三、ビー玉
座敷に戻った広也は、数学の問題集を開いて机に向かっていたが、ぼんやりとしてやる気が出ずに、頬杖をついて窓の外を眺めていた。網戸をすかして、少し向こうにひろがる裏山に通じる雑木林。闇の中で揺れる葉ずれの音がかすかに聞こえる。
さわさわさわ。
ざわざわざわ。
その時、真っ暗な雑木林の中に、ちらりとかすかな光が見えた。
(あれ……? )
思わず目を凝らしてみる。が、すでに光は消えており、網戸の外は相変わらず闇ばかり。
(あれ。気のせいだったのかな)
そう思い、もう一度目を凝らしてみたが、やはり何も見えなかった。
「なんかおもしろいもんでもあったか。窓の外に」
後ろから声をかけられて、広也は振り返った。広隆が襖に寄りかかってこちらを見ていた。
「こっちの窓からは雑木林くらいしか見えないだろ。じいちゃん達の寝間の廻り縁に出りゃあ、星がたくさん見られるぞ」
「別に、何か見てたわけじゃないよ」
広隆が右手に持っていたラムネの瓶を差し出した。それを受け取りながら広也は答えた。
「ただ、なんか光ったような気がしたから……」
「蛍かなんかだろ」
そっけなく、広隆が言った。
「山の中には池もあるから」
広隆は広也の頭越しにじっと網戸の外を見た。そして、しばらく黙っていたが、急にいつものいたずらっぽい笑みを浮かべると、
「それとも、人魂か狐火かもな」
それだけ言ってくるりと背を向け、廊下を渡って行ってしまった。
(何が人魂だよ)
広也はふんっと鼻を鳴らして、椅子に座り直した。ラムネの瓶を机の上に置き、もう一度だけちらっと窓の外を見た。やはり何も見えなかった。
ほうっと息を吐いてから、ビー玉を落としてぐいっとラムネをあおる。涼しい甘さが広がった。
机の上に広げた問題集に目を落とすが、もはや解いてみようという気も起こらない。広也は問題集の字から目をそらして、椅子の背にもたれかかった。ラムネの瓶を揺らして、中のビー玉をもてあそんでみる。からからから。涼しい音がした。懐かしい音だ。
夏になると必ず、兄とラムネを飲んだ記憶がある。飲み終えると、広隆は瓶から抜き取ったビー玉を水ですすいで、手のひらに載せてくれた。もらったビー玉を、広也は大きめの巾着に入れて集めていた。
(あの巾着はどうしたっけ? どこにやったっけ?)
ふと、そんなことが気になった。どこにやったか、どんな柄だったかも思い出せない。
こういうことはよくある。だいたいのことは思い浮かぶけれど、どうにも細かいところが思い出せない。昔聞いたおとぎ話の、大筋の内容は覚えているのに、結末だけ忘れてしまったような、そんな感じ。すっきりしない気分になる。
そのすっきりしない気分に追い打ちをかけるように、外からひんやりした風が、なにやら不気味にすべりこんできた。
ざわざわざわ。
風に揺られて、葉ずれの音がほんの少し大きく響いた。じっとその葉ずれの音を聞いていた広也の胸に、ふいに奇妙な光景が浮かび上がった。真っ暗な闇の中。泣いている小さな子供。辺りを取り巻くのはただ闇と葉ずれの音ばかり。
泣いているのは自分だ。と、広也は思った。幼い頃の自分が泣いている。たった一人で、泣いている。
それがいつのことで、なぜ自分が一人で泣いているのかもわからなかった。迷子にでもなったのだろうか。そんな記憶は全くないけれど。
突然浮かび上がってきた幼い頃の光景は、自分がどんな状況でなぜ泣いているのかもわからないくせに、妙に生々しい不安と、どうしようもない恐怖を伴っていた。 一人で、取り残されてしまった、不安。そして、恐怖。恐怖は、何に対しての恐怖だろうか。 暗闇に対する恐怖? 違う。どこに行けばいいのかわからない前後不覚の恐怖? 違う。そうじゃない。何かはわからないけれど、確かに何かに怯えている。なんだろう。なんだろう。胸が締めつけられるような気がして、広也は頭を振ってその光景を振り払った。
だが、不快な心持ちは消え去らずに残り、広也を落ち着かなくさせた。
投げ出されていたシャープペンシルを握り直し、再び問題集に向かいあってみるが、頭なぞ働こうはずもなく、数字だけが意味もなく頭の中をめぐった。
広也は再びシャープペンシルを机の上に投げ出し、頭を抱えた。なんだろう。今日に限って、妙に昔のことばかり思い出す。やはり、遠野に来たせいだろうか。
(やっぱり、こんなところ来なきゃよかった)
広也は思った。
(だって、東京ではこんなこと、思い出す暇もなかった……)
「広也」
光子の声がした。広也はギクリとした。
「勉強していたの? 」
「う、うん……」
広也は慌てて光子に見えないようシャープペンシルを握った。
「お風呂に入りなさいって」
そう言うと、光子はパタンと襖を閉めて戻っていった。 広也はほうっと息を吐いた。
顔にかかった前髪をかき上げて、それからのろのろと立ち上がった。