四、意地
茶の間では、皆が寄り集まって談笑していた。天井から吊り下がった雪洞型のあかりがやわらかく座を包んでいる。
広也は彼らの後ろを通り過ぎて、台所のゴミ箱にラムネの瓶を捨てた。
「広也。ビー玉は抜かなかったのか」
広隆が振り返って尋ねた。
「いらないよ。そんなもの」
広也はぶっきらぼうに答えた。
「小さい頃は大好きだったのに。ねえ、光子さん」
祖父母と向かいあって茶を飲んでいた光子は静かにええ、とうなずいた。相槌を打ってはいるが、よく覚えていないにちがいない。
「集めてたよな袋に入れて。黄色っぽい袋」
広也は少し驚いて広隆を見た。
「あれ、どこにやったっけなあ」
「お前らのガキの頃のもんなら、納戸の唐櫃に放り込んであるぞ」
茂蔵が熱い茶をすすりながらそう言った。
それ以上は、誰も何も言わなかったので、広也も黙ったまま風呂場に向かった。
光子は広也の後ろ姿を複雑な思いで見送った。
いつからだろう。広也があんなふうに、なにもかもに疲れ果ててしまったような、全てのものから目をそらしているような、無気力な顔になったのは。
もともと、広也はおとなしくて感情を表に出さない子ではある。だが、控え目と無気力では全くちがうのだ。
光子が広也の異変を知ったのは、担任教師からの電話でだった。
このところ、授業中に気分を悪くすることが多い。中学生は多感な時期だから、家庭のほうでも気を配ってくれ。ということを、教師は遠回しに告げた。
連絡を受けた時、光子は受話器を持ったまま、息子を上から下まで凝視した。
確かに、年頃の少年にしては頼りなく、どこか病的な感じがすることは否めなかった。
だが、この子は昔からおとなしくて、頼りない風情の子だったじゃないか。そう、昔から——
そこまで考えて、光子ははたと当惑した。昔から。では、昔のこの子はどんな子だったのだろう。こうなってしまう前、まだ普通に学校に通い授業を受けていた頃のこの子は、一体どんな顔をしていた?
光子は愕然とした。誰よりも近い存在であるはずの息子の顔を、その心に思い描くことができなかったのだ。 あまりのことに、光子は戸惑い、焦り、泣きたい気持ちで必死に過去を掘り返した。広也と共に過ごした時間を思い返そうとした。絶対に存在しているはずなのだ思い出は。
だが、その果てに光子がつかみ出した光景は、広也のあまりにも幼い姿だった。
その日、光子はいつもより遅く帰宅した。とうに九時をまわっており、広隆もそろそろ寝支度を始める頃、幼稚園児の広也に至っては、すでに夢の中に旅立っているはずの時間だった。だが、部屋からはかすかに話し声が聞こえてきて、二人共まだ起きているようだった。そっとのぞいてみると、どうやら今日は広也の寝付きが悪いらしく、広隆のほうがあくびを噛み殺して寝物語を聞かせていた。典型的な昔話だったが、広也はじつにうれしそうに聞き入っていた。一話語り終えた広隆が息つく間もなく、「もうひとつ」と次の話をせがむ。
結局、もう二、三話語った後で、ようやく広也はうとうとしはじめた。広也が寝息をたてはじめたのを確認すると、広隆はそっと布団を掛け直してやり、満足そうにほほえんだ。
その時の、光子の気持ちをどう説明すればいいのだろう。
愚かしいことに、そのとき光子が感じていたもの、それはまぎれもなく嫉妬であった。
愚かなことだ。愚の骨頂だ。自分でもそうはわかっていたが、“広也をとられる”という危機感がめらめらとたちのぼって胸を汚した。
広隆がしていたこと、それは本来母親である自分の役割ではないか。子供を寝かしつける苦労と、それをやり遂げた時の喜び。それをなぜ広隆に奪われなければいけないのか。それにもまして、広也のあのうれしげな顔。いつもはおとなしく口数の少ない広也が、「もう一つ、もう一つ」と昔話をせがむ。
それらはまるで火にそそがれる油のように光子の心をかき乱した。
自分が夜遅くまで働いているため、広隆が自分の代わりをしてくれているのだ。
そう、わかっていたはずなのに。
だが、今こうして成長した広也と向きあっていると、あの時の嫉妬というものは全くお門違いもいいところだったことに気づく。毎日顔を合わせているにもかかわらず、息子の変化に気づけなかった自分は、嫉妬なんて感情を抱いていいほど広也のそばにはいなかったのだから。
しかし、それではあまりにもむなしい。存在しているはずなのだ。自分と広也の間には確かに存在しているはずなのだ。十三年間の重みが。たとえ一日一日が、どんなに薄っぺらだったとしても。
それだのに、さんざん自分の心と格闘して、万策尽き果ててよろよろになった光子が最後にすがりついたのは、やはり広隆だった。