5
むかし、大いなる天の神があった。
天の神は美しい妃を数多迎え、多くの美しき子らをもうけた。
子らの中に、明星の兄妹がいた。
彼らの輝きは清らなる事この上なかったが、そこに自我は無かった。
主なる神を讃美する為の逸話として、曖昧なものとして、概念の神格化としてのみ存在を許された。
互いの間には、緩やかな認識があるだけだった。
何ともすることぞなく、ただただ明けに輝き、宵に昇る。太陽の添え物として、いつか神の名が忘れられるまで待つだけだった。
……ある者が、王を非難する文に兄である明けの名を用いた。輝ける黎明の星よ、なぜ堕ちたのかと。
それだけならば良くあることだ。しかし幸か不幸か、時の聖霊教会がその名を捉えた。
彼らの持つ逸話——最高の天使が堕ちて堕天使となる——と、彼の明けの明星を同一視したのだ。
こじつけは瞬く間に伝播した。
明けの明星、最も輝かしき星、父神に逆らった者。
それは魔王の堕ちる前の名であると。
彼は西方の明けの明星の名で呼ばれることとなった。
妹の宵の星は彼方に忘れ去られ、兄への信仰にも似た忌避と畏怖が募ってゆく。
やがて兄妹は、偽りの逸話のままに、人々の信仰によって地の底の氷河へと堕ちた。
彼の明星は最早虚なる神ではなく、十二枚の羽を携え、確固たる自我を備えた魔王だった。
無辜の怪物に苛まれて初めて、「我」を得たのだ。
そうして初めて、妹を愛した。
そうして初めて、父を恨んだ。
虚なる明星から堕天使へと変容した彼は、妹に兄と認識されることはなかった。
かつての父は最早忘れ去られ、墜とす事もできなかった。
望みの一つも果たせぬまま、世に見捨てられた祀ろわぬ者達をまとめながら、氷河の底で暮らしていく他なかった。
中の国、国際空港。
人種もかたちも坩堝の如き雑踏をかき分けながら、僕は待ち人がやってくるのを待っていた。
今回の任務は、「部署」恒例の使士の品定めだ。
「部署」が地球外存在討伐の総本山である以上、各組織の人員の調査は必須だ。
使士協会は自身で使士の調査を行う上、すぐに前線に駆り出すので実力のない者は早々に去ることになるけれど、問題はその倫理観だ。
魔術に関わるものはただでさえ社会から遠ざかり、社会的に難があることが多いのに、武力を持って宇宙に傾倒するとなると……。だからこそ、精査する。
今回の対象者、黒井永沙は既に実施済み、問題なしとされた人物だ。ただし、その体質は特筆すべきものなのだが……「部署」的にはどうでも良いらしい。
その殲滅力とミドルネームにより「虐殺卿」と呼ばれるガラハド・G・J・ベルモンドも、人格的には何の問題もない。やや精神的に弱いが、その実力によって見逃された。
彼らが再び調査の対象となったのは、使い魔に依る。
レト・ソテイラ。
全属性の極めて高い適性に加えて、異常なほどの魔力を有する少女。
更に心身の発達の乖離、ヘレネシス国という出自を加えると、相当危険度の高い使い魔となる。
ヘレネシス国は古代に栄えた一連の魔術国家を指す言葉だ。国というよりは、世界魔術協会的な組織で、魔術師達を束ね、物理法則の外にある脅威を除く為に切磋琢磨していたという。
だがその正確な記録は少なく、正確にわかっているのは、古代和の国と戦争をして間もなく滅びた事のみ。当時の和の国の旗印が白であり、ヘレネシス国が黒であった事から、この戦争は白黒戦争と呼ばれる。
この戦争は、人に、この星に、あまりにも大きな疵を残した。
……レト・ソテイラはかなり厳重な守りの中眠っていたことから、ヘレネシス内で相当の地位にあったと予想されている。彼女が魔術的に特異である事と、これは決して無関係ではない筈だ。
この事項を加味すれば、主人が黒井永沙で無ければ差し押さえまであり得た。単に各組織に信頼があり、その実力を畏れられる存在である主人の徳…………のようなものである。
そんなこんなで、全く気の抜けない任務であったので、僕は少々気を急きながら彼らの姿を探した。
混み合ったこの空港内での目視は困難と判断して、天の魔力を放ち、囁くように詠唱を紡ぐ。
「Ostende mihi」
識の魔術に比べれば遥かに劣るが、どこに何があるか程度ならわかる。
空間の属性たる天属で、空間の構成要素を調べるのだ。
(……南南西に数十メートル、高エネルギー人型実体二体、組成不明人型実体一体。こちらの魔術行使を感知済み。……これだ)
空間の中で、明らかに異質な三体の反応。一つはレト・ソテイラ、一つは虐殺卿、もう一つは…………。そこまで思考を巡らせた時、僅かな殺気を感じた。
真紅の瞳が二対、僕を射抜いている。
「部署」の構成員は警戒されて当たり前であるが、黒井永沙がここまで気を立てているとは珍しい。
彼にとって、レト・ソテイラはそれなりの存在であるという事だろう。そして、それは虐殺卿にとっても同じなようだ。
……仕事とはいえ、肩身が狭い。
気を奮い立たせて、毅然と雑踏をかき分けて真っ直ぐに三人の元へ進む。
「あんたが、部署の人かい?」
流麗たる銀髪、何故か黒い前髪の青年、黒井永沙が声をかけてきた。その表情には薄い微笑みが浮かべられており、先程までの目付きは何処へやら。
隣にいた、同じく銀髪のベルモンド卿と共に、後ろの女性を庇うように立っている。
……やっぱり、悪役の気分だ。流石にこの立ち位置まで、彼らに悪気はないだろうが。
「はい。はじめまして、ベルモンド卿、黒井さん。
国連職員のアルトゥール・リュツィフェールです。今回の任務に同行させていただきます。
……貴女が、例の?」
定型文通りの自己紹介を素通りして、本題と言うべき彼女の話へと移る。
やや眉を上げるベルモンド卿。彼は表情が動く方だ。
一方、薄い笑みを浮かべたままの黒井永沙。この人当たりの良さと言うべき仮面の裏には、今きっと、底知れない警戒心が渦巻いているのだろうと思うと、目の前のおとこが恐ろしくなる。
「はい!あたしはレト・ソテイラ!
クロナガ先輩のただ一人の使い魔ですよー!」
学校で名前を呼ばれて、力一杯返事をするような喋り方だった。
精神と肉体の乖離。それは間違いない。
彼女の身長は、目視の限り170近く、そのスタイルは……下世話だが、グラマラスと言って差し支えない。というか、かなり目立つレベルでグラマーだ。
丸さと鋭さを兼ね備えた顔立ち、丸みを帯びながらも引き締まった身体。これを幼女と言われても納得は難しい。成る程、中々のギャップである。
美しい女性と言って差し支えの無い容姿だ。
「はい、お元気なようですね。
今日はよろしくお願いします」
精神年齢は12歳以下と聞いている。つとめて、幼い者と関わるようにするも、見た目に引っ張られて変に丁寧になってしまう。
僕に体操のおにいさんは向かないようだ。
「はは、すまんね。こいつはいつもこうな物で。じゃ、早速で悪いが、場所を移して詰めと行こうや」
「はい。表に車がありますから、そこで。
……あぁ、『部署』の車ではないですよ、使士協会の車ですので、ご安心ください」
なるたけ敵意のないことを示すように振る舞いながら、彼らと歩みを合わせる。さながら、大切な愛娘を取られかけている父親といった立場の彼らを刺激するのは避けたい。
黒井氏の握るハンドルで、経済特区の郊外へとたどり着く。
一応、工事という名目で封印されているが、観光名所からも離れた都市の隙間であるので、滅多に人は寄り付かない。半ば獣道の、小さな山の中だ。
閉鎖された区画を通り越して、途中の封鎖用魔力障壁もやすやすと解除して、奥へ奥へと進む。
やがて、無秩序に生えた蔦と木々に覆われた石壁が現れた。
外壁の向こうは土が盛り上がって丘のようになっており、その上部は何やら石の装飾で円形に囲ってある。その丘を守るように無秩序に石柱が配置され、どこか現代アートのような、カルスト地形のような様相を呈していた。
僕は和の国の知識には疎いが、古代中の国の墓や遺跡とは意匠が異なるとはわかる。
「……流石にこんだけ立派なモンが今まで見つかってませんでした、はねぇわな」
名前の由来である、碧色に着色された雨の壁画に触れながら、虐殺卿が呟く。
その指先は識の魔力である銀色に輝いており、魔力は壁を伝って遺跡全体を包みこむ。
「Vide et audi」
ベルモンド卿はあまり魔術に秀でていない、と聞いていたが、一人前といって差し支えない技量で遺跡の情報を読み取る彼を見て、評価を改める。
その変態的身体能力に、いっぱしの魔力。文句のない達人だ。素行と精神の方は、やや難があるけれども。
「魔力で隠蔽された地下空間があるな。中身の方はすげぇ綿密に隠されてる。…………レトちゃん、ブースト頼めるか」
「アイサー!
Ut benedicat tibi Dominusっと!」
杖を両手で握り込み、レト・ソテイラは膨大な魔力をベルモンド卿に送り込む。
それ程気張っている様子も無いのに、ここ最近はまるで感じたことのない魔力が放出されている。
彼女の善性は理解しているが、やはり危うさを捨て切れない。
「どうだ、行けそうか?」
「おうよ、これならゴリ押せそうだぜ」
人一人の命そのものよりか大きい識の魔力は、瞬く間に遺跡を走り、術者の元へと帰ってくる。
両手で球を包むように構えるベルモンド卿は、瞼をを伏せ、考え込むように首を傾げたのち、遺跡の外壁を超えて中へ踏み入る。
何かを探るように石柱に手を当て、ベルモンド卿の腰ほどの位置に指を滑らせた瞬間、ここだ、と呟いた。
「おそらく、ここが入り口の鍵穴だ。この感じ……天と火の混合魔力で閉ざされて……レトちゃん、ちょっと開けられるか試してみてくれ」
「はーい」
レト・ソテイラが杖でベルモンド卿が触れた部分を小突き、しばし瞠目する。
だんだんその表情は険しくなってゆき、しまいにはくしゃくしゃになった。
「……大丈夫か……?」
うーんうーんと唸りながら、レトは杖を左右に振り回して、遂には背後に放り投げてしまった。
「ダメです!!!ぜんぜんわからん!!!!」
「あーなるほど、複雑なタイプか。しかしそうなると……制御だけするにも、俺たちじゃ属性が合わんし……監視員に頼むのもなんだが、リュツィフェールさん、頼めるか?」
「……僕は協力員ですので、もちろんやります。自信はありませんが、精一杯」
僕がそういうと、少し困ったように黒井氏は笑った。
僕は今試されている。どれだけの実力で、どれだけ協力的か。示し方を誤れば、まともな調査は出来ないだろう。
「ソテイラさん、よろしくお願いします」
魔力で隠していた剣を出現させ、鞘を抜き払う。
僕の剣は、国連の「部署」によって調整されている。僕の魔力を効率よく魔術に流し、制御を感覚的に容易にするために。
それだけでも大変有用であるけれど、最大の目的は僕の存在の安定である。詳細は省くが、僕は人間として存在するのに、それなりのエネルギーを要する。
「えーっと、取り敢えず混合魔力を送れば良いんですか?」
レト・ソテイラが投げ出した杖を抱え直しながら尋ねる。概ねそれで良いと同意し、僕は金と青の装飾がなされた剣を眼前で立てるように構えた。
「De caelo in terram」
ベルモンド卿の送ってくれた鍵穴の情報を基に、天の魔力を放つ。
レト・ソテイラの送り込んできた膨大な混合の波に左右される感覚を抑えて、鍵穴へ慎重に差し込んでゆく。
天の力で、火の力を引っ張りながら合わせる作業は難航した。この鍵は、天と火の魔力を同時に扱える存在が解錠することを前提としているのだから仕方ない。だが、ベルモンド卿の解析が正確だったお陰で、暫くして目処がついた。
(ここを引っ張ってあそこを引けば天と火が丁度挿さるはず……そうだ、後は弱めの天属で押して整えて……いまだ)
剣を突き出して、鍵穴に——実際はただの石壁に——突き立てる。
「Aperi id nunc」
金色の魔力が石柱の表面を駆け巡り、鍵穴に収束する。
次の瞬間、石柱が溶けるように地面に沈み、音もなく姿を消した。
「わお、見事なモンだな……助かった、感謝する」
「結構複雑だったけど、早かったな!
やっぱり部署の人ってそういう……エージェント的な訓練もすんのか?」
含みある黒井氏の返答は、合格を意味するのだろう。一方素直に称賛するベルモンド卿。おそらく黒井氏の意図に気付いているが、それ込みでの素の振る舞いなのだろう。大物だ。
僕の後ろではえーすっごい……と呟いているレト・ソテイラには、何かもっと違うツッコミどころがある気がするが、留め置いて覗き込んだ。
「……………」
そこには案の定と言うべきか、地下への階段が続いていた。
石室が伸びたような空間で、真っ直ぐ一本道だった。
茶褐色の地面にぽっかり空いた灰色の穴は、それはそれは異質だった。しかし、それ以上に目を引くものがあったのだ。
「あれぇ……?」
配線、回路、文字盤。
センサ、液晶。
突き当たりの石壁に取り付けられていたのは、古びた石室には場違い過ぎる、現代的な機構だった。
明星は、妹を愛した。この上なく。
この世にともに生を受けた、唯一の肉親として。
たとえ、妹が自分を兄とも家族とも認識できなくとも。
宵の星は魔王を愛した。
信仰から見放された己を、唯一庇護した者として。
たとえ、彼が自分を守るべき弱者以上に思うことがなくとも。
ある時、宵の星が姿を消した。
氷河は燃えながら膨れ上がり、現れた炎の怪異に悪魔らは恐れ慄いた。
だからこそ、明星は、僕は、魔王を捨てて地上にやってきたのだ。
君を、着いてきてくれた者たちを、救うために。
いつか君に胸を張って、僕は君の望むように明るく生きていると言えるように。