五十五、迷ひ家
泉から離れた広也と広隆を、トハノスメラミコトは手招いた。
「迷ひ家は迷い子のための場所だ。おぬしらはもうここにいてはいけない」
広也と広隆はしっかりと頷いた。
「この世界から旅立つ者には何か一つ餞別を贈ることになっているのだが、おぬしらは何を望む」
トハノスメラミコトに問われ、広隆はポケットの中から鈴を取り出し、おずおずと尋ねた。
「あの、これ、持っていっちゃ駄目かな」
赤い大きな鈴が、りんと音をたてた。
「巫女の大事な鈴だから駄目かな。でも、俺これを持っていきたいんだ」
しかし、トハノスメラミコトは難しい顔をしてじっと考え込んでいる。広隆の顔に落胆が浮かんだのを見て、広也は思わず口をはさんだ。
「大丈夫。持って帰れるよ」
広隆は不思議そうに広也を見た。
「だって、僕はその鈴のおかげで助かったんだもん」
思えば、広隆はわざと広也が鈴をみつけるようにしむけたのかもしれない。別世界に迷い込む弟に、身代わりの鈴をお守りとして持たせてくれたのだろう。
「よかろう。持っていくがよい」
トハノスメラミコトが言った。目を丸くして広也を見ていた広隆の顔に、あけはなしの喜色が浮かんだ。暗い雰囲気が取り払われたその顔は、やはり広也の知っている広隆のものだった。
「では広也は。何を望む」
トハノスメラミコトに問われ、広也は顔を上げて言った。
「僕はもうもらっているんです。兄から。そして秘色と緋色から」
そう、自分はすでにもらっていたのだ。気付かなかっただけで。
広也は空に向かって思い切り手を伸ばし、胸一杯に空気を吸い込んだ。叫び出したいぐらいにうれしかった。
トハノスメラミコトが右手をすっと上げると、それまでじっとしていた龍がぶるぶると身を震わせ、その形が崩れてただの水の塊になった。水の塊はみるみうちに大きく丸くなっていき、一枚の大きな水鏡をつくった。
「この水鏡を通り抜けていくがよい。元の世界に帰れる。おぬしらの望む場所に」
広也はふと広隆の顔を見た。
このまま別れてしまうのはためらわれた。
(何か、言いたい)
だが、言葉は胸の奥でとどまって声にならなかった。何かとても言いたい言葉があるような気がするのに、それがなにかわからない。
水鏡の前に立った広隆は、そんな広也の気持ちを察したかのように振り向いた。そして、こう言った。
「その言葉は、向こうに帰ってから言おうぜ。お互いに」
そう言ってにかっと笑うと、広隆は水鏡の中に飛び込んだ。鏡の表面が波だって、やがて元に戻る。
広也もまた、水鏡の前に立った。広隆がそうしたよう に、水鏡の中に己の身を投じた。
途端に、辺りが白い霧に包まれた。
(同じだ。ここへ来た時と………)
広也は白い霧の中を歩き出した。
(この世界に、もうときわとかきわが必要ないように、僕らにも、もうこの世界は必要ない)
ときわは白い霧の中を歩きながら思った。
(でも、忘れないでおこう。この世界のこと。十三才の夏のこと)
絶対に、忘れないでおこう。




