇の陸橋を見上げると高校の制服を着ている少女の姿が目に入った。
間違いない。
歌っているのは彼女だ。
柊矢が近付いていくと少女は真っ赤になって逃げてしまった。
翌日、また彼女が歌いに来るかもしれないと思って都庁に向かうと歌声が聴こえてきた。
彼女は最初は恥ずかしそうにしていたものの慣れると柊矢が側に行っても歌い続けるようになった。
少女が歌い柊矢が近くで聴く。
会話もなくただ側で聴いているだけの日々が続いたある日、二人の前に白く半透明な巨木の森が出現した。
柊矢が小さい頃から何度も目にしてきた森だ。
この森も見えるのは柊矢と楸矢だけだった。
だが少女にも見えたらしい。
少女が歌いながら森に入っていこうとしたので急いで止めた。
以前、柊矢の知り合いがこの森に入ったまま帰ってこなかったのだ。
柊矢がそう言って止めると少女は素直に頷いた。
その晩、西新宿にある霧生家所有のアパートの近くで火事が起きているという連絡を管理人から受けて駆け付けた。
火事はアパートの二軒隣の一戸建ての家だ。
柊矢が様子を見に行くと燃えている家の前にあの少女がいた。
呆然として燃えている家を見ている。
「誰か中に残ってるか!?」
消防士の声を聴いた瞬間、少女が我に返った表情で家に向かって駆け出そうとした。
「待て!」
柊矢は慌ててそれを止めた。
「離して! お祖父ちゃんが中にいるの! お祖父ちゃん!」
少女は柊矢の腕の中で藻掻きながら必死で叫んでいた。
延焼こそしなかったものの少女の家は全焼した。
鎮火した後、焼け跡の中から遺体袋が運び出された。
少女はそれを見た瞬間、気を失った。
柊矢は救急車で運ばれる少女に付き添って病院まで行った。
警察の事情聴取にも立ち会い、そこで少女の名前が霞乃小夜と知った。
彼女は両親がおらず祖父と二人暮らしだったらしい。
警察に頼れる人はいるかと訊ねられ心細そうな表情で首を振っているのを見たとき咄嗟に、
「俺が……」
と言っていた。
柊矢は救急車に同乗してきたから身内だと思われていたらしい。
警官はすぐに承諾した。
霧生楸矢は授業が終わるとスマホを取り出した。
見ると柊矢からメールが来ている。
柊矢は夕辺、火事の様子を見に行くと言ったまま帰ってこなかった。
もう高校三年だし一晩くらい保護者が留守にしたところでどうということもないのだが出掛けた理由が火事だ。
霧生家所有のアパートではなかったようだが柊矢がわざわざ見に行かなければならないほど近かったのなら何らかの理由で火事に巻き込まれた可能性は十分考えられる。
それで心配していたのだがメールには霞乃小夜という高校生の面倒を見ることになった、彼女は〝鳥〟だと書いてあった。
〝鳥〟とは柊矢と楸矢の間で使っている見えない歌い手を指す隠語だ。
育ての親である祖父は楸矢がどれほど酷い成績を取ろうが家に帰るのが遅くなろうが叱らなかった。
その祖父が唯一怒ったのが〝歌〟の話をしたときだ。
しかし他の人間には聴こえない歌が聴こえるのは何故かという疑問はどうしても湧く。
聴こえるのが自分だけなら幻聴で終わるが柊矢にも聴こえるのだ。
聴こえているのは同じ歌である。
何度か聴こえているときに一緒にその旋律を演奏してみたから間違いない。
幻聴なら同じ曲のはずがない。
しかし他に聴こえる人に会ったことがないのも事実だ。
柊矢がどうやって見付けたのかは分からないが三人目の聴こえる人――というか歌っている人――と言うのは興味がある。
柊矢と楸矢には親戚が一人もいない。
一人でも頼れる大人がいれば祖父が亡くなったとき柊矢は音大をやめずにすんだ。
当時の成人は二十歳からで柊矢はまだ十九歳だった。
柊矢には妬ましいくらい音楽の才能があって将来有望なヴァイオリニストだと言われていた。
だがそのとき楸矢はまだ十一歳。
小学生だった。
柊矢もぎりぎりでまだ未成年だったから楸矢を施設に預けてそのまま大学を続けても誰も責めなかっただろう。
だが柊矢は音大もヴァイオリンもやめて普通科の夜間大学に入り直し、祖父がやっていた不動産管理の仕事を引き継いだ。
遺産相続の手続きの途中で成人したので柊矢は楸矢の未成年後見人になった。
あのままヴァイオリンを続けていれば柊矢は今頃ヴァイオリニストになっていたはずだ。
なのに自分のためにそれを諦めた。
だからせめて自分が代わりにプロの音楽家になろうと必死でフルートの腕を磨いてきた。
だがやればやるほど柊矢の実力の違いと自分の限界が見えてしまう。
楸矢はプロになれたとしても良いとこ音楽家の末席に名を連ねられるかどうかだ。
それで兄の代わりになったと言えるのだろうか。
楸矢はずっとその事で悩んできた。
だが、それはともかく〝鳥〟には会ってみたい。
今日のフルートの練習は家ですることにしよう。
霧生家は新宿の住宅街にある一戸建てだった。
新宿の住宅地の一戸建てというと高そうに聞こえるが霧生家を購入したのは曾祖父である。
祖父も柊矢も譲り受けたに過ぎない。
家自体は大して広くはないにも関わらず一階の一番大きな部屋が完全防音の音楽室だった。
音楽室にはグランドピアノもあるのだが柊矢に聞いたところ誰かが弾いているのは見たことがないらしい。
柊矢も楸矢も物心ついた頃から楽器を習っていた。
柊矢はヴァイオリン、楸矢はフルートである。
幼い頃から習わせるのは親が子供を音楽家にしたいと思っている場合が大半だから父か母のどちらかが音楽家志望だったのではないかと思うのだが……。
二
帰宅すると見知らぬ少女が料理をしていた。
「君が……鳥さん?」
「は?」
少女が目を丸くした。
当然か。
〝鳥〟は柊矢と楸矢、二人だけの隠語だ。
「君、歌ってる人だって柊兄から聞いたけど」
「はい、そうです」
「霞乃……さやちゃん? さよちゃん?」
「さよです」
「小夜曲の小夜か」
「小夜曲?」
「セレナーデのこと。君が歌う人だからその名前にしたのかな」
「さぁ? 名前の由来については聞いてなかったので……」
小夜はそう言って鍋を覗き込むように楸矢に背を向けた。
やば……!
亡くなった祖父以外に頼れる大人がいないと言うから柊矢が連れてきたと書いてある。
ならば両親とも幼い時に死に別れたと言う事だ。
楸矢は慌てて話題を変えた。
「そうそう、歌う人なんだよね。俺達は鳥って呼んでたんだ。元はバードなんだけどね」
「バード?」
「バードは鳥って意味もあるけど、吟遊詩人って意味もあるんだ。人前で話をするとき、バードより鳥の方が人の注意を引かないでしょ」
小夜が納得したように頷いた。
「でも、君は吟遊詩人って言うより小鳥ちゃんだね」
「小鳥ちゃんって……同い年ぐらいじゃないですか」
小夜の言葉に苦笑した。
楸矢は童顔だからいつも実際より若く見られる。
そうこうしているうちに料理が出来て三人は夕食の席に着いた。
「焼け跡から耐火金庫が見つかった」
柊矢がリビングで学校から帰ってきた小夜に告げた。
警察などからの連絡は全て柊矢にするように頼んである。
「君が良ければ中身を調べて、保険の請求なんかをやっておくが」
普通の女子高生に保険の請求の仕方などが分かるとは思えないし、どちらにしろ未成年では手続きが出来ない。
まず未成年後見人になってくれる人を探す必要がある。
柊矢はついこの前まで楸矢の未成年後見人だったし、仕事の関係で弁護士や計理士などもいる。
それに祖父が亡くなったときに遺産関係の手続きもしたからその手のことには慣れている。
「すみません、よろしくお願いします」
小夜は申し訳なさそうな表情をしながらも頭を下げた。
柊矢は耐火金庫の中にあった書類を調べた。
通帳と実印、生命保険、火災保険など各種保険のと一緒に古い養子縁組の書類が出てきた。
小夜が三歳の頃、彼女は養子に行くことが決まっていたらしい。
その時の書類だった。
理由は分からないが養子縁組は止めたのだ。
にも関わらず書類を保管してあったのは自分に何かあったとき小夜を託せるようにだろう。
つまり頼れる人間は一人もいないのだ。
「金庫の中から出てきた実印だが俺が預かっていていいか?」
柊矢が訊ねると小夜はすぐに、
「はい、お願いします」
と答えた。
話が終わると小夜はしばらく躊躇っている様子を見せた後、
「あの、金庫の中に……写真はありませんでしたか?」
と訊ねてきた。
「写真? 君のお祖父さんは値打ちのある美術品を持っていたのか?」
柊矢の問いに小夜は慌てて首を振った。
「いえ……すみません、忘れて下さい」
小夜はそう言うと部屋に戻っていった。
柊矢は小夜の遺産相続の手続きをする前にまず本当に親戚がいないか年の為、調査をした。
縁を切っていただけで実の子――小夜の親か伯父伯母――がいた場合、無断で相続の手続きをしてしまったらトラブルになる。
小夜の住んでいた家は土地も含め彼女の祖父が所有していた。
場所は新宿駅まで徒歩十分ほど。
土地だけでもかなりの資産なのだ。
縁を切ろうが遺言書を残そうが小夜の祖父の子供なら相続権があるから先に確認しておかなければならない。
調べいるうちに小夜の質問の意味が分かった。
小夜の祖父は一人娘を幼い頃に養子に出していた。
小夜の母である。
そして養子に出した後は一切の連絡を取っていなかったから小夜の両親が小夜を遺して死んだとき祖父に連絡が行くまでに数ヶ月かかったらしい。
その間、小夜は福祉施設に預けられていた。
小夜の両親が借りていたアパートは借主がいなくなったという事で荷物は全て処分されてしまっていたのだ。
写真一枚残さず。
幼い頃に養子に出して関係を断ち切っていたなら祖父も小夜の両親の写真を持っていなかったはずだ。
小夜の両親が亡くなったのは二歳の時だから彼女は親を覚えていないだろう。
その上、写真が無かったのだとしたら小夜は両親の顔を知らないと言う事になる。
そして小夜は母親が幼い頃に養子に出されたことを知らなかったのだろう。
小夜の性格からして自分から聞くことは出来なかったのだろうが住んでいたのは小さな家だ。
祖父がいない時に写真がないか探したことがあったのだろう。
それで見付からなかったから金庫に入っているかもしれないという僅かな望みに縋ったのだ。
小夜の両親がなくなったのはSNSがほとんど普及してなかった頃である。
TwitterもFacebookも無かったから個人でHPなどを作っていない限りネットに写真を投稿することなど無かった。
柊矢はネット上に残ってないか探してみたが見つかったのは事故の記事に載っている顔写真だけだった。
父親は運転免許の写真らしく顔はなんとか分かるが母親の写真は誰かがガラケーで撮ったものらしく画像が粗くてどんな顔かよく分からない。
小夜にそれを話すと予想通り母親が養子に出されていたことは知らなかった。
記事に載った写真は見付かったと言うと考えさせて欲しいと言う答えが返ってきた。
小夜は母親が養子に出されていたという話がよほどショックだったのか時折一人で泣いているらしくたまに目が赤くなっていることがあった。
本人は隠しているつもりらしいので柊矢も楸矢も気付かない振りをしていた。
ただでさえ祖父を亡くした悲しみが癒えていないときに追い打ちを掛けてしまった。
黙っているべきだったのだろうが柊矢は今まで人の気持ちを慮ったことがない。
楸矢の気持ちすら考えたことはない。
大学時代に付き合っていた彼女は柊矢の無関心さにしょっちゅう腹を立てていたがどうでも良かったから無視していた。
初めて配慮したいと思った相手が小夜だが今まで人付き合いを碌にしてこなかったからどう対応すればいいのか分からない。
黙って写真だけ見せれば良かったのかもしれないが、それで何故記事の写真しかないのかと訊ねられたら話してしまっていただろう。
三
保険などの手続きで小夜を伴って銀行や保険会社などを回っていたとき、ふとポケットに手を入れると祖父の遺品にあったペンダントが入っていた。
白い半透明の珠が付いたものだ。
なんとなく小夜が持ち主に相応しい気がして彼女に渡した。
「これは……」
「お守りだ。持ってろ」
せめてこれ以上小夜が傷付かずにすむように……。
ある日、柊矢が家で仕事をしていると小夜から電話が掛かってきた。
今聴こえている歌を歌っている男性が中央公園にいるというのだ。
小夜はそこにいるらしい。
電話の向こうから微かに肉声も聞こえてくる。
柊矢は中央公園に向かった。
近くまで行くと柊矢にも歌っている方角が分かった。
小夜の時と同じだ。
柊矢が声のする方へ行くと小夜がいた。
男性の歌が終わると柊矢と小夜は顔を見合わせた。
この男性も聴こえる人だ。
と言うか歌う人だ。
声を掛けるべきか迷っていると男性の方から近付いてきた。
「歌、聴いて来たの?」
男性が訊ねた。
「はい」
小夜が素直に頷いた。
「君達もムーシコスなんだね」
「ムーシコス?」
「ムーシコスに聴こえる歌はムーシカ。君は歌う人、ムーソポイオスだよね?」
男が小夜に向かって言った。
「え? ムーシコスじゃないんですか?」
「ムーシコスのうち、歌う人がムーソポイオス、歌手って意味。そして楽器を演奏しているのがキタリステース、演奏家。君はキタリステースだね」
男性が柊矢に言った。
「どうして俺が演奏だと……」
「男性は基本的にキタリステースだからね。僕や僕の弟みたいに男のムーソポイオスは珍しいんだ」
確かに男性の歌声はほとんど聴いたことがない。
「ムーシコスってのは、ミュージシャンって意味だけど、君達や僕みたいに〝聴こえる〟人種のことを指す言葉でもあるんだ。歌声が聴こえるのはムーソポイオスが歌ったときだけ、演奏が聴こえるのはキタリステースが特定の楽器を奏でたときだけ」
「なんで歌が聴こえるヤツと聴こえないヤツがいるんだ?」
「言ったでしょ。人種だって。血筋だよ」
血筋と言われれば柊矢と楸矢の二人とも聴こえるのは納得がいく。
柊矢が考え込んでいる間に男性は立ち去ってしまった。
その日は酷い嵐の日だった。
柊矢と楸矢の祖父が事故で亡くなった日もこんな嵐だった。
あの日、柊矢と楸矢は祖父の運転する車の後部座席に座っていた。
そのときも〝歌〟が聴こえていた。
とても嫌な感じのする歌が。
嵐の中を走る祖父の車に正面からダンプカーが突っ込んできた。
一瞬、白い森が見えた。
気付くと病院のベッドの上だった。
祖父は即死で柊矢と楸矢がかすり傷で済んだのは奇跡だと言われた。
祖父の遺体はとても見られたものではないとも。
少なくとも小学生の子供――楸矢――に見せるわけにはいかない、と。
「森が……!」
窓の外を見た小夜が声を上げた。
酷い嵐で見通しが利かなくなっているにも関わらず森だけははっきりと見える。
「このムーシカを止めれば、きっと嵐も止まります!」
小夜はそう言って家を飛び出そうとした。
柊矢と楸矢が引き止めたが聞きそうにない。
柊矢は小夜を森まで車で送ることにした。
森の中は静まりかえっていた。
外は暴風雨だというのに風すら吹いていない。
以前、小夜がこの森は旋律で凍り付いていると言っていた。
だとしたら風も凍り付いているのかもしれない。
中へ入っていくと歌声が聴こえてきた。
セミロングの女性がこちらに背を向けて歌っている。
声に聞き覚えがあった。
「まさか……沙陽!」
柊矢の言葉に小夜が驚いたように振り返る。
女性は歌を止めるとゆっくりとこちらを振り向く。
やはり……。
霍田沙陽。
柊矢が大学時代付き合っていた相手だ。
以前、小夜に話した森に入ったまま帰ってこなかった人とは沙陽のことである。
沙陽は何も言わず柊矢達の横を通り過ぎようとして小夜を見ると表情を変えた。
「それは……!」
沙陽が小夜の胸元に手を伸ばす。
小夜の胸元に以前柊矢が渡したペンダントが出ていた。
沙陽はそれに手を伸ばしたらしい。
小夜が咄嗟に手でペンダントを押さえた。
小夜の長い爪が小夜の手の甲を抉る。
「いたっ!」
「沙陽!」
「小夜ちゃん!」
柊矢と楸矢が小夜を庇うように小夜と沙陽の間に割り込んだ。
「それを返しなさい!」
沙陽に怒鳴りつけられた小夜が戸惑ったように柊矢を見上げた。
「これは祖父の遺品だ。それをこいつにやったんだ。お前のものだったことはない」
「それは私達ムーシコスの財産よ」
「なら、こいつも俺もムーシコスだ。こいつが持っていても問題ないはずだ」
「それはムーシコスの帰還に必要なのよ」
「きかん?」
意味が分からない。
「私にはくれなかったのに、その子にはあげたのね」
沙陽はそう言うと嵐の中に消えていった。
柊矢はまだ二十五だが大して長くもない人生の中で唯一後悔しているのが沙陽と関わってしまったことである。
交際中、やたらと要求の多い沙陽にうんざりしていたとき二股を掛けられていると知った。
そしてどうやらもう一人の方を選んだらしいと気付いたのでこれなら後腐れなく別れられるだろうと思って別れ話を切り出すと沙陽は振ったのが自分の方ではないことには腹を立てたものの別れること自体に異存はなかったらしい。
あっさり承諾した。
そして踵を返した彼女は歩いていった先に森が現れた。
彼女がそのまま森の中へ入っていくと森とともに消えた。
帰ってきていたとは知らなかった。
四
柊矢は部屋で溜息を吐いた。
さっき小夜と一緒にいるときに森が出たのだ。
二人で森へ向かうとそこに沙陽がいたのである。
そのとき気付いた。
小夜の家が火事になった日、ムーシカを歌っていたのは沙陽だ。
先日の嵐と同様、あの日の強風も沙陽のムーシカのせいだ、そう思って、つい小夜の前で、あの火事は沙陽がやったのかと問い詰めてしまった。
沙陽は白を切ったが、
「火事はポイ捨てのタバコのせいでしょ」
と言った。
火の点いたタバコが原因だったという事は報道されていない。
知っているのは犯人だけだ。
「タバコだけじゃなくて古新聞も置いたでしょ!」
大人しい小夜が珍しく強い口調で言った。
警察から家の前に置いてあった古新聞の束にポイ捨てのタバコの火が吐いたと聞いていて小夜にもそれを伝えてあった。
「私が家を出たとき古新聞の束なんかなかった」
「あなたが出掛けた後に出したんでしょ」
「古新聞は濡れたら引き取ってもらえなくなるから古紙回収の日の朝までは外に出さないもの。古紙回収の日はまだ先だったから外に出したりするわけない!」
確かにタバコだけではそう簡単に火は吐かない。
燃えやすいものが必要だ。
古新聞の束のようなものが……。
「お祖父ちゃんがあなたに何をしたの!」
「言ったでしょ、原因は煙草のポイ捨てだって。出掛けてたなんて運が良かったわね」
沙陽はそう捨て台詞を吐くと立ち去った。
柊矢は泣きじゃくる小夜を慰めながら自分の迂闊さを悔いていた。
家に帰ってきて小夜を休ませた後、アパートの管理人に聞いてみると小夜の言ったとおりだった。
火事が起きた日は古紙回収の大分前だし濡れたら引き取ってもらえないから当日の朝までは外に出さないことになっているとのことだ。
何より古紙の類は火事の原因になるから古紙回収の日以外は外に置かないように町内で周知徹底していると。
だとすれば置いたのは小夜でも小夜の祖父でもない。
放火目的で古新聞の束とタバコを置いたのだ。
思わず小夜の目の前で聞いてしまったのは軽率だった。
ただでさえ母親の件で落ち込んでいるところに更に追い打ちを掛けてしまった。
数日後、柊矢は一人で喫茶店にいた。
小夜は今友達とファーストフード店でおしゃべりをしている。
柊矢は小夜を待っているのだ。
そこへ沙陽が現れた。
「話を聞いて欲しいの」
「……いいだろう」
「最初に言っておくと、あの子を襲わせたのは私じゃないわ」
柊矢はどうでもいいというように肩をすくめた。
語るに落ちるとはこのことだ。
本当に関係ないなら襲われたことを知っているはずがない。
小夜がペンダントを持っていることを知っていたのは柊矢と楸矢を除けば沙陽だけだし、小夜は制服の下に着けていて外からは見えなかったのだから通りすがりの男が衝動的に盗ったということもあり得ない。
最初小夜が擦り傷だらけで帰ってきたのを見た時は心臓が止まりそうになった。
幸い転んだときの打ち身と擦り傷だけだと分かり安堵もした。
目的の物を手に入れたのなら小夜がこれ以上危ない目に遭うことはないと思ったからだ。
しかし小夜からあれは偽物だと打ち明けられた。
小夜も沙陽が狙ってくる可能性を考えていたらしい。
ペンダントが柊矢達の祖父の形見と聞いた小夜は盗られそうになった時に備えてよく似た偽物を用意してそれを身に着けていたのだ。
小夜は形見を大事な物だと思っているようだが柊矢にはなんの思い入れもない。
襲撃されるくらいならくれてやってもいいのだが小夜の気持ちを考えるとそれは口に出せなかった。
「私達の目的はあの森に帰ることなの」
柊矢の向かいに座った沙陽が言った。
「どういうことだ?」
「ムーシコスの先祖はあの森に住んでたのよ。理由は分からないけど、ある日ムーシコスは森を離れた」
「あの森に帰るって言うが、あそこで生活できるのか?」
「勿論、凍り付いた旋律を溶かすのよ。そうすれば森は元に戻る。お願い、協力して」
「協力?」
「あの子の持ってたペンダントさえあれば森に帰れると思ってた。でも、私達だけではダメだった」
あれが偽物だということにはまだ気付いてないらしい。
「あなた達クレーイス・エコーの力を貸して欲しいの」
「俺達? クレーイス・エコーって何だ」
「クレーイス、あのペンダントのことだけど、鍵っていう意味よ。クレーイス・エコーっていうのは鍵の力を引き出せる者」
「俺達っていうのは?」
「あなたと楸矢君と、あの子」
「どうして俺達がクレーイス・エコーだって分かるんだ?」
柊矢がムーシコスだということを知ったのは嵐のときのはずだ。
「クレーイスはクレーイス・エコーの手に渡るようになっているからよ」
つまりクレーイスが祖父の遺品だったと聞いて柊矢と楸矢がクレーイス・エコーだと判断したのだろう。
そして柊矢からクレーイスを渡されたなら小夜もクレーイス・エコーということだ。
「帰るってのはムーシコスの総意じゃなさそうだが?」
公園で歌っていたあの男性は森のことは何も言ってなかった。
「二つに分かれてるのよ。残留派と帰還派に」
当然だろう。
今住んでいるところに不満がないならわざわざ人間が住めそうにないところへいこうなどとは思うわけがない。
そのとき、小夜から連絡が来た。
柊矢は沙陽との話を切り上げると店を後にした。
あの男性の歌声が聴こえてきたとき、柊矢は小夜を伴って中央公園に向かった。
いつの間にか森が出現していた。
森の手前にやはり白く凍り付いた大きな池があり、地平線近くに月の何倍もの大きさの天体と、天頂近くに月のようなものが見える。
「この森はなんだ?」
柊矢が男性に訊ねた。
「ムーサの森だよ」
男性は雨宮椿矢と言うらしい。
「沙陽がムーシコスはこの森から来たと言っていたが」
「そ。大昔、ムーシコスはムーシケーから来た。昔のこと過ぎて、ムーシコス自身も知らない人がほとんどだけどね」
「待て。この森のことをムーサって言ったのに、今ムーシケーって……」
「ムーサはこの森の名前だよ。このムーサがある惑星がムーシケー。あの地平線近くの惑星はグラフェー、そしてあの衛星がドラマ。その三つの天体が構成する惑星系の総称がテクネー」
「ちょっと待て、惑星って何だ」
「君達だってこの森が地球上のものじゃないって事くらい気付いてたんじゃないの?」
「この森は本当にあるのか? 幻覚か何かじゃなくて」
「地球からどれくらい離れてるかは知らないけどね、ちゃんとあるよ」
「じゃあ、地球人は大昔にこの星から宇宙船でやってきたって言うのか!?」
「地球人じゃなくて、ムーシコス。地球人は元々地球に住んでた人達。宇宙船は必要ないでしょ。こうして繋がってるんだから歩いてこられる」
「どうしてムーシコスはムーシケーを捨てて地球へ来たんですか?」
小夜が訊ねた。
「あくまで想像だけど……旋律で凍り付いたからじゃないかな」
「お前の言うとおり地球が繋がってるとして、沙陽達は帰りたいなら何故帰らない?」
「今は見えてるだけだから向こうへは行かれないんだよ」
「ムーシカが離れた所にいるムーシコスに聴こえるのはどうしてなんですか?」
「ムーシケーは音楽の惑星だから音楽は意識の底で共有してるとかじゃないかな」
椿矢にも良くは分からないらしい。
ムーシカに古典ギリシア語の歌がある。
古典ギリシア語は紀元前二千年近く前から使われていたらしい。
と言うことは、その頃には地球へ来ていたことになる。
もう四千年も地球人に交じって暮らしてきたのだ。
ムーシコスが地球に来た事情など忘れるには十分すぎるほどの時間がたっていた。
五
柊矢と小夜、楸矢が中央公園に来ると森の旋律が解け掛けていた。
そのとき、突然小夜のポケットが光り出した。
小夜が驚いてポケットの中からペンダント《クレーイス》を取り出す。
クレーイスに目を落とした小夜はそれを柊矢に差し出した。
小夜から受け取ったクレーイスからムーシカが聴こえた。
ムーシケーが凍らせるためのムーシカを伝えてきているのだ。
何故かそれを理解した。
柊矢がクレーイスを楸矢に渡す。
楸矢にも分かったらしい。
柊矢がキタラを楸矢が笛を吹き始めた。
小夜がそれにあわせて歌う。
ムーシカが風に乗って流れていく。
それと共に解け掛けていた森が再び凍り付いていった。
柊矢が小夜を迎えに行ったとき、森が現れた。
呼ばれているような気がして二人で行ってみると目の前で小夜が忽然と消えた。
柊矢は慌てて楸矢と椿矢を呼び出したが小夜は消えたときと同様、不意に現れた。
戻ってきた小夜は泣いていた。
「怖い目にでも遭ったのか?」
柊矢が心配して訊ねると、
「あ、いえ、ムーシケーが泣いてたから、つられて……」
小夜は涙を拭いながら三人にムーシケーでのことを話した。
ムーシケーは起きていてグラフェーに向かってムーシカを奏で続けているらしい。
そのムーシカはラブソングだとも言った。
「起きてるのにムーシコスが帰るのを拒むのは、それなりの理由があるって事だな」
「そのラブソングって、どんなムーシカだった?」
椿矢が訊ねた。
「歌詞があったわけじゃないので、どんなと言われても……」
「片想いの曲とか、両想いの曲とか、そう言うのは分からなかった?」
「恋人に、自分はずっと想い続けてる、みたいな感じだったような気がします」
「グラフェーからの反応は?」
椿矢が訊ねた。
「え?」
「グラフェーは絵画や彫刻の惑星だから音楽で返ってくるって事はないだろうけど……」
「ちょっと待て、絵画や彫刻の惑星ってどういうことだ」
柊矢が椿矢の言葉を遮った。
「そのまんまの意味だよ。テクネーは芸術の惑星系なんだ。ムーシケーが音楽、グラフェーが絵画や彫刻、ドラマは演劇。ドラマは衛星だから生き物は住んでないと思うけど」
「グラフェーは何も言ってなかったと思います。ただひたすらムーシケーがグラフェーに向かって歌ってただけで……」
小夜はそう言ってまた涙を拭った。
「どうやら沙陽が前のクレーイス・エコーだったのは間違いないようだね」
椿矢が考え込みながら言った。
「ホント?」
楸矢が疑わしげに訊ねた。
「今回の小夜ちゃんと同じようにムーシケーに行ったのがその証拠だよ」
「ムーシケーに行った話はこの前聞いたがムーシケーのムーシカのことは言ってなかったぞ」
「聴こえなかったからでしょ。だからムーシケーは沙陽から小夜ちゃんに乗り換えた。聴こえなかったってことはムーシケーの気持ちが分からないってことだから」
確かにこの前ムーシケーはムーシカを伝えてきた。
クレーイス・エコーの役目はムーシケーが伝えてきたムーシカを奏でることだ。
聴こえなければ務まらない。
「まぁ、ムーシケーがその気になったら教えてくれるだろ」
今はその時を待つしかない。
その晩、小夜が音楽室でムーシカを歌っていた。
音楽室は完全防音だがムーシカは肉声が聴こえない場所でも聴こえる。
歌詞に「恋」とか「愛」とか「好き」とか言う言葉は入っていないが、これは明らかに柊矢を想うムーシカだった。
今日、小夜がムーシケーのムーシカがラブソングだったと言ったとき、歌詞がなかったのなら何故ラブソングだって言い切れるのかと思ったが、これだけ露骨に感情が表れていれば歌詞がなくてもはっきり分かる。
楸矢は柊矢から視線を逸らせている。
柊矢は急いで自室に戻った。
何日間か、三人とも気まずくてまともに口もきけない日が続いた。
楸矢が必死で他の話題を振ろうとしていたがその度にムーシコスが小夜のムーシカを歌い始めるのだ。
「柊兄、どうするの?」
「何が?」
「小夜ちゃんのこと。ちゃんと返事してあげなきゃ可哀相だよ」
そんな事は言われるまでもない。
もう答えは決まっている。
最初にあのムーシカを聴いたとき、柊矢の中にも新しいムーシカが生まれた。
強く思う気持ちがムーシカを創り出すのだ。
既存のムーシカはこうして創られてきたのだろう。
ムーシケーを凍らせているムーシカは全て先人達が創ったものだ。
こうして出来た数多のムーシカがムーシケーを覆っているのだ。
バレンタインの日、小夜を音楽室に呼ぶと彼女への想いをムーシカの形で伝えた。
小夜は感激していたが、後で楸矢から先に言っておいてくれ、そうしたら彼女の家に泊まっていたのに、と散々文句を言われた。
数日後、三人が夕食を食べていると不意に電気が消えた。
台所だけではない。
家中の電気が消えた。
「この辺り一帯全部停電したようだな。どうやら、あれと関係がありそうだ」
窓から外を覗いた柊矢が森を指した。
「森が広がってる」
小夜が呟いた。
しかも白くない。
つまり旋律が溶けているのだ。
空にはグラフェーとドラマも見えている。
不意に小夜が顔を上げた。
「どうした?」
「椿矢さんのムーシカです。多分、私達を呼んでるんだと思います」
小夜は森に視線を向けた。
「停電で電波も飛んでないようだな」
スマホでの連絡が出来ないからムーシカで伝えてきているのだろう。
三人は柊矢の車に乗ると森に向かった。
中央公園の近くまで行くと椿矢がブズーキを引く手を止めて片手を上げた。
一緒に森の中へ進んでいくと沙陽達がいた。
明かりはグラフェーの光だけなのではっきりとは分からないが、その他にも何人かいるようだ。
森の中を漂うように旋律が流れていた。
「ムーシケーは完全に溶けたわ。後は帰るだけよ」
沙陽は小夜達に気付くと勝ち誇った様に言った。
「この停電と何か関係してるのか?」
柊矢の問いに、
「旋律を溶かすにはエネルギーが必要だったのよ。膨大なエネルギーが」
沙陽が答えた。
旋律を溶かすためのムーシカが歌えなかったか、歌っても溶けなかったから地球のエネルギーを使ったのだろう。
惑星中の旋律を溶かすほどのエネルギーともなると、もしかしたら地球規模で停電になっているかもしれない。
グラフェーが照らす森は緑の葉を茂らせ水面は波打っていた。
旋律があちこちから聴こえてくる。
「森が戸惑ってる」
小夜は辺りを見回しながら言った。
森もこんな起き方をするとは思ってなかったのだろう。
不意にクレーイスが眩しく光り始めた。
クレーイスからムーシカの旋律が聴こえてくる。
帰還派は驚いたように光の方を見ているが旋律は聴こえていないようだ。
だが柊矢には聴こえていた。楸矢にも。当然小夜にも。
小夜が柊矢達を振り返る。
柊矢と楸矢は前奏を始めた。
「今更……」
沙陽がバカにしたように嗤った。
六
そのとき不意に辺りの景色が変わった。
柊矢は宇宙空間にいた。
自分の姿は見えない。
だが演奏は聴こえているし、自分が楽器を弾いている感覚もある。
おそらく意識だけここにいるのだ。
正面にテクネーを構成しているムーシケーとグラフェー、そしてドラマが見えた。
ムーシケーはグラフェーに向かって歌いかけ、グラフェーも大気の色や雲の形を変えることでムーシケーに向けて想いを伝えている。
小夜の言うとおりムーシケーとグラフェーは互いに強く惹かれ合っていたのだ。
不意に視界が変わった。
目の前に茶色い惑星があり、その向こうに青い星が二つ、寄り添うように並んでいる。
テクネー――二重惑星のムーシケーとグラフェー、それに衛星のドラマ――だ。
ドラマは小さいからこの距離からだと肉眼では見えない。
テクネーの向こうに眩く輝く星(恒星)が見えるから目の前にあるのはテクネーの外側の軌道を回っている惑星だ。
テクネーの隣の公転軌道を回っている惑星がテクネーの近くを通っている時なのだろう。
そこへ茶色い惑星と同じくらいの大きさの天体近付いてきた。
ゆっくり近付いているように見えるが大きいからそう感じるだけで実際は相当な速さだ。
天体が惑星に激突した。
二つの星が砕けて破片が宇宙空間に散らばる。
そのうちの一部が接近中だったテクネーの引力に引かれて落ちていく。
再び視界が変わり、ムーシケーの大地から夜空を見上げていた。
視線の先にはグラフェーがある。
地球で見るグラフェーは白いがこのグラフェーは青い色をしていた。
美しい旋律が風に乗って流れていく。
まだ凍り付く前のムーシケーなのだ。
そこに砕けた惑星の破片がテクネー全体に降り注ぐ。
ムーシケーにも無数の火球や隕石が降ってくる。
夜空が次々と流れる流星で覆われていた。
時折、隕石が激突したと思われる轟音がして大地が振動する。
ムーシケーが戸惑っているのが感じられた。
グラフェーも困惑しているのか互いのやりとりが途切れた。
その間にも夜空を次々に星が流れていき、大きな音がして地面が揺れる。
そのうち破片がグラフェーへと落ちるのが見えた。
いや、破片と言うには大きすぎる。
点にしか見えないとは言えこの距離から目視出来るのだ。
破片はグラフェーの大気に触れると赤く発光しながら地表へ近付いていき、地面にぶつかった。
そこから大量の衝突放出物が舞い上がる。
一部は大気圏から飛び出していた。
衝撃波がグラフェー全体に波及していく。
あれは灼熱の大気――隕石が衝突の衝撃で気体になった岩石蒸気――だ。
ムーシケーとグラフェーの大気は繋がっている。
このままではグラフェーを覆おうとしている四千度にも達する高温の熱風がムーシケーまで到達してしまう。
ムーシケーは自分の大地のものを守る為、ムーシコスを地球へ送り惑星の表面を旋律で凍り付かせた。
その直後、グラフェーから灼熱の蒸気が流れ込んできた。
凍り付いていたことでムーシケーのもの達は守られた。
だがグラフェーは壊滅した。
隕石の冬がグラフェーに訪れた。
グラフェーは死んでしまったのか、意識を失っただけなのか、ムーシケーの呼びかけに応えなくなった。
グラフェーの衝撃波は収まったが依然として破片は降り注いでいる。
次はムーシケーに巨大な破片が落ちるかもしれない。
だからムーシケーはムーシコスの帰還を頑なに拒んだ。
いつムーシケーも巨大な破片によって壊滅するか分からないから。
次は守り切れないかもしれないのだ。
ムーシケーはクレーイス・エコーにクレーイスを託した。
いつか隕石が収まった時、旋律を溶かすためのムーシカを伝えられるように。
柊矢はムーシケーの想いを理解した。
ムーシケーの大地のもの達や全てのムーシコスも今の光景を見ていた。
前奏が終わり、小夜がムーシケーを凍らせるためのムーシカを歌い始める。
すぐに椿矢や他のムーソポイオスの斉唱や重唱、副旋律を歌うコーラスが加わった。
小夜の、ムーシコスの、歌声と演奏がムーシケーに広がっていく。
樹々が、草が、水が、大地が、それに応えるかの様に同じ旋律を奏で始めた。
ムーシケーの地上に存在する全てのものが同じ旋律を奏でる。
惑星中のものが奏でる交響曲がムーシケーを覆っていった。
小夜達を中心に、渦巻きのように、消えていた電気が次々と点いていき街が息を吹き返していく。
「そんな……」
沙陽が信じられないという表情で辺りを見回す。
ムーシカが終わろうとする頃にはムーシケーの全てのものがムーシカを奏でていた。
自分達を眠らせるためのムーシカを。
池が凍り付いた。
樹々も、草も、大地も、海も全てのものが次々と凍り付いていく。
そしてムーシカが終わると同時に夜空にオーロラが現れた。
オーロラから一滴の滴が小夜の手の中に落ちてきた。
小夜がムーシケーから受け取ったムーシカを歌い始める。
これはムーシケーが、自分の全ての子供達に対して歌いかける子守唄。
破片の脅威はいつかは去る。
だから、それまでは眠って。
目覚めるときは必ず来ると信じて待っていて。
小夜がムーシカを歌い終える頃には惑星のもの達は再び眠りにつき、ムーサの森も薄れていった。
電気は完全に戻っていた。
「見たでしょ。ムーシケーに行くのは無理だよ」
椿矢の言葉に帰還派の者達は何も言わずに去っていった。
沙陽だけが躊躇っていたがやがて踵を返すと夜の街に消えていった。
「それじゃね」
椿矢はそう言うと帰っていった。
「俺達も帰るか。子供は寝る時間だ」
柊矢はそう言うと小夜と楸矢とともに車に向かって歩き出した。
おやすみ、ムーサの森。
柊矢達はゆっくりと消えていく森を後にした。