三十九、迷い子
行くあてもなく、ときわは陽炎のように力なく歩いていた。
鞘におさめた刀の刃からは生臭い血の臭いが消えずに立ち昇ってきて、これ以上手にしているのも嫌だった。それなのに、ときわは刀を手放すことが出来なかった。どんなに忌々しいと思っても、今はこの刀だけがときわの身を守る唯一のものだ。
血に錆びて重たくなった刀を捨てることが出来ない自分を、ときわは吐き気がするほど呪わしく思った。
どこをどうやって歩いてきたのかわからないが、いつの間にか森を抜けて平原を歩いていた。それまでは木々に遮られていた太陽の光が、直接ときわの肌を刺した。
こんなに歩いて、こんなに疲れているのに、喉が渇かない。今の自分は人間ではないのだ。
(ぼくは、人間じゃないんだ)
ときわは心の中で繰り返した。
引きずるように踏み出した右足がもつれて、ときわは地面に倒れ込んだ。
そのまま、ときわは起き上がらなかった。
(岩でも、死ぬことが出来るのだろうか)
ときわは自分の手をじっとみつめた。あの化物の血が、乾いてこびりついている。
たとえあれが人でなかったとしても、化け物であったとしても、ときわがこの手で一つの生命を絶ったことには変わりがないのだ。
人を殺したのではなくても、罪にはならなかったとしても、物を見、聞き、感じることの出来る一つの存在の、この世界に在り続ける権利、未来を奪ってしまったという事実からは、一生逃れることは出来ないのだ。
ときわは地面に手のひらを擦りつけた。皮が破けて血が滲んだ。乾いた化け物の血と自分の血が混ざって、ときわは痛みと悲しみで吐き気がした。
その時、青空の向こうから一枚の白い布が飛来した。
それはひらりと舞い降りてきて、静かにときわの体を覆い隠した。
白い布にゆっくりと包み込まれていくのに、ときわは抵抗しなかった。全身を白い布に覆われても、全然苦しくなかった。それどころか、ひどく安らいだ気持ちになった。まるでやわらかい布団の中にいるような心地だった。
だんだん眠くなってきて、悲しみも苦しみもぼんやりと遠ざかっていった。白い布がときわと世界を隔ててくれていた。やわらかい布は全身を包む膜となってときわを世界から遮断した。
(死ぬのかな)
真っ白になった視界を眺めながら、ときわは思った。
本当に、このまま死ねたらどれだけいいか。このやさしい、やわらかい感触に永遠に守られていたなら、きっと何も怖くない。何にも脅かされることもなく、傷付けられることも傷付けることもせずに。
ときわはあれほど疲れ果て、鉛のようだった体が、どんどん軽くなっていくのを感じていた。
いや、体が軽くなっているのではない。ときわが、ときわの魂が、この重たい体から抜け出そうとしているのだ。
魂が体から完全に抜け出した時、一体自分がどうなるのか、ときわにはわからなかった。ただ、今のときわはとにかく軽くなりたくて、心ががむしゃらに軽さのみを求めていた。軽くなれば楽になるのだ。自由になれるのだ。それはなんて素晴らしいことだろう。
(もう少しで、ぼくは解放される)
ときわはもう目の前に迫った何かをつかみとろうとでもするように、片方の手を伸ばした。
だが、その時伸ばした手の先に、ふと、広隆の姿が浮かんだ。
ときわははっとして顔を上げた。ずん、と体が重くなった。
広隆の幻は一瞬で消えてしまい、彼がどんな表情をしていたかもときわにはわからなかった。
(兄さんは、僕がだめになることがわかっていたのか)
こんな風に、違う世界に迷い込んだ弟が地に伏して動けなくなることを知っていたのか。ときわは投げやりな気持ちで考えた。広隆は全部知っていたのだ。知っていて広也をこの世界に放り込んだのだ。広也が戻ってこれないかもしれないと知っていたのだ。広也なんか戻ってこなければいいと、思っていたに違いないのだ。
ときわにはもうそれを否定する気力もなかった。否定できるほど兄に愛されていた自信がなかった。だって自分は弱くて愚かで、怒りにまかせて他の生き物の命を奪うことが出来るようなおぞましい人間だ。愛されていたはずがない。
(兄さんは、かきわは元の世界に戻ることが出来る。僕には無理だ。だって、僕と兄さんは違うから……)
そこまで考えて、ときわはふと違和感を感じた。
何か、間違っている気がする。だが、それがなんなのかわからない。ときわは疲れて鈍る頭の中で、広隆とかきわの姿を思い浮かべた。いつも強くて明るい広隆。自分をかわいがってくれた広隆。
(あれ……?)
ときわは違和感の正体に気付いた。
強くて明るい広隆。そう、広隆はいつでも強くて明るかった。
うたい町で、きつねはこう言っていた。「ここは迷い子のための場所なのだ」と。
あの広隆が、迷い子だと言うのか。
不意にぐえるげるの言葉が思い出された。
ーー己の世界に己がなぜ存在しているのか、不安な者だけが別の世界に惹かれるのじゃよ。
確かに、自分がこの世界にやってきた理由はその通りだとときわは思った。自分に自信が持てなくて不安で、不思議な光と歌声に引き寄せられて山の中に迷い込んだ。かきわも同じように山の中で迷ったと言っていた。だが、広隆が別の世界に惹かれるほどの不安を抱いていたなどと、ときわには信じられなかった。自分とは正反対の広隆に、自分と同じ世界に迷い込まなければならない理由があったのか。ときわは愕然とした。
ときわの脳裏に、再びぐえるげるの言葉が響いた。
ーーこの世界がお主らを選んだのではない。お主らがこの世界を選んだのだ。
十三才の広隆も選んだのだ。ときわと同じくこの世界を。何一つ共通点などないと思っていた兄と弟が、時を越えて同じ世界をさまよっている。
(十三才の兄さんは、どうしてこの世界を選んだのだろう……)
明るくて強くて、自分に無いものをすべて持っている兄が、何故この世界に迷い込んでしまったのだろう。
八年前の夏。八年前。
(八年前……)
何があっただろうかと考え、ようやくその答えに思い当たった時、広也は目を見開いて息を飲んだ。
八年前。
どうしてすぐに気付かなかったのだろう。
(父さんが、死んだんだ)




