四十、カケラ
そうだ。父は広隆が十二の時に死んだ。つまり、八年前の夏、十三才の広隆にとって、それは父のいない初めての遠野だったのだ。
ときわは喉の奥で呻いた。
(どうして……)
どうして気付かなかったのだろう。ときわはずっと、広隆は強いのだと思いこんでいた。いつだって明るくて、まっすぐ生きていける人だと。自分のような弱さなど無いと。一人で何でも出来て、誰にも頼らずにいられると。何からも逃げる必要など無いと。決めつけていた。
広隆にも、十三才の少年だった頃があるなどと、考えもしなかった。
ときわは拳を握りしめた。
(平気なはずがないじゃないか。父さんが死んで、子供だった兄さんが平気だったはずがないじゃないか)
ときわの脳裏に、かきわが呟いた台詞がよみがえった。
ーー俺の周りの奴は、皆死んじまう。
(兄さん!)
枯れていた涙が再びこぼれ落ちた。
(兄さんに会いたい)
ときわは思った。
なんとしてでももう一度広隆に会いたい、会って話をしたかった。この世界の話を。
広隆はこの世界で何を感じ、何を思って行動したのか。ときわの正体が弟だといつ知ったのか。知った時にどう感じたのか。
いまなら、ちゃんと真っ直ぐに広隆と向き合える気がした。
ときわは泣きながら考えた。
(僕は兄さんが好きだった。小さい頃から、ずっとずっと)
ときわの脳裏に幼い頃の記憶が浮かんでは消えた。一目見て気付かなかったのが不思議なほど、記憶の中の広隆はかきわとそっくりだ。ただ、目だけが違う。
広隆はいつでもやさしいまなざしでときわを見た。そこに込められた深い愛情を当然のものとして受け取りすぎて、その愛情を持たないかきわを広隆と認めることが出来なかった。
(もっと早くに気付くべきだったのに………)
ときわは唇を噛み締めた。
かきわを広隆と認めたことで、記憶の映像がより鮮明になった。いつも広隆と一緒にいた。広隆が守ってくれていた。それが当たり前だった。
だが、たった一つだけ、広隆のいない記憶があった。 暗い森。ひとりぼっちで泣いている自分。
(ああ、そうか)
ときわは気付いた。
(あの時、僕は兄さんを待っていたんだ)
なんの根拠もないがときわは確信した。
あれは、遠野だったのだ。
あまりに幼すぎてうっすらとしか覚えていないが、その頃の広隆は今とは違っていた気がする。かきわの暗い瞳、あの頃の広隆も、そんな瞳をしていたのではなかっただろうか。
傷ついた広隆はこの世界に迷い込み、かきわとなった。
ときわは自分の胸をかき抱いた。 涙が溢れた。
傷つき、迷いながらも、広隆は元の世界に戻ってきた。広也の待つ現実の世界に。
(大丈夫。僕は、絶対に元の世界に帰ることができる)
ときわは涙をぬぐいながら自分に言い聞かせた。
(だって、兄さんが僕を遠野によんだのだ。兄さんは遠野で僕を待っていたのだ。僕を、マヨヒガに行かせるために)
ときわは真っ白な空間を睨み付けた。
(兄さんは僕が戻ってくると信じているのだ。兄さんが戻れたように、僕も必ず戻ってこれると信じて送り出してくれたのだ。弱くて頼りない自分を、自分でも嫌な自分を、信じてくれている人がいるのだ。だから、僕も信じよう。兄さんは僕を信じていると信じよう)
ときわは疲れ果て脱力していた体に再び気力が戻ってくるのを感じた。兄は自分を信じてくれている。自分を待っていてくれる。戻ってこなくていいなどと、兄が考えるはずがない。緋色から託された大切な鈴を持たせてくれたのは、必ず戻ってこいという兄からのメッセージだ。
立ち上がらなければ、と、ときわは思った。
(兄さんは戻ってきてくれた。だから、僕も必ず元の世界に戻る)
ぐっと腕に力を込めて、ときわはずっしりと重たい体を起こそうとした。だが、全身を覆う白い膜がそれを阻んだ。ただの布切れのようだったはずのあの白い布が、いつの間にやら石のように固いものに代わっていた。身動きを取ると体のどこかしらがぶつかってしまう。
ときわは出来るだけ力を込めて壁を蹴ってみた。だが、鈍い音と骨に伝わる鈍痛がするだけだった。
もしも、ここからずっと出られなかったらと考えて、ときわは初めて恐ろしくなった。刀を抜こうと試みるも、いかんせん狭すぎて鞘を抜くことすら出来ない。やさしく包まれていた時の感触などもうどこにもなかった。ときわはだまされたと叫びたい気分で壁を蹴りつけた。
(出られなかったら、どうなるのだろう)
ときわは途方にくれて白い壁をみつめた。
ずっと閉じ込められていたら、やがて死んでしまうのだろうか。それは、だめだ。
死にたいという気持ちはとうに失せていた。むしろ、今は立ち上がりたい、地面を踏みしめたいという気持ちのほうが強かった。
立ち上がりたい。その気持ちは、心のどこか一隅からほろほろとわき起こり、やがて体中にまんべんなくひろがった。
どうにかしてここから脱出しなければならない。
白い壁はぼんやり光っている。光を透さないほど分厚い壁ではないらしい。
(今のぼくって、カイコみたいだ)
白い膜に覆われた自分に繭の中のカイコが連想される。だが、カイコだっていつかは繭から出るのだ。立派な羽を持って。
(カイコはどうやって繭から出るんだろう)
考えてみたがわからなかった。繭を食い破って出るのだろうか。それとも、全身の力で強引に打ち破るのだろうか。
食い破るほうは真似できそうにないので、全身の力を使うほうを試してみることにした。
ときわはうつ伏せになり腕にぐっと力を込めた。ひざを曲げ、腕立て伏せの要領で腕を伸ばし、頭をぐっと持ち上げた。すぐに固い繭に突き当たった。だが、構わなかった。ときわはそのまま膝を折り曲げ、全身に力を込めて起き上がろうとした。
頭にも背中にも膝にも、固い繭が突き当たり、びしびしと痛んだ。中途半端に曲げられた腕がぶるぶる震える。背中にみしみしと痛みが走った。
中にいるものにはやさしくやわらかい膜が、外に出ようとするものにはこんなにも堅固で厳しい壁となるのか、と、ときわは歯を食いしばって考えた。
諦めて繭の中で眠りにつけばどんなにか楽だろう。おそらく、この世界に来る前の自分なら、すべてから逃げ出して安楽を選んだだろう。だけど、今の自分なら壁を打ち破るほうを選べる。たとえ、外には苦しみがあるとしても、苦しいだけではないと、自分を待っている人がいると、気付くことが出来たから。
ときわは全身に力を込めた。背骨が折れそうなほどの激痛が走り、くらくらとめまいがする。全身がバラバラになりそうだった。
だが、ときわは力を緩めなかった。
この中に逃げ込んだのは、自分自身なのだ。自分で望んで入り込んだ場所なのだから、そこから出ていく時は、自分自身の力で出なくてはならない。それに付随する痛みは自分が引き受けなくてはならない。誰も代わってはくれないし、代わってもらってはいけないのだ。
バキバキッという音が響いた。それが繭の壊れた音なのか、それとも背骨が折れた音なのか、ときわにはわからなかった。
一際大きい裂音が響いた瞬間、不意にときわの上半身は勢いよくのけぞった。突然まばゆい光が目に入り、ときわは顔をしかめた。
キラキラと何かが光りながら落ちていく。それが自分が打ち破った繭のカケラだということに、ときわはしばらくの間気付くことが出来なかった。
生まれたての雛のように茫然とした後、ときわは自分の足元に散らばる繭のカケラを見下ろした。壊れて破れた繭と、まっすぐに立つ己の姿。
打ち破ったのだ。
ときわは空を見上げた。太陽が輝いていた。
ときわは握り拳を突き上げて太陽に向かって歓喜の雄叫びをあげた。
あの壁を打ち破って再び立ち上がったのだ。自分の力で立ち上がることが出来たのだ。
(ぼくは立ち上がれるんだ。たとえ堅い壁があっても、自分の力で立ち上がれるんだ)
ときわの目には世界がとても美しくみえた。マヨヒガと呼ばれるこの世界がこんなにも美しいなど知らなかった。
ときわは思った。この世界がこれほど美しく映るのなら、今の自分の目には、元の世界はどれほど美しく映るのだろう。
これまで自分を取り巻いていた環境。学校、塾、受験。
(ぼくはもう、そんなものに押し潰されたりしない。僕には打ち破る力があるんだ)
自分を信じてくれている兄に、自分をこの世界に導いた白い光に、そして自分を閉じ込めた繭や自分を脅かした全てのもの達にさえ、ときわは感謝した。




